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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)魚神山のくらしと真珠母貝養殖

 **さん(南宇和郡内海村魚神山 昭和9年生まれ 64歳)

 真珠の養殖は生産過程が分業化されており、稚貝採苗、母貝養殖、真珠養殖(母貝に核を入れて真珠を養成する)に大別される。
 由良半島のほぼ先端に近い魚神山地区で、長年にわたって真珠稚母貝の養殖に携わっている**さんに、魚神山のくらしと真珠母貝養殖について聞いた。

 ア 魚神山のくらし

 「わたしは魚神山地区の地場産業である真珠母貝養殖の生い立ちや変化をまとめてみたいと思っており、資料も集めていますが今は忙しくて手が回らない状態です。
 わたしは小学校5年の時に、大阪から魚神山に帰ってきました。終戦直前のことでした。帰郷した折には、食べるものがなく、サツマイモのつるを干したものを煮て食べたり、タンポポの葉を湯がき、あえものにしていたことを覚えています。お茶もこの地区の山に生えている茶の葉を摘み、陰干しして使っていました。祖父はイタドリの葉を乾燥させ、細かく刻んでたばこの代用にしていました。
 昭和20年代と現在の村の様子を比較すると想像もつかない状態です。当時の写真を見ると、本当にびっくりしますよ。木造の小さい家の屋根には、かわらが飛ばないように網を張り、その上に石を置いていました。そのような家並みがずっと続いていましたが、真珠のお陰で、立派な家に建て替わりました(写真1-2-36参照)。
 そのころは、段畑でサツマイモとムギを主な作物としてつくり、海ではホウタレイワシを巾着網でとっていました。とれたイワシは天日で乾燥させ、イリコにしていました。イリコは、魚神山小学校に通う途中の道端に干してあり、それをもらって食べたりしていました。ポケットにはふかしたサツマイモがいつも入っていましたね。米はわずかの田で作っていましたが、塩水が田に入り、3、4年に一度、少し収穫できる程度でした。それで、米の御飯を食べるのは病気の時と、盆や正月、それに祭りの時に限られていました。
 また、記憶に残っていることとして、春先にイワシが岸辺に打ち上げられることが年に二、三度ありました。それは、沖でイワシの群れが大きな魚に追われて磯に打ち上げられるためで、そのイワシを家族で拾いに行っていました。ざるに3杯も拾ったことがあります。わたしたちはこの現象を『春の贈り物』といって、季節の到来と合わせて待ちわびていました。しかしこの現象も、わたしが地元で働いた後、大阪に働きに行き、再び帰郷した昭和42年(1967年)ころには見られなくなっていました。
 巾着網で、春から秋にかけてとれたイワシは、塩をふり天日干しにしていました。わたしたちはこれを『カイボシ』と言っていますが、このカイボシは各家庭の大切な副食物でした。冬分にとれたイワシは、内蔵もそのままにして塩漬けにして、暮れや正月用の保存食にしていました。また、塩加減により、保存の期間を変えて食べていました。イカの塩辛も大切な保存食品でした。イカの身は干して、するめとして売っていましたが、残りの内蔵からつくる塩辛は各家庭の大切な保存食品で、野菜と一緒に食べたり、御飯の上に載せて食べていました。祖父はハマグリの殻にイカの塩辛を入れ、囲炉裏の端で焼いていました。生のままだと少しにおいますが、焼くとおいしくなると言っていました。この塩辛もたくあん漬けと同様に、塩加減により1か月から1年間程度の保存食として利用していました。
 わたしは、昭和25年(1950年)に新制中学を卒業すると同時に、地域の青年団に入団しました。同級生のうち、高等学校に行ったものが2人、女性は都会に働きに出た者が多く、5、6人が地元に残りました。昭和30年(1955年)に、魚神山青年団の代表として、内海村の弁論大会に出場し、優勝しました。『選挙のあり方』と題して発表したように思います。発表会場になった柏地区へ行くには、その当時は、交通の便が悪く大変でした。魚神山から北宇和郡津島町須下(すげ)まで歩いて出て、そこから船で由良半島の付け根の柿之浦(かきのうら)まで行き、さらにバスで国道を柏まで行きました。大会の帰りは、旧道の鳥越ずい道までバスで帰り、峠でわらの草履を買って革靴と履き替えて、そこから山道を2時間かけて帰りました。昭和30年代の交通機関はそのような状況でした(図表1-2-9参照)。したがって、村主催の地区対抗のバレーボール大会に出場するときは、地区から特別に船を仕立てて行っておりました。
 昭和35年(1960年)ころ、産業振興協議会がここでもかんきつをやることになって、一応夏ミカンの苗木は植えていますが、何人かが肥料代くらいは取れた程度で、大部分の家は実がなるころに世話をしなくなりました。1年か2年は自分の家で食べるくらいは作ったでしょうか、それ以後は荒れ地にしてしまいました。また、そのかんきつの実がなり始めるまでのつなぎの仕事として養豚を始めていました。当時は、これといった収入がなく、苦しい生活が続き、各家の門を入るとブタが顔を出すという生活状態でした。畑にはイモを作り、それをブタの飼料としたり、イモをでんぷんとして絞り、その粕(かす)も飼料として活用していました。
 当時の青年団活動は大変活発でした。大量にとれたイワシを湯がくのに、薪が必要でしたので、青年団が薪の切り出しを請け負い、山から運び下ろしていました。また、魚神山でやっていた、ハマチの群れをとるはまち網を青年団で1日借り受け、漁をしたこともあります。これらの収入は、すべて団の活動資金としてためておきました。
 南予の青年宿の中でも、わたしらの分団宿はまじめに活動していました。先輩が厳しく、勉強家がいました。夏は漁が忙しいので活動はしませんが、11月からは夜になると青年宿に集まっていました。2時間は自習時間で、習字や中学校の教科書の復習をしていました。勉強時間に雑談をしていて、先輩に殴られたことがあります。午後10時には先輩の床を敷き、朝は先輩の床も上げて家に帰っていました。年末の集落の夜回りは、10時と0時にやっていました。風の強い夜の巡回中に、港につないでいた船が陸地に打ち上げられそうになりましたが、青年団員で船を沖に出して被害を最小限に食い止めたこともあります。女性宅を訪問する時は、両親にあいさつしてから部屋に入り、時間が来ると、その旨を告げて帰っていました。なかにはロマンスも生まれましたよ。また、都会に働きに行っている女性が地元に帰ってくると、すぐに地域の評判になりました。当時は、それだけ情報が少なかったようです。」

