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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 横河原橋と人々のくらし

(1)川を渡る

 本項の内容について話をしてくれた、CさんとDさんは、昭和37年(1962年)に茶堂(ちゃどう)で自動車整備工場を創業している。

 ア 横河原橋付近の景観

 「昭和30年代ころは、私たち(Cさん、Dさん)の会社の前の道路は土手で、『土手松』と呼ばれた松が多く植えられていました。大きな松の木には、ノコギリで切り目を入れて、空き缶を付けて樹液を採っていました。土手沿いの火葬場があった辺りには、穴がたくさん掘られていて、戦時中、そこには航空燃料にするための松根油がドラム缶に入れられて隠されていたようです。戦後にその話を聞いた時には、すでに航空燃料はありませんでしたが、保管していた穴だけは跡として残っていました。太くて大きな松が生えていた景観はすごかったことを憶えています。重信川が氾濫しそうなときには、副堤(内土手)で水害を防ぐようになっていました。私(Dさん)らが子どものころには、実際に水がゴンゴン流れてくることがあったので、そのようなときには土手の松の木を倒して、水が堤防の外に流れ出るのを防いだ記憶があります。それくらい水が流れて来ていました。私(Bさん)は、当時は今より出水(でみず)(川の増水)がよくあったと聞いています。洪水で亡くなった方もおられるようです。横河原橋付近では堰(せき)が切れて、北方(きたがた)の自性庵(じしょうあん)の近くまで水が来たこともあるそうです。
 川が増水して洪水が出そうなときには、木を組んだ中に石を置く『サンマタ』で水の流れを緩めたり、流れを変えたりしていました。昭和5年(1930年)、横河原橋は大正8年(1919年)に造られたそれまでの木橋からコンクリート造りの橋になりました。このコンクリート橋は昭和26年(1951年)の水害で被害を受けて、応急の復旧工事をしながら利用されていましたが、昭和29年(1954年)に落橋してしまいました。その時は、川を流れる水の勢いで橋の基礎部分が順々にえぐられていって、ちょうど橋の真ん中あたりで落ちたのを憶えています。落橋後は、重信川を渡る人や車は、橋の下につくられた通り道を使って川の中を渡っていました。
 私(Bさん)は、横河原橋はコンクリートの永久橋になる前は木橋で、そのころから大雨が降るたびに橋が流れた、と聞かされていました。橋が流れると、その橋を使って行き来していた人は相当不便な思いをしたとも聞いています。松山(まつやま)の女学校(愛媛県立松山高等女学校、現愛媛県立松山南高等学校)へ通学していた親戚の人は、橋がないために川岸で履物を草履に替えて渡ったり、大雨が降って重信川の水量が増したときには、大井川(おおいがわ)の渡しのように人夫さんが担ぐ輦台(れんだい)(旅客を乗せて川を渡るのに用いた台。)に乗って向こう岸まで渡り、そこから横河原駅まで歩いて行ったということが何回かあったと聞いています。
 横河原橋が架けられていないときには渡しがありました。私ら(Cさん、Dさん)の実家は以前木賃宿を営んでいて、私(Dさん)が小さいころには、宿の建物の中に小さな部屋がたくさんあったことを憶えています。川を越えた向こう側(横河原)にも宿屋がありました。恐らく、川を渡ることができないときに、泊まらせるために宿があったのだと思います。」

 イ 交通を遮る重信川

 「横河原橋が壊れたときには、バスは橋の下の川の中を通っていました。当時、茶堂から横河原の方へ橋を渡ったところに建設省の工事事務所があり、そこの敷地が広かったので、その中を通っていたように思います。しかし、水が出たら通ることができなかったので、その場合、バスは吉久(よしひさ)の方を通って、畑川(はたがわ)の橋(表川(おもてがわ)橋)へ迂回(うかい)し、森松(もりまつ)(松山市)へ回って松山(市内)へ行っていました。当時は重信川に架かっている橋が、森松橋(重信橋)と横河原橋しかなかったので、こうするしかなかったのだと思います。私(Cさん)らが松山へ仕事に行っていたときにも、台風が来て橋が流れてしまう恐れがあり、早く帰らないといけないということで、伊予鉄道の汽車で横河原まで帰り、駅から歩いて横河原橋を通ってみると、ドッドッドッと大きな音を立てて川の水が橋を越していました。」

