データベース『えひめの記憶』

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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)むらの年中行事

 古来、日本人の生活文化は農業などの生業と深く結びついており、天候などの自然条件の変化は、人々の生存をも大きく支配していた。そのため人々は、自然の変化を畏敬(いけい)の念を持って見守った。そして、自然と共生する日々のくらしの中から、儀礼や信仰を生みだし、四季折々の行事として確立していった。こうして生まれた年中行事は、さまざまな自然環境や社会環境によって左右され、近隣のむらでも違っていることが多い。またむら内でも家によって異なっている(⑯)。

 ア ある旧家の年中行事

 **さん(松山市樽味     大正14年生まれ 73歳)
 **さん(松山市福見川町   昭和2年生まれ 71歳)
 **さん(千葉県我孫子市緑  昭和5年生まれ 68歳)
 **さん(温泉郡川内町松瀬川 昭和7年生まれ 66歳)
 **さん(松山市朝生田町   昭和15年生まれ 58歳)
 **さん(松山市福見川町   昭和26年生まれ 47歳)
 松山市福見川町は、松山市の北東部に位置し、石手川上流の福見山の麓(ふもと)を流れる福見川沿いに分散する戸数16戸(平成10年現在)の山間の集落である。このむらは、周囲を山々に囲まれ、かつては木材の販売や木炭・竹の子・クリ・シイタケの栽培などで生計を立てる人が多く、緩傾斜地にあるわずかな田畑で、米や野菜を栽培し生活していた。しかし、今日では道路も整備され、市街地に働きに行く人も多く、農林業を専業としている人は少ない。
 このむらに古くからある松本家は、氏神様(*14)の正月のお飾りやお供えを執り行うなど、むらの中心的な役割を担ってきた家である。特に松本七郎さん(故人)は、松山市に合併する前の湯山村の村長を務めた人物で、夫人(故人)と共に年中行事を忠実に遵守(じゅんしゅ)してきた。同家の**さんは、廃(すた)れいく年中行事の記録を親族に残そうと長年資料を集め、『福見川の年中行事』(未定稿)をまとめた。それを基にして、語ってもらった。

 (ア)神仏を祀(まつ)る

 かつての日本人の多くは、山には山の神が住み、大樹には木の霊、大岩には岩の霊が宿り、あらゆるものに霊魂が存在するとの心性(精神)を大なり小なり持っていた。そしてこのアニミズム的な観念(自然界の事物に霊魂が宿るという考え方)は、自分たちが住む家の中においても抱き、家々には神棚があり仏壇も安置され、様々な神々が祀られていた(⑰)。
 「福見川の松本家には数えきれないくらいの神様が祀ってありました(図表1-1-13参照)。座敷にはオタナサンと皇大神宮(こうたいじんぐう)、金毘羅(こんぴら)さん、お庚申(こうしん)様、このほかに仏壇と日蓮さん、奥の問には天神様、大黒様、それに八脚(やつあし)(脚が八本ある台)の上には奈良原さんをはじめ数々の神様が祀られていて、祭日にはこの八脚に供える御飯の数は八つありました。そのうえ上(かみ)座敷には伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、落ち間(1段低くなった居間、板の間で囲炉裏が切ってあった)にはお荒神(こうじん)様が祀られ、上・下の蔵にはお蔵の大黒様、井戸端にはお水神様、そしてそこから外れた所にも木製の灯籠(とうろう)があり、そこにも三つの神様が祀られていたようです。このように多くの神様が祀られていたのは、おそらく代々の人が敬神崇祖の念(神をうやまい、祖先をたっとぶ思い)にあつかったためと思われます。いささか雑多な神々を祀り過ぎているきらいはしますが、父母がこれらの八百万(やおよろず)の神々をずっと守って来たのには感心させられます。
 松本家の祭祀の中心は座敷にあるつり棚のオタナサンです(写真1-1-32参照)。ここに歳徳神(としとくじん)が祀られています。御神体は特に無いように思いますが、このつり棚は氏神様の象徴であり、毎日の礼拝は皇大神宮よりはここを第一番にしていました。この氏神様中心の神祀りは、福見川の生活が、氏神を中心に営まれていたことの名残りではないかと思いますが、氏神様の神殿の鍵を預かり、氏神様のお正月のお飾りやお供えを執り行ってきましたこの家の立場がうかがえる気がします。座敷の天井の隅に金刀比羅宮のお札が並べてありますが、数年前にわたしが帰省したとき、その横の金毘羅さんを祀ってある長い箱を開けてみますと、たくさんのお札があり、そこには明治元年(1868年)のお札もありました。
 朝夕の神祀りは、まず灯明の元火を火打ち石でとります。にくさ(もぐさか刻みタバコのような黒い物)を間に置いて火打ち石と鉄片を打つと火がとれます。その火を細く裂いたつけ木(木の先に硫黄を塗ったもの)に取り、次いでハゼろう製のろうそくに移して元火とします。そしてこの元火と種油を入れた油差しを持って回り、直径5、6cmの素焼きの皿に種油を注ぎながら灯しんに火をともしていきます。昭和12年(1937年)に日中戦争が始まりますと、油の入手も難しくなり、元火もマッチでとって火打ち石で清める方法に変わっていきました。
 毎日の灯明やお供え(御飯)は、座敷と奥の間の神仏だけですが、お一日(ついたち)とお十五日、二十八日、その他の家の祭日には、全ての神様に灯明とお供えが上げられました。
 また、家の祭日には、御神酒(おみき)を供え、とっくりにナンテンの葉などを挿して飾ります。オミキスズ(御神酒用のとっくり状の器)を洗うのは子供たちの役目で、古い御神酒は集めて五葉松の木の根元に注ぎ、専用のおけに水を張って洗い、その後開封したばかりのお酒を注ぎます。その際にナンテンなどを挿しますが、祭りによって何を挿すかは決まっていました。(*15)」

