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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 炭焼きの仕事

(1)木炭の生産

 一般家庭にガス器具が普及する昭和30年代まで、木炭は、薪(たきぎ)とともに家庭用燃料として重要なものであった。自給用の木炭生産は各地で行われていたが、販売を目的とした製炭業が成立するのは、都市部での需要を満たすことが求められ、用材や生産労働者、流通経路が確保できるようになった江戸時代のこととされている。
 愛媛県の製炭業は、昭和40年代まで県内各地で行われ、大洲(おおず)市や喜多(きた)郡、上浮穴(かみうけな)郡、北宇和(きたうわ)郡などの中山間地域で生産が多かった。大洲市や喜多郡、上浮穴郡は、主に松山など近隣都市の需要を賄(まかな)っており、北宇和郡や南宇和(みなみうわ)郡は、大阪(おおさか)など関西(かんさい)地方への出荷が主であったという。
 地理学者である篠原重則氏は、昭和30年代後半から40年代にかけての衰退期にあった製炭業をテーマに研究を行った(①)。篠原氏の研究成果によれば、江戸時代、南宇和郡で藩直営の製炭業が行われ、木炭は海上輸送によって、薪をはじめとするほかの林産物とともに大阪へ回送されていた。明治43年(1910年)には、愛媛県の木炭生産量のうち、約34%が北宇和郡で、約20%が南宇和郡で生産されており、県の南西部で製炭量が多かった。篠原氏は、製炭業の生産形態を四つに分類している。その上で、卓越する生産形態及び製炭技術の程度を指標として、四国全体の製炭地域の地域区分を試みている。南宇和郡は、宇和島市、北宇和郡や高知県の幡多(はた)郡、高岡(たかおか)郡とともに「四国西南地域」を形成しており、昭和39年(1964年)には、この4郡で四国全体の45%の生産量があった。
 製炭業が南宇和郡や北宇和郡で発達した要因として、第一に、篠山(ささやま)山系や鬼ヶ城(おにがじょう)山系の広大な国有林に木炭原木となるカシなどの天然広葉樹林が存在したこと、第二に、交通不便な時代にあっても、積み出し港の近くに製炭産地が立地し、人馬によって搬出するのが比較的容易であったこと、第三に、当地方がもともと出稼ぎの多い地域で、安価な労働力を製炭業に提供したことなどが挙げられる。
 木炭はその製法によって、白炭(しろすみ)と黒炭(くろすみ)に分類される。大正4年(1915年)の統計では、県内の木炭生産量のおよそ4割が白炭で、南宇和郡のほか宇摩(うま)郡や周桑(しゅうそう)郡、北宇和郡で白炭の生産が多かったが、消費者の嗜好(しこう)や生産のしやすさなどから次第に黒炭の生産量が増え、昭和33年(1958年)には、白炭の生産量は県内木炭生産量の5%になった。しかし、南宇和郡では依然、白炭の生産量が黒炭を上回っており、白炭の生産を中心とした製炭業が行われていた。