 イ 真珠母貝養殖の作業手順

 稚貝は、6月に杉葉漬けをし、その後、切り込み作業、稚貝選別の作業を経て翌年4月に出荷される。また、手元に残した稚貝は、掃除、ネット立て、重量選別(サイズ分け)の手順を経て母貝に育て、2年目の11月に核入れ業者に出荷される。
 **さんに真珠の稚貝養殖と母貝養殖の手順を聞いた。

 (ア)稚貝養殖

 「作業手順はその年によって違ってきます。わたしは平成4年から人工稚貝の養殖も手掛けており、天然物と重なります。
 杉葉漬け(アコヤ貝の稚貝を付着させるために杉葉を海中に漬けること)は6月上旬に始めて6月下旬に終わります。御荘町では約1週間遅れます。杉葉漬けと稚貝養殖の場所は分けてやっています。
 切り込みは、直径が数mmの稚貝を杉葉の中から取り出してちょうちんと呼ばれるネットに入れる作業で、7月下旬に行います。最近は扱う量が少なくなり、作業は1週間で終わります。また、7月24日の和霊さん(宇和島市にある和霊神社の祭り)までに終わらせる所もあります。昭和40年から50年にかけては、1か月もかけてやっていました。この作業は平成に入るまでは夏休みにやっていました。それは子供の人手を必要としたからです。切り込み作業は、ちょうちんネットに杉葉を入れたあと、ネットを縫う作業が多いので、細かいものがよく見え、指先が細く器用な子供に適していました。網の目の大きさは、小さい方から1分5厘(1分の網の目の大きさは3.3mm²)、2分、3分の市販品を使いますが、稚貝とりは昔は網の目から稚貝がこぼれ落ちるような小さい稚貝からとっていたので、使い古した蚊帳(かや)を切り取って底に敷いていました。稚貝の手入れは9月と11月の2回行っています。
 稚貝の選別は、砂をふるいに掛けるときと同様に、網の目の大きさを変えてやっていました。この作業を一日中やっていると腕が痛くなり大変でしたが、今は稚貝選別機に掛けてやっています。この選別機も試作機が出始めた段階では目的通りの選別ができませんでしたが、今は3台目を使っています。12月中旬ころの温かい日を選んで、稚貝の入ったままの網の塩水消毒をします。汚れた網を取り替えてやれば貝の生育には一番いいのですが、塩水消毒で済ませる業者が多いようです。その後は貝が冬眠に入るので、翌年の3月まではいかだにつるしておきます。3月に入ると、稚貝の掃除を行いながら稚貝用選別機にかけて、サイズ分けをします。そして、業者に売却するものと自分で母貝まで育てるものに分けます。」