 (イ)正月の準備

 正月には歳徳神という神がやってくる。歳徳神は、高い山から里に降りてきて、里人に1年の実りと幸福を約束してくれる神である。そのため、各家は、この歳徳神をお迎えするために、すす払い、松迎え(門松を作るために山にマツを切りに行くこと)、しめ縄張り、餅つきといった正月の準備をする。すす払いは、単なる大掃除ではなく歳徳神を迎えるために家の中を清める宗教的行事であり、門松は、その年の豊作と家族の幸福を約束してくれる歳徳神が山から降りてくるときに、まず目標とし、それぞれの家に入る前にいったんとどまってもらうための依(よ)り代(しろ)(神霊が宿ると考えられるもの)としてマツを立てるものである。そして、しめ縄は、歳徳神を祀る場所を示すためのものであり、一定の区域を仕切るための縄張りである。昔は歳徳神を祀る場所全体に張り巡らすものであったが、次第に簡略化され、現在のようなお飾りの形になったという。また、餅も正月にはなくてはならないものである。日本人は、古くから人間の霊魂と穀物の霊魂を同じように考えて、穀物の霊魂を形にした円餅(まるもち)を食べて人間の霊魂が強大になることを願った。そのため、ハレの日には必ず円餅をついて食べた(⑱)。

   a カザリノベ

 しめ飾り(しめ縄)作りには、たいてい12月23日、25日、28日などが充てられていて、新しい年の明き方(恵方のこと)に向いて作るのが一般的作法であった。しめ飾り作りを、カザリノベ・オシメノベという。これは縁起をかついだ表現である。色のよい新しい稲わらを用いて作る(⑲)。
 松本家でも同様のことが行われていたが、しめ飾りの種類と飾る場所について記録されている「御飾の事」(昭和8年〔1933年〕改訂)という書き付けが、昭和55年(1980年)に見つかっている。
 「正月の準備は、しめ縄作りから始まります。この日は12月25日と決まっていました。24日に旧制中学校の終業式が済み、すぐに松山から福見川に帰ると、これを手伝うことができました。家に帰るとすでに新わらを湿らせて打ったものが用意されていて、薄暗い座敷の障子に近い所で父と二人で作ったものです。不確かな記憶ですが、わら6本ぐらいを手に持って、それを二つに分け縄をない始めます。適当な長さになったところで1本のわらを、端を35cmから40cmくらい出して更にないこみます。1回か数回なったところで次は5本のわらを出し、さらに1回か数回なって3本を出して同様にない込みます。これで一つの工程が終わります。正月の神である歳徳神のほか、多くの神棚には、この1本、5本、3本のわらを出す工程を何回か繰り返して横に長いしめ縄を作ります。この工程を何回繰り返すか、その間にどれぐらいの間隔を置くかは、それぞれの神棚によって決まっていたようですがわたしには分かりませんでした。結局このような大物は記録によれば14作ったようです。その他の多くの神々や家の出入り口、農機具、自転車、水車小屋、炭窯、稲木(丸太と夕ケで作ったイネを干す稲架のこと)などに架ける小さいしめ縄(しめ縄の中央部を丸めてしばる小飾り)も30くらいは作りました。その後、家の分が済むと、氏神様の分や氏神様の飾り付けに必要な縄などもないますので、しめ縄作りが終わるのは、午前中から始めて夕暮れころになっていました。小さいころは1本、5本、3本とわらをそろえて父に手渡すだけでしたが、大きくなってからは、小飾りは自分でも作るようになり、今でも千葉県我孫子(あびこ)のわたしの家で毎年作っております。こうして出来上がったしめ縄は、箕(み)(*17)に入れて座敷に置き31日の飾り付けを待ちますが、その間にウラジロを採りにいきます。ウラジロは毎年父が採ってきてましたが、中学生になって私も2度ほど採りにいった記憶があります。ウラジロはしめ縄に2枚1組または2組ずつ、それにお供え餅にも必要なので、大きい葉、小さい葉とかなりの数が要りましたが、家の者が採りにいけない時は近所の子供たちに頼んでいたようです。
 飾り付けは、31日に行うことになっていました。大物には、ウラジロを2枚ずつ2か所、ユズリハ、ダイダイ、葉付きミカンを付けます。また小物には、ウラジロを2枚、ユズリハの葉、葉付きミカン(付けないものもある)を付けます。さらにつり棚の歳徳神には掛けタイ(2匹の小さいタイ)を付け、毎年使用している篠竹(笹竹)に縛り付け、くぎに掛けます。それぞれの神棚、お荒神様、上・下の蔵の入り口と二階、門など、大物が終われば次は露地(ろじ)門、木小屋、水車小屋、壷井(つぼえ)(松本家でかつて使用していたわき水井戸)というように父の指示に従って小物を飾りました(図表1-1-13参照)。また氏神様にはマツの枝やタケも飾り、それが終わって家に帰り着くころは寒々とした夕暮れになっていました。」

