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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 牛渕のくらし

(1)人々のくらし

 ア 商業的作物の栽培

 「牛渕は、もともと水に恵まれなかった所なので、タマネギやスイカなど、水をそれほど必要としない作物の栽培が始まりました。牛渕でタマネギ栽培が始まった時期は早く、玉ネギは木箱詰めで釘打ちして出荷していました。昭和32年(1957年)にはイチゴ栽培、同37年(1962年)にはビニールハウスでのカーネーション栽培が始まりました。昭和30年代、牛渕のトマトやイチゴの出荷量は、旧南吉井村の中でもトップクラスでした。当時は、県内でもイチゴ栽培をやっている所はそれほどありませんでした。
 牛渕は平坦地が多いので、ミカン畑はそれほどありません。県営団地の横にはミカン畑が今でも残っていますが、そこにミカンが植えられたのは昭和30年代半ばです。ほかには、重信川河川敷の、現在の工業団地辺りで果樹栽培がされていました。元々あそこは畑というより松林で、戦後、私(Dさん)もそこに松林を切り開いてミカンを植えましたが、私以外にも何軒かの農家がミカンを作っていました。そのころにモモを植える人もいました。
 伊予市辺りで作っている漬物に、有名な『緋(ひ)のかぶら漬け』がありますが、牛渕でも早い時期に『緋のかぶら漬け』を作り始めたと思います。牛渕でイチゴ栽培が始まる前には、既に『緋のかぶら漬』を作っていたので、昭和30年(1955年)ころは漬物作りをしていたと思います。私(Eさん)らが現在、浮嶋神社の例大祭に奉納する獅子舞(ししまい)の稽古(けいこ)をしている集荷場が、もともと漬物を作っていた建物でした。漬物作りは、Bさんの先輩たちが共同で始めて、長い間行いました。そのほかに里芋も栽培しましたが、その後、時代の流れでほとんどの農家が兼業農家となり、それらの作物の栽培はやめていきました。

 イ 農業機械と農薬の導入

 「耕耘機(こううんき)が出てきたのは、私(Bさん)が農業を始めた昭和30年(1955年)の少し後だったと思います。牛渕では、最初に耕耘機を買った2人が、自分の田んぼだけでなく、付近の人たちの田んぼも鋤(す)いてくれていました。ほかの人は、誰も耕耘機を買えるようなお金がありませんでした。
 昭和30年代では、ホリドール(パラチオンの商品名)という農薬のことが強く印象に残っています。ホリドールの効果で、当時栽培していたキンナンプウ(米の品種)の収穫がずいぶん増えましたが、カエルをはじめ、田んぼにいる生き物がほぼ完全にいなくなったので、村の様子が大きく変わりました。昭和44、45年(1969、1970年)ころに田植機が出たと思いますが、そのころから会社勤めに出る兼業農家が増えてきました。」

 ウ 食事

 「昔は、家の庭に8畳から10畳くらいの土間がありました。そこでは醤油も作っていて、醤油麹(しょうゆこうじ)を寝かせて(熟成させて)袋に入れたものを樽(たる)の中に入れ、それを順々に重ねていって、上に重りを置いて醤油を絞り出し、1年分作りました。ただし、醤油を作るのは割と難しいので、麹の作り方や出来栄えを指導する専門の指導員が各家庭を回っていました。また、豆腐も自分の家で作っていました。石臼で大豆を挽(ひ)いて、布でこした液ににがりを入れて固めました。終戦ころは、まだ自分の家で醤油や豆腐を作っていました。それから、家で鶏を飼っていて、卵を産まなくなれば、少しかわいそうですが、さばいて食べました。当時、肉などはそれほどありませんでしたが、そうして鶏肉はロに入れることができました。」

 エ 牛の飼育

 「私(Dさん)が小学校5、6年のころに戦争が始まると、父親と兄たちが出征してしまって、留守宅を母と私で守っていました。私は三男ですが、小学校6年の時に、牛を使って田を鋤いた記憶があります。田を鋤くのに牛は必需でしたから、各農家に牛小屋があり、飼育していました。餌(えさ)は購入飼料ではなく、草と藁が主体でした。麦を飼料にできればいい方で、米糠(ぬか)を混ぜて与えるのが精一杯でした。麦を食べさせるのは、出荷前とか限られた期間だったように思います。毎日畔(あぜ)草刈りに行って、牛に餌を与えていました。大きくなった牛は売って、子牛を買うようにしていましたが、買ってきた子牛には、まず、三角木(さんかくぎ)の橇(そり)を引かせて荷引作業に慣れさせていました。耕耘機が出始めたのは、昭和30年くらいだったと思います。昭和20年代から30年代前半というのは、牛が日常的に見られた時代でした。」

