データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 公営バスがつなぐ人々のくらし

 道路、港湾、交通の整備は地域の利便性の向上に不可欠であるが、旧越智(おち)郡弓削(ゆげ)町ではその一つとして、昭和39年(1964年)に、下(しも)弓削から久司浦(くしうら)の間で町営バスの運行を開始(昭和47年〔1972年〕、町道網代(あじろ)-日比(ひび)線の開通により、日比まで路線を延長)した。『弓削町誌』には、「タクシーが1台、軽自動車が36台、原動機付自転車が152台で他は自転車か徒歩であった当時としては、町民にはかけがえのない乗物であった。(①)」とある。
 ところが、マイカーの普及により、年間輸送人員は昭和45年度(1970年度)の32万人余りをピークに、年々減少の一途をたどった(図表3-2-1参照)。昭和47年(1972年)にワンマン運行を開始したり、昭和57年(1982年)に停留所以外の指定箇所で昇降できるというフリーバス制度を開始したりして、減少した乗客数の回復に努めた。その後、経営状態の悪化により、生活路線、福祉路線バスとして国、県、町より補助金を受けて経営せざるを得なくなったが、マイカーの増加などによる乗客の減少傾向は止まらず、平成11年(1999年)、町営バスが廃止され町有バスの自主運行に切り替えられ、現在に至っている(②)。
 本節では、町営バスにかかわった人々のくらしと思いについて、Aさん(昭和8年生まれ)に話を開いた。

(1)町営バスの運行開始まで

 ア 町営バス開始の背景

 町営バスが運行し始めたころ(昭和39年〔1964年〕ころ)、乗用車を持っていたのはほんの一部の民間事業所や個人くらいで、公的機関では、商船学校(国立弓削商船高等専門学校)は乗用車を持っていましたが、役場や銀行はまだ持っていませんでした。一般の人々で乗用車や軽トラックを持っている人はまだ少なく、ほとんどの人が単車を持っているのがせいぜいでした。昭和40年代の後半くらいから、事業主や日立造船(日立造船株式会社因島(いんのしま)工場)に勤めている人の中で、金回りのいい人が少しずつ車を持つようになりましたが、町の職員が通勤用に車を買い始めたのは、総合庁舎の落成(昭和49年〔1974年〕)以後でしたから、昭和50年(1975年)を過ぎてからだったと思います。大体役場の職員は給料が安いので、車を買うようになったのは遅かったのです。昭和50年代には島内の道路事情も良くなり、車の台数もかなり増えてきました。
 昭和39年(1964年)前後ころ、弓削島の人々の就労先のほとんどは日立造船を主とした造船関連企業でしたが、この通勤者たちの利用する航路は二つあり、その一つ目は、久司浦、沢津(さわづ)、上弓削、引野(ひきの)から土生(はぶ)(因島)、二つ目は、下弓削、佐島(さしま)、生名(いきな)、土生(因島)というルートでした。このうち、一つ目の各寄港地とも船の発着場が末整備(干潮時、接岸しやすい十分な水深があった港は上弓削港のみ)で、船は、既設の防波堤の先端部へ接岸しました。客の乗降方法は潮の干満によって異なり、直接または『アイミ』(橋の代わりとなる、長さ約3m、幅約35cm、厚さ約5cmの木板)を渡る方法がありました。これらの寄港地は、潮流の速いとき、暗い時間帯、荒天時における客船の接岸そのものが困難で、客が安全に乗降するのは長年慣れた人でも大変注意が必要でした。さらに、この一つ目の航路では、終便の久司浦港着が夏場は19時ころ、冬場は18時ころでしたが、当時は造船ブーム時代で、大方の従業員は2時間以上残業する日が多く、そうした人は、下弓削に寄港する船を利用していました。そうした人たちの多くは、行きは自宅近くの寄港地から乗船し、帰りは下弓削から陸路を徒歩または自転車で帰宅していて、このことがバスの運行を望む要因の一つとなりました。バス運行の要望は単に造船関連従事者のみならず、そのほかの業種の因島通勤者や所用で因島、尾道方面へ行った人、時折帰省する島出身者も同様でした。そのような事情もあって、造船関連者で組織していた上弓削工友会から要望があったほか、保育園児や小学校低学年の児童の保護者からも要望の声がありました。」

