データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛のくらし(平成10年度)

(1)内海湾に生きる

 ア むらのくらし

 **さん(南宇和郡内海村平磐 明治44年生まれ 87歳)
 **さんは、長年、村の行政に携わりながら、むらのくらしの移り変わりを見つめてきた。**さんに戦後のむらのくらしの様子を聞いた。
 「わたしは、戦前、大阪で公職についていましたが、終戦と同時に、内海村に帰って農業をしていたんですよ。そのうちに、役場の方から助役を公選するからとの連絡で、当時の村長に頼まれたり、平碆地区の人からも『ぜひ、出てもらいたい。農繁期には、みんなが手伝うから。』と言われ、昭和23年(1948年)に助役として役場に入ったんです。それから12年間は自宅から役場までは自転車で通い、その通勤前後の各1時間は農業をしていました。その後、国道56号のバイパスができることになり、私の田畑の中も道路が通るということで土地を提供しました。昭和46年(1971年)には内海村と津島町を結ぶ鳥越トンネル(図表1-2-9参照)が完成しました。
 この辺りは、真珠母貝養殖が盛んになるまでは、わずかな段畑でサツマイモとムギを作ることと、イワシをとることが主な仕事でした。当時、この辺りの収入の7割くらいは漁業から得ており、農産物は自家用だけでした。今は、段畑は放置したままで、荒らしてしまっています。
 漁業については、大正初期のころは、海岸に押し寄せてきた魚を、地引き網でとりよったんです。それで、大正12年(1923年)ころに八幡浜市真網代(まあじろ)で行われていた四つ手網(*24)を皆で現地へ習いに行ったんです。それは、4、5隻の船が集魚灯としてカーバイトをたいて、海中の魚を寄せ、その下に風呂敷(ふろしき)のような網を敷いて、引き上げてとりよったんです。当時は魚種も多く、たくさんとれよったんですけどね。しかし、この網は潮の流れが速いとうまく開かず、魚がとれないこともあるんです。そこで、今度は玄網(ふかしあみ)を使うようになりました。これは、イワシ沖獲(おきど)れといって、沖の集魚灯に集まった魚を潮の流れに逆らって網を広げてとるんです。潮が流れるから、網が広がるでしょう。そこへもってきて、集魚灯に集まった魚をとりよりました。つぎに、昼間でも漁ができる方法として巾着網になりました。それが、昭和27年(1952年)ころから不漁になりましてね。だんだん、資源がなくなったんですよ。あれはとり過ぎなんだろうと思いますね。それで、宇和海域での漁は、もう採算が合わなくなり、京都府の丹後(たんご)地方や、島根県の隠岐(おき)諸島周辺にも出漁していきました。現地では、漁獲の5%を歩合金として納めて3年間ほど漁をしました。ところが丹後での漁ではよくとれたので、現地の人が『自分たちだけで漁をした方がいい。』と言いだし、船も網も全部売り渡して、3、4人が指導者として残りました。この当時、わたしは役場に勤めていたので、内海村の経済をどうやって建て直すか、内海村の漁業をどうするか、また、くらしをどうしていくかということで、随分苦労したんですよ。」