 オ 子どもの手伝いと遊び

 「家の手伝いとしては、まず、母屋から離れた所にあった五右衛門(ごえもん)風呂の湯を沸かす作業がありました。今のように水道の蛇口をひねれば水が出るわけではありませんから、風呂にためる水を運ぶのが大変でした。風呂とトイレだけは少し離れた別棟になっていました。牛渕からは山まで少し遠く、薪(まき)がもったいないので、風呂を沸かすときには、農作業で出た麦わらや豆がらなどを焚(た)いて燃料にしていました。
 私(Bさん)が子どものころは、家の仕事の手伝いに時間がとられて遊ぶ時間はなく、遊ぶ場所も決まっていませんでした。手伝いがいわば半分遊びのようになっていましたが、純然たる遊びとしては、夏に泳ぎに行くのがせいぜいでした。
 私(Fさん)は小学生のころ、浮嶋神社の境内でよく『ろくむし』をして遊んでいました。『ろくむし』は軟式テニスのボールを使用し、投手は下からボールを投げ、打者は手でノーバウンドで打ちます。ルールはソフトボールに似ていますが、守備側は、打者や走者にボールを投げて当てればアウトというルールがあり、私は投げて当ててアウトにするのが楽しみでした。夏には、錦水(龍沢泉)で泳いだ後、神社に戻って『ろくむし』をすることもしばしばでした。神社の拝殿は風がよく通り、気持ちが良くて、遊び疲れた私はそこで寝込んでしまったことがありました。
 年上の子たちとはよく遊びました。冬には河原へ行ってよく焼き芋をしたものです。かまどを築いて、蒸気を利用して砂焼きをしました。年上の子たちは、銀紙を巻いて焼くとよいというようなことを教えてくれました。あの焼き芋はおいしかったです。」

(2)年中行事

 ア 町祈禱

 「私(Dさん)は、青年期に牛渕の外へ出ていたので、村の付き合いをしていませんが、子どものころの村の行事として、まず思い浮かぶのが、1月7日に行われていた、『町祈禱(ちょうぎとう)』という行事です。牛渕は、公民館(現集会所)の前の道を境として、北側の北之町(きたのちょう)、南側の南之町(みなみのちょう)という2つの組に分かれていて、当日、浮嶋神社の宮司がそれぞれの組に来て祈禱をしていました。それから、ある代表の家で炊事方をして、その町内の人を集めて、牛肉か鶏肉などを使った料理を振る舞っていました。あれは確か青年団の行事だったと思いますが、その時に丼を食べた記憶があります。しかし、その行事も昭和20年代くらいで終わりだったと思います。若い人たちが進学や就職などで村の外へ出てしまって、専業農家として村に残る青年団員が少なくなり、村の行事を運営できなくなったということでしょう。」

 イ 木偶回し

 「昭和30年代には、お正月の15日までの間に、徳島から木偶(でこ)回しが来ていました。豊作祈願が目的で、苗代の縄を奉じていました。今は、田植機で自動的に苗を立てていますが、昔は苗を立てたものを引いて、それを縛って手植えをしていました。5、6月に苗を取る時の藁を家の庭などに奉じておき、そこへゑびすさんを操る人が来て、『あら、エッサッサ』と言って拝むのです。そのときのゑびすさんのしぐさが面白くて、趣きもありました。彼らは、aさんは牛渕、bさんは田窪、cさんは見奈良というように、それぞれの回るエリアを定めた、一種の鑑札を持っていて、泊まる宿も決まっていました。また、aさんが風邪を引いて来られないときには、cさんに頼んで、牛渕、田窪を2日とか3日かけて回る、というようにしていました。その当時、牛渕には家が150軒くらいはあったと思いますが、ほぼ全部を回っていました。木偶回しが来ていた最後のころは、私(Eさん)のいとこの家を宿にしていました。道具としては、担い籠二つを持って来ていました。どの家もお礼として米1升くらいを渡していましたが、私のいとこはその米を買い取って、帰りの荷を軽くしてあげていました。」

