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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 島の農業

 戦後から昭和40年代後半ころまでの旧魚島村、旧岩城村の農業の変遷とその特徴について、魚島ではAさん(昭和19年生まれ)、Bさん(昭和24年生まれ)、岩城ではDさん(昭和22年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。

(1)魚島の農業

 ア イモの切干をつくる

 「魚島には畑が多くあったので、除虫菊を作ったり、二毛作でイモ(甘藷)と麦を作ったりしていました。畑は地が浅いので、丸いイモを作っていました。品種は少し黄土色っぽい高系(こうけい)四号だったと思います。
 収穫したイモは農協に出していました。当時はイモを輪切りにして干すカンコロ(イモの切干(きりぼし))を作っていました。普通、イモを切ってカンコロにするにはイモを一つずつ、丁寧に機械に通して作りますが、私(Bさん)はそういう方法で作ったことがありませんでした。私の家ではイモを切る機械の上に箱を付けて、そこに10個から15個のイモを一度にドサッと入れて、上から押し出すようにして機械に通していたので、イモを一つずつ丁寧に機械に通して切ったようなきれいな形の切干ではなく、イモが箱の中で向きが変わって切られる方向が異なってくるので、多少形が悪かったのを憶えています。しかし、10個なら10個、15個なら15個のイモを一度に切ることができたので、効率の良い、よく考えられた方法だと思っていました。」

 イ 手伝い

 「島で農業が盛んに行われていたとき、学校ではイモと麦の収穫の時期に合わせて農繁休業がありました。私(Bさん)の家は専業の農家ではなかったので、農繁期になると子どもが農作業に従事させられる、というような特別なことはありませんでしたが、多少の畑があったので、日々、農作業の手伝いをしていたように思います。
 中学生のころには、イモが収穫されると山の上の畑から家までイモを担(にな)って下ろす手伝いをしていましたが、それが重たかったので、途中でしんどくなったときには、坂の途中に少しずつイモを置いて、荷を軽くしながら下りていました。家までイモを下ろすと、それを床下に設置されているイモ壷に入れます。このとき両親から、『イモを傷つけんように。』と、よく言われていたのを憶えています。
 私(Bさん)の家ではミカンの栽培をしていなかったので、『ミカンを植えたら良いのに。』と思って、母に、『かあちゃん、ミカンはないん(ないの)。』と言うと、母が『ほしたら(そうしたら)ミカンの木を植えるかや。』と言ったので、後日、畑に一生懸命にミカンの木を植えるための穴や水を入れるための壷を掘って、ミカンの栽培を始めました。」

 ウ 漁師にとっての農業

 「魚島では、昭和32年(1957年)ころからミカンの栽培が奨励され始めて、農地が開墾されましたが、私(Aさん)の家ではミカンは一切植えませんでした。農業で収入が得られるのは年に1回なので、漁師が多い魚島の人は、収入のない状態を辛抱することができないのです。専農(専業農家)の人たちは、魚島の中では比較的大きな規模で、ミカンやモモ、イモ、麦、除虫菊などを作っていましたが、徐々に半農半漁に変わってきました。漁業であれば、漁に出ればその日に収入が決まります。ただ、相場をする(有利な相場のときに取引する)ということもありますが、それでも何日か、1週間も待てば現金が手に入るのです。農業は1週間では現金を手に入れることができません。昭和30年代、40年代であれば、漁業の方では網を入れたら、すぐに現金化できる魚やエビなどを獲ることができましたが、農業では栽培を始めてから3か月、4か月、半年、1年と待たなければなりません。そういうこともあって、現金を手に入れるということについては、漁業の方が良かったのです。私の父はよく、『農業はだめ。1年に一回しか銭にならんもんこさえて(お金にならないものを作って)どうするんぞ。』と言っていたのを憶えています。」

(2)レモンをつくる

 ア 果樹試験場岩城分場

 「戦後、島しょ部の農業が次第に柑橘栽培へと移り、柑橘農業が盛んになってきたこともあって、昭和39年(1964年)に、農事試験場岩城分場は果樹試験場へ移管されて、果樹試験場岩城分場として発足しました。私が昭和46年(1971年)に岩城分場へ赴任してきた時には、この辺りの島で栽培されている柑橘類は、気候を生かした温州ミカン、元々は因島(いんのしま)(広島県)が発祥の地である八朔(はっさく)、それとネーブルでしたが、岩城はほとんどがミカンでした。ミカンは、昭和47年(1972年)の全国の収穫量が約360万tと、それまでと比べて飛躍的に増えた一方で、価格が大暴落していました。そこで、果樹農家が何とかミカンで生きていかなくてはならない、専業農家で収入を得ることができるように研究をしないといけないということで、それまでの温州ミカンやイヨカンと併せて、新しい品種をそろそろ作らなければならないという時代が始まったのです(図表2-2-6参照)。」

