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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 里のくらしと牛耕

(1)里のくらし

 ア 買い物の思い出

 「下林には雑貨店が3軒、伽藍(がろ)と別府(べふ)と宮之段(みやのだん)にありました。私(Hさん)が小学生のころには、それらのお店でパンやうどんを買うときには、代金を払うのではなく、家で収穫した小麦と交換してもらっていました。親が小麦を私に渡して『これでパン買(こ)うといで。』と言っていたのを憶えています。豆腐も大豆を持って行って換えてもらっていました。パンやうどんを作るには小麦、豆腐を作るには大豆が必要なので、お店にとっては原材料が安く手に入り、都合が良かったのだと思います。私は、お金を払わずに物々交換をするお使いがとても嫌でした。子ども心に、『どうしてお金をくれんのじゃろ。』と思いながらお使いに行っていましたが、親も自分が買い物へ行って、『お金がない』と店の人に思われてしまうのが嫌だったのだと思います。学校で必要な学用品もその雑貨店で購入していました。橋(上(かみ)重信橋)ができて、重信川の向こう(北岸)へ行きやすくなると、珍しいものは横河原(よこがわら)の商店街へ行って購入していました。当時は、『横河原へ行けば何でもそろう。』と言われていました。
 私(Gさん)は上重信橋をあまり使わなかったので、橋ができたことによって、生活圏が劇的に変わるということはありませんでした。どちらかというと、川の南側を松山(まつやま)へ向いて行き、森松(もりまつ)(松山市)で買い物をしていたように思います。私が小学生のころ、乗り物が好きだった父親がラビットというスクーターを購入した時には、後ろに乗せてもらって靴や服、ナップサックなどを買いに行っていました。ダットサンという車を購入してからは、森松へ行って、そのまま松山の中心商店街まで買い物に行っていました。柳井町(やないまち)(松山市)へ車で連れて行ってもらうと、洋服店の店先に、かわいらしい服を着たマネキンが立っていて、それを見て服を買ってもらったことを憶えています。下林で川を渡らずに森松へ、というのも買い物の手段だったように思います。」

 イ おたたさん

 「海産物を売る『おたたさん』が、松前(まさき)(伊予(いよ)郡松前町)から伊予鉄道の列車に乗って来ていました。当時、私たち(Gさん、Hさん)は、おたたさんのことを『おばさん』と呼んでいました。おばさんには、おばさんごとに縄張りのようなものがあるようで、家に来る人は決まった人でした。家に誰もいないときでも勝手に台所へ入って、必要になりそうなものを勝手に置いて帰っていました。私(Gさん)の家に来ていたおばさんは、家に入って勝手に御飯を食べていたことがあります。私が家へ帰ってお昼御飯を食べようとすると、私の分の御飯がなく、おばさんに、『御飯もろうて(もらって)食べよるよ。』と言われたことがあります。恐らく、私の祖母が、『お食べお食べ。』と言って勧めたことがその始まりではないかと思います。ほかの家ではそのような話は聞かないので、私の家だけのことだと思います。
 私(Hさん)の家は農家でしたから、おたたさんへの支払いは、お盆と節句という感じで、それまでの分をまとめて支払っていたようです。支払いは、おばさんが売った商品を書き記したノートを基にされていました。ノートにはタコが1、竹輪が2など、販売したものがきっちりと書かれていました。目の前で売買するわけではないので、おばさんが記帳していたものを信用して支払っていたように思います。おばさんは生鮮の魚だけではなく、何でも持っていました。イリコやカツオ節、松山揚げも売っていました。お菓子も持っていて、子どもに『お食べ。』と言って、キャラメルを渡しては、それもちゃんとノートにつけていました。私(Iさん)は親から、『おたたさんからお菓子をもらって食べないように。』と、注意をされたことがありました。」