   b 餅つき

 餅は元来ハレの日の食べ物である。餅という名称は望月(陰暦十五夜の満月)から出たとされ、年間の諸種の祝い日や人の一生の重要事には餅をつくことが一般的である(*18)。特に正月と餅とは特別のかかわりがあり、正月の年玉も本来は餅であったという。
 餅をつく日は、12月25日ころから28日までの所が多く、クモチ(苦餅)といって29日につくことや一夜餅はいけないといって31日につくことを忌む所が多い(㉒)。
 「私の家では、正月用の餅つきは30日と決まっていました。お祝い餅は、もち米を奇数日だけ水にかす(浸す)ことになっており、正月用は5日間と決まっていました(*19)。そのため、餅つきの準備は26日から始まることになります。たくさんの米を洗い、あんを作るなどで女手は多忙を極め、子供たちは丸めたあんをつまみ食いするのが楽しみでした。
 餅つきは、早朝から始めることも午後になって始めることもありましたが、祝い餅の時は臼(うす)の回りにわらを2本ずつ井形に置いたように思います。神聖な場所を設定するという意味があったんでしょう。手返し水の中には水ぼうき(わらの小さい束を二つに折り、1回ねじって数本のわらで縛り、20cmぐらいに切り取ったもの)を入れていました。そして餅つきが終わった後は裏の屋根に投げ上げていたようです。神様が多い上に、正月用のお重ねのほか、当日もそれぞれの神様にお供えをするので、子供たちの口に入るのは4臼も5臼も済んだ後で本当に待ち遠しいものでした。お供え用、雑煮用、あん入り等別々のモロブタ(餅などを並べる底の浅い木箱)に並べ、それが一杯になると座敷に新しいむしろを敷いて並べたものです。何臼も何臼もつきますが、兄がつくきねと父の手返しの時はピッチも早く、終わり近くになると空臼(きねで直接臼をたたくこと)をつかせよう、そうはさせないといった興味ある場面もありました。もち米が蒸し上がる間、子供たちは餅取り粉を板のうえに広げて字を書いたりして遊びました。時には、水はH₂O、硫酸はH₂SO₄等と粉のうえに書いて父から聞かされ、習いたての中学生は改めて父を見直したものでした。また切り口をうまく丸め込んだり、あんを真ん中に入れて餅をちぎる父の手付きの良さは絶品でした。子供のころ、座敷で目が覚めたら聞こえてきた『ペッタン、ペッタン』というきねと手返しのリズミカルな音は、今も耳から離れません。この時の餅つき用の燃料は、その年の正月4日の切りぞめの行事で作った割り木を用いました。」

 (ウ)正月の諸行事

 正月行事は一般に元旦を中心とする大正月(おおしょうがつ)と15日を中心とする小正月(こしょうがつ)とに大別される。元日の祝いは奈良時代から宮廷の公式行事になったが、現在のような鏡餅を供え雑煮を祝うなどの正月の風習は室町時代からのものであるという(㉓)。
 また、大正月が正式の正月になるにつれて、小正月は豊作祈願や吉凶占い、悪霊払いなど、大正月と違う特殊な行事が行われるようになった(⑱)。

