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愛媛のくらし(平成10年度)

(3)春爛漫(らんまん)の候

 ア コンヤマの思い出

 南予地方でサクラが開花するのは、例年3月25日ころで、それからしばらくの間、各地でにぎやかな花見の宴が繰り広げられる。1か月遅れで行われる春の節句には、このようなにぎわいがつきものであるが、特に吉田では、この節句に男の子が山に陣地を築き、弁当を使ったり、戦争ごっこをする風習があった。**さんと**さんに聞いた。
 「(**さん)春のお節句は、一月遅れの4月の3日、4日にします。子供のころには、3日は山、4日は海ということで、近所の人と一緒になって、野福(のふく)(東宇和郡明浜(あけはま)町の峠)のサクラ(写真1-3-11参照)を見に行ったり、吉田湾の海岸に行ったり、まあ近場(ちかば)ではありましたが、よく花荒らしに連れて行ってもらいました。当時は今のように、いつでも休めるという時代ではなかったですから、みんなお節句は遊ぶと決めていたようでした。春のお節句ころは、海はちょうど大潮になることが多いんで、海に行くと、貝などを拾って帰りよりました。
 少し大きくなってからは、吉田では『コンヤマ』いうんですけど、自分らが山に陣地をつくって、そこで遊んだり、お弁当を使ったり、あるいは崩しあいをしたりしました。餓鬼(がき)大将が『行くぞー。』言うたら、みんなわからずについていき、悪いことは悪いこと、いいことはいいことというように教えてもらいよりました。今と違って縦社会の遊びですらいねえ。今はコンヤマを作ったりする子もいませんし、ああいうことがなくなったのは、ちょっと寂しいですねえ。」
 「(**さん)わたしらが子供のころには、近くの山へ行ってコンヤマを作りよりました。むしろを敷いたり、万国旗を飾ったりして、お節句になったら、そこで弁当をつかったりしました。箱型の引出式の弁当箱に、一段ごとにおかずや巻(ま)き寿司(ずし)が入っていて、それがのう(なく)なると、家に帰って詰めてもろて、また、コンヤマまで行って食べよりました。夏ミカンをコンヤマの土の中に埋めておいて、お節句に掘り出して食べたりもしました。
 コンヤマのグループは、同じ子供の集団でも、町内単位の亥の子組とは違って、任意の集まりでした。コンヤマには必ず高学年のリーダーがいて、そういう人の言うことは絶対聞きよりましたね。その時分のリーダーは、弱い者は助けてやるとか、知っとることは教えてやるとか、そんなことがきちんとできとりました。また、下の者はそういう年上の者を見ていましたから、自分らがその立場になったら、何をせないけんかがよくわかっとったですよね。」

 イ 花祭り

 4月8日は釈迦(しゃか)の誕生日とされており、この日、寺院では花祭り(灌仏会(かんぶつえ)、仏生会(ぶっしょうえ))が行われ、釈迦の像に参詣者が甘茶(ユキノシタ科のアマチャやウリ科のアマチャヅルの葉から作った茶)を注ぐ光景が見られる。**さんに聞いた。
 「4月8日は花祭りです。わたしのところ(一乗寺)では、本堂の上がり口に花御堂(はなみどう)(屋根を花で飾ったお堂)を作って、その中にお釈迦様の立像を安置し、お参りの方に甘茶をかけていただきます。また、お参りの方々にも甘茶をいただいてもらいます。以前は甘いものが少なかったですから、甘茶をいただきにみんながこぞって来たもんでした。ですから、そのころはお檀家(だんか)の方が来て、境内で薪(まき)をたいて大釜で甘茶を作っていました。それが今はやかんですよ。
 花御堂も、以前は自分たちで花を採ってきて、それをのりでつけて飾ったものでした。わたしとこでは、ちょうどそのころはボタンザクラが咲くんで、それを主に使っていました。ソメイヨシノは花びらが落ちていかんですが、ボタンザクラは、のりではっていくのにちょうどいいんですよね。ただ、花が多いという点では、一月遅れの5月にする方が都合がいいですね。今はデコレーションのついた花御堂ができていますので、わたしのところでも、それを使って簡素化するようになりました。
 なお、吉田町内のお寺には『六和会』という組織があって、そちらの方で3年くらい前まで一月遅れの5月8日に花祭りをしていました。宗派を離れてみんなでやろうじゃないかということでやっていたんですが、今はやめています。」