(2)農作業と子ども

 ア 子どもの仕事

 「田んぼの仕事では、子どもにもしっかりと分担があり、私たち(Gさん、Hさん)は、よく稲刈りを手伝いました。稲刈りには鎌を使っていましたが、子どもでも器用に鎌を扱っていました。親も、子どもは手伝うのが当然、という感覚で鎌を持たせていたし、親の刈り方を見ていればできると思っていたようで、刈り方を教えてくれることはなかったので、見よう見まねでやっていました。私たち自身も、鎌を持つことが危ない、という感覚はありませんでした。稲を刈って、藁(わら)で縛って、稲木(いなき)にかける作業までしていました。
 籾摺(もみす)りには籾摺り機を使っていました。機械を持つ農家に借りて作業を行うので、機械とエンジンをそれぞれ2台の大八車に載せて家まで持って来る必要があったため、借りる側も大八車を引きに行っていました。籾摺り機は大八車に据え付けられていて、車輪を取り外したらそのまま使えるように工夫されていました。車輪を外すときには大八車の手木(てぎ)を持って、外した後に大八車をそっと地面に置くようにしないといけないので、一気に落とさないように、『手木を押さえとけ。』とよく言われていました。籾摺り機を動かすには手回しでエンジンをかけて、エンジンと機械をベルトでつなぐ必要があります。エンジンは、すぐにかかるものではなく、扱うことに慣れている大人でも、一回でかかることはめったになかったので、気合を入れて何回もエンジンをかける作業をやっていました。エンジンがかかると、タンタンタンとすごく大きな音を立てていました。当時は籾を乾燥させるための乾燥機がなく、自然の日光で干さなければならなかったので、田んぼや家の周りで筵(むしろ)干しをしていました(図表2-2-4参照)。田んぼや家の庭先にはそのための筵がたくさん敷かれていたのを憶えています。親から『学校から帰ったら筵の籾を均(なら)しとけ』と、よく言われていたので、しないといけない仕事だと自覚していました。普段の日常の中に、子どもの役割がきちんとあったので、それをしっかりとやっていたということです。
 私(Hさん)が中学生のころには、考査で学校が午前中で終わるときには、『半日は試験じゃけん手伝えん。半日は手伝うけん。』と言って手伝っていました。当時は機械がなく、ほとんど手作業だったので、稲刈りでもすべての作業を終わらせるのに10日くらいかかっていました。毎日、『またか、またか。』と思うくらい続いていました。稲刈りは一株一株を手で刈って、刈り終えたらそれで終わりではなく、稲木にしないといけないと思って、必死に手伝いました。本当に農作業の手伝いは大変でした。自分白身が勉強しながら一生懸命に農作業を手伝ってできたお米だったので、お米はもちろん、食べ物を大切にしたのだと思います。」

 イ 農作業を支えた子ども

 「小学生のころには、農繁休業というのはありませんでしたが、私(Gさん)は長女だったので、高学年のころから農繁期には家族全員分の食事の支度をしていました。5年生くらいになると、家庭科の授業でいろいろなメニューの食事を作る調理実習が行われたので、そこで作り方を習ったメニューを家でもう一度作っていました。当時は、農家の長女だから家のことを任されるということは、仕方のないことだと思っていました。食事の準備以外に、薪(まき)を使ってお風呂沸かしもしていました。私(Hさん)の家では父が山から薪にするための木を切ってきて、冬の間に焚(た)き物にして、家の敷地内の焚き物小屋にたくさん積んでいました(図表2-2-4参照)。
 お風呂を毎日沸かすことはありませんでした。当時は水道がなかったので、川の水をバケツに汲(く)んで風呂に入れていました。家の庭に小さな池のような貯水池を掘って、そこに川の水が流れ込んできていました。そこでバケツ一杯に水を汲んでお風呂まで運んでいました。しばらく川の水をお風呂で沸かしていましたが、井戸からお風呂までパイプをつないで、手押し式のポンプで水をお風呂に送ることができるようになったので、本当に楽になりました。子どもにとってしんどい仕事が一つ減ったということです。お風呂を沸かしてから、湯加減を調節するのも子どもの仕事でした。吹き竹で釜口から空気を送り込み、薪の燃え具合を調節していました。私(Gさん)の家には祖母がいたので、私らがお風呂に水を溜(た)めたら、湯加減を調整する仕事は、祖母が自分の仕事のように行っていました。お風呂を沸かす火で焼きイモを作ったりしたのも良い思い出です。」