 イ 新しい果樹を求めて

 「オレンジやそのほかの果樹で、ミカンに代わる品種を研究しなくてはならない、ということで昭和48年(1973年)ころから瀬戸内海の気候に合う品種を探し求め、アメリカやイタリア、スペインなどからオレンジやネーブル、レモンなど、いろいろな品種を百何種類か持って帰りました。当時、岩城分場も地元のミカン農家の人たちも、ミカンに代わるものとして、これからはオレンジの時代だろうということで、いろいろなオレンジを植えていました。イヨカンの新しい品種はありましたが、みんなオレンジに憧れていたのだと思います。これらの試行錯誤の中で、ものになったのがアンコール(いくつかの種類を交配して育成したオレンジ)とマーコット(本種の由来ははっきりしていないオレンジ)でした。
 また、岩城分場にはレモンが11系統入ってきていました。私が岩城分場に赴任した時には、岩城島にレモンはありませんでした。昭和39年(1964年)にレモンの輸入自由化が始まっていて、外国からレモンが輸入されるので、国内の産地がほぼ消滅していたのです。ただ、瀬戸田(せとだ)(現広島県尾道(おのみち)市瀬戸田町)には『レモン谷』というところがあり、その名前を残すためにレモンの栽培が続けられていたようです。そのほか、淡路島(あわじしま)(兵庫県)にはリスボン(ポルトガル原産のレモン、日本には明治末期に導入された)が大切に栽培されていたし、大崎(おおさき)(現広島県豊田(とよた)郡大崎上島(おおさきかみじま)町)や熊本が産地として残っているだけでした。しかし、これらのレモンはすべてリスボン系統で、この系統は木にトゲが多く、そのトゲによって果実が傷つけられて傷み、病気が出やすくなるので、生産者には嫌がられる品種でした。自由化後も残ったリスボンは細々と栽培されていましたが、昭和44年(1969年)ころには全部切られてしまったようです。やはり自由化の影響は大きく、当時は、『レモンはダメじゃ。』という風潮で『レモンを作るところ(農家)なんかない。』という状態だったので、試験栽培用のレモンを持って帰って来ても、果樹試験場の本場(松山(まつやま)市)、岩城分場ともに、レモンの研究に対しては消極的でした。しかし、元々瀬戸内海の島々にはレモンがあったという記憶と記録が残っており、瀬戸田にはまだ残されていました。そういうことから、岩城分場で個人的にレモンの研究をスタートしたのです。」

 ウ 栽培品種を決める

 「リスボン系統にはトゲが多いという難点があったので、トゲが少なく、実の付きの良い系統を奨励系統にしようということで、昭和49年(1974年)にユーレカ(イタリア原産のレモン、日本には大正初期に導入された)を奨励品種に選びました。そしてそのユーレカを県の奨励品種に指定し、栽培試験を始めたのです。
 一般的に柑橘は春に花が咲き、冬に実を採りますが、レモンの場合は熱帯植物で、四季咲性(しきざきせい)といって春夏秋冬、花が咲きます。しかし、瀬戸内の気候では秋や冬に咲く花は、寒さで枯れていました。そこで、『それがもったいない。』ということで、ビニールハウスをかけて、日本で初めてレモンのビニールハウス栽培を行いました。」

 エ ビニールハウスでの栽培

 「ビニールハウスで栽培すると、春夏秋冬に咲く花が枯れずに残っていきます。これはレモンの周年生産が可能になるということです。春の花は秋に実となって採ることができるし、夏の花は翌年の春ごろ採ることができました。年中花が咲いているので、それからできる実を採ることが可能だろう、ということで、レモンの周年栽培試験を始めたのです。ビニールハウス内での栽培では、室内の温度が高くなっているので、2月、3月に花が咲くと、それが枯れることなく、9月か10月に採ることができる大きさの実に生長していました。
 ビニールハウスでの栽培を始めたころ、ちょうど石油危機(オイルショック、第一次は昭和48年〔1973年〕、第二次は昭和54年〔1979年〕)の影響を受けて、冬場に重油を使ってハウスの室内を暖める暖房機を使うことができませんでした。そこで、パイプを地中1mくらいの所に埋めて、夜になって室内の温度が下がると換気扇が回って、パイプの中で温められていた空気を取り出す地中熱交換を行いました。これにより、石油危機の中でも暖房に必要な燃料代には苦労することなくハウスでレモンを栽培することができたのです。」