   a 年の夜

 「年の夜」は大晦日(おおみそか)のことをいう。大晦日から元旦までの間に行われる行事を「年越し」と言い、正月との境目となるのが「除夜」である。除夜には新しい歳徳神がそれぞれの家にやって来るので、神様をお迎えするため一晩中起きているのがしきたりであった(⑱)。
 「年の夜に食べる料理は毎年決まっていました。聖護院大根(しょうごいんだいこん)(イチョウ形切り)とゴボウ(斜め切り)と結び昆布(こんぶ)と焼き豆腐(三角切り)の煮物に素巻きなると(輪切り、煮ないで上に置く)、そして尾頭(おかしら)つきのタイの焼魚でした。用意ができると、中の間(落ち間の上の間)で、電灯を消して大きな対の燭台(しょくだい)に百匁(もんめ)ろうそく(1匁は3.75g)を立て、火をともして祝いました。
 食べる食器は、黒塗りの茶碗に皿、深皿、高膳(たかぜん)など全て漆塗りのもので、格式もあり、非常に大きくて子供は顔が入るような気がしました。
 家族で帰っていない人の陰膳(かげぜん)もして、一人一人が高膳の席につき、1年の思い出などを懐かしく話し合い、良い年を迎えるようあいさつを交わしながら食事をしました。」

   b 元日

 元旦の行事である「若水くみ」は、「若水迎え」とか「若水祝い」ともいうが、普通は年男が新しいひしゃくとおけを持って井戸や清水のわく場所まで水をくみに行く行事である。そして、くんだ水は歳徳神に供え、煮炊きに使ったり、お茶をたてたりする。
 正月の代表的な食べ物である雑煮は、本来は大晦日の日暮れから恵方棚に供えてあった餅やお供え物やお節(せち)料理の残り物を一緒にして煮たものであった。人々は神と同じ食べ物を食べることによって、神から力を授かると考えたのである。したがって、雑煮を食べることは、神と一緒に会食する大切な儀式であった。また、お屠蘇(とそ)を飲む風習もあるが、これは平安時代に中国の唐から伝わり、宮中で飲まれていたが、江戸時代に手軽に作れるようになって民間にも広く普及していった。屠蘇は、山椒(さんしょう)、オケラ、キキョウ、陳皮(ちんぴ)、ニッケイの皮などを合わせて布袋に入れてみりんや酒に浸した薬酒である。これを飲むと、1年の邪気が払われ、寿命を延ばす働きがあると信じられていた(⑱)。
 「元日の朝6時に、下の小屋の広場の端でむら中に聞えるように父のたたく太鼓の響きで、どうの口が開けられ(*20)、福見川の新しい年が始まります。この行事は代々松本家がつかさどっている福見川の行事でしたが、このどうの口が開けられるまでは、まだ正月ではないとされ、大晦日のお金の精算もすますことができるとされていました。
 どうの口が開けられたら、男や子供たちは家の上手にある壺井へお飾りをつけた若水おけを持って若水迎えに行きます。新しい足袋(たび)と新しい下駄(げた)をはき、玄関からではなく、よま口(前の間の雨戸を1枚開けて出口とする)から出ます。まだ外は暗く、松明をつけて行きました。壺井に着くと、一人一人が交代で身を清め、ウラジロ、米、田作(たつく)りを投げ入れてお祈りをした後、おけ一杯の若水をくみます。そして、氏神、恵方を拝み帰路につきました。一方母や姉たちは、この間に雨戸を開け、掃除(家の奥から掃除をし、出たごみは庭の隅に三日間は掃きためておく)を済ませて若水を待ちます。持ち帰った若水は、よま口から取り入れ、囲炉裏の周囲を回してから大茶釜に入れ、お雑煮も炊きます。壺井から帰ると、仏壇に『お茶湯(ちゃとう)』(お茶を仏前に供えること)とかつお節をのせたお雑煮をお供えして神仏を祀った後、三方を拝みます。子供たちにとっては三方に飾られたくし柿やミカンなどを一つもらえるのがとてもうれしいことでした。次いで恵方を向いてお屠蘇をいただきますが、正月のお屠蘇用の杯は専用のものがありました。ウラジロを添えた鉄製の差し器で漆塗りの台と3枚重ねの杯でいただきます。このころになると母たちも台所の手を休めて座敷に集まり、お屠蘇をくみ交わし新年のあいさつをします。その後、お雑煮を食べますが、その前に『朝祝い』と称して焼いたあん入りの餅を食べます。またお雑煮には、かつお節を添えていただきました。お雑煮は、1杯ずついただいた後に神様のお下がりをいただくことになっていました。大黒様のは父や兄、天神様のは学校へ行っている子供たちが、一日はだれ、二日はだれ、三日はだれというように正月の三が日はお雑煮をいただきました。」
 松本家の雑煮は、年末に切っておいた千すじ菜(ミズナのこと、4日の切りぞめの行事まで包丁は使えない)と醤油による味付けだけですが、福見川の家に育った者にとっては、おふくろの味といいますか、あの雑煮の味が一番で、今でも忘れられません。一連の家の行事が終わると、家族は氏神様に初もうでに行きますが、その後、この日は年始客もなく、各人が思い思いに過ごし、子供たちは会堂(かいどう)(公民館)でトランプや金魚遊び(お金やボタンなどを次々と手渡して当てる遊び)や羅漢(らかん)さん回し(人のものまねを回していく遊び)などをして遊び、姉たちは作業小屋の広場で追羽子(おいはご)をしたり、青年たちは百人一首などをして過ごしていました。しかし、夕方になってどうの口の閉まる太鼓の音を聞くと、この合図でいったんは家に帰るのがむらのしきたりになっていました。このどうの口の開け閉めの行事は、むら全体が砦(とりで)としての役目を果たしていたころの名残りではないかと言われていますが、今のところ定かではありません。」