(3)牛耕

 ア 餌を与える

 「戦前の話になりますが、私(Fさん)の家には牛が4頭いたことがあります。家の敷地内にある納屋の駄屋(だや)ばかりでなく、所有する近くの田んぼの隅にも牛小屋が建てられ、2頭ずつ入れられていました。戦後も牛を飼っていましたが、昭和30年(1955年)を過ぎたころから飼うことがなくなりました(図表2-2-5参照)。
 牛を飼っていたころ、子どもだった私にも牛の世話が任されていて、学校から帰ってからは、餌を与えるのが主な仕事でした。餌にする藁を切り、それを駄桶(だおけ)(牛馬などに飼料を与えるための桶、かいばおけ)に入れて、畔(あぜ)で刈った草と炊いた麦を、『桶の三分の一ぞ。四分の一ぞ。』と父親に言われるとおりに混ぜ込み、さらに糠(ぬか)を振りかけて作っていました。藁と麦の配分を間違えると、ぜいたくな牛(餌を選り好んで食べる牛)は、麦のところを食べて、あとは残してしまいます。こうなるとよく父親に叱られていました。もし、藁だけが残っている状態になるのを見つけたら、叱られないように、牛に全部食べさせようと、藁が残っている駄桶に糠を追加して振りかけて、きれいに食べさせていました。私が牛に餌をやっている時間帯に、近くのお宮(築島(つきしま)神社)の方から友だらが遊んでいる声が聞こえてくることがありました。楽しそうにしている声が聞こえたので、私も行きたい気持ちになって、いやいや仕事をしていると、姉に『どうせするんじゃけん、いやいやするな。』と叱られたことをよく憶えています。」

 イ 牛の成長を願う

 「私(Fさん)の家では、飼っていた牛を、一年中家で世話をしたこともありますし、久万(くま)(現久万高原(くまこうげん)町)の方へ預けたこともあったと思います。田植えの準備が終わると、麦を蒔(ま)く時期まで牛は使わないので、夏の時期に預けていたように思います。父はよく、『野尻(のじり)(旧久万町)の牛市へ行って来る。』と言って出かけていました。久万へは久谷(くたに)(松山市)から入り三坂(みさか)峠を越える、遍路道、土佐街道を通って行っていたように記憶しています。父自身は牛には大変詳しく、目利きができていたし、博労(ばくろう)(牛の売買などを仕事としていた人)さんがよく家に出入りしていたので、牛の売買が盛んに行われていたのだと思います。その父の影響からか、私も牛の目利きをすることができます。恐らく、今でも牛を見たらこの牛が良い牛だ、というのは分かると思います。父はよく、『この牛の後ろ拭(ふ)け。(牛のお尻に付いている排泄物(はいせつぶつ)を)除け。』と言っていました。私は父の言葉を受けて、子どもにはすごく大きく感じられたブリキのタワシで、牛のお尻にこびり付いた排泄物を引っかいて削るようにして落とし、普通の毛のタワシで磨き上げていました。お尻以外の首回りなども普通のタワシで磨いていたように思います。排泄物が取れた牛のお尻は、磨きあげることによって艶が出て、お尻の形がはっきりとします。牛は丸いお尻をしていた方が良い評価を得られるので、野尻の牛市で取引をするときに、少しでも良い評価になるように磨き上げていました。牛市で良い牛を買って帰り、餌を与えながら大切に育てていきます。飼い始めてからある程度経(た)つと、牛に肉が付いて大きくなってきます。すると父は、『ああ、良かった。これは神戸(こうべ)行き。神戸行きになるのう。』と言うのです。これは神戸牛として高く売ることができるということを意味していました。当時、重信川を渡って、田窪(たのくぼ)駅(現牛渕(うしぶち)駅)へ行くと、そこには牛の重量を量るための計量機がありました。父が飼っている牛を連れて計量に行くときに、『一緒に行くか。』と言ったので、父親について行ったことがあります。計量機で重量を量って、良い牛になっていることが分かると、父はとても喜んで、一緒について行っていた私に、『キャンディ買(こ)うてやろう。』と言って、買ってくれたのを憶えています。その時、父は牛の成長に本当に満足していたのだと思います。
 春祭りでは御神楽がありました。その御神楽では最後に鬼がパッパと笹を投げます。当時、『その笹を牛にやったら、牛がよう(よく)育つ』という言われがあったので、子どもはその笹を一生懸命に拾い、うまく拾うことができたときは喜んで家に持って帰って牛に食べさせていました。アイスキャンディーを買ってもらうためだけではないのですが、子どもも立派な牛に成長するよう、一生懸命に世話をしていたのです。」

