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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 郡外への航路

(1)宇和島や宿毛方面を結ぶ航路

 ア 航路の移り変わり

 南宇和郡と県内あるいは県外の各地を結ぶ定期航路の始まりは、『城辺(じょうへん)町誌』『御荘(みしょう)町史』『西海(にしうみ)町誌』などによると、明治29年(1896年)に平山(ひらやま)港(当時内海(うちうみ)村、現愛南町)を拠点に営業を開始した南予運輸株式会社の御荘丸で、御荘と宇和島(うわじま)を結んでいたという。
 明治時代後期には瀬戸内海航路や宇和海航路の整備が進み、明治41年(1908年)の汽船案内によれば、大阪商船株式会社所属の第九宇和島丸が、高浜(たかはま)(現松山(まつやま)市)から大分県(別府(べっぷ)や佐賀関(さがのせき)など)や宇和海沿岸各地の港(八幡浜(やわたはま)や宇和島(うわじま)など)を経て宿毛(すくも)(高知県)に至る航路に就航しており、南宇和郡では深浦(ふかうら)に寄港している(①)。大分県への寄港は、昭和3年(1928年)の汽船案内ではなくなり、昭和15年(1940年)までに、南宇和郡内で深浦のほかに船越(ふなこし)にも寄港するようになった(②)。
 一方、郡内を拠点とする南予運輸株式会社は、大正時代に大分県と愛媛県、高知県の14の港を結ぶ航路を開いている。大正12年(1923年)の航路時刻表によれば、宇和島を午前7時に出航し平城(ひらじょう)(長崎港)に11時50分着、船越に午後2時20分着となっている。
 昭和16年(1941年)には、宇和島や宿毛、佐伯(さいき)(大分県)など郡外の港と結ぶ六つの航路があった。戦後の昭和26年(1951年)になっても、これらの航路はほぼ継承されて寄港地が増え、深浦-宿毛航路には、新たに垣内(かきうち)、岩水(いわみず)、大浜(おおはま)(当時東外海村、現愛南町)などにも寄港する航路(土予汽船組合経営)が現れ、海上交通は隆盛期を迎えた。
 しかし、戦後の復興とともに陸上交通の整備が進み、海上交通は衰退していく。昭和33年(1958 年)には、宇和島-平城、宇和島-小筑紫(こづくし)(高知県)、別府(大分県)-宿毛、深浦-宿毛の4航路となった。そして、昭和43年(1968年)に宇和島-平城航路が廃止されて、郡外への航路はなくなった(③)。