 オ レモン栽培に適した岩城島

 「温州ミカンは、春に早く気温が上がって、早く花が咲いて、そして秋に気温が下がって、実の色付きが良くなる、という所が産地となります。南予(なんよ)では早く花が咲きますが、岩城島を含む瀬戸内の地域では、春の海水温が低いので、花が咲くのが南予に比べて10日ほど遅いのです。さらに秋は周囲の海水温が高いので、気温が下がらず色が付きにくいという、ミカンにとっては良くない気候です。ところがレモンのような熱帯果樹にしてみれば、岩城島の気候は、冬でも極めて低い気温になることがないので、気温が高いおかげでレモンの花が枯れることがなく、寒害に遭うことがない、という利点があり、レモンの栽培には適しているのです(図表2-2-7参照)。さらに、瀬戸内の気候は雨が少ないのが特徴です。レモンは雨に当たると、かいよう病(カンキツかいよう病)という病気が出ます。このように、暖かくて雨が少ないという理由で、レモンの輸入が自由化された後でも瀬戸内海地域にレモンが残ったのです。
 レモン栽培にも水が必要です。岩城島は江戸時代には松山藩の支配地で、松山へ米を供出することができた島で、水田があり、溜め池があり、水が湧(わ)いて出てくる所もあるので、井戸や溜め池を掘れば、農業を行っていくための水をある程度確保することができます。岩城島では米を作ることが少なくなったこともあり、水田用の水を柑橘栽培に使うことができました。また、島には谷があり、風が当たらない場所や、吹き付ける風が弱い所があります。レモンを栽培する農家は井戸や湧き水を利用でき、風が当たらない所で栽培することができるのです。」

(3)島にレモンを根付かせる

 ア 青いレモン

 「ハウス栽培でできたレモンは、温度が高い中で結果(植物が実を結ぶこと。)しているので、実が青いままでした。冬の12月、寒さが来るまでは、周年栽培で実を採っていてもレモンは全て青いのです。一般的に、レモンはエチレンガスでクロロフィルを除(の)け、黄色く色を付けて出荷しています。これにより、消費者には、『レモンは黄色』という認識が生まれました。そこで、『国産のレモンは青いんじゃ。』ということで、外国産の黄色いレモンとの差別化を図るために、『青いレモン』という名前を付けて、昭和59年(1984年)ころに商標登録を取りました。さらに、この青いレモンを岩城の特産にしようということで、旧岩城村が果樹農家に補助という形で苗木を配布して、レモンの産地を作り上げていきました。」

 イ レモン栽培を広める難しさ
  
 「岩城がレモンの産地になるには、いろいろと苦労がありました。レモンを研究している当時、果樹試験場には育種研究会という組織がありました。研究会では、試験場で導入した品種の苗を、会員に配って、その中から岩城に合う、良いものを見つけ出そうということをしていました。その時、会員全員に苗を配ったはずですが、レモンを作る人はいませんでした。会員の多くが、オレンジなど、値の付く品種の方が良いと判断し、金儲(もう)けになりそうなものを選んで栽培していました。つまり、最初、レモンは見捨てられていたのです。ただ、私はレモンに興味があったので、取り上げて栽培をした、それが始まりです。
 岩城分場でハウス栽培を始めて、青いレモンを作りましたが、このレモンは最初はあまり売れませんでした。外国産のレモンには防腐剤使用の問題がありましたが、国産のレモンはその防腐剤を使っていないから皮まで食べられる、それを見分けるために青いレモンにして、国産であるという証明をしている、というようなことをセールスポイントにして、見本を東京へ持って行って、青いレモンが売れるかどうかを試しました。すると、東京では売れるということが分かったので、これを村(旧岩城村)が特産品にしようと、全農家にレモンの苗木を配布しました。しかし、全農家に配布しても、実際にまじめにやろうとする人は15人程度で、あとの人はみんなミカン畑の片隅に4、5本ずつレモンの木を植えていました。今でも作る人はたくさん作って、あとの人はミカンの片隅にレモンが植えてある、というような状況です。この岩城島がレモンの産地だからといって、レモンだけの畑というのは意外と少ないのです。レモンは儲けが出ない、という考え方があるようで、実際は、苗木をくれたから植えておこう、というくらいのものでした。『庭に植えなさい。』とまで言って積極的に奨励するのですが、『レモンなんか。』という人が多いのです。また、岩城島には大規模な造船所があり、一家全員が造船関係の仕事をしている家も多く、兼業農家の家は、おじいさんやおばあさんが、昔ながらにミカンを作っています。農業を主にしなくても、造船所で働いて、年金をもらって、それだけで食べて(生活して)いくことができるため、ほかの島の柑橘農家とは全く考え方が違うのです。専業農家という形態が少ないので、柑橘に関しては、『どうでもええがあ。』というような程度になってしまっているのです。」