 ウ 牛を使う

 「私(Fさん)が牛を使って田畑で作業をしたのは、麦を蒔く時期に、コロガシを牛に引かせて、耕した畑に残る大きな土の塊を壊していくときでした。コロガシは、木の塊に鉄の杭(くい)が打ち込んである農具で、それを牛に引っ張らせていました。犂(すき)で大きく耕した土は硬く、麦を蒔くのには適当でないので、コロガシを使って土を砕いていました。このコロガシ自体は重く大きなものですが、牛が引くと回転してコロコロと転がり、力のない子どもでも作業ができたので、私の仕事になっていました。ただ、一度だけこの仕事で失敗したことがありました。ある、日が暮れかけた時に、父親から『これだけはやっとけ。』と言われたので、早く作業を終わらせようと、牛に声を掛けたり、鞭(むち)で叩いたりして急がせていました。牛は一生懸命にコロガシを引いていましたが、端まで来たらコロガシを付けたまま畑から逃げ出したのです。私は驚いて牛をなだめて、それからは作業を急いでいても優しく扱うようにしました。最初に大きな牛で土を耕すのは、牛の扱いに慣れた人たちでした。私は一度、最初の耕しを任されたことがあります。私は畑の土を耕す順路を憶えておらず、どのように畑の中を通ったら良いのか分かりませんでした。それで兄に、『どう行くんかなあ。』と聞くと、『牛が憶えとるけん、引っ張ってもらえ。』と言うのです。田畑の仕事に慣れた牛になると、土を耕す順序を理解しているようで、効率よく勝手に動くので、左右に動かすために声を掛けながら、ただついて歩けばよいだけでした。牛を思い通りに動かすには掛け声とそれに応じた縄の使い方が必要でした。例えば、牛には鼻木(はなぎ)(鼻環)がついているので、『へセ。』と言いながら鼻木に通してある縄を右へ引っ張ると右へ曲がり、向きを左へ変えるには、『ハセ。』と言いながら牛に縄を叩きつけるようにすると、その縄が牛の胴体や首に当たって向きが変わっていました。止まっている牛を歩かせるには『ホイッ。』と声を掛け、もっと速く歩かせたい場合には、さらに『ホイッ。』と言います。もし、声を掛けても歩くスピードが速くならない場合には、縄の端か手に持っている鞭でお尻を叩きます。歩く牛を止める場合は『ドウ、ドウ。』でした。私の出す指示をよく聞くように、普段世話をするときからよく話しかけるようにしていました。」

