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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)町の景観

 昭和30年(1955年)ころの横河原は、横河原駅前から、その北側の旧金毘羅街道及び旧国道11号沿いを中心に、商店や民家などが集まり賑(にぎ)わっていた。

 ア くらしを支えた店

 (ア)なんでも屋

 「『なんでも屋』という店には、正月前になると、数の子が一杯入った俵が置かれ、塩鱈(たら)を入れた卜口箱が積んでありました(図表1-1-2のク、写真1-1-1参照)。近所の人たちがそれらを正月飾りと一緒に買っていました。また、正月には、普段使いのものを、新しいものに換えることがよくあったので、茶わん類や台所用品などを買い求める人も多く、すごい数の人でした。その店は、缶詰や干物などはありましたが、野菜など生鮮食品はなかったと思います。どの商品も値段が安く、陶磁器や食材、乾物、合羽、炭、そして昔から販売が規制されていた塩や煙草(たばこ)もありましたが、お酒は販売されていませんでした。戸車などの建材の用品や日常品も豊富に揃(そろ)っていました。とにかく何でも置いてあり、その店に行けば事足りるので、なんでも屋という店名のとおりのお店でした。この店は、平成25年(2013年)の年末で閉店してしまいましたが、今でもその家には『なんでも屋』の看板が掛けられています。」

 (イ)生鮮食料

 「魚は、横河原の鮮魚店の店主が朝一番の6時に出発する列車で、松山の三津(みつ)(松山市)の朝市まで買い付けに行き、氷を詰めたトロ箱に魚を詰めて、列車の貨物に乗せて横河原まで運んでいました。だから横河原にも、刺身にするような新鮮な魚を売る店がありましたが、朝から魚を買いに来るような客はほとんどいなかったので、大体11時ころに開けていました(図表1-1-2のウ参照)。鮮魚店には、皿や鍋を持って行き、それに買った魚を入れて家まで持って帰っていました。
 牛肉を専門に扱う精肉店では、店内に入ると、店台の上に秤(はかり)が置かれ、その奥には、商品の肉の塊が見えていました。肉は、客の目から直接には見えないようにされていましたが、分厚いビニール越しに、吊(つ)るされているのが見え、店主は、吊した肉を注文に応じて削(そ)いでいました。肉が吊るされている所は冷気が当たるようにされ、保冷庫のようになっていました。私(Eさん)は、小学校1年生の時の運動会の前日に、目にパチンコ玉を当てられたのですが、後日、学校からの帰宅途中、その精肉店の店主から、『坊、お前どんなぞ(どのような具合だ)。』と聞かれ、『もう大分、目を開けられるようになった。』と答えると、店の奥から持ってきた肉を、火鉢で焼き、『食べい。』と言って食べさせてくれました。その肉がとてもおいしかったのを、今でもはっきりと憶えています(図表1-1-2のエ参照)。」
 また、当時は、あちこちで鶏が飼われていて、現在のように大手の工場だけが卵を販売するのではなく、鶏を飼う農家も売っていました。横河原では20羽から50羽の鶏を飼っている家が多くあり、私(Eさん)の家では、鶏小屋で飼っていた40、50羽ほどの鶏に卵を産ませて、それを売っていました。私(Aさん)の家でも20羽ほど飼っていたので、卵を産まなくなった鶏をさばいて調理し、子どもに食べさせていました。牛肉や豚肉はめったに食べられない時代だったので、家の食事で出される肉として一番よく食べていたのは鶏肉でした。鶏肉専門店が何軒かありましたが、鶏を飼っている家では、家の行事などかあるときには、その前日に鶏を殺して血抜きをしておき、当日、それをさばいて調理していました。」