   c 七日正月(なのかしょうがつ)の行事、なずな節句

 正月の六日の夜から七日の朝にかけては、「六日年越し」とか「六日年取り」として元旦からずっと続いてきた正月行事の終わる日で、「松の内」の最後の日として祝われた。特にこの日は、朝食に7種類の野菜を入れたお粥(かゆ)や雑炊を食べる習わしが全国的にはある(⑱)。
 「1月7日は『なずな節句』の日です。前夜から家の掃除をしておきます。当日は早朝から起きて囲炉裏に炭をたくさんおこし、木皿を4枚とはしを出しておきます。炭火がよくいこってくると(全体が真っ赤になると)、その上に手のひらくらいの量の味噌を置いて焼きます。その際、味噌の香りが奥の間の大黒様や天神様に届くようにふすまを少し透(す)かしておきます。また遠方に行っている人にも香りが届くように入り口も少し開けておきます。そしてよく味噌が焼けてくると、木皿にそれぞれ移し囲炉裏の四隅に置きます。神様や御先祖様にもお供えして、その後は餅を焼いて、それに焼き味噌をはさんで皆でいただきます。この行事が済むまでは味噌は使わないことになっていました。」

   d 小正月の行事、お飾りはやし

 小正月の行事の一つにしめ飾りや門松を焼く「ドンド焼き」と称する行事がある。ドンドの炎や煙にのって、歳神様が天に帰っていくと信じられていた(⑱)。
 「1月4日に『お飾り下ろし』をします。まず門口からはずしていきますが、歳徳神と大黒様のは残しておきます。この日はお雑煮を炊いて高膳でお飾りにお供えします。また、お三方は下げて、他の背の低いお膳に移しお床に置きます。そして1月15日に『お飾りはやし』の日を迎えます。この日は早朝より残しておいた歳徳様と大黒様のお飾りを下ろし、4日に下ろしたお飾りと一緒にして、そのお飾りに高膳でお雑煮を供えます。そして夕方になると、木小屋の下の橋のたもとの大岩のあった所で塩をまいて清め、お飾りをはやし(燃やし)ます。この火でお餅を焼いて持ち帰り、皆で食べた記憶があります。」

   e 仕事始めの諸儀礼

 年が改まって最初の仕事始めの諸儀礼をシゾメという。実際には仕事をやらないで、神を祀り、供物をして儀礼的にほんのちょっとしたしぐさをしてあとで直会(なおらい)(*21)をする程度であるが、それぞれ生業に応じた儀礼がある。それを分類すると、屋内作業、農作業、山仕事、商家の仕事はじめなどの諸行事に大別することができ、期日としては、2日、4日、11日などが多い(⑲)。

   (a)切りぞめ

 「1月4日は『切りぞめの日』です。いわゆる山の仕事始めの日で、この日は半紙をはさみを使わずに包丁で部分的に切って、御幣(ごへい)(*22)を作ります。それに歳徳神にあげていた十一重ねの餅(重ね餅11組を専用のふた付容器に入れ歳徳神に供えていた)を切ったものと田作りを巻き、これに餅二つを持って山に行きます。行くのは恵方の方角の山で、目的地に着くと、木を切る人が自分一人で担いで帰れる大きさのクヌギを選びます。そして木を切る作業の前に、選んだ木に御幣を掲げ、持ってきた餅二つを焼いて食べます。こうすると山の境争いがないと言われていました。その後、恵方の方向に向いて木を切り倒しますが、切った木はそのまま持ち帰り割り木と薪(たきぎ)にします。これは次の正月の餅つきに使うのですが、割り木はうら(末)の方に炭を塗って元とうらが区別できるようにしておきます(正月の餅つきではうらの方から燃やすことになっている)。その後、割り木と薪に御飯をお供えして行事は終了します。」