 エ 女性にとっての牛

 「稲作では、男の人が土起こしや代かきで牛を使っていました。牛には犂が付けられて、ゆっくりゆっくりと作業をしていたことを憶えています。たまに牛が言うことを聞かずに動かなくなったら、鞭で牛のお尻を叩いていました。牛を上手に使うために、『ドウ、ドウ。』など、その人その人の掛け声があったように思います。牛にも個性があったので、それに合わせて声を掛けていたのだと思います。ただ、女の子にとって、牛にはあまり良い思い出がありません。
 まず、においです。餌として与えるために、麦の二番(人が食べない、製品にならない麦)を炊いていたので臭(くさ)いのです。私(Hさん)は、あのにおいを今でも忘れることができません。食欲が減退する、すえた(飲食物が腐ってすっぱくなる)においというか、発酵する前のにおいというか、このにおいがすごく嫌でした。この餌にレンゲや藁を刻んだものを混ぜて朝晩与えていました。餌は、土で造られたおくどさん(かまど)で炊いていました。かまど自体も大きなものでしたが、お釜もそのかまどに合わせた専用のものを使っていたので、かなり大きかったのを憶えています。餌を炊くのは大人の仕事で、その餌を与えるのにも女の子は関わりませんでした。ただ、においが嫌だから、というだけではなく、餌をやるときには小屋の中の牛が近づいてきて、目の前まで来るので危険で、牛を突いて小屋の端の方へ追いやってから与えないと怖いものだったのです。
 牛を飼う家には駄屋と呼ばれた牛小屋がありました(図表2-2-4参照)。私(Hさん)が子どものころ、その駄屋から牛が逃げ出したことがありました。牛は駄屋から出ると走り出すので、度々逃げ出して走っている牛を見ました。駄屋には鍵らしきものはなく、扉を簡単な棒で留めているだけなので、牛が角で突いたら簡単に外れて出られていました。牛が逃げると、『牛が逃げたぞ一。』と大声で叫びます。そうすると集落の人々が大勢集まって、日のあるうちに捕まえていました。牛は黒いので、暗くなったらどこにいるのか分からなくなるのです。
 牛は一年中家で世話をしていました。森之木(もりのき)には博労さんがいました。博労さんは牛を飼っている農家を訪れて、その時飼っている牛にお金を足して若い牛に買い換えることを勧めていました。牛は高価なもので、めったに買えるものではなかったので、家で大切に飼っていました。私(Gさん)の記憶では、昭和30年前後に耕耘機が導入され始めて、徐々に牛を飼う農家が減っていきました。私たちのような女の子にとって、牛は怖い生き物だったので、いなくなっていくことがうれしくも感じられました。牛は昼も夜もよく角で牛小屋の壁を突いてドンドンと音を鳴らしていました。私(Hさん)はその音が鳴るたびに、怖くなって両親に『あれ、逃げせんの。』と尋ねていたことを憶えています。牛を飼っていたときには、蝿(はえ)や排泄物などで牛小屋が不衛生な状態になり、夏には駄屋から独特の臭(にお)いがしていました。子ども、特に女の子が牛の駄屋に入るのは危ないことだったので、排泄物の処理なども大人が行っていました。牛の駄屋は敷地の中のスペースとしては結構な広さがとられており、駄屋の中では牛をひもで繋(つな)いでいなかったので、牛は駄屋の中をグルグルと歩いて回っていたのを憶えています。」

(4)里の農業

 ア 山の恵み

 「牛を飼っていない農家、特に女の人だけで農業をやっているような家庭は、近所の農家に頼んで農作業を手伝ってもらっていました。私(Hさん)が小学生、中学生のころには、この辺りでも果樹栽培が盛んになってきたので、夏休みになるとミカンを植え付けるために山へ草引きに行っていました(図表2-2-6参照)。草を引きながら、親に『何植えるん。』と聞くと、『ミカンを植えるんじゃ。』と教えてくれました。大人はミカンの木を植えるために、山を耕して土中の木の根などを取り除く作業をしていました。子どもは専ら草引きでしたが、ご褒美に山に植えているスイカを食べさせてもらえるので、喜んで手伝っていました。ミカンを植える山は自宅から距離があったので、朝早く出て農作業をして、昼食をとりに家まで帰る時間がもったいないということで、両親が飯ごう炊さんをしてくれていました。父親が傍に生えている竹でお箸を作ってくれて、白米を炊いてくれたり、ゴボウやニンジン、シイタケなどをたくさん入れた炊き込み御飯を炊いてくれたので、私(Gさん)は親と一緒に山へ農作業に行くのが楽しみでした。そのとき食べたお昼御飯はとてもおいしかったのを今でも憶えています。両親にとってみれば、遠くの山へ行って農作業を手伝ってくれる子どもに楽しい思いをさせたい、という気持ちがあったのだと思います。
 また、私(Hさん)の家の近くではモモを栽培していて、その辺りのことを『モモバタケ』と呼んでいました。私(Gさん)が子どものころには近くの山でマツタケを採ることができていました。本当にたくさん生えていて、収穫したマツタケを宮之段の公民館へ持って行くと、業者の方が買い取ってくれていました。自分たちが炭火で焼いて食べるにも、『もういらん。』というくらいは採ることができていました。あのころは本当によく採れていたので、地元に住むことで得られる特権のように思っていました。」