 (イ)母貝養殖

 「5月ころより手元に残した保有貝の掃除をしながら大きな貝から順に段式ネットのポケットに、口を上に向けて10個を並べて入れます。その後、貝の成長に応じて8個を並べて育てます。冬眠に入る前に、汚れを除く方法として、試験的に穴をあけたナイロン片を二つ折りにしてネットのポケットに入れ、その中に貝を入れて育てたことがありました。この場合、貝に汚れは付きませんが、貝が衰弱していけませんでした。貝の排せつ物がナイロン片の折り目にびっしりとたまっており、予想よりも多い量でした。
 貝の掃除は、成長にひびく大切な作業です。貝掃除機の円筒形部の表面にはステンレスの針が付いています。作業中、力がかかりすぎて貝を傷つけるのを防ぐため、筒の表面を押す力を油圧で加減できるようになっています。
 6月から7月にかけて、2年目の母貝の寄生虫をとるための塩水消毒をします。
 一つ目の水槽には氷の塊を入れた水を入れます。その中に、らせん状に巻いたビニールパイプを漬けて水道水を流します。そうすると水道水の水温は夏場の25℃前後から20℃程度まで下がり、これを二つ目の水槽にためます。ネットに入った貝をいかだから上げ、この水槽に10分間から20分間ほど漬けると、水温の低下により母貝が口を完全に閉じます。
 つぎに、塩が溶けなくなるほどの濃い(飽和状態の)塩水を入れた三つ目の水槽に、ネットの中で口を閉じたままの母貝を5分間から8分間ほど漬けて、貝殻に付いた寄生虫を取り除きます。その後、20分聞から30分間ほど陰干ししていかだに戻します。ここで一番注意することは、貝が完全に口を閉じるのを確認して塩水消毒をすることです。
 塩水消毒後、貝が回復するまでに、2週間かかるとして、その間、稚母貝の手入れをします。10月の下旬には、今まで手入れをしてきた2年目の母貝を出荷するため、サイズ分け(重量分け)作業にかかります。具体的には、沖のいかだから運んできた母貝をすぐに掃除し、自動重量選別機に掛け、8匁(1匁は3.75g)から15匁までの重さに分けています。それをネットに収めて、いかだにつるして出荷を待ちます。
 わたしは人工母貝を20万個養殖していますが、人工貝は天然貝の養殖の合間に仕事ができるので、この方法をとっています。
 天然貝は、6月ころより母貝として掃除の作業を始め、秋の出荷まで掃除を平均3回行います。そして、成長した天然貝の一部を秋に出荷します。その後、人工の小さい稚貝が6月中旬に入ってきます。それを何度も清掃してネットに効率よく詰めて育てていく方法をとっています。天然母貝を秋に出荷した後に、人工母貝が成貝として残り、作業効率を上げることができるわけです。
 春に稚貝を売る折に、人工貝も4匁から8匁に育ったものはほとんど出荷することになります。だから、養殖する期間が少なくて済みます。それで、天然貝を30万個持つよりは、人工貝と天然貝を半分ずつ持った方が効率がよいことになります。」

