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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 魚島のくらし

(1)生活に欠かせない船

 「定期船の『うおしま丸』は弓削までの航路で運航されていました。現在よりも時間かかかっていて、昭和40年代後半のころは、弓削まで1時間20分程度かかっていたと思います。うおしま丸には、釣り客をはじめ、行商の人々工事関係者、そして夏場には帰省客と、多くの人が乗っていました。定期船は『郵便船』とも呼ばれていて、郵便物も運んでいました。
 行商の人は、定期船や自分で所有している船などを使って、よそからたくさん来ていました。定期船以外の船で来る業者は、それぞれが所有している船を使っているのか、借りている船を使っているのかは分かりませんが、昆布などの海産物を売りに来ていた人は、所有している船で来る方が多かったように思います。スイカやブドウといった農産物を売りに来る船もあり、それらの船は『ノウセン(農船)』と呼ばれていました。魚島では、衣料品は、雑貨店に肌着が置かれているくらいで、仕立屋もなかったので、高井神島から女性が服を背負って売りに来ていました。ほかにも布団屋、茶碗(ちゃわん)屋、呉服屋、それから鋳掛(いかけ)屋が来ていました。鋳掛屋は、やかんなどの金物に穴が開いたら、ビスを打って直していました。富山(とやま)の越中(えっちゅう)(薬売り)も来ていました。島では簡易な薬品を売る所もありましたが、富山の薬売りから購入する人が多く、昭和30年代、40年代には、各家庭に薬売りから購入した置き薬が常備されていました。」

(2)井戸水を使う

  「村には個人の井戸や共同井戸がありましたが、生活用水には困っていました。また、島の住宅地の中は道路が狭く、家までの坂道や階段を、重たい水を持って帰るのが大変でした。私(Aさん)が小学校の高学年の時には、家で『マゼクリゴト(人が大勢集まる行事、慶弔行事)』があれば、水汲(く)みばかりしていた記憶があります。また、井戸は水を汲むだけではなく、冷蔵庫としても使っていました。夏場にはスイカを冷やしたり、御飯を布に包んで乾かないようにして、シタミ(竹で編んだ籠)に入れて吊るして傷まないようにしていました。個人の井戸を使うことで、風呂水などの使い水(飲用以外の水)には困りませんでしたが、飲み水には困っていました。御飯を炊いたり、お茶を入れたりするために使う水は、比較的水質の良かった共同井戸から汲み上げて家まで持って帰り、台所に甕(かめ)を置くなどして、入れ物という入れ物には全て水を溜(た)めていました。共同井戸は、タイミングが悪ければ水が底をついて、釣瓶(つるべ)が返らないこともあったので、朝早く、人が来ないうちに汲んでしまおうと思って井戸へ行くと、みんな考えることは同じで、たくさんの人が来ていました。井戸の水は人が汲み終えるのを待っていたらなくなってしまうので、釣瓶は家のものを持って行っていました。当時、釣瓶の綱はシュウロヅナ(シュロで編んだ綱)で品質が悪く切れやすかったので、ニナイ(本を入れて運ぶための桶(おけ)、担桶(にないおけ))一杯に水を汲むのは大変な作業でした。汲み上げた後は水を家まで担ぎ上げて、甕や水槽に溜めていました。水汲みの仕事は本当にきついので、老夫婦の家では、昨日沸かした風呂の水を今日も沸かす、というようなことをしていたようです。当時は五右衛門(ごえもん)風呂で、風呂一杯に水を張るには井戸から3、4回は運んで来る必要がありました。さらに、風呂が沸き過ぎたときに入れる足し水として、1回分は置いておく必要がありました。私(Bさん)の祖父の家では、祖父と祖母の二人だけで生活していたので、風呂水の上に浮いている垢(あか)をすくって取り除き、また沸かし直すというようなことがありました。ある日、私(Bさん)が『じいちゃん、今日は僕が下(にある井戸)から水汲んで来るわ。』と言って、本を汲んで来て風呂を沸かすと、『ああ、今日は気持ちがええわい。』と、うれしそうに言っていたのをよく憶えています。水汲みは、子どもの仕事と決まっていたわけではありませんが、水運びのできる力がついたころには、ほとんど自分たちが汲みに行っていました。井戸へ行くと、同級生とよく会っていました。水が一杯に入ったニナイを同級生がどうやって持って帰るかを見て、あえて同じ持ち方でニナイを持って、運ぶようなことをして、友達と力比べをするようなこともありました。」