 イ 貝塚港から長崎港へ

 長崎(ながさき)港は、御荘港あるいは平城港とも呼ばれ、明治時代の終わりから平城の玄関口としての機能を果たすようになった。それまでは、長崎港の東約1kmにあった貝塚(かいづか)港が平城の玄関口であった。
 江戸時代から明治時代にかけて、御荘湾内の僧都(そうず)川河口付近に貝塚港があって、僧都川流域の林産物の積出し港として栄えていた。港の周辺には、西宇和郡出身者によって酒造や醤油(しょうゆ)の醸造業が営まれ、店舗や倉庫が集中していたという。しかし、僧都川河口付近に土砂が堆積すると港湾機能が徐々に西側に移転したようで、明治35年(1902年)には長崎に港が整備された。
 昭和28年(1953年)に刊行された『愛媛県新誌』には、「平城は明治初年まで海港で、今の役場(本書執筆当時は平城の町並みの西端にあった。)の下まで80石から100石の船が入ってきた。まだ当時の船問屋も残っている。(中略)僧都川の堆積作用が盛んなので河口は伝馬船(てんません)も入れなくなった。」と記されている(④)。
 また、昭和45年(1970年)に刊行された『御荘町史』には、江戸時代の元禄年間(1688年~1704 年)、貝塚港に、炭その他の物資を回送する道後屋という船問屋があったこと、文化・文政年間(1804年~1830年)には岡原又兵衛の三浦屋などがあって、南宇和郡の商取引や物資輸送の中心地であったこと、僧都川を利用した奥地からの木材流しや僧都から人馬で運ばれた薪炭(しんたん)はここから海上輸送すること、長崎港が貝塚港にとって代わるのは明治も終わりのころのこと、貝塚港跡は新地と呼ばれていることなどが記されている。
 貝塚港は僧都川の河口北岸にあった。明治9年(1876年)に作成された平城村の土地台帳である「段別畝順帳(たんべつせじゅんちょう)」によると、地目が「薪揚場(たきぎあげば)」となっている土地が4筆ある。明治12年(1879年)に作成された平城村の「地価一筆限帳(ちかいっぴつかぎりちょう)」では、地目の「薪揚場」が後に「物揚場」と朱書で訂正されている。これら土地台帳の地番を、松山地方法務局宇和島支局所蔵の地籍図と照合すると、薪揚場は僧都川北岸附近にあったことが確認できる。港はその一帯の地名から貝塚港と呼ばれていた。
 長崎港は一時期、貝塚港と呼ばれたようである。明治43年(1910年)編さんの「御荘村郷土誌」の「渡船場」の項目には、旧来は平山に「貝塚港」に渡る渡船があったが、近年、貝塚港に渡船場を設け数十隻で渡船をしていること、続く「港」の項目に、貝塚港から汽船2隻が毎日宇和四郡及び九州へ航海していることが記されている。これらの記述を裏付けるのが明治39年(1906年)発行の地形図の長崎一帯の記載である。当時の県道は、貝塚から西へ山中を進んでいて、90.63mの水準点がある急坂であったので、急坂を避けて長崎から平山まで船で行き、そこから県道へつなぐ渡し船ルートがあった。長崎まで開通している道路の途絶える場所に、渡し船や汽船の地図記号が描かれていて、明治37年(1904年)に長崎にあった港を、明治43年(1910年)編さんの「御荘村郷土誌」で貝塚港と呼んでいたことがわかる。なお、貝塚港は、元の僧都川河口付近から一度に長崎の地に移動したのではなく、少しずつ港が西へ移動したという説がある。