 ウ 真珠母貝養殖の移り変わり

 続いて、**さんに話を聞いた。

 (ア)真珠母貝養殖のはじまり

 「魚神山地区はもともと半農半漁でくらしを立てていましたが、これだけ急激に真珠母貝養殖一本に仕事の内容を変えた地区はないのではないかと思っています。もともと、昭和20年(1945年)ころまでは沖取りの巾着網が盛んな所でした。昭和30年(1955年)に入り、県下一帯の不漁が続いて、この地区でも長崎県五島列島や壱岐対馬(いきつしま)方面、鳥取県や山口県あたりまで出漁するようになりました。しかし、どれもあまり成功せず、現地解散になった船もありました。そうした中で、昭和30年代後半ころから真珠母貝養殖がぼつぼつ始まり、定着したのは昭和50年(1975年)に入ってからです(写真1-2-40参照)。
 わたしが青年団に入った昭和30年に、不漁対策として内海村では産業振興協議会を設置して農業部会と漁業部会ができ、そこで農業はかんきつを、漁業はサバのはね釣りを主力にしようということが決まりました。同時に、浅海漁業としてノリ、カキ、そして真珠を加えた養殖漁業を地区別に分けて試験的にやってみようじゃないかということになったのが真珠母貝養殖の始まりです。
 わたしは昭和32年当時、魚神山地区で青年団長をしていたので、この地区ではノリの養殖をやってみようじゃないかということになり、挑戦してみたのですがうまくいきませんでした。柏崎が真珠の稚貝養殖を、家串地区がノリ、カキ、それに、稚貝養殖をやることになりました。青年団による稚貝養殖試験結果はまあまあ良好で、稚貝の付着も良い結果が得られました。昭和40年(1965年)ころからは、稚貝、母貝養殖が少しずつ定着してきました。その間、浮き沈みはありましたが、この地区は他の地区に比べて、真珠母貝養殖に本格的に取り組むのが一歩遅かったようです。
 実は、杉葉による真珠の稚貝の天然採苗の技術は旧内海村の平山から赤水(現在、平山、赤水は南宇和郡御荘(みしょう)町)で、県下に先駆けて始まりました。昭和33年(1958年)、家串地区の数名の方が、油袋地区(図表1-2-9参照)に杉葉500つりを投入して試験的に採苗を始めましたが、結果は良好だったので本格的に養殖を始めたようです。昭和34年ころでしょうか、油袋・家串の婦人会を中心に小遣い稼ぎになるぞ、ということで始めたのが当たったわけです。魚神山でも、昭和37年ころ、地元の漁師の有志たちが真珠母貝養殖に取り組んでいました。そこで、この地区では、昼は真珠母貝養殖に取り組み、夜は沖に出ての漁業という生活が昭和46年(1971年)ころまで続きました。そのうち、沖の漁業が全然駄目だということで網はいっさい無くなり、真珠一本での仕事になりました。
 その間、真珠がだぶついて廃棄したり、いろいろ規制に取り組んだり、相場の変動で母貝が売れなかったりの繰り返しでしたが、ようやく昭和50年代に入って真珠母貝養殖も安定してきました。そこで、真珠の景気が良くなってからは、畑では作物をいっさい作らなくなってしまいました。
 昭和30年代は八幡浜市以南であれば、杉葉に稚貝がどこでも付いていましたが、昭和40年代には海水の汚れなどにより津島町須下以南にしか付かなくなりました。しかし、この魚神山地区では真珠稚貝の付着もよく、他県からの需要があり活況を呈していました。
 杉葉による稚貝採苗は、先輩たちが御荘町平山地区での成功を皮切りにして家串地区でも操業を始めています。魚神山地区では、昭和43年(1968年)にわたしが始めました。
 わたしは一人で、2,500本から2,800本もの杉葉をつるしていましたが、魚神山地区の漁場は広く、手広く採苗でき、4年間くらいは景気が良かったのを覚えています。5月中旬に杉葉を入れ、6月下旬にそれに稚貝が付着しているのを確認して集めて業者に手渡し、7月初旬には、いかだを上げていました。当時は2か月間の作業でしたので、周辺のいかだを借りて商売ができました。最近では、作業が約1か月間遅れております。
 昭和51年(1976年)には網2枚に稚貝の付着した杉葉の枝を3、4本入れ、海につるして太らせる方法に変わっていきました。その後、この方法はさらに改良されて、ちょうちん状のネット(網)になりました。一つのネットには、杉葉部分を約30cm程度に切り、2、3束入れていました。このネットを6段に連結したものには稚貝が1,000個ほど付いていましたが、使える貝は500個程度でした。」