(2)炭を作る

 ア 炭窯を造る

 愛南町では、かつては篠山山系に最も近い一本松(いっぽんまつ)地域などでも木炭の生産が行われていたが、現在では、城辺(じょうへん)地域の僧都(そうず)地区に限られている。僧都地区で炭焼きの仕事に長年携わってきたAさん(昭和21年生まれ)から話を聞いた。
 「僧都地区の炭焼きは歴史が古く、空海(弘法大師)の時代に炭作りを行っていたのではないかと言い伝えられています。後世の人が付けた名かもしれませんが、僧都の方言で炭窯(すみがま)の煙突のことを『大師穴(だいしあな)』と呼びますので、平安時代には炭焼きがあったと言われています。
 炭焼きは、ただ炭を作ればいいというものではありません。窯を築かなければいけないし、覆(おお)い屋(や)も作らなければいけない。炭焼きというのは、大工仕事があり、左官仕事があり、石屋の仕事があるのです。業種別に分かれて炭を焼けば、どれだけの人が必要か分かりません。どれか一つでもできなければ、炭はできないのです。
 窯があって炭を焼くだけでいいのであれば簡単ですが、年に1回か2回、壁が壊れてくれば窯の中に入って補修をしなければなりません。そのことを補修とは言わずに『造作(ぞうさく)』と呼んでいます。この補修の仕方にも違いがあるのか、高知県では、窯の天井が壊れて開いたままでも中から補修していないようです。私たちは入念に補修するので、終(しま)いには、天井や壁の厚みが30cmから40cmの厚さになっています。私の所では、窯の中を直しておかないと窯が高温を保つことができず、いい炭ができません。補修をしながら炭窯を使っているので、長いものになると数十年使用している窯があったりします。
 窯を造るため、地元僧都の土を含めて、いろいろな所の土を使ってみました。僧都の土が使い物にならないというわけではないのですが、火に強い土を使わなければならないのです。私が知る限りで最もよい土は、愛南町正木(まさき)地区の隣、宿毛(すくも)市山北(やまきた)地区(高知県)にある土です。およそ10m掘った穴から、トラック1台分の土を持って帰りましたが、手箕(てみ)(土やごみなどをすくい入れる竹編みの道具)に1杯の石も出てきませんでした(石が混ざると温度差から窯に亀裂ができやすい)。こんなによい土は僧都にはありません。
 私方には、レンガを使って造った窯があります。床は耐火レンガで、壁は普通のレンガを使用しています。レンガの上に土を塗り込み、またレンガと石積みの間にも土を塗り込んでいます。幅約15cmのレンガで厚みをとって石積みをし、土を練り込んだ手法をとっているため、長く使用してもほとんど窯の大きさが変わりません。しかし、はっきりとは分からないのですが、熱効率だけではなく土とのバランスがうまくいかないのか、石積みに土を塗り込む窯と比べ、レンガ窯の方が炭の出来は悪いです。
 それでも、私方にある石積みに土を塗り込んだ窯も、窯の床だけはレンガにしています(写真2-2-1参照)。昔は土で床を造っていましたが、それでは1年に1回、床をやり替えければならないのです。1年たつと、だんだん土が剥(は)がれてきて、10cmほど床が下がってしまいます。10cmも下がってしまうと、炭が出しにくくなってしまいます。レンガであれば、多少の傷(いた)みはできますが、傷みの箇所だけ補修を繰り返せば、何十年でももちます。最初のころはよく分からなかったので、レンガの目地(めじ)をつけなければいけないのかと思ってつけていたのですが、トビ(窯の中から炭を引き出す道具、写真2-2-2参照)が引っかかってレンガをほがしてしまう(レンガをはがして凹凸ができる)ので、床は段差のない方がいいということに気が付きました。レンガを炭窯の床に使用したのは、私が初めてではないかと思います。近所の同業の人も、1年に1回窯の床をやり替えるのは大変であったのか、床をレンガにしていったようです。」

 イ 木を用意する

 「炭を焼くために、材料となる木を用意します。炭の原木は、立木(りゅうぼく)といって、根から上の部分だけを買います。庭や道路端に植えたりする植木は、根から全部買わなければなりませんが、炭用は根から上だけを買い、窯まで運んで来て焼くことになります。
 原木となるウバメガシは、土地のよい所に生えているものの方が、枝ぶりがよく曲がりがありませんが、そのような場所ならほかの木の方がよく育つので、どちらかと言えば土地の悪い所に生えているものが多いです。カシも、土地の悪い所に生えているものが多いのですが、逆にシイは、土の深い土地のよい所に生えているものが多いようです。
 ウバメガシやカシは、土が浅く石のある土で育つので、しっかりとした強い根を張っています。スギやヒノキは1回切ると生えてきませんが、雑木は生えてきます。シイは、20年もあれば伐採できますが、ウバメガシは10年や20年では伐採できるようになりません。私が専らウバメガシを焼き始めたのは、僧都地区でもかなり早い方で、ほかの人が地元のカシや雑木を焼いていたころでした。」