(2)宇和島航路と人々のくらし

 深浦に住むAさん(大正11年生まれ)と、かつて旧城辺町内に住んでいたBさん(昭和4年生まれ)は、次のように話す。
 「私(Aさん)が小学生のころ(昭和4年から10年)は、まったく道路が整備されていませんでしたから、どこへ行くにも船でした。当時は、大和(やまと)丸とか繁久(しげひさ)丸が運航していました。昭和15年(1940 年)には天長(てんちょう)丸、天光(てんこう)丸が深浦に入港するようになり、戦後には、盛運社のはるかぜ丸やあかつき丸が来ました。
 昭和9年(1934年)、私が小学校6年の時、修学旅行で初めて別府へ行きました。当時は城辺でも御荘でも皆、宇和島へ修学旅行に行っていたのですが、深浦は別府に行きました。宇和島丸の3等船室より格下の船底に、荷物をのけてゴザを敷き、そこに子どもは入りました。午後2時か3時ごろ、宇和島で城辺や平城の子どもは船を降りるのですが、『おれらは別府じゃあ。』と自慢げに第14宇和島丸に乗り換えて、夜の8時過ぎに出帆しました。ところが、オオニシ(強い北西風)が吹いて船が揺れるのです。各港に寄りながら進むのですが、八幡浜を出て、佐田岬半島を過ぎたころには、船に乗っている同級生は皆酔ってしまい、吐いていました。引率の先生と私だけが大丈夫でした。先生が弱って吐いている子どもの介抱をして、吐いたものを集めた金(かな)だらいを、私が船縁(ふなべり)まで持って行って海に捨てました。当時、船に乗るときは必ず一人一人にたらいが付いていました。
 同級生が皆弱っている時、私は船長室へ遊びに行きました。船長は快く私を招き入れてくれました。『深浦小学校か。』『はい、深浦小学校です。』と話し、柿の浦のだれそれは来ておるか、と尋ねられました。同級生に船長の身内がいたようでした。船長とは、『船に強いねえ。』『漁師の子で、小さい時から船に乗っていますので、強いです。』『ふーん、大したもんじゃ。』などと話したことを憶えています。朝の3時か4時ごろ別府に着きましたが、明るくなるまで船内にいました。
 昭和13年(1938年)に、東京へ行きました。深浦から宇和島丸に乗って、高浜から今治(いまばり)へ向かい、それから四阪島(しさかじま)の煙突(銅の精錬所があった)を見ました。高松(たかまつ)へは夜に着き、神戸へ着いたのは朝の4時か4時半ごろでした。東京へ行って3年して、昭和16年(1941年)に深浦へ帰って来ました。その時は、鉄道が八幡浜まで通じていたので、八幡浜からバスで帰りました。八幡浜から宇和に出て、宇和からトロッコ列車(車体の上半分が外気に開放された車両)で宇和島まで行って、宇和島から城辺までバスで4時間くらいかかって帰りました。
 私は、昭和18年(1943年)に宇和島丸で出征しました。船で深浦から高浜まで行き、松山で2泊くらいして、松山から善通寺(ぜんつうじ)(香川県)まで汽車で行きました。朝8時に深浦を出て、11時ごろに由良(ゆら)の沖で昼飯です。午後1時半か2時ころに宇和島に着きます。それから夜まで、宇和島港で休みます。夜の8時ころに宇和島を出て、吉田(よしだ)(宇和島市)、三瓶(みかめ)(西予市)、八幡浜、川之石(かわのいし)、三机(みつくえ)(伊方町)、長浜(ながはま)(大洲市)、郡中(ぐんちゅう)(伊予市)に立ち寄り、昼前に高浜(松山市)に着きました。
 このころの定期船は、宇和島から朝の4時ごろに深浦に着き、宿毛へ行って、宿毛から深浦へ午前8時ごろに帰って来ます。1日1便の定期船に、宇和島や神戸、大阪方面へ行く人は乗っていました。初めは深浦に接岸せず、深浦湾の真ん中あたりにあるブイ(係船や航路標識のための浮標)に係留していて、陸から汽船までは『だんべ』という船に人や荷物を積んで運んでいました。だんべは幅が広くて底の浅い船で、だんべから汽船に乗るときは、梯子(はしご)を上がっていました。荷物の多い人からは別料金を取っていました。昭和8年(1933年)ころに深浦港に浮桟橋(うきさんばし)ができ、汽船が接岸するようになりました。
 船には1等、2等、3等がありました。船室の造りや食事のサービスが違います。3等は広い船室に雑魚寝(ざこね)でした。3等でもチップを払うかどうかで扱いが違いました。チップを船員に渡しておくと食事に一皿を別に付けてくれたり、枕や毛布を持ってきてくれたりするのです。船によって多少違いはありますが、1等は2段ベッドになっていました。2等の運賃は3等の運賃の倍でした。また『特2』というのがあって、チップを船員に払えば、特2に入れてくれました。」
 また、中浦に住むCさん(昭和12年生まれ)は、次のように話す。
 「私が子どものころ、宇和島へ行くのに由良の鼻(由良半島先端)を越える(半島の先を回る)と船が揺れるので、半島の途中の魚神山(ながみやま)で船を降りて、峠を越して須下(すげ)(現宇和島市津島町)へ歩いて行き、そこからまた船に乗ったことがあります。子どもの足で山越えをして船を待っても、十分時間がありました。
 昭和30年代の中ごろ、盛運社の由良丸が宇和島港から中浦港まで荷物も運んでいました。私方は、大きな竹かごに入れた野菜を何度も運んでもらいました。当時は、深浦港が南郡の玄関口であったように思います。船越や深浦から宇和島へ行くときは、天長丸に乗って行きました。昭和30年(1955年)ごろ、私は夜の12時ごろに船越を出る宇和島行きの船に乗って行き、朝、宇和島に着いたら、港から駅まで歩いて始発の汽車に乗っていました。船の乗客の中には、港から駅まで人力車で行く人もいました。」