 ウ 顧客を得るために

 「岩城島に就農で来る人たちは、『青いレモンを作りたい。』といって島へ入ってきます。島の中を見ても、レモンは何軒かの農家ががんばって栽培して、そういう人たちは規模が大きくなり、それぞれが顧客を持って、個人で青いレモンの販売を行っています。顧客を獲得するには、青いレモンの知名度を上げなければならないので、販売促進活動で地道にいろいろな所へ行きました。例えば、大阪や東京といった大都会で行われるイベントへ参加して販売をするのです。毎年毎年、個人や第3セクター(国や地方公共団体と民間企業との共同出資によって設立される事業体。)で設立されている物産センターが販売促進をしてきたことで、やっと青いレモンというのが世の中に知られて売れるようになり、今では毎日出荷しないといけないくらいになっています。個人だけではなく、物産センターも顧客を持っているので、青いレモンを必要としており、そこへ持って行けば決まった金額で買い取ってくれます。物産センターはレモンのジュースやゼリーといった加工品も扱っているので、多くの取引先を持っています。例えば居酒屋です。青いレモンの知名度が上がったことで、愛媛県出身の仕入れ担当者がそれを求めて訪れて来ます。居酒屋はチェーン展開をしているところが多いので、それだけ取引も大きくなるのです。」

 エ これからの岩城の青いレモン

 「青いレモンは、このままいける(伸ばしていける)と思っています。今後は就農で新しく岩城島に来てくれた人に、できるだけレモンを作ってもらって、青いレモンを増やしていきたいと思っています。都会の人の中には、農業しながら食べて(生活して)いこうという考え方を持つ人がいます。今、岩城島にI(アイ)ターン(大都市の出身者が地方の企業などに就職・再就職すること。)で移り住んできた人たちは、レモンの栽培に積極的です。私は、さらに青いレモンを引き立て、青いレモンを売るためには、新しい品種としての、『赤いレモン』が必要だと考えています。新しい品種を作りこなしていくことができる人は少ないのですが、この土地や気候に応じた新品種を開発していく必要があると考えています。この島自体は小さな島なので、大量生産でナンバーワンにはなることができません。しかし、オンリーワンでナンバーワンになることは可能だと思っています。岩城にはおいしいものがたくさんある、という豊かな島にしたい。そのためにも、果樹を続けるにはオンリーワンが必要なのです。今、島の農業を守るのはわれわれだ、という考え方でがんばっています。」


<第2章の参考文献>
・愛媛県青果農業協同組合連合会『愛媛県青果連30年のあゆみ』 1977
・愛媛県青果農業協同組合連合会『話題の柑橘100品種』 1977
・愛媛県立果樹試験場『業務報告』 1979, 1981, 1982
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・弓削町『弓削町誌』 1986
・岩城村『岩城村誌 下巻 現代編』 1986
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・魚島村『魚島村誌 魚島村のあゆみ』 1996
・愛果会・愛媛県立果樹試験場『愛媛県立果樹試験場創立五十周年記念誌』 1998
・愛媛県漁業協同組合連合会『愛媛の漁業と県漁連50年史』 2000

図表2-2-6 ミカンの収穫量と卸売価格の推移

図表2-2-6 ミカンの収穫量と卸売価格の推移

収穫量は「青果物生産出荷統計」(農林省)、「果樹生産出荷統計」(農林水産省)から、卸売価格は「愛媛青果連30年の歩み」からそれぞれ作成。

図表2-2-7 岩城村の気温(昭和50年代)

図表2-2-7 岩城村の気温(昭和50年代)

『岩城村誌』から作成。