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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 国道11号の改修前後の交通

(1)国道11号の改修前

 ア 大変だった通学

 「私(Aさん)が中学に入学した時は、まだ三内(みうち)中学校(旧川内町立三内中学校。昭和33年〔1958年〕に町内の4中学校を名目統合し、川内中学校と改称)の校舎ができておらず、1年間は東谷(ひがしだに)小学校(現東温市立東谷小学校)の校舎の一部を借りていました。根引峠を越えて東谷小学校まで、徒歩で片道1時間くらいかけて通学していました。
 昭和24年(1949年)に、安国寺(あんこくじ)の隣の、今は老人ホームが建っている場所に新しい校舎が完成すると、男子生徒のほとんどは自転車で、女子生徒は徒歩で通学していました。今のように自動車の性能も良くなかったので、荷物を積んだ車が私たちの前を通って行くと、自転車で追いかけて車の後部をつかんで、車に引っ張ってもらって坂道を登ったりしました。通学距離が長いので、ほとんどの人はクラブ(部活動)には入らず、授業が終わればすぐに下校していました。落手隧道辺りに住んでいる人の中には、滑川(なめがわ)中学校(昭和)へ通学していた人もいましたが、それでも通学に片道30分くらいはかかっていたと思います。」

 イ 難所だった旧国道の檜皮峠越え

 旧国道の桜三里は、標高310mの檜皮峠を越える延長14.4km、幅員約4.0mで、100か所以上のカーブがある、ドライバー泣かせの難所であった(①)。
 「当時(昭和30年代末ころ)、旧国道は道幅が狭かったので、大型車同士だと離合ができませんでした。車の衝突事故や転落事故が時々あり、地元の方の荷馬車の馬が、旧国道の中間くらいの地点で、谷に転落するという事故もありました。路線バスが通行するたびに、バスの窓ガラスに、伸びた木の枝が当たっていました。交通量は少なく、中学(三内中学校)への通学途中、車1台か2台と出会うかどうかという程度でした。路面は砂利道で舗装されておらず、晴れの日は少し土埃(ぼこり)が立ちましたが、車の通行が少なかったので、それほどひどくはありませんでした。雨の日に自転車で通行していたときには、砂利道が走りづらくて転んだこともありました。旧国道がアスファルトで舗装された時期の方が、檜皮峠に東温市の斎場ができた時期(平成7年3月に完成)よりも早かったと思います。」

 ウ 国道11号の改修工事

 「工事は、昭和29年くらいから始まって、完成までに10年近くかかったでしょうか。私(Bさん)は、伊予鉄バスに勤める前に、3年ほど建設会社で働いていて、国道11号の建設工事にも従事しました。ダンプカーに乗って、路面に砂利を敷いたり、土止めの壁を造るための砂利を運んだりしました。土谷辺りに住んでいる人の中には、国道工事の仕事に関わっていた人が結構いました。この辺りを工事関係の車が通っていましたが、それによって生じる土埃はそれほどひどいものではありませんでした。」

(2)国道11号の改修後の交通事情

 ア コンクリート舗装だった路面

 「国道11号が完成したころは、路面はコンクリート舗装だったと思います。アスファルト舗装に比べて、コンクリート舗装の路面は、車での乗り心地が良くありませんでした。当時は、地盤がしっかりと固められていなかったからだと思いますが、道路の舗装の継ぎ目に段差ができていました。そのため、バスが継ぎ目の上を走ったときは、『ドンドンドン』と音がして、振動も大きかったです。コンクリート舗装からアスファルト舗装に変わってからは、乗り心地がずいぶん良くなりました。
 また、昔のバスは、サスペンション(自動車などで、路面からの衝撃や振動をやわらげる装置)に、トラックが使用するような板バネを使っていました。板バネのサスペンションだと、衝撃をあまり吸収してくれないため、乗り心地が悪かったのを憶えています。車の性能が向上し、バスにエアサスペンション(エアバッグまたはエアシリンダーを装着し、圧縮した空気により振動を吸収するもので、乗客数が変わっても車高を一定に保つ。)を使用するようになると、コンクリート舗装の路面を走っても、振動は以前ほどはひどくなくなったように感じました。」