   (b)はたきぞめ

 「1月10日は『はたきぞめ』の日です。かまどと臼の使い初めの日で、この日はあら麦と青大豆を煎(い)り(煎るときは恵方の方角を向いてまぜる)、ひき臼で粉にします。また一方ではもち米のもみを煎り、はじけたところを餅つき臼でトントンとついて粉にします。そして出来上がったら篩(ふるい)(*23)にかけ、もち米の粉は神仏全体に、あら麦の粉はお大師さんに、それぞれカシの葉に盛ってお供えします。その後、わたしたちは木皿に粉を盛り、砂糖や塩で味をつけてカシの葉の先を少しちぎった葉っぱですくってはねました(粉を食べました)。」

   (c)ないぞめ

 「1月11日は『ないぞめ』の日です。この行事は仕事をしてもらっている若い人が来て行いました。鏡餅で雑煮を作り、頭つきの煮干しとともに神様にお供えします。若い人たちが、2本ほどのわらで長さ20cmほどの縄をより、その縄を穴のあいた銅銭(寛永通寶など)に銭通しをして全体の神様にお供えしました。またこの日は、帖(ちょう)(帳)祝いの日でもあり、若水で墨をすり、新しい大福帳をおろし、書きはじめをしました。」

 (エ)松本家の年中行事は今

 現在(平成10年)の松本家の年中行事の様子を千葉県に住む**さんと福見川の家に住む**さんに聞いた。
 「(**さん)子供のころ熱心に行っていた行事ですが、現在、わたしの我孫子の家で継承している行事はほとんどありません。しかし、その時その時に子供たちに話して聞かせ、伝え残していきたいという気持ちは強く持っております。ただ、正月に飾るしめ飾りは、わたしが作り、子供たちにも手伝わせています。また、雑煮は、結婚当初は家内の里の流儀で作りましたが、翌年からは福見川の里の家のやり方で作るようになりました。」
 「(**さん)わたしは年中行事を何もせん家庭に育ち、この福見川の家に嫁いだもんで、年中行事を順々に義父や義母や主人らがするのを見て、こんなに次から次へとあるのかなと感心したものでした。わたし自身は家事が忙しくて直接にはあまりかかわらなかったので、年中行事については子供たちのほうがよく覚えておるんです。行事は続けられたら続けたいなあとは思っていますが、なかなかそうもいかず残念に思っています。今は、餅は昔と同じ12月30日につきますが、機械でついていますし、正月のお飾りは買っております。しかし、神仏を祀ることは今でも心掛けています。年の夜の食べるものも昔のままを守っていますし、若水くみや初もうでもしています。義母は『簡単にしなさいよ。簡単にしなさいよ。』といつも言ってくれてました。」

 イ むら人の集う年中行事

 **さん(松山市福見川町 昭和2年生まれ 71歳)
 **さん(松山市福見川町 昭和2年生まれ 71歳)
 **さん(松山市福見川町 昭和23年生まれ 50歳)
 **さんは現在福見川町の区長として、**さんは、だいば踊りのお先達や盆踊りの歌い手として長年にわたり活躍している。また**さんは、だいば踊りに欠くことのできない小だいばの役柄を20年以上にわたって務めている。この3人にむら人の集う主な年中行事について聞き、**さんに代表して語ってもらった。

 (ア)早春から初夏の行事

   a 峠行き

 彼岸(*24)の中日は、太陽が真東から昇って真西に沈む日である。太陽が真西に沈むことから西方極楽信仰も生まれ、兵庫県のある地方では、この日に午前は日迎えといって東に向かい、午後は日送りといって西に向かって歩く行事があり、熊本県や鹿児島県では山に登る風習があるという(㉔)。
 「峠行きという行事は、真西におひいさん(太陽のこと)が沈むお彼岸の中日に、15歳以下の子供が西の峠(とう)に夕日を拝みに行った行事です。この時期は草の芽も伸びておらずヘビも出ないころで季節としても山歩きをするのに適しており、それぞれの家で、あられとかダイズや雑穀を煎ったものを工夫して作ってもらい、それを袋に入れて肩に掛け、お昼御飯を食べたころから出発したんです。小さい子もいてなかなか大変でしたが、峠に着くと男の子たちは、そこら辺りにある雑木を切って簡単な屋根を付けた小屋を造り、女の子や小さい子を入らしたり、持って来たあられなどを交換し合って食べたりして遊んでおったんです。そして夕日が沈むころになるとみんなで夕日を拝み、早く帰らにゃいけんので、大きい子は、柴馬(しばうま)(雑木を束ねて縛り、葉っぱの付いた部分に人を乗せ引っ張るもの)いうもんを作って帰る準備をし、小さい子や女の子をそれに座らせて引っぱりながら帰って来たんです。この行事は、昭和40年(1965年)ころまでは行われていたような気がします。」

   b 虫祈禱(むしぎとう)