 (ウ)アイスキャンディーとお菓子

 「門店(かどみせ)(門田商店)は、私(Bさん)が小学校へ入る1年前の昭和11年(1936年)から横河原アイスキャンディーを売り始め、それが今でも続いているので有名になっています(図表1-1-2のキ参照)。当時は子どもたちが、『アイスキャンデー、アイスキャンデー。』と言って、大流行(はや)りでした。家に帰る途中で『アイスキャンデー買(こ)うちゃる(買ってあげる)。』と家の人に言われ、1本1銭か2銭で販売していたアイスキャンディーを、20本も30本も買って帰っていました。田んぼの除草作業に行っては、農作業の合い間に、買ってきたアイスキャンディーを畔(あぜ)でよく食べていました。
 昭和20年代は、饅頭(まんじゅう)店でも自家製造アイスキャンディーを作っていました。蒟蒻(こんにゃく)店でも、アイスキャンディーを製造していて、店頭で販売していました(図表1-1-2のカ参照)。私(Eさん)は、子どものころに蒟蒻店へ買物に行って、できたてのアイスキャンディーを店主からもらって食べたことがあります。店主は、クーラーボックスのような、内側はブリキで外側は木でできた箱にアイスキャンディーを詰めて、大きくて重量感のある自転車に旗を立てて、売りに行っていました。蒟蒻は、お店に行けば売ってくれましたが、大体はほかの店に卸すために作っていました。もしかすると、今のように車を持っていない時代でしたから、蒟蒻を卸しに行くついでにアイスキャンディーを売っていたのかもしれません。ある時、母の里がある拝志(はいし)まで売りに来ているのを見て、『よいよい(大変遠くまで来て)、すごいな。』と思ったのを憶えています。皿ヶ嶺(さらがみね)の麓(ふもと)の上林(かみはやし)にも行っていたようです。上林への道は、今でこそ道が良くなっていますが、昔は自転車で通るにはかなり悪い道でした。また、重信町内だけでなく川内へも売りに行っていたので、東温全体を回っているようでした。
 現在、横河原駅前にある菓子店は昔から、タルトやとら巻、餡(あん)物ではイモの餡、焼いた饅頭などを作っています(図表1-1-2のシ参照)。ただ、当時は、卸売りが専門だったので店には商品を置いておらず、横河原の人たちは、巳午(みんま)(年内に死者のあった家の者が、12月の巳午の日に餅をつくなどして正月を取り越し、死の忌(い)みから逃れる行事)や正月になると、必要な饅頭などの菓子をその店に注文していました。

 (エ)日配食品と下駄屋

 揚げ物店や豆腐店も、店先には商品をあまり置かず、卸売りが中心で、商品の製造を主としていましたが、どの店でも、店まで行けば小売店と同じように商品を売ってくれていました。当時、酒は、酒店へ空き瓶を持って行き、酒を瓶の中に入れてもらって、中身だけを購入していました。下駄の鼻緒が切れたときには、大体は親が手拭(てぬぐ)いなどを切って直してくれましたが、よそ行きの下駄の鼻緒が切れたときには、下駄屋へ持って行って直してもらっていました。靴は貴重なもので長く大切に使うために、靴底だけを下駄屋で貼り替えてもらっていました。」

 イ 町の中の水辺

 「今でも、年に二度は川の掃除をしていますが、水路や川から土砂を揚げておくための砂揚場(すなあげば)という狭い場所が川沿いにあります。昭和30年代は、横河原駅北側にある水路は、まだ暗渠(あんきょ)になっておらず、私(Dさん)が小学生のころには、そこに笹舟(ささぶね)を作って浮かせて、流されて行く笹舟を追いかけながら学校へ通っていました。また、水路の水は、米研ぎや洗濯に利用されていて、泉(いずみ)川の下(しも)の方では、水がきれいだったので顔も洗っていました。それぞれの家の裏から辻井戸(共同井戸)へ行くための、『セコ』と呼ばれる、人がやっと通れる程度の細い道が造られていました。その『セコ』を通ってお使いにも行っていました。青果店と布団店の間には風呂屋へ通じる細い道があったのを憶えています(図表1-1-2のコ、サ参照)。横河原一帯は水に乏しく、個人の井戸や辻井戸が多くあったので、私(Cさん)が子どものころには、小学校の通学途中に、喉が渇くと、井戸から水を汲(く)み上げてよく飲んでいました。現在では多くの井戸が埋め立てられて、残っているものは少なくなってしまいました。」

 ウ 正月行事

 「私(Cさん)の家は商店を営んでいたので、1月の鏡開きの日には、帳祝(ちょういわい)をしていました。帳祝では、家に祀(まつ)っている大黒(だいこく)さんの下に小さなテーブルを置き、その上に、その年に使用する帳面、物差し、算盤(そろばん)を置き、昔であれば升などの道具も置いてお祀りしていました。そして、鯛などの赤い鮮魚を買い、御飯とお神酒をお供えして、その年の商売繁盛と平穏無事を祈りました。横河原でも帳祝のことはあまり知られていないらしく、『へぇー、そんな事をするんですか。』と言われました。私の父は、20日(正月納めの日)になると畑へ行き、正月のお飾りを焼いていました。その年のお祝い餅(もち)を、畑で一緒に焼いて持ち帰り、家族みんなで食べていたのを憶えています。」