 ウ 横河原橋を渡る車

 「当時(昭和30年代)、この辺りでダンプカーを所有していたのは、建設省の工事事務所くらいでした。昔はバスも何もかもボンネット式のものでした。私(Dさん)は、このボンネット式の大きな車に乗ったことがありますが、今の車とは違って、パワーステアリングなど、運転を楽にするような装置は付いていませんでした。当時はオート三輪が多く走っていました。ウインカーはワイヤー式で、ワイパーは手動でした。ワイパーを動かすためのレバーがフロントガラスの内側にあり、雨の日には車を走らせながらそのレバーを動かして視界を確保していました。また、オート三輪は、自転車のペダルのようなキックペダルでエンジンをかけなければならない構造でした。キックペダルでエンジンをかける車には、エンジンにミッションとつながるチェーンが掛かっていて、ミッションについているペダルを踏み込むことでエンジンをかける構造になっています。まず、チョーク(自動車の気化器で、空気の吸人量を調節する弁。)でガソリンを吸わせて、エンジンがかかる状態にしておいて、そのペダルを上から強く踏み込みます。この操作を『ケッチン』といいます。踏み込み方を誤って、エンジン内のピストンが正常な位置で爆発しなければ、ピストンが逆回転をしてしまい、その動きに合わせてペダルも逆回転するので踵(かかと)にケガをしてしまうのです。踵にケガをしているということは、車を運転することができるという意味だったので、私(Eさん)は『ケッチンするのが男の勲章じゃ。』と言われていたのをよく憶えています。
 昭和30年代に横河原橋を車がそれほど多く走っていたという印象はありません。車が走っているのを見ることがあっても、その数自体は少なく、ほとんど通行がなかったということです(図表3-2-2参照)。当時は木炭車が多く走っていて、バスも木炭車が使われていました。木炭車のバスは、エンジンの下で火を焚(た)いて、エンジンを温めてからスターティングというレバーを回してエンジンをかけていました。私ら二人(Cさん、Dさん)が自動車修理工場を操業した当時は、工場の前の道が横河原橋に向かって坂になっていて、馬力のない車は荷を積むと前輪が浮いてハンドルが効かず、走ることができなくなっていました。ミゼットやマツダの軽三輪がよく走っていたのですが、その三輪にはみんな難儀していたのを憶えています。」

(2)人々のくらしと横河原橋

 ア 国道の整備と人々の往来

 「私(Dさん)が中学生のころに桜三里(さくらさんり)の道(国道11号線)が整備されました。河之内トンネルが完成して開通したのを憶えています。最初は砂利道のままで開通したので、私が新居浜(にいはま)にいた時には、その砂利道を通って川内まで帰って来ていました。道の状態が悪いため、車の運転が難しく、ブレーキを踏んでも車が止まらずに滑ったことがあります。当時、東予(とうよ)の方から河之内トンネルまで帰って来たら、『ああ、帰った。』と言って、トンネルを抜けて、川内から松前(まさき)(伊予(いよ)郡松前町)辺りまで見える景色を見て、『やれやれ。』と思っていました。
 横河原橋が整備されておらず、桜三里を下りてから重信川を渡ることができないときは、川の南側を通って則之内(すのうち)から砥部(とべ)(伊予郡砥部町)へ出て、そこから森松の重信橋を渡って松山方面へ行っていました。横河原橋が整備されたことで、東予から松山へ行くにはものすごく便利になりました。私(Aさん)が子どものころには、横河原橋を使って松山方面と東予方面の行き来があったと思います。私は東予の方に住んでいたので、松山へ行くときには今の県道(県道334号〔旧国道11号線〕)を車でよく通っていたのを憶えています。そのころ、東予の人たちが松山、特に三津(みつ)(松山市)方面へ行くには、海岸線(今治(いまばり)経由)へ回っていたようです。三津の市場へ行く人たちは、重信や川内にはあまり用事がなく、重信川を渡る必要がない今治や菊間(きくま)(現今治市)を通る海岸線をよく使っていたと聞いています。
 桜三里の道(国道11号線)が整備されるまでは、湯谷口(ゆやぐち)(旧丹原(たんばら)町)から山之内(やまのうち)へ抜ける、千本桜が望める道を通ることがありました。私(Dさん)は若いころにこの道を通ったことがありますが、石がゴロゴロしているような道で、車で通るにはとても苦労したのを憶えています。この道は旧丹原町と旧川内町を結ぶ道だったので、丹原と川内の消防が年に一回か二回、ポンプ車を出して共同で消火訓練を実施していました。私(Cさん)はこの訓練に参加したことがあります。旧川内町と旧丹原町は、山と山でつながっているので、消防同士で協定を結んで、火災のときの消火活動や行方不明者の捜索など、山で何か起こったときの協力体制ができていたのです。この道は、松山に住んでいる方が東予方面へ行くときに、森松橋(重信橋)を渡って伊予川内線(現県道23号線)を通って川内町まで来て、金毘羅(こんぴら)参りへ行くのに通っていたこともあるようです。現在の国道11号の桜三里の部分が整備されていないときは、このような山越えをして丹原へ行っていました。」