 ウ 浮嶋神社の秋祭り

 「私(Fさん)が生まれた当時、秋祭りは『中通(なかどお)り祭り』といって、松前から川上(かわかみ)までの地域が10月14、15、16日の間で順々にお祭りをしていました。私の誕生日が10月17日で、お祭りが終わってから生まれました。子どものころには、親から、『そのころは家でお産をしよった(出産をしていた)から、10月14日くらいに生まれていたら、お祭りの手伝いができん(できない)ので、大変やったはずや。あんたはえらい。』と、ずいぶん褒められました。
 終戦後、神輿(みこし)を出すことができず、祭りをやめるかどうかという時期がありました。それは牛渕だけではなく、この地方のどこもがかき手不足で、リヤカーで神輿を引いていた時代がありました。昔の祭りは日曜日などと関係なく日が決まっていて、皆が会社勤めに出るようになると、なかなか祭りの日に仕事を休めず、人手不足になったというのが一番の理由だったと思います。現在は、土曜日と日曜日に祭りをするようになりましたが、人手不足解消のためにそういう知恵が出てきました。もともと10月15日が『中通り祭り』の日だったのが、その後、松山祭りに合わせるために7日になり、それでも会社等の休日と祭りの日がなかなか合わないというので、日曜日に祭りを行うように変わっていったのだと思います。」
 浮嶋神社の秋祭りに欠かせないものが、例大祭の翌日(10月第2日曜日)の神幸祭(しんこうさい)で執り行われる「お練り行事」で、東温市の無形文化財に指定されている。先頭を行く手桶の水と箒(ほうき)持ちによって清められた後を、猿女君(さるめのきみ)と猿田彦(さるたひこ)に導かれ、旗指物(はたさしもの)や毛槍(けやり)、笛太鼓、行司、相撲力士、振り奴(やっこ)、舞姫、神職等約170名が神輿の先導をし、浮嶋神社から堀池(ほりけ)までの約1.4kmの間を3か所のお旅所で神事を行いながら練り歩く。その際に宮司が乗る馬は、『お供馬(ともうま)』で知られる菊間(きくま)町(現今治市)の馬方が世話をするようになって30年余りになる。
 「昭和40年代には菊間でも馬がおらず、祭りが寂(さび)れていたそうですが、昭和50年(1975年)ころに、お供馬を復活させようと馬好きの人たちが愛馬会を作り、徐々に馬を増やしていったそうです。その中心となっていた方を私(Eさん)の同級生から紹介してもらい、菊間から馬を連れて来てもらうことになりました。ある年に、菊間のお供馬と浮嶋神社の秋祭りの日がかち合ってしまい、よそから馬を借りたことがありましたが、それがひどい暴れ馬で、宮司を乗せることができませんでした。やはり慣れた馬でないとだめでした。おかげさまで、向こうから『菊聞がお供馬をやりよる間はずっと来るけん。』と言われて、ずっと来てもらっていますが、人の縁というのはありがたいものです。現在は、その方の孫に当たる人が馬方として、馬を連れて来てくれています。その方は、『E君、心配せいでも孫が馬を率いてくるけんの。』と言ってくれていましたが、嘘(うそ)ではありませんでした。お祭りを仕切っている人とはそういうものですね。
 牛渕を出て遠くに行っている人でも、『祭りには戻って来よう。』という気持ちになってくれています。牛渕は割合若い世代がリーダーになって、祭りなどの行事をやってくれています。『一遍はお世話になったから返さないといけない。』という気持ちでいるからだと思います。そういうのが牛渕の良いところで、自慢できることです。」

 エ 獅子舞稽古の思い出

 浮嶋神社の例大祭で奉納される牛渕地区の獅子舞は、前獅子を雄、後獅子を雌として一対とし、前後一体となった迫力のある乱獅子で、平成21年(2009年)に東温市無形民俗文化財の指定を受けた。『重信町誌』には、重信地域における獅子舞については、「井門(いど)村(現松山市)から牛渕へ、文化9年(1812年)に若連中が伝習し、そして古老の口伝のように牛渕より周辺農村へ伝わっていったもののようである。(③)」と記されている。昭和30年代には、青年団の衰退や兼業農家の増加などにより、由緒ある獅子舞の継承が困難な状況となったが、それを打開するために、専業農家の有志が中心となって「浮嶋神社秋祭り奉賛会(以下、「奉賛会」と記す。)」が組織された。奉賛会は、その年の45歳に当たる同級生が一丸となって、浮嶋神社例大祭の神輿渡御(とぎょ)、お練り、獅子舞の全てを総括することになっている。
 「私(Bさん)が子どものころは、小学校を卒業したら青年団に入ることになっていましたが、青年団で行う獅子舞の稽古では、いろいろな決まり事がありました。獅子頭を持って座っているとき、新入りは正座でなければならず、それより年上の人は膝を組んでも構いませんでした。また、座った時に目の高さより上に履物を置いてはいけない、といった決まり事もありました。ある家の納屋で稽古していたとき、土間が狭かったもので、履物を目の高さより上に置いて怒られた記憶があります。主だった稽古は納屋でしていましたが、稽古の成果を見てもらう『中慣らし』『本慣らし』は、母屋でしていました。青年団の幹部の人たちが見てくれましたが、それほど厳しくもなく、怒られたこともありませんでした。稽古の前に太鼓が鳴って、鳴り終わると線香に火を点(つ)けます。私たちは、線香が完全に燃えるまでに集合しなければなりませんでしたが、堀池とか遠い所から通っている人は線香1本半、近い所から通っている人は線香1本が燃えるまでというように、家から稽古場までの距離に応じて集合の刻限を変える配慮がされていました。稽古に遅刻したときの罰則はお神酒1升でした。村の人が罰のお酒を出したのを一度見たことがありますが、その人も笑いながら出していたので、そう苦になるほどのものではなかった気がします。
 稽古の時間は、当時よりも今の方が長いように思います。今は若い人たちも『奉賛会』に参加してお祭りに積極的に取り組んでいます。『45歳になったら、わしらはやめるんじゃけん(やめるのだから)、それまでに一生懸命やらないかん(やらなければいけない)。』といって、かなり参加率が高い状態です。我々のころは、勤めや学校を理由にして逃げていましたが、今ごろの人はしっかりしています。」