 イ 認可を受けるまでの苦労

 『弓削町誌』には、「当初の構想では、下弓削天神原(てんじんばら)~久司浦間を運行するものであったが、天神原から下弓削桟橋間は道路事情が悪く、公安委員会の路線調査で不適当となり、申請書の再提出をして、昭和39年9月30 日に免許がおり、同年10月21日待望の町営バスの運行が開始された。(③)」とある。
 「最初の町の計画では、松原海水浴場へ来る遊泳客を当てにして下弓削桟橋から商船学校の間を走るルートを採っていましたが、高松(たかまつ)陸運局(香川県)や愛媛県公安委員会は、道路状況が良くないのでとてもではないがバスを走らせることはできない、という理由で認可しませんでした。そこで、計画を変更して再申請し、何とか認可にこぎ着けました。
 昭和39年(1964年)ころ、役場に企画広報課という部署ができて、そこが町営バス事業の担当課になりました。私は課長と一緒に、認可を受ける手続きのために、弓削と松山(まつやま)、高松を何度も行き来しました。何日までに書類を持って来い、と言われ、書類を作成して松山や高松へ持って行っても、書類の再提出を求められることが何度もあり、しまいには宿賃もなくなってしまいました。そこで、今治にある高校生相手の宿に泊まって書類を作り、また松山へ行ったり、高松へ行ったりしました。申請書類の作成にはかなり計算を必要としましたが、私は、算盤(そろばん)が苦手なため、計算には5kgもある手動式のタイガー計算器を使っていて、出張のときは必ずボストンバッグに入れて持ち運んでいました。申請書類を作るのには難儀しましたが、何とか認可にこぎ着けることができました。」

 ウ 悪かった道路事情

 「昭和39年(1964年)ころ、道路はまだ舗装されておらず、洗濯板のように凹凸があって、雨の日はぬかるんだりして通行が大変でした。県道のうち、バス路線の舗装が全部終わったのは、昭和42、43年(1967年、1968年)ころだったように思います。私はバスの車掌をしていたのですが、車内の振動や衝撃はひどかったです。町から県に対して道路改善を粘り強く陳情し、県道のカーブの角部分の改修や拡幅といった事業を何年も続けて、何とか今のような状況にまで改善されました。」

(2)町営バスの運行開始

 ア 第1号、2号のバス

 「昭和39年(1964年)の6月ころに、路線バスの安全運行を祈願してバスの車両が弓削神社で祈祷を受けて、10月から町営バスの運行が始まりました。平常運行する車両とは別に、予備車がないとバス運行の認可が下りないので、因島バスから中古のボンネットバスを払い下げてもらって、予備車としました。ただし、そのボンネットバスの予備車は運転手泣かせで、冬場の朝は、エンジンがなかなかかからず、やかんでお湯を沸かして、エンジンのところへ掛けて温める、などということをしていました。」

 イ 多かった乗客

 「町営バスが始まったころ、バスの定員は21人でしたが、乗客のほとんどは通学や通勤で利用する人たちでした。朝と夕、小学生の登下校の時間は、大方一杯になりましたが、昼間、乗客はそれほどいませんでした。昭和40年代の終わりころまで、自家用車や単車が少なかったので、学校でPTAの会合などがあるときには、お母さんたちはほとんどバスを利用していました。19時半ころに、日立造船の人たちのうち、1、2時間残業した人たちが下弓削へ帰って来て、19 時台、20 時台、21時台、22時台に発車する4便は、いつも会社帰りの乗客で一杯で、立ち乗りの人もいるほどでした。特に、最終の22時40分発のバスは、30人から40人くらいがぎゅうぎゅう詰めで乗っていてドアが閉まらず、車掌は、ステップに立つことがほとんどで、ひどいときは、バスから背中がはみ出ていたこともありました。
 運賃は大人の初乗りが10円で、久司浦から下弓削までの間が30円で、子ども料金はその半額でした。通学で利用する子どもにも、久司浦から明神の間は定期の学割料金で、乗ってもらっていました。保護者からは、『町がバス代を出してほしい。』と言われましたが、なかなかそれはできず、バスを始めたころは、上弓削と下弓削に保育園がありましたが、保育園に通う子どもにも運賃を払ってもらっていました。」