 田植えと田の草取りが終わり稲穂が実るまでの間に虫害が生じる。そのためその虫害を除こうとする行事が各むらでは共同祈願の形をとって毎年くり返されていた。しかし、近年は、農薬の普及などによって虫害が減少し、行事自体も消滅した地域が多い。
 「福見川では、虫祈禱を、土用の入りの三日目にやっております。皆が三本杉のある氏神様に集まってイネの株をお供えし、神主さんに拝んでもらった後に御御供(おごく)(お供えした御飯)や御神酒を頂き、それが終わると下の庵(徳正寺阿弥陀堂)に行き(写真1-1-35参照)、数珠(じゅず)回しをするんです。数珠回しは、大数珠をぐるっと回して中に太鼓たたきと鉦打(かねう)ちのお先達二人が入り、最初に念仏、次に石鎚山の霊文を唱えます。それが済んだら太鼓をささげ、皆が『南無阿弥陀、南無阿弥陀』と唱えながら数珠を回して行くんです。途中に房が来るとそれをいただきながら、くるくると数珠を送るんです。念仏は最初のうちはゆっくりと唱えますが、次第に早くなって20回以上は数珠を回します。なかには、ちょいちょいいたずらするのがいて、『お山が荒れる』と言うて隣の人を数珠でワッといわえたり(くくったり)もするんです。これが終わると皆で一杯やり解散します。各地で残っているような鉦(かね)や太鼓をたたきながら集落の境界線のところまで行き後ろを見ずに帰ってくる虫送りの行事は、子供のころはありましたが、いつの日かやめてしまい、今はしていません。」
 数珠をくることは除夜の鐘をつくのと同じように百八つの煩悩(ぼんのう)を断つことをあらわし、虫送りや雨ごい、無病息災などの祈禱として広く民間に行われている(㉕)。

 (イ)盆の行事、だいば踊り

 だいば踊りのだいば(提婆)は、提婆達多(だいばった)(原名デーバダッタ)の略称で、ブッダ(釈迦)の従兄弟または義兄弟といわれ、出家してブッダの弟子になったが、のちブッダに反逆して仏教教団の分裂を図ったという(③)。したがって、仏教の世界では、だいばは最大の悪人と目されるが、我が国では、鬼の面をかぶり、赤や黒の衣服をまとい、六尺棒や大ささらを持って、祭礼に供奉(ぐぶ)する鬼人のことをいう(㉖)。
 「福見川町のだいば踊りは、今日まで終始変わらず受け継がれてきております。この踊りに使われるお面は、面の裏に宝暦5年(1755年)と銘があり相当古いものです。毎年盆の15日にやることにしてますが、この日は昔から不思議に雨が降らんのですよ。このだいば踊りがむらでは一番大きな行事なんです。
 踊りは、踊りを指揮するお先達(長老)二人が庵に座り、その前に鉦打(かねう)ち2人が立って準備が整うと、長老の合図で、お寺さんから頂いた如来さん(*25)を結び付けた笹を持つ笹持ちが入場し、続いてその笹の下を大だいばと、そろりそろりと小さく回りながら小だいばが入ってきて庵の前に進むんです。庵の前に来たら大だいばが庵に背を向けて立ち、小だいばは正面を向いて大だいばの前に腰をかがめ、両手に持った太鼓のばち(ばちの先10cmくらいを握る)を地面に付けて待つ姿勢をとるわけです。
 全ての準備が整うと、お先達の一人がだいば踊りの由来を述べ、踊りの開始を告げるんです。そうすると、周囲の者が『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀(ナーマイダーブツ、ナーンマイダー)』と唱え始め、それに和して鉦打ちが、鉦を打ちながら『阿弥陀仏、南無阿弥陀(アミダーブツ、ナーンマイダー)』と3拍子ぐらいで念仏を唱えこれを繰り返すんです。一方、大だいばは念仏が始まると、『ハッ』という声を発し、音頭を取ってトテカンテンと太鼓をたたきながら、少しずつ半円状に移動していくんです。そうすると、小だいばはそれに合わして、コテコテと太鼓をたたきながら大だいばの前から下がりながらクルクルクルクルと激しく小回りして踊り、大だいばが太鼓を打ち終わると、小だいばが大だいばの前に腰をかがめる姿勢をとって踊りを止めるんです(写真1-1-36参照)。これが一緒にきちんと合わんかったらいかんのです。この一連の動作を1回として、昔はお先達が数え、75回もやらんといかんかったんです。数え方が厳しゅうて(厳しくて)きちんと合わんと1回に数えてくれなんだです。今はそんなことしてたら踊り手がいないんよ。途中に1回休みを取っとるんですが、そうせんと疲れてふらふらになってしまうんよ。今はある程度合うても合わんでも15回ぐらいすると先達が合図して止めてるんですが、最後は打ち流しいうて、早いリズムで4回から5回太鼓をたたき、止めをするわけです。こんな踊りじゃけん、小だいばは踊りが激しくて若い者じゃないと務まらんのよ。大だいばは、から(体格)の大きい人がなっている。だいば踊りがすんだらちょっと御神酒や供物(御飯)のお下がりが振る舞われますが、これを頂くと夏中無病息災で過ごせると言われているんよ。その後は盆踊りになるんです。踊りはレコードをかけたりはせずに、歌い手が太鼓をたたきながら、ばんば音頭や木山音頭(*26)などを披露し、その回りをむらの人や帰省した人々が踊るんです。昔は変装して踊る人もいて、景品なんかも出していたこともあるんですよ。」