 ウ 春祭り

 4月14日は、安藤神社の春祭りである。かつては、秋祭り同様に多彩な練り行列なども出て、なかなかのにぎわいであったと言われている。**さんに聞いた。
 「安藤継明公の命日は旧暦の2月14日ですから、お寺(安藤継明の廟所(びょうしょ)、海蔵寺)の方ではその日に法要をしていますが、神社の方は毎年4月14日に春祭りをやっています。
 祭りの前夜(13日6時ころから)、境内の神楽堂で伊予神楽(*11)の奉納をします。神楽堂は組み立て式で、屋根はカヤでふきます。カヤもここしばらく替えていませんので、もうかなり長い間使っていることになります。組み立ては、日曜日などを利用して総代がしますが、半日近くかかります。広さは12、3畳(約20m²)くらいですかな、お飾りを置いて、鳴り物(太鼓と笛)の人が座れて、お神楽が踊れるくらいですから。
 お神楽が終わる8時半ころから餅まきをします。観客は、お神楽の時は100人くらいですが、餅まきのころになると200人くらいになっています。最近はお神楽を見に来る人がだんだん少なくなってきましたが、『お神楽は神様に奉納するものだから、お客さんが多かろうが少なかろうがやる。』と言って続けています。
 14日は御幸祭(みゆきさい)言うんですけど、午後1時ころにみこしの宮出しをします。町内に1か所お旅所を作り、そこで神事と浦安(うらやす)の舞(紀元二千六百年祝典〔昭和15年〕の際に作られた神事舞)を奉納します。昔は、御座舟(ござぶね)や牛鬼(うしおに)、練(ね)りもたくさん出てにぎやかでしたが、今年(平成10年)からはみこしだけになりました。それも、人手がありませんので、車で運んでいるような状態です。まあ、地元桜丁の四つ太鼓だけは出てくれていますが。
 行列の先頭を行く宮司さんは、昔は人力車に乗って回りましたが、今は車です。それに太鼓を積んだ車がつき、さらに、みこしを積んだ車が続きます。みこしは、県内でも一番大きいくらいですから、2トン車でないと積めません。それが、先みこし、中みこし、後みこしと3台いるわけです。総代さんは、そろいのハッピを着て、3台のみこしにそれぞれ3人くらいずつついて歩きます。神社に帰って来るのが4時ころになりますけん、けっこう歩きますね。宮入りのあと、社務所で直会をします。
 15日は後片付けでかれこれ半日かかります。お祭りそのものよりも、準備や後片付けの方がたいへんです。お神楽堂は14日の午前中に壊すんです。というのは、境内にはテキヤさん(縁日などで、露店でものを売ったりする人)が店を出すんで、神楽堂を除けてあげるんです。テキヤさんはほとんどが宇和島街路商組合に入っている人たちで、神社にはバトコセン(場床銭)というのを奉納してもらっています。
 祭りに奉納する浦安の舞を踊るのは小学生の女子4名です。舞いの練習は毎年8月のお盆過ぎに吉田町中央公民館でやっています(写真1-3-14参照)。安藤神社の場合、本番で舞うのは春祭り1回だけですから、たった1回のために2日間習わないと踊れないというのは、ほんと、かわいそうなようです。4年生の夏から練習を始めてもらって、5年生と6年生の春祭りに踊ってもらうようにしています(*12)。
 浦安の舞には、扇の舞と鈴の舞があり、あわせると15分くらいです。ほんとは笛と太鼓が入るんですが、今は本祭りのときもテープでやっていますので、練習もテープでします。練習では、舞の意味や歌詞の説明のあと、立ち方、座り方、進み方、下がり方など基本的な動きを練習します。そのあと、扇の扱い方を習って、テープに合わせて実際に扇の舞を舞います。それができたら、今度は鈴の扱い方を習って、同じようにテープに合わせて鈴の舞を舞います。横で見ていると、なかなかむずかしそうですが、2日間練習しますと、たいてい踊れるようになるようです。」

 エ 道順さん奉納相撲

 4月中旬の日曜日、立間尻(たちまじり)の大信寺では道順(どうじゅん)さん奉納相撲(子供相撲)が毎年開かれている。道順さん(村上道順、生年不詳~1697年)は、元禄時代の医者で、酒と豆腐さえあれば薬代などは一切請求しなかったといわれ(②)、同寺の道順堂(写真1-3-15参照)には今も毎日のように酒と豆腐が供えられている。**さんに聞いた。
 「道順さんの命日は旧暦の4月19日で、わたしらが子供の時分には、この日大信寺では山門から道順堂まで露店が並び、多くの参詣客でけっこうにぎわっていました。奉納相撲は、10年ほど前までは新暦で5月にやっていたんですが、5月は行事が多いんで、今は4月19日直前の日曜日にやっています。
 準備としては、わたしら役員が寄付を集めて賞品を買ったり、町に張り紙をして回ったりします。前日には、土俵こしらえと、3人抜きの子供に渡すボンデン(*13)つくりをします。土俵はお寺にこしらえてありますので、土俵上におがくずと砂を混ぜたものをまき、四本柱を立てて屋根に幕を張るだけです。おがくずと砂は、終わると袋に入れてとっておいて、来年また使います。ボンデンは、役員や大口寄付者のところにもお礼として持っていきますから、50本くらい作るんじゃないですかなあ。前日けっこう遅うまでかかりますよ。ボンデンの竹は、前々日にお寺の裏山から切り出します。
 当日は、午後1時から本堂で法要をし、そのあと道順堂で仏事をし、さらに、土俵の四本柱に四天王(*14)のお札を貼って和尚さんが土俵を清めてから相撲を始めます。3人抜きした子はボンデンをもろて一応卒業にしますが、負けた子には何回でも相撲を取らせます。土俵は少し高くなっていますから、こけて下に落ちることもあります。特に柱に頭でもぶつけると大変ですので、柱のところには役員を置いています。
 参加するのは幼稚園児と小学生で、全部で30人くらいでしょうかなあ。下級生はおもしろがって来るんですが、上級生はあまり来ません。まあ、ふんどしして正規にやるというものでもありませんで、普段着で突っ張りやいこ(突っ張りあい)をするくらいですけど、照れ臭いんでしょうかなあ。最近は女の子にもやらすんですけど、女の子の方が強くて、男の子の方が尻込みしたりしています。全員に参加賞ということで、お菓子とかジュースを渡します。相撲は3時までには終わり、最後に餅まきをします。
 行司は世話人さんが交代でしてくれますけん、わたしは賞品を渡すくらいですけど、やっぱり終わるまでは、けが人が出んようにびくびくしとります。」

