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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)人々のくらし

 ア くらしを支えた店

 「近所で買い物に行くとすれば大西商店でした(図表1-2-3のイ参照)。大西商店は明治時代から続いているお店です。私(Aさん)のうちは、ほとんど大西商店で買い物をしていました。酒でもタバコでも、一通りのモノは買うことができました。昭和30年代にはツケ払いではなく、現金払いになっていたと思います。また、当時、『あいや商店』という雑貨店がお店を始めました(図表1-2-3のウ参照)。
 今では、お金を入れて機械で精米する、コイン精米をよく見かけますが、昭和30年代は、組合で購入した籾摺り機を使って精米をしている人がほとんどでした。いち早く籾摺(もみす)り機を買った人は、農家が行っていた精米を代行して、それなりに労賃をとることもできたので、精米業だけで生活していた人もいました。田窪駅(現牛渕駅)の近くには、精米を兼業していた米穀店がありました。」

 イ 人とモノの流れ

 「昭和30年代、元気でさどい(機敏な)人の中には、自分の店を経営しながら、オート三輪を買って運送業を兼業している人もいました。近くの商店から運送を請け負うと、その店に車で乗り付け、荷物を積み込んで運んでいました。牛渕に3軒か4軒あった雑貨店では、重い品物などの運送を代行してもらっており、特に、酒や塩を扱う私(Eさん)の店(大西商店)は、全て代行してもらっていました。牛渕でいち早く運送業を始めた商店は、もともと雑貨店でしたが、一時は運送業で結構商いができていたはずです(図表1-2-3のア参照)。
 戦後になると、牛渕には、三津(みつ)(松山市)の港を玄関口として、様々な物品が入ってくるようになりました。私たちの酒類業界の酒は、どの酒造メーカーも大卸は三津にありました。三津の港まで船で運んだ物品を伊予鉄道の貨物車で運んでおり、田窪駅(現牛渕駅)で札止めになっていました。当時の田窪駅には貨物車用の引き込み線があり、米などの物品を載せた貨車便が入っていました。また、昭和30年代は、三津辺りからてんぷら屋さんや駄菓子屋さんが、自転車で行商に来ていました。三津から電車で来る人たちは、三津の魚などいろいろな物品を運んで来て、こちらの米と交換して帰って行きました。それから、牛渕の雨乞い行事を手伝ってくれたおたたさんが、松前(まさき)(伊予(いよ)郡松前町)から伊予市、砥部(とべ)(伊予郡砥部町)、八倉(やくら)(伊予郡砥部町)を通ってこちらへ来ていました。おたたさんはこちらの方にお魚の行商に来ますので、こちらが栄えないことには商売が成り立たないので、日照りによる渇水という事態が起きて、雨乞いをするときにはおたたさんがこちらにやって来てくれました。そのときは、当時、雨は海からやって来るということが直感的に知られていたので、雨乞い祈願に松前の浜まで行って、それからこちらへ来てくれていました。戦後も日照りによる渇水という事態があって、おたたさんが雨乞いのために、こちらにやって来てくれました。」

 ウ 村の境界

 「もともと、村の入口に当たる境目には、サヤノカミ(サイノカミ)を祀(まつ)っていました。3年ほど前に圃(ほ)場整備が始まり、村の入口付近の道を付け替えた時に、サヤノカミを、現在の場所に移しました(写真1-2-2参照)。サヤノカミの神社の名前で残っていましたが、その縦2m、横5mくらいあった土地を移して、祀り直したのです。」