 イ 橋の近くで遊ぶ

 「私(Eさん)は、当時の重信川には相当な数のヒミズ(ウナギの子)がいて、ウナギが獲れていたのを今でも憶えています。凧(たこ)糸にドジョウを付けて、一晩川の中に置いて引き上げてみると、大きなウナギがそれをくわえて、キリキリ回っていました。また、私が中学一年の時に書いた日記を見てみると、一時間くらいでドジョウがバケツ半分くらい獲れたと書いていました。昔は川で竹編みのジョウレンを使って、ドジョウをすくうことができたのです。また、河原にはツガニ(モクズガニ)がいましたが、先生から、『ツガニはあんまり食べられんぞ。肺ジストマ(吸虫症)になるけん。』と注意されたのを憶えています。」

 ウ 子どもと牛

 「昭和30年代には、農家の多くが牛を飼っていました。私たち(Cさん、Dさん)の家でも農耕用として飼っていました。私らが中学生のころは、学校から帰ると、親から、『草刈って来い。餌をやっておけ。汲(く)み井戸で水を汲んでおけ。』と、牛の世話をするようによく言われていました。預け牛はせずに、一年を通して世話をしていたので、年中、牛に食べさせるための草を刈りに行っていたのを憶えています。
 私(Dさん)が忘れられないのは、牛を連れて河原を歩いていたときに、水を飲ませようと堰堤(えんてい)に入りました。牛は自分の足元を確認しながら歩くものだと思って、牛を引きながら歩いていたら、牛が堰堤の低くなっている所に落ち込んでしまい、身動きをとることができなくなりました。大勢の大人が引き上げの手伝いに来てくれて、無事に牛を引き上げることができましたが、そのときは父親に怒られました。私は牛の扱い方をあまり知りませんでしたし、『犬と同じじゃ。』と勝手に思い込んで連れて歩いていたら、落とし込んでしまったのです。この失敗は、今でも忘れることができません。」

 エ 日常のくらし

 「私たち(Cさん、Dさん)が住む茶堂には、雑貨店、酒店、鍛冶屋、石材店、提灯(ちょうちん)屋、傘屋、散髪屋などの店がありましたが、人々は、横河原橋を渡って横河原へ買い物に行くこともありました。横河原にはデパートのような店があって、そこで何でもそろえることができました。私(Aさん)が田窪(たのくぼ)(旧重信町)に住むようになったころは、横河原の商店街は随分賑(にぎ)やかでした。当時は大きな電器店や衣料品店などがあったので、大体のものは横河原でそろえることができていました。
 魚など、海のものは定期的に『おたたさん』が茶堂まで売りに来ていました。おたたさんは、横河原駅で汽車を降りて、自分のお客さんの所へ売りに行って、帰りは農家で物々交換をして、お米などの農作物を持って帰っていました。森松駅前のトシマという店からアイスキャンデーを自転車に積んで売りに来ていました。自転車に乗って、『アイスキャンデー、アイスキャンデー、森松駅前トシマの赤手ぬぐいですぞー。』と、おらび(大きな声を出し)ながら売っていました。娯楽では紙芝居屋が来ていました。当時、子どもたちの間で人気があった黄金バットなどをやっていたように記憶しています。私(Eさん)が憶えているのは、木偶回(でこまわ)し(人形使い)が徳島の方から来ていたことです。『ととさんの名は阿波(あわ)の十郎兵衛、かかさんはお弓と申します。』という台詞(せりふ)とともに、上演されていたのを憶えています。
 私(Bさん)は昭和42年(1967年)から北方(旧川内町)に住むようになりました。そのころは北方にも行商の方が三津で魚を仕入れて売りに来ていました。行商の方は寄る家が決まっていて、うちにも必ず寄っていました。野菜や魚、その他の日用品などは家の近くに個人の商店があったので、大体そこで間に合っていました。ちょっと自転車で足を延ばせば川上(かわかみ)の町筋に店があり、横河原まで買い物に行く必要はほとんどありませんでした。横河原へ行くのであれば、川上農協前や川上小学校前にバス停があったので、そこからバスに乗って、そのままバスで松山へ行き、用事を済ませた後にデパートやスーパーで買い物をして帰っていました。また、当時は農協に購買部があり、そこで日用品を購入することができていました。私が北方へ来る前には、農協の婦入部が盛んに活動をしていて、それぞれの集落ごとに当番が割り当てられ、各家庭で必要なものをとりまとめて農協へ申し込んでいました。この制度はその後なくなりましたが、砂糖や洗剤など、必要なものをこの農協の購買部を通じて購入していたので、日用品も含めて買い物に不自由を感じることはありませんでした。」