 オ オツヤ

 「『和霊(われい)さん(和霊神社)』は県下の各地でお祀りされていますが、この辺りでも、和霊さんをお祀(まつ)りしている所が多いです。和霊さんの紋日(お祭りの日)の8月15日に、大人たちが浮嶋神社の中殿に小学生を集めて、昔話をしてくれました。それを『オツヤ(お通夜)』と呼んでいて、そのときには保護者が握り飯を作ってくれました。ほかの地区では、この日に芝居をやったりしていた所もありました。私(Eさん)が小学校6年生のころまでは続いていたと思います。昭和31年(1956年)に重信町になってからは行われなくなったようです。」

(3)人々の楽しみ

 ア 映画と芝居

 「田窪座は、私(Aさん)が生まれて少し後の昭和の初めくらいにできました。場所は田窪駅(現牛渕駅)の近くで、今ではそこにマンションが建っています(写真1-2-11参照)。西岡などからも田窪座へ芝居を観に来る人たちがいたので、割合繁盛していました。映画も仕舞い方(閉館する少し前のころ)には上映していました。戦後は、東京や大阪ではなかなか公演する機会がなくて、生活できないため、有名な旅役者も来ていました。『ちょんがれ語り』(浪花節の異称で、『ちょんがれ節』ともいう。)といったものも来ていました。私の父親は、浄瑠璃や歌舞伎、映画などが好きで、よく田窪座に連れて行ってくれたので、芝居が好きになり、一時は役者を志しました。父親には、『役者になったらいかん。』と反対されましたが。昭和30、40年代は劇場がなくなったり、倉庫ができたりと、景観が大きく変わりました。
 昭和20年代には、青年団の活動で村芝居をしていました。地元のお年寄りで、指導が上手な女性がいて、その人から、『やらないかん。』と言われたのです。浮嶋神社に小屋を建てて幕を張り、チャンバラをやったりしました。私は女形(おやま)も演じたことがあり、拍手大喝采でした。お宮の何のお祭りだったか憶えていませんが、みんなで楽しく活動しました。牛渕での村芝居も、昭和30年代には行われなくなりました。
 私(Fさん)が小学生時分に、浮嶋神社で映画の上映会がありました。参道に映写幕を張って、映画を観ていました。チャンバラ映画で、主人公が活躍する場面では、みんなが手を叩(たた)いたりして、吸い込まれるように観ていたのを憶えています。小学校の講堂でも、年に何回か映画の上映会がありました。当時は映画全盛でしたが、父親が映画好きで、よく映画館に連れて行ってくれました。私が小さい時は横河原にユニオン劇場というハイカラな名前の映画館がありましたが、あまりそちらへは行かず、電車に乗って松山の映画館などへよく行っていました。父親はスリラーものの映画が好きで、私は観ている途中で怖くなって、ユニオン劇場から一人で歩いて帰った記憶もあります。」

 イ 小学校の対抗相撲

 「昭和31年(1956年)に、南吉井村は北吉井村などと合併して重信町になりましたが、どちらかといえば、北吉井村よりも小野村(現松山市)や久米村(現松山市)との付き合いの方が深かったのです。私(Eさん)が小学生のころは、南吉井村、小野村、久米村の3村の小学校で対抗相撲を取っていました。この辺りには、『金毘羅(こんぴら)さん(金刀比羅(ことひら)宮)』の末社が多いのですが、その一つが平井(ひらい)(現松山市)にもあり、そこの境内で3村の小学校4年生から6年生が対抗相撲を取っていました。近所の樽屋の主人が大の相撲好きで、わざわざ応援に来てくれていたのを憶えています。この対抗相撲も、重信町になってからは行われなくなったようです。」


<注及び参考引用文献>
①重信町『重信町誌』 1975
②株式会社愛媛銀行ひめぎん情報センター『ひめぎん情報2010年秋号NO.265』には、「その後松山にも見奈良の駅に沿って6ホールが出来たが、これも直ぐに食糧不足から芋畑になってしまった。」と記されている。
③重信町『重信町誌』 1975

写真1-2-11 かつて田窪座があった所

写真1-2-11 かつて田窪座があった所

東温市牛渕。平成27年2月撮影