(2)水辺の風景

 ア 魚を獲る

 「南予の広見(ひろみ)川辺りには今でもツガニ(モクズガニ、河口や河川にすむ中型のカニ)がいるらしいですが、この辺りにもツガニがいました。佐川川辺りの人が、『ここのツガニはのう、日本一うまいんじゃが(おいしいぞ)。(ほかの所のツガニとは)味が違う。』と言っていました。私(Aさん)の家の裏にはドジョウがいて、里芋ができる時期は、ドジョウ汁を作って食べていました。近所の駐在所の方に振る舞ってもらったり、見奈良に住んでいた親を家に招いて、食べさせたりした記憶があります。ウナギやホタルもいたのですが、川をコンクリートの三方張り(三面張り)にしてからはいなくなりました。
 内川はかつては石垣がずっと続く、水のきれいな川でした。戦後になってからは、よくシジミを採りに行ったり、魚を追いかけたりしました。馬橋(うまはし)の辺りで鮎を釣った記憶もあります。川の水量が減った時は、川の魚が潜んでいそうな場所に石を投げ込んで、気絶して浮かび上がってきた魚をよく獲りました。
 大井手(おおいで)には、よくウナギやツガニを獲りに行きました(図表1-2-3、写真1-2-3参照)。秋の台風時分には雨が降ると、丸い網を持って川の中に入り、ウナギやツガニが流れ落ちてくるのを待ち構えていました。当時、魚は貴重なタンパク源でしたが、その後、川が三方張りとなって魚などが減ってきたことや、食料が豊富になったこともあり、川の魚を獲らなくなりました。川で魚などを獲っていたのは昭和30年代まででしょう。
 上野上池、下池では、年に1回、池さらえと遊びを兼ねて、秋祭りの前に干して(池の水を抜いて)、コイやフナなどの魚を獲っていました。魚を獲るために、池の中へ入って水を混ぜかえすのですが、この時、下の樋(ひ)(開閉させて水を出入させるもの)を抜いているので、自然に泥が流れ出ます。毎年行っていたので、池には泥がたまりませんでした。日頃から田窪の人たちにはお世話になっているので、田窪と牛渕の人が一緒に魚を獲っていました。獲った魚は祭りの時に食べていました。フナなどは、『すぼ(藁(わら)をまとめて括(くく)ったもの)』に竹串を通してそれを刺し、乾燥させて保存して食べていました。池の管理は土地改良区がしています。上野上池、下池は、昔は上樋(かみひ)地区(東温市牛渕)の貴重な水源でしたが、昭和39年(1964年)に完成した面河(おもご)ダムの利用によって水が豊富になり、水源としては、かつてほどの重要性はなくなりました。池で魚獲りをしていたのは、川で魚が獲れていたころまでです。やがて、池の水抜きもあまり行われなくなり、行っても人がそれほど集まらなくなりました。また、牛渕池は、昭和55、56年(1980、1981年)ころに埋め立てられました。」

 イ 泉で泳ぐ

 「浮嶋神社の南に錦水(きんすい)(龍沢泉)(写真1-2-4参照)という農業用水の泉があります。今は泳いではいけないのですが、この泉の水が冷たいので、夏休みになると、みんながここに集まって泳いでいました。
 宮の東泉と横畑(よこはた)泉も子どもの遊び場でした。宮の東泉は、今では暗渠(あんきょ)になっており、その上にはゲートボール場があります。横畑泉が掘られたのは昭和9年(1934年)で、陸上自衛隊の小野(おの)駐屯地(現松山駐屯地)へ送水していた時代もありましたが、平成16年(2004年)に埋め立てられて、現在は公園になっています。」

 ウ 重信川土手とその周辺の風景

 「私(Aさん)の子どものころは遊びもそれほどなかったので、『おさこ』(イタチ)を見に行こうと、野田井手や大井手など石垣のある川沿いをみんなで歩いたりしました。『おさこ、来-い。ちょいと顔見せ。』と言いながら、あっち行ったりこっち行ったりしました。『おさこ』が顔をのぞかせると、『おった、おった。』と喜んだものでした。
 当時は、重信川の土手には松の木が大体植わっていたのですが、松枯れで次々とやられてしまいました。見奈良の北の田窪駅の辺りは、私(Aさん)が子どものころは『原口(はらぐち)』と言っていました。ここから東は原だ、という意味で、地名にも残っています。原生林のほとんどが檪(くぬぎ)で、東温高校(愛媛県立東温高等学校)には今も檪林が残っています。私らは、秋になると原にハツタケやシイタケ、小さいセンコウタケなどを採りに行っていました。原の中に入ると、子どもなので方角が分からず、富士の樹海ではありませんが、なかなか外へ出られませんでした。日が暮れ始めても帰り道が分からないときは、みんなで、『どっちから来た、牛渕はどっちぞ。』と言い合ったもので、本当に恐ろしかったです。原の出口が今の東温高校辺りで、高校の前に金毘羅(こんぴら)街道の常夜灯がありました。原はその後切り開かれて、愛媛県初のゴルフ場となる伊予鉄ゴルフ場ができました(②)。
 私(Cさん)は、子どものころ、ゴルフ場ヘゴルフボールを拾いに行った記憶があります。戦時中には、ゴルフ場があった場所から西に向かって、飛行機の滑走路が造られており、滑走路の途中には、掩体壕(えんたいごう)(飛行機を隠す格納庫)のようなものもありました。滑走路は終戦までに完成しなかったように思います。途中で建設計画が中止になったのかもしれません。」

図表1-2-3 昭和30年ころの牛渕の町並み①

図表1-2-3 昭和30年ころの牛渕の町並み①

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-2-3 昭和30年ころの牛渕の町並み②

図表1-2-3 昭和30年ころの牛渕の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。

写真1-2-2 サヤノカミ

写真1-2-2 サヤノカミ

東温市牛渕。平成27年2月撮影

写真1-2-3 大井手

写真1-2-3 大井手

東温市牛渕。平成27年2月撮影

写真1-2-4 龍沢泉

写真1-2-4 龍沢泉

東温市牛渕。平成27年2月撮影