 (ウ)秋から冬にかけての行事、甘酒通夜

 甘酒は、いわゆる一夜酒で、炊いた米に麴(こうじ)を加え、温め蒸らすうちにできる。古くは女性が生米をかみ砕いて、これに麴をまじえて温め醸(かも)したという。祭りの中で、甘酒をつくり供えたり、これを直会の時に重視する「甘酒祭」という祭りがある。また各地では、秋の収穫祭に甘酒をつくる例も多く見られる(㉕)。
 「甘酒通夜は、山の神さんと言うて9月8日にやってる行事なんです。昔は麴を前もって作っておき、前日に区長さんの家でお湯を沸かして麹をつけ、甘酒を仕込んで翌日飲めるように準備しておきます。当日は氏神さん(新宮神社)に集まり(写真1-1-37参照)、甘酒や御神酒を飲んで、昭和40年(1965年)ごろまでは、余興に子供相撲をやったり青年相撲をやったりしてました。子供のころに甘酒を嫌というほど飲んだ覚えがあります。昔この地域は山で潤ってましたが、今は潤いもないけん調子も出んのです。山の木を売ってもうけた人が、お酒など買うて持ってきたりしてにぎやかで、無事に山仕事ができるようにと言うて拝みよったんです。今はやりよりはするんじゃけど昔のようなことはしてません。神主さんを呼んで拝んでもらい御神酒を御披露してるだけです。」


*14 : 新宮神社をさす。松山市道後にある伊佐爾波神社の末社で、境内には松山市指定の天然記念物の三本杉がある。
*15 : 正月は山草(うらじろ)、3月はモモの花、5月はショウブ、普段の神祀りは5枚ついたナンテンの葉を挿す。
*16 : 七垂れ飾りは、1本・5本・3本の藁の垂れの組を7回繰り返す。五垂れ飾りは、1・5・3を5回繰り返す。小飾り
  は、1・5・3を1回して丸める。目飾りは、1本ずつ垂らすが回数は不明。
*17:穀物を入れて上下にあおってふるい、穀物からちりなどを取り除く道具。
*18:餅は正月の食物として欠かせないものと考えられてはいるが、正月にまったく餅を用いない「餅なし正月」の地域もあ
  る。
*19:正月の餅は5日、みんまの餅は4日、法事の餅は2日、その他の祝い餅は3日水に浸す。
*20:どうの口の開閉は、正月の三が日行われる。
*21:神事のあと、神前にささげた神酒や供物を参加者が分かち飲食する行事。
*22:神にささげるもの。裂いた麻やたたんで切った紙を、細長い木に挟んでたらしたもの。
*23:浅い枠の底に網などを張った道具で、網の目を通る細かいものを下に振り落とし選り分ける。
*24:春分・秋分の日を中心に前後3日ずつ、合計各7日間をいう。彼岸という言葉は、仏典から出たもので、仏教の影響が
  かなり濃く、一般に寺参り・墓参りの日とされている。
*25:如来さんには、五如来(施餓鬼会(せがきえ)の本尊とする五体の如来)が書かれている。如来は仏陀のことで、この上
  なき尊い者という意味。
*26:今治地方で歌われた盆踊り唄。今治城築城のさい普請奉行であった木山六之丞が作業員の士気を鼓舞するために歌わせ
  たといわれている。明治以降近郷近在にも普及した。

図表1-1-13 昭和10年代の松本家

図表1-1-13 昭和10年代の松本家

**さんの原図をもとに作成。

写真1-1-32 オタナサン

写真1-1-32 オタナサン

その年の歳徳神がやって来る方向である恵方に棚が移動できるようになっている。平成10年7月撮影

写真1-1-35 庵

写真1-1-35 庵

平成10年10月撮影

写真1-1-36 だいば踊り

写真1-1-36 だいば踊り

平成10年8月撮影

写真1-1-37 氏神さん

写真1-1-37 氏神さん

右に松山市天然記念物の三本杉が見える。平成10年10月撮影