(2)横河原線に乗る

 「昭和20年代初めころ、戦時中の松山空襲で被害に遭(あ)い、松山から横河原線の沿線に移り住んでいた人たちが、松山の学校や職場へ行くのに伊予鉄道の坊っちゃん列車を利用していました。普段は6両の客車で走っていましたが、通勤時間帯には平井(ひらい)駅でさらに6両の客車が連結され、松山市駅まで合計12両の客車を機関車2両がけん引して運行されていました。客車の前後にはデッキがあって、乗客数が多いときなど、次の駅で乗客が客車に乗り込もうとすると、デッキ上の駅の反対側に立っている人から、『そない(そんなに)押すなや。線路に落ちてしまうがや。』という声が聞こえていました。私(Bさん)も、混雑した車両の中へ入るのが嫌で、外側のデッキ部分に乗っていました。連結機の上の鉄柵にしがみついていましたが、車両と車両の間をまたいで立っており、下に落ちれば線路という危険な状態でした。ある時など、出発間際に飛び乗って、列車から落ちかけたこともありましたが、実際に客車から落ちて亡くなった学生もいました。
 当時は、石炭の質が悪かったからか、なかなかボイラーの温度が高くならず蒸気が上がりませんでした。しかも、平井駅で停車して機関車に給水をしていたのですが、ボイラーの温度がますます下がってしまい、しばらくの間は駅に停車して石炭を焚(た)いて、ボイラーの温度を上げてから走っていました。線路に登り坂があると非力な機関車ではなかなか前に進まず、客が、『汽車を降りて軽くしてあげましょか。』と言うくらいでした。なかには、走行中に前方の車両に乗っている生徒が客車から降りて立ち小便をしてから、後ろの車両に乗り込み、車掌に注意されて喧嘩(けんか)になったこともありました。列車のスピードが遅く、途中で降りて歩いて行こうか、などと思ったこともありました。昭和23、24年(1948、1949年)ころ、横河原駅で列車を待っていると、なかなか列車が来ず、学校の始業に間に合うかどうか心配をしていると、列車が脱線したとの情報が入ってきました。後で聞いた話では、当時、立花(たちばな)橋(松山市)の辺りでは牛を放し飼いにしていて、線路に入った牛の足が枕木に引っかかってしまい、立ち往生していたところへ列車がぶつかり転覆したということでした。牛と列車が衝突して機関車の方がひっくり返ってしまった、と話題になった出来事でした。汽車は師範学校への通学に利用していましたが、社会人になるころには、路線バスの運行が始まったので、通勤で列車を利用することはなくなりました。
 私(Eさん)は、横河原駅に着くと機関車の側面から水と石炭を入れていたのを憶えています。それと、途中の平井駅でも水と石炭を補充しないと、立花とか石手川の土手を登りきれませんでした。私(Aさん)は坂で動かなくなった列車から降りて押したこともあります。
 横河原駅ができたころには、横河原駅から松山市駅の間には田窪(たのくぼ)、平井、久米(くめ)、立花しか駅はありませんでしたが、戦争になる前に見奈良(みなら)や梅本(うめのもと)の駅ができ、その後順々に駅ができて、現在では13駅あります。伊予鉄道株式会社から、赤字を理由に松山市駅から平井駅まで路線を残し、あとは廃線にするという計画が出されると、その計画に反対するために地元住民が中心となって昭和41年(1966年)5月に横河原線電化期成同盟会が結成されました。同年9月には伊予鉄道本社前に地元の人たち千数百名が集まり、廃止反対の住民運動が行われました。このときには廃止反対の莚旗(むしろばた)を立てて松山市駅まで行ったと聞いています。その後も廃線の話がなくなるまで運動をしていましたが、あの運動があったからこそ、『横河原の今』があるのだと思っています。」

写真1-1-1 なんでも屋

写真1-1-1 なんでも屋

平成26年12月撮影