 イ 鶏の思い出

 「鶏は各家庭に何羽ずつかはいました。養鶏を仕事として行っていたのは記憶にありませんが、飼っている鶏で卵や鶏肉は自給自足していました。鶏はヒヨコから飼って育てていきます。ヒヨコの時は、かわいらしくて、餌やりなど、世話をするのが大好きでした。餌は農協から購入した米のクズや、野菜の葉っぱを朝晩与えていて、餌やりは鶏に成長してからも子どもの仕事でした。学校の先生に宿題として提出していた家の手伝い記録には、いつも『鶏の世話』と書いて出していたのを憶えています。鶏小屋は家の裏に、ヒヨコ用の小さなものを作ります。電球を吊(つ)るして、電球の熱が暖房になるようにしていました。成長して鶏になると鶏小屋に移して世話をしていましたが、自給自足なので、最終的には卵を産まなくなった親鶏を食べていました。鶏をさばく様子は今でも忘れることができません。私(Hさん)の祖父が家の裏の松の木に鶏を吊るして、怖いことに首を先に切るのです。そうすると、切られた首から血が勢いよく吹き出ていました。怖いと思って、鶏をさばくときには見えない所へ逃げていましたが、食卓に出されると何事もなかったかのように食べていました。」

 ウ 養蚕の名残

 「養蚕は、私(Gさん)が子どものころにはあまりしていなかったように思います。ただ、夏休みに蚕を繭にまでする宿題が出たので、育てた記憶があります。蚕を育てている時に、親から『蚕に食べさせる桑の葉っぱは、濡れていてはいけない。』と言われ、葉っぱを一枚一枚丁寧に拭いた記憶があります。その当時、養蚕はそれほどされていませんでしたが、桑の木はあちこちに生えていたので、桑の葉っぱを手に入れるのは容易でした。桑の実がおいしいのでよく採りに行ったのを憶えています。繭を作るときには、お菓子の箱に仕切りを付けて、養蚕のキット(道具一式)を自分で作っていました。当時、家には祖母が使っていた撚糸(ねんし)機がありました。子ども心に『あれは何をする道具なんだろう。』と不思議に思っていましたが、養蚕を行っていた名残だと思います。」


<参考引用文献>
①川内町『川内町新誌』 1992

<第2章の参考文献>
・重信町『重信町誌』 1975
・朝倉書店『日本図誌大系 四国』 1975
・愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門「砥部町の地理共同調査」 1977『愛媛の地域調査報告集』 1980所収
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 1984            
・川内町老人クラブ連合会『ふる里の記録 くらしの思い出篇』 1984
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ 東予東部』 1988
・旺文社『愛媛県風土記』 1991
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・川内町『川内町新誌』 1992
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・東温市地域調査委員会(愛媛県高等学校地理歴史・公民科教員)『東温市の風土と人々のくらし』 2009

図表2-2-4 農家見取り図

図表2-2-4 農家見取り図

聞き取りをもとに作成。

図表2-2-5 旧重信町における使役・肉用牛の飼育頭数推移

図表2-2-5 旧重信町における使役・肉用牛の飼育頭数推移

『重信町誌』から作成。

図表2-2-6 旧重信町におけるミカンの栽培面積・収穫量推移

図表2-2-6 旧重信町におけるミカンの栽培面積・収穫量推移

『重信町誌』から作成。