 イ むらの生活改善

 「漁民の生活改善については、我々がやかましく言っても、村民はおいそれとは乗ってこんのでね。それで、生活が落ち込んでしまって、苦しんでいる時に指導するか、今すぐに手を差し伸べるかを皆で議論しました。昭和40年(1965年)には、村が村民文化生活状況調査を1年がかりでやったんですよ。結果は、家庭電気器具などの各家庭の普及率は、テレビが約60%、電話が約65%、冷蔵庫が約40%、洗濯機が約51%でした。また、自動車に関しては約40%が所持していました。これらの数値から判断して、内海村の生活水準はその当時、一般の生活水準よりもやや低い程度とわたしたちは思ったんですよ。そこで、われわれ役場の職員が各地区に出向き、これらの資料をもとに話し合いをもちました。その折に話し合いのできる集合場所が必要になり、公民館を八つの地区に作ったんです。公民館ができたおかげで、役場と地域の話し合いが活発になりました。生活水準の低さを認識してもらうために、実態調査の結果を見てもらいながら、夜遅くまで議論しましたよ。生活を向上させるためには、今どうしたらいいかを話し合う中で、不漁続きの漁業に替えて、かんきつ栽培をやることになったんです。
 そこで、わたしたちは、各地区の漁民の代表者と一緒に、かんきつ栽培の盛んだった北宇和郡吉田町や八幡浜市真穴(まあな)へ度々、バスで出掛けましたよ。そして、ミカン栽培の様子を見学したり、当時、すでに電化製品のそろった台所を直接見たりしました。
 各地区の代表者が、かんきつ栽培への意欲の高まったところで、役場の方では夏ミカンの苗木から消毒薬まで全部を無償で買って配布しました。そこまでしないと皆、ようやらん(すすんでやろうとしない)のですよ。苗木は高知県まで度々買いに行きましたよ。しかし、夏ミカンの栽培も、すぐに収入につながる訳ではなく、やっぱり海が名残り惜しかったんですかね。
 昭和33年(1958年)ころ、家串地区で、海中に浮遊する真珠の稚貝をとるために、杉葉を海中に沈めたんですよ。そうすると、杉葉に稚貝がいっぱい付きましてね。それから、真珠稚貝の養殖をやり始めたんです。
 稚貝養殖は、家串地区では、個人ではなくて生産組合を作り、それで経営を始めました。漁民は皆、そこに賃金で雇われて仕事をしました。しかし、この経営方法ではうまくいかんのですね。個人の経営ではないですから、一生懸命働いてもみんな賃金が一緒でしょう。これではやる気が出ないんです。
 一方、魚神山地区では、初めから個人経営でやりだしたんです。うまくいかないと自分に損がいくし、働いて収入がたくさんあれば自分のもうけになります。朝早くから夜遅くまで働くから収益があがり、稚貝や母貝の養殖がどんどん盛んになったんです。一時はもう、『宝くじが当たったようなもんじゃ。』とまで言われるくらい、景気が良かったんですよ。
 それがね、漁民の生活が派手になってくるのを見て、わたしは、『いつまで、この景気が続くか、分からんぞ。もし、景気が悪くなっても、持ちこたえられるだけの資産の余裕が必要だ。』と言っておったんですが、なかなか、それがいかんですね。お金がどんどん入るので、皆が家を建て替えましたよ(写真1-2-33参照)。その家の構えも、自分の生活に必要な程度ならいいですが、例えば隣の家が40坪で新築すると、今度自分が建てるときは、もっと大きなものをというような競争になるんです。最後には、80坪の新築で、応接間も見事なものを作ったりしてね。また、若い人の中には、次の年の真珠母貝養殖の収入を見越してまで金を使う状態が出てきました。
 わたしが、村の行政で特に工夫したことは、生活改善の一貫として、公民館結婚式の簡素化に取り組んだことでしょうかね。当時の結婚式は飲み食いが派手でしてね、公民館が結婚式の基準を決めようじゃないかということでね。衣装は2種類に絞って各地区の公民館が用意し、『式は厳粛に、披露宴は簡素に』を目標に皆で取り組みましたね。お陰で、この方式が村民に定着し、挙式と披露宴を同時に行うことで、助役・村長が専属の仲人を務めましたよ。一時は70組くらいまではカップルの顔と名前を覚えていましたが、100組を越すと分からなくなりました。」


*24:四角い網の四隅を、十文字に交差した竹で張り広げた漁具。

図表1-2-9 内海村略図

図表1-2-9 内海村略図


写真1-2-33 平碆湾と真珠いかだ

写真1-2-33 平碆湾と真珠いかだ

海岸には新しい家が建ち並んでいる。平成10年7月撮影