(3)寿電機

 ア 寿電機とナショナル・カラー

 「昭和40年(1965年)ころに旧川内町が積極的な企業誘致を行ったことで、昭和42年(1967年)に寿(ことぶき)録音機株式会社が茶堂に進出してきました。昭和43年(1968年)から生産を開始して、翌44年(1969年)に関連会社が合併して松下寿(まつしたことぶき)電子工業になりました。私(Dさん)は、この松下寿のことを『寿電機。』と呼んでいたのを憶えています。寿電機が進出してきたことで、町内での雇用が増え、町全体が恩恵を受けたと思います。当時は役場に工場で働く人を雇うための専門の担当者がいたくらいです。さらに、寿電機の下請け企業ができるなど、町内にいろいろな工場が設立されました。寿電機の進出によって、茶堂の辺りが開けたのだと思います。私たちも、寿電機が進出してきたおかげで、整備工場の仕事が軌道に乗ったといっても良いくらいです。当時は寿電機が所有する従業員送迎用のバスだけで、12台か13台あり、それらの整備や修理を私たちの工場が請け負っていました。創業当初、私たちの会社は工場が狭く、二輪車の整備を主な仕事としていたので、バスのような全長が長い車を整備に受け入れると、工場に入りきらず、道路にはみ出してしまうので、寿電機のバスを整備するために工場を建て替えました。
 このころはまだマイカー時代が来る前の段階で、寿電機の従業員は、会社が用意した通勤用のバスを利用しないと仕事に来ることができませんでした。松前方面や堀江(ほりえ)(松山市)方面などからの路線があって、それらに乗って仕事に来ていました。従業員用のバスは、赤・青・白のナショナルのコーポレートカラーで、そのバスがどこにいても分かるように、目立つ塗装が施されていました。この塗装もすべて私たちの整備工場でさせてもらいました。ナショナルのカラーできれいに塗装をするのでバスの外見はきれいになりますが、中古の観光バスを購入して使っていたので、走行距離がかなり多く、いろいろな所が傷んでいたので、しっかりと整備をさせてもらいました。私(Eさん)は、シャトル便のように多くのバスが工場を発着する様子を見て、『すごいなあ。』と思ったことを憶えています。」

 イ 通勤バス

 「寿電機のバスは朝の出勤の時間帯になると、方々からどんどん来ていました。夕方、仕事が終わって従業員が帰るときには、敷地内にバスがずらっと並んで、順番に各方面へ向けて出発していました。川内町内便は小さなバスで、堀江方面は大型バスで、というように、行き先別にバスの規模が決められていたように思います。当時、この送迎バスは国道11号を通っていました。朝の通勤時間帯と夕方の帰宅時間帯は、バスが通る道は国道11号一本しかないので、かなり混んでいました。
 また、送迎バスの運転手が不足していたようで、運転手が寿電機の重役を社用車に乗せて、本社がある高松(たかまつ)市(香川県)へ行って、帰って来るのが遅くなるようであれば、私たち(Cさん、Dさん)が帰りのバスの運転手をしていました。このようなこともあったので、私たちは寿電機から運転手用の制服を貸与されていました。私らはバスの運転はできますが、従業員を降ろすのに、どこでバスを停めればよいか知りませんでした。路線バスの停留所ではない所にも停める必要があったので、バスに乗って帰宅している従業員に、運転しながら、『停まるときは言うてくれ。』と言って、従業員に『ここで停まって。』と言われないと停留所が分からなかったのです。仕事上、大型車に乗っていたので、運転は何とかできましたが、路線に慣れていないし、停留所を知らないので、必死になって運転していたのをよく憶えています。」

図表3-2-2 川内町の自動車等保有台数

図表3-2-2 川内町の自動車等保有台数

『川内町誌』から作成。