 (イ)品質の向上をめざして

 「わたしは、作業日報を20数年間、記録しています。魚神山地区では、昭和48年から稚母貝の販売制度を確立していますが、景気が良くなると個人販売が多くなりました。昭和48年から50年にかけて母貝の価格も安定し、経営が軌道に乗ってきました。昭和50年には生産量もピークになり、母貝養殖も三重県を抜いて日本一になりました。
 しかし昭和53年になると円高不況で真珠が輸出不振になり、母貝価格も低下して、10年振りの危機になりました。母貝の生産過剰にもなり、魚神山でも母貝を廃棄しました。
 昭和59年になると市場は好転しましたが、依然として母貝の生産過剰が続き、価格は低迷していました。当時わたしは、生産組合長の立場で、価格維持のために母貝の余剰分を、組合が買い取った形で廃棄するなど、販売に苦労した記憶があります。
 昭和60年(1985年)は転換期の年でした。生産量は最高になりましたが密殖のため品質が落ち、漁場改革をするようにとの指摘が買い手業者から強く求められました。当時は、各個人が思い付きでいかだを設置して養殖しており、効率が悪かったのです。そこで、組合員52人の合意のもとに、3年計画で改革に取り組みました。漁業協同組合が区画権を確認し、漁場の略図を作成した後、業者に調査と設計を依頼しました。漁場の水深や地形を調査してもらい、設計どおりのいかだを作りました。一人が養殖できるいかだの長さを2,000mとして、まず、避難用のいかだ(長さが150mで、横方向に30本の貝をつるすロープを設置)を敷いて、南側の個人用いかだから順次、避難用のいかだに移した後、再び整備された個人用いかだに移し替えていきました。いかだも潮通しのいい場所から、A、B、Cのランクに分けて、組合員が満遍にいかだが確保できるようにしました(図表1-2-12参照)。昭和61、62年(1986、7年)度にかけていかだを移動しましたが、この事業はこの地区での一番大きな改革でした。おかげで、品質のよい貝が生産でき、市場でも好評でした。いかだの整備価格が高価なものになりましたが、組合員は2年間の6回払いで、減価償却していきました。当時は大変な苦労をしましたが、組合員には増産という大きな目標がありました。
 生産が軌道に乗ったあとの出来事ですが、朝、起きてみると沖に設置したいかだが無くなっていたことがありました。いかだに取り付けている発泡スチロールの浮きが岸辺に漂っていたので、大騒ぎになりました。原因は、いかだへの養殖用ネットのつり過ぎと、急な潮の流れで浮きが海中に深く沈んでしまったのです。水圧で浮きが拳(こぶし)の大きさに収縮したために、縛ってあったひもが緩んで浮きが移動したのです。浮きが移動して水圧がかからなくなると、再度、海面に浮上して元の大きさになって岸辺を漂っていたわけです。我々もその仕組みにまでは気付きませんでした。浮きは機械で固く縛るので緩むことなど想像もしなかったですね。そこで、沈んだ母貝を所定の位置まで引き上げねばならず、貝の生育限度を10日と見積もって、沈みはじめた浮きに補助浮きを絡ませて浮上させました。大型作業船や潜水夫を雇っての作業になり、費用が余分に要りました。思わぬ誤算の原因は、湾内の潮の速さと浮きの縛り方、それに浮力の計算違いにもあったと思います。
 昭和61年には宇和島管内の7漁協が中心になって遊子(ゆす)地区に種苗センターが設置され、人工稚貝や中国産ハーフ貝の養殖にも取り組むようになりました。
 昭和62年になると宇和海の稚貝の採苗の景気が悪くなり、県から密殖に対する指導がなされ、いかだの制限や個数、つり線の間隔などの指示がなされ、母貝の数にすると一人当たり、17万個の線が出されました。杉葉のつり数も、具体的には一人当たり250つりと規制されました。この時の資料によると、内海地区、御荘地区、南内海地区(中浦漁協)、西海地区の4漁協では厳密に検査をして、余分につった貝は全部、廃棄にしました。
 この魚神山地区では最盛期には稚貝を8万貫出荷していたこともありましたが、近年は3万貫程度になっています。このところの海水温度の上昇が真珠稚母貝の成長に微妙に影響してきており、密殖などによる海水の汚染も心配されますが、今後とも環境に強く、質のよい稚母貝の養殖に取り組み、何とかこの現状を乗り切っていきたいと思っています。」

写真1-2-36 現在の魚神山漁港

写真1-2-36 現在の魚神山漁港

平成10年7月撮影

写真1-2-40 魚神山真珠母貝養殖のいかだ

写真1-2-40 魚神山真珠母貝養殖のいかだ

平成10年7月撮影

写真1-2-43 現在の魚神山地区の家並み

写真1-2-43 現在の魚神山地区の家並み

平成10年7月撮影

図表1-2-12 いかだ配置図

図表1-2-12 いかだ配置図

1ブロックのいかだには、長さ150m、横方向に30本の貝をつるすロープが設置してある。1本のロープにちょうちんネットを125本つるす。