 ウ 最終バスの思い出

 「最終バスは、会社(日立)帰りに因島でお酒を飲んできた職工さんたちで一杯でした。バスの最終便は下弓削を22時40分に出発していましたが、乗客の職工さんたちは酔っていて、車掌や運転手の言うことなど聞こうともしません。バスの出発時、乗り口で乗ろうと待っている人がいるのに、乗り口付近に立っていたので、私が、もっと奥へ詰めてくれるように言うと、『わしがどこへ座ろうが、どこへ立てろうが勝手じゃろうが。』と言い返してくることもありました。かなり酔っていて、勝手気ままに行動する乗客とは、私もたまに口喧嘩(げんか)になって、引っ張って移動させたこともあります。私と乗客のほとんどはお互いに顔見知りだったので、そんな荒っぽいこともできた訳です。たまに酔った人から、『わしの家の前に止めてくれ。』と言われたこともありましたが、さすがにそれは断っていました。そのように最終バスに大勢の乗客が乗っていたのは、昭和40年代の初めころまででした。」

 エ バスの運転中の事故

 「私が町営バスに直接関係した6年くらいの間に、車内での事故がよくありました。私が、『運転中は危ないから座席に座っとってくれ。』と言っても、『立てろうが座ろうが、わしの勝手じゃ。』と言って、指示に従わずに立っていた乗客が、カーブに差し掛かった所で急ブレーキがかかると、車内の壁などにぶつかってけがをする、といったことが多かったのですが、おかげで全て示談で済みました。警察署の人が、けがをした乗客に対し、車内での行動について注意してくれて、そうすると、乗客の側もわかってくれて、私に、『すまんかった。』と謝りました。警察がとても力になってくれたので、何かあればすぐに警察に相談していました。
 バスの運行が始まったころ、歩行者のマナーもあまり良くなくて、『車が止まるのは当たり前で、わしらは気を付けんでもええんじゃ。』という意識の人が多かったように思います。当時、警察署は、交通安全協会とタイアップして、交通安全パレードを継続して行っていました。子どもの交通安全教育という意味で、ありがたかったです。通学途中での事故というのは、私の記憶ではありませんが、子どもが被害に遭った事故としては、バスが子どもをはねた事故が1件あったのを憶えています。路地でキャッチボールをしていた子どもが、取り損ねたボールを追いかけて県道へ飛び出して来て、バスにはねられたのです。運転手も必死になってハンドルを切って子どもをよけましたが、その弾みでバスが近くの家にぶつかり、バスとその家は傷みましたが、子どもにはあまり大きなけがはなくて済みました。」

 オ 苦労した運転手の確保

 「当初、二人いた運転手のうち一人は地元の人で、もう一人は高知県出身の人でしたが、運転手がなかなか定着しませんでした。車掌は私らでも代わりができましたが、運転手はそうはいきません。高知出身の人が辞めた後、地元の人で、日立に勤めている人の中にバスの免許を持った人がいたので、つてをたどって日立の人事課の係長に協力を頼むと、会社としては大っぴらに兼業を認めることはできないが、協力しようということでした。その人には、1週間交替で、定時まで仕事をした後、夜10時過ぎまで乗ってもらう、ということが何回もありました。また、因島バスに運転手を頼みに行くと、労働組合が許可するということを条件とされましたが、それでも何回か協力してくれました。これは、と思うような人も嫌がりました。今は運転手になりたいという人がいっぱいいますが、当時はなかなか確保できず、本当に難儀しました。」

 カ 祭りのときのトラブル

 「私がバスの担当課長をしていたころ、秋祭りのときに、地元の人とバスの間でトラブルがありました。最終便の久司浦発が夜8時なんぼだったのですが、それにお客さんが1人乗りました。その人は、奥さんが久司浦の出身で、祭りで奥さんの里へ帰っていましたが、翌日は仕事があるのでその日のうちに大阪方面へ帰らなければなりませんでした。そのバスが予定通り下弓削に着いていれば、お客さんは船の出発に間に合っていたのですが、上弓削でバスがだんじりに通行を遮(さえぎ)られてしまいました。私は、このとき車掌を務めていましたのでバスから降りて、『誰が頭取(だんじりの責任者)かいな。』と言ったら、酔っている人に絡まれて、双方で言い合っている間にバスの出発が遅れてしまったのです。私はすぐに警察に連絡して、伯方(はかた)署員が上弓削へ駆けつけ、3地区(上弓削、沢津、久司浦)の宮総代を務めていた人が罰金5万円を支払う結果になりました。翌日、宮総代の人から、『どうして前もって、わしに言うてくれなんだ。』と言われたのですが、私もそのときは落ち着いて話し合う余裕もなく、頭に来てしまっていたので、すぐに警察に連絡したのです。」