 イ 地域の重要な足だったバス

 「昭和30年代、土谷辺りの集落の人にとっては、バスが唯一の交通機関でした。松山から東予(とうよ)方面へのバス路線は、伊予鉄バスとせとうちバスが共同で運行しており、伊予鉄バスの路線は松山から湯谷口(ゆやぐち)(旧丹原町)までで、湯谷口から東はせとうちバスの路線だったと思います。国道11号の改修前は、バスの本数も少なくて不便でしたが、改修後は本数も増えて、便利になりました。買い物は、川上の町筋(ちょうすじ)(商店街)へ行くことがほとんどでした。川上へ行けば、一通りのものは買うことができました。
 私(Aさん)が若いころは娯楽もそれほどなく、親から千円をもらって、バスで松山へ出かけて、映画を観たり、御飯を食べたりするのが楽しみでした。映画を観に行く際に、川上の名越座(なごしざ)へ行くこともありましたが、大街道(おおかいどう)(松山市)辺りに行くことが多かったです。朝、松山へ出かけて、映画を観るなどしてから帰宅すると、決まって日が暮れていました。
 昭和40年(1965年)過ぎには、路線バスの本数は30分おきに1便で、新居浜(にいはま)発松山行き特急バスのほとんどの便は、利用客で満員でした。利用客の多くは、松山のデパートなどへの買い物客だったと思います。その後、バスの利用客が減少し、今では、路線バスの本数は1時間おきに1便という状態です。現在では、路線バスの利用客の大半は、お年寄りか、通学で利用する高校生だと思います。」

 ウ 所要時間の短縮

 「国道11号ができて、私たちの生活も便利にはなりました。旧国道では、せいぜい時速40kmそこそこでしか走れませんでしたが、国道11号では、車では時速50kmくらいで走れるようになりました。この辺りに住む人は、仕事や買い物に、ほとんどの人が松山方面へ出て行きます。さらに、新しい国道11号(以前の国道11号バイパス重信道路、4車線供用)もできて、道路が混んでいなければ、土谷辺りから松山市内まで車で50分ほどで行けるようになり、時間的に大分短縮されました。」

 エ 多かった国道11号沿いのお店

 「国道11号の改修後は、則之内辺りから桜三里にかけての道路沿いに、ドライブインや食堂、簡易宿泊所などがずいぶんできました(写真3-1-4参照)。昭和40年 (1965年)ころ、河之内隧道と落手隧道の中間点辺りに、お城の形をしたドライブインができました。ドライブインの閉店後、そこは個人経営の食堂となった時期があり、現在は、レストパーク桜三里となっています。何軒かあった個人経営の食堂も、昭和50年(1975年)ころから閉店するところが増えて、松山インターチェンジの開通後は、そのほとんどが閉店してしまいました。また、国道11号の改修後に、次々とできた簡易宿泊所は、多い時期で4、5軒ありましたが、今では1軒だけになりました。」

 オ 降雪による影響

 「昔は、今よりも雪が降ることが多かったのですが、よほどの雪でなければ、バスが運休になることはありませんでした。新居浜行きなどの山間部を通行する路線は、雪が降ることが多かったので、私(Bさん)もタイヤにチェーンをよく巻きました。会社勤めの終わりころ(平成7年ころ)には、冬場になると、タイヤをスタッドレスタイヤなどの冬用タイヤに替えるようになり、チェーンを使わなくなりました。また、国道11号の改修後も、降雪による渋滞で、車が進まなくなることはよくありました。
 川内インターチェンジの開通後、国道11号が渋滞するのは、雪が降ったときや事故が起こったとき、松山自動車道が通行止めになったときくらいです。高速道路(四国縦貫自動車道)が開通しても、この辺りのくらしには大きな影響はありません。」

 カ 国道11号改修後の旧国道

 「檜皮峠のノシガ谷という所に人家が2軒あり、その家の付近にはお店もありましたが、昭和30年(1955年)過ぎに閉店してしまいました。現在、檜皮峠には産業廃棄物の埋立処分場があり、普段は関係業者の車両が旧国道を通るくらいです。国道11号を通った方が所要時間も短いので、地元の人でも旧国道を通ることはめったにありません。冬場に雪が降ったり、路面が凍結したりして国道11号が渋滞したときに、旧国道を通って帰宅することがあるくらいです。」

写真3-1-4 桜三里沿いで営業していた食堂

写真3-1-4 桜三里沿いで営業していた食堂

東温市河之内。平成27年2月撮影