 オ お大師講

 4月20日は、裡町の長福寺で、毎年お大師さんのお衣替え法要が営まれる日である。長福寺は浄土宗の寺であるが、「弘法大師坐像」や「木造四国八十八ヵ所御本尊」など、お大師さんにゆかりの深い寺でもある。**さんに聞いた。
 「うちは本来お大師さんの寺(真言宗)ではないんですが、お大師さんが有名なんです。というのは、昔ここに吉田教会所いうのがあったんです。で、八十八か所めぐりの途中、40番札所の観自在(かんじざい)寺(南宇和郡御荘(みしょう)町)から41番の龍光(りゅうこう)寺、42番の仏木(ぶつもく)寺(いずれも北宇和郡三間(みま)町)へ行くのに必ずここに寄って、それから裏の山を越えて行きよったと思うんです。それが証拠に、今、仏木寺の山門の前に行きますと、石柱が立っとりまして、そこに『吉田教会所』という文字があります。
 そのようなことから、今でも、お大師さんの御命日にあたる4月20日と、11月20日(ミカンの収穫等の関係で、現在は12月20日)の春秋2期、お大師さんのお衣替え法要をしてます。これは、弘法大師さん(坐像)を中心に、八十八体(木造四国八十八ヵ所御本尊)をお祭りし、お大師さんのお衣替えをするというもので、春は白衣装を、秋は赤衣装をお着せしてます(写真1-3-16参照)。法要のあと、お数珠(じゅず)を繰ります。みんなが輪になって座り、7、8mの数珠を両手に持ち、お念仏を唱えながら左回りに回していきます。その中に一つ大きな数珠があり、それが自分の手元にくると、深く拝むんです。輪の中に一人入りまして、鉦(かね)をたたいてリズムをとりながら、数を数えていきます。当日は何十人かおいでになります。町内の方がほとんどで、みなさん、にぎやかにやってます。
 昔はこの法要のときにお講をやってたんです。正式には『お大師講』とよんで、1組12人で60組くらいできてたと思います。ですから、600人から700人の人たちに年2回お参りに来てもらうという、大きな行事だったんです。昭和45年(1970年)くらいまで続いてたと思いますが、今は途絶えています。お講の会員は、吉田町全域にわたってました。」


*11:宇和島市および北宇和郡一帯の春秋の祭りに舞われるもので、採物神楽の一種である。別に「おかんこ(男神子)神
  楽」ともよばれているように、神職のみによって奉納されるもので、四国地方の神楽の中心をなすものである。昭和56年
  (1981年)、国の重要無形民俗文化財に指定された(⑧)。
*12:平成10年8月17、18日に行われた練習には、安藤神社から、吉田小学校5年生の**さんと4年生の**さん、**さ
  ん、**さんの4人が参加した。このうち**さんは昨年に引き続き2年目、ほかの3人は初めての参加であった。この4
  人のほかにも、町内の各神社から4人ずつ、計32人の参加があった。
*13:長い竹や棒の先に、和紙や白布をとりつけて、遠くからでも人目につくようにしたもので、「梵天」とも書く。祭りの
  ときの頭屋の標示、神事につらなる稚児のかつぎもの、神事相撲の勝者のしるしなどに用いられる(⑤)。
*14:四方鎮護の四神、持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)をさす。

写真1-3-11 野福峠春景

写真1-3-11 野福峠春景

サクラの花ごしに春の宇和海が見える。平成9年4月撮影

写真1-3-14 浦安の舞 練習風景

写真1-3-14 浦安の舞 練習風景

平成10年8月撮影

写真1-3-15 大信寺道順堂

写真1-3-15 大信寺道順堂

平成10年9月撮影

写真1-3-16 お大師さんと八十八か所本尊仏

写真1-3-16 お大師さんと八十八か所本尊仏

お衣替え法要を前に、お大師さんが八十八か所本尊仏の前に安置されている。平成10年12月撮影