 キ ワンマンバスの時代へ

 「町営バスの運行が始まったころ、バスには運転手と車掌が乗っていましたが、昭和47年(1972年)に運転手のみのワンマン運行に変わりました。その一番の理由は、車掌がなかなか定着しなかったことですが、当時、酒を飲んで酔っている乗客がおり、その相手をするのが嫌になってすぐに辞めていく人もいて、やむを得ずワンマンバスを始めました。
 この際に、私たちバス事業従事者は、従来はバスを運行してあげている、という意識が強く、それが乗客離れにつながったと反省し、乗客を大切にするという意識で仕事に取り組むことになりました。
 ワンマンバスを始めるにあたり、あるバス会社の人に、潜水艦の潜望鏡の原理を応用して、運転席から車の後方が見えるようにできないか、と相談すると、ある電機メーカーのバックアイ(トラック等の車両後方にカメラを設置し、その画像を運転席のモニターへ映し出すことで、車両の後方を目視で確認できる装置)というものがあると教えられました。そこで、町営バスはバックアイを装備することになったのですが、当時、四国管内でバックアイを付けたバスは初めてということで、新聞にも取り上げられました。」

(3)町営バスから町有バスヘ

 「町営バス事業は、赤字でどうにもやっていけなくなりましたが、その大きな原因は乗客減少と人件費でした。路線バス事業は離島路線バスの補助金をもらって行っていましたが、公営企業法の適用を受けるため、経理は町の一般会計のような単式簿記ではなく、複式簿記で行わなければなりませんでした。補助金をもらうためには、毎日の走行距離や乗降客などのデータを細かく記録する必要があったので、ほかの仕事と兼任できるような仕事量ではなく、専任の事務職員を1人置く必要がありました。全職員4人という小さな事業体で1人の職員減で、試算してみると、それまでのように補助金をもらって運行するよりも、自家用バスとして運行する方が、町の一般会計からの持ち出しが少なくて済んだため、町営バスを廃止することにしました。
 町の自家用バスになってから、特別会計ではなく一般会計で処理するようになって事務量が大幅に減った上に、運行時間を変更したり、料金を変更する場合、町議会の議決が得られれば、運輸省(現国土交通省)の許可をもらわなくてよくなり、事務処理も大変合理的になりました。
 マイカー時代の到来、長引いた造船界の大不況、人口減少、乗客の激減という事態に直面し、町営バス事業者として反省したのは、乗客の減少は、こうした社会現象のためだけでなく、事業を開始した時から当分の間まで乗客への対応面で、無意識とはいえ、傲慢さがあったのではないか、ということでした。今はこの反省が活かされ、利用されている大半の高齢の方々に喜ばれているのは、うれしいことです。
 今は、ここのバス料金は、初乗りが100円で、終点まで乗っても100円で、一部、橋を通行する区間だけは150円でしたが、日本でも指折りに安いのではないかと思いますが、乗る人はあまりいません。運行を始めたころ、町営バスは人々にとって必要なものでしたが、今は人口も減った上に、どの家庭にも自家用車があるため、乗客も減ってしまいました。それでも、やはり私にとっては貴重なバスです。」


<参考引用文献>
①弓削町『弓削町誌』 1986
②弓削町『弓削町誌 補遺』 2004
③弓削町『弓削町誌』 1986

<第3章の参考文献>
・中国地方定期交通船組合『船の旅』 1955
・四国交通運輸協会『旅客航路事業現況表(1956年)』
・日本旅客船協会『旅客定期・不定期航路事業現況表』 1960
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・弓削町『弓削町誌』 1986
・岩城村『岩城村誌』 1986
・旺文社『愛媛県風土記』 1991
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・生名村『生名町誌』 2004

図表3-2-1 町営バスの年間利用者数

図表3-2-1 町営バスの年間利用者数

『弓削町誌』から作成。