(3)山で働く

 「山の畑では麦やイモ(甘藷(かんしょ))、ミカン、除虫菊などを作っていました。私(Aさん)の家ではイモを薄く切って作ったカンコロ(カンコ、イモの切干(きりぼし))や除虫菊を、農協を通して販売していました。当時は山の上まで畑があったので、農業をやっていた人たちは、畑で使う水を確保するのには苦労していました。水を得るために、山の上には野壷(のつぼ)(肥溜(こえだ)め)が掘られて下肥(しもごえ)が溜められており、下肥は肥(こえ)として、また、水分として利用されていました。下肥を畑の野壷に運ぶ仕事は女性の仕事でした。どの人も運ぶ際にはカベリよりました(頭に載せていました)。それほど大きな入れ物ではありませんでしたが、それなりにモノが入ったらとても重たかったと思います。私ら(魚島の人)は山仕事に天秤(てんびん)(天秤棒)は使いません。山道が細く、傾斜が急な所があり、天秤の先に付けた荷物が斜面にぶつかって使えないのです。家のトイレは汲み取り式でしたが、山(畑)へ行くときには汲み取って持って行っていたので、排泄物がトイレに溜まることはありませんでした。」

(4)海で働く

 「私(Aさん)が本格的に漁に出るようになったのは、昭和35年(1960年)ころからです。冬場に漁に出ると、とても寒いのですが、当時は私も若かったので、仕事がしんどいとか、体がきついとか、暑い寒い、というようなことはあまり感じませんでした。冬場の風のよく吹く日に沖で仕事をすると、手の先が冷たくなります。しかし、漁を終えて港へ帰ってくると、冷たい風が直接体に当たらなくなるので、沖で冷えきっていた手から湯気が出ていました。それぐらい寒い中で仕事をしていたのです。そのときは、湯気を見ながら沖での漁を思い出して、若いながら、『わしも年いったらエラかろう(しんどいだろう)ぞい。』と思っていました。
 漁へ出て、危ない目にも何回か遭いました。一度、漁船に備え付けているロープやワイヤーを巻き上げるためのローラーに、服の一部を引っ張り込まれたことがあります。服の袖の部分がワイヤーと一緒に巻き込まれてしまい、体ごと引っ張られたのです。幸い怪我(けが)をすることはありませんでしたが、その時は、防寒着の片腕の袖の部分が残っただけで、あとは全てローラーに巻き込まれていました。もし、体まで巻き込まれていたら大怪我をするし、ひょっとしたら死んでいたかもしれない事故でした。
 漁をするには天気を基に波や風を読む必要かおり、漁師はそれぞれの経験でその日の海の状態を予想します。私(Aさん)よりも前の世代の人は、夏は『ウタセ(打瀬船、帆打瀬)』で漁をしていたので、風を読まないと仕事になりませんでした。例えば、『四国の山に雲があると、今日は太陽が照って海が凪(な)いどっても海へは行くな、昼ごろから風が吹いてくる。』とか、反対に、『今は風が吹いているけれども、晩方になったら凪ぐから行ってもええ(良い)。』など、山にかかる雲や天気の様子から、その日の波の状態まで予想をしており、このような、経験から得ることができる『読み』は、高い確率で当たっていました。特に、風を予想するには今でも空を見ます。雲の行きよう(流れ方)で、それが速いから風がくる(吹き始める)、というような見方をしているのです。それから、漁師の間には、『にっぱちかわいこ船に乗せな。』という諺(ことわざ)があります。『にっぱち』とは旧暦の2月と8月のことで、今でいうと3月と9月のころになります。3月ころには気温が上がって暖かくなってきますが、まだ冬型の気圧配置で風が強い日があり、9月は台風シーズンで強風が吹く可能性があるので、船に乗せたら危ない日がある、ということなのだと思います。」

(5)島で遊ぶ

 「子どものころは、いろいろな遊びをしていました。コマ回しは、一尋(ひろ)(約1.8m)くらいの長さのひもを使って、ちょんがけや小振り、大振り見事に回して遊んでいました。これらの技は、空中でコマを投げて、回転しているコマを投げた手で受けます。手のひらで回転しているコマを再び空中に浮かせて、ひもをコマの芯にかけ、小振りから始め、徐々にひもの摩擦でコマに勢いをつけて大振りにしていくのです。また、コマ同士を地面で回してぶつけ合う遊びは『ドウワ(胴輪)』といい、その遊びに使うコマを、『ドウワのコマ。』と呼んでいて、私(Aさん)らが子どものころは、このコマ回しがとても楽しかったことを憶えています。コマ回し一つで、『わし、これできるんじゃ。』と言って、子ども同士が誇らしげにしていたものです。
 ほかの遊びには、タスケやキイチがありました。タスケは、鬼が一人いて、鬼に捕まった連中が、決められた場所で数珠繋(つな)ぎにされているので、まだ捕まっていない連中が鬼の隙をみて捕まらないようにそれにタッチすると、タッチされた人たちが解放されるという遊びでした。キイチは、木の先を尖(とが)らせて杭(くい)を作り、地面の軟らかい場所にそれを突き立て、その杭の倒し合いをする遊びです。パッチン(メンコ)やビー玉での遊びもありました。パッチンは丸く小さな厚紙でできたものです。それを地面に叩きつけて相手のパッチンをひっくり返すようなことをしていました。ビー玉には三角出しなどの遊び方があったように思います。
 夏には、港付近に浮かんでいた、竹で編まれた生(い)け簀(す)の近くで泳いで怒られたことがあります。この生け簀には、漁でたくさん獲れた魚を『出買(でが)い』と呼ばれていた船が買い付けに来て、船に積むことができなかった魚を入れていました。それぐらい多く魚が獲れていたので、港にはたくさんの生け簀が筏(いかだ)のように並んでいたのを憶えています。出買いの船は魚島で獲れた魚を大量に積み込んで、阪神(はんしん)方面へ出荷していました。」

(6)島の食事

 「島では昭和40年ころになって、主食が米に変りました。昭和30年代には、まだ米を食べることができなかったということです。三度の食事が三度ともイモ、おやつがイモ、という家庭もあったように記憶しています。私(Bさん)と年齢が一回り(12年)違う叔父が高校生の時には、弁当を持って行くために、米一人分を茶碗に取って炊いていました。米を炊いたのは、この弁当のためだけで、私たちはまだ麦飯を食べていました。いつごろのことかは記憶が定かではありませんが、それが半麦(はんばく)になって、それから米と麦が七三か八二の割合になって、一気に白米の御飯に変わっていったのです。島にはニゴミ(ウオメシ〔魚飯〕、鯛飯)や、デビラ(魚島近海で獲ることのできるカレイの一種)を干したものを焼いて、御飯に混ぜ込んで食べるデビラメシがありました。また、サツマは白身魚であれば何でも構いませんが、エソ(エソ科の海魚)やチヌなどにこだわっていた人もいました。私が小学生のころは、バナナが貴重で、めったに食べることができませんでした。ただ、仕事で弓削にいた父が、外国航路に乗って仕事をしている方から、『持って帰れや。あげるわや。』と言われて、もらったバナナやチョコレートを持って帰っていたので、たまに食べることができました。」