 ウ 炭を焼く

 「原木を購入すると、私方では、木は横に並べて窯に入れるため、その長さに合わせて切ります。窯に原木を並べる際には、並べる方法が縦と横の二つあり、僧都では高知県と同じく横に並べます。横に並べて焼き上げると、製品は重くなります。逆に、縦置きの地域もあり、縦置きの方が早く焼けますが、出来上がった製品は軽いものになります。
 ウバメガシを焼く窯の温度は、昔より今の方が高いと思います。良質の炭は、茶碗を叩(たた)いたときのような金属的な音がしますが、温度を上げないと、良質の炭にはなりません。
 窯の大きさにもよりますが、大型で新しい窯は、1回の窯出しで、約15kgを1ケースとして約70ケース分取ることができます。しかし、窯は、使用年数がたつと焼き締められて天井が低くなり、中に入れる原木の本数自体が減るため、50ケース分くらいしか取れなくなります。計算すれば20ケース減ることになりますが、新しく窯を造って2年ぐらいしたら、本数を50ケース分くらいに抑えて焼き締めた方が、結果的にいい炭を多く取ることができます。単純に70ケース分の炭を焼いても、悪い炭が多くなるだけなのです。」

 エ 炭を製品にする

 「本格的に備長炭(びんちょうたん)(ウバメガシを材料とし、火力が強く、炎も出ず、灰も少ない炭)を焼き始めた時、柄鎌(えがま)の元(柄の部分)を取り外したものを使って備長炭を切っていました。和歌山県でも同じようにしていたと聞いています。
 窯のある場所で電気が使えるようになったため、知人から『炭をグラインダー(研削工具)で切ってみてはどうか。』と勧められ、使ってみたのですが、鉄を切るカッターでは炭は切れませんでした。そこで、アスファルトを切るダイヤモンドカッターを使うことを思い付きました。これを使うと上手に切ることができたのですが、最初は金銭的にきつかったです。今でこそ、ダイヤモンドカッターの刃は1万円くらいで売っていますが、その当時は、グラインダーの本体が3万円ほどしかしないのに、刃だけで3万円ほどかかったのを憶(おぼ)えています。また、炭を切った際に出る粉が本体のコイル部分に付着するような安いのはだめで、炭は電気を通すためすぐに壊れてしまうことが多かったように思います。
 どんどん機械化が進むことで作業効率が上がり、多くの商品が出荷できるようになったかというと、そうではなく、昔は炭の選別が少なく、何もかも詰め込んでいたので、一人が1日に20ケースから30ケース作ることができていたのですが、選別をしっかりするようになってからは10ケースほどしか作ることができなくなりました。」

 オ 炭を売る

 「昭和40年代は、家庭用が1ケース15kg入りで、工業用として出荷されていたのが20kgでしたが、1ケースの値段は数百円ぐらいで千円もはしていなかったように記憶しています。私が炭焼きを始めた時分は非常に炭が安く、炭の質が悪く売れなかったため、問屋に出向いて直接話を聞き、値段の交渉をしたことがあります。そこで分かったのが、仕分け自体が昔のままではだめだということでした。後で聞いたのですが、窯から出た炭を、和歌山県の業者は36通り、高知県の業者は18通りに仕分けしていたのです。現在、私は10通りに分別していますが、当時は4通りにしか分けていなかったのです。
 高く売ろうと思えば、きちんと選別しなければならないし、きれいな製品にしなければならないため、非常に時間がかかります(写真2-2-3参照)。問屋を通しているのでお客の評判は分からないのですが、お客の信用を裏切れば、取引がストップしてしまうことになります。今の販売金額の順位は、生産量日本一である和歌山県が販売金額としても日本一で、続いて高知県、3番目に愛媛県という順位になります。昔は、炭は僧都生産組合を通して出荷されていました。現在も組合の名称が残っており、私が組合長をしてはいますが、取引自体はそれぞれ個人に委(ゆだ)ねられています。
 愛媛産の備長炭の名称は私が付けました。それまでは『伊予白炭(いよしろすみ)』と呼ばれていました。愛媛にしようか伊予にしようか悩みましたが、伊予白炭と呼んでいたから『伊予備長(いよびんちょう)』と命名しました。」

 カ 素灰や木酢液

 「炭を焼いたときにできる素灰(すばい)は、焼き物の釉(うわぐすり)に使うと、緑に近いおもしろい色が出ます。素灰なので黒くなるかと思われますがそうではなく、炭を水の中に入れると澄んできて、もっときれいになります。また、野菜、特にゴボウを植えるときに欲しいので素灰を分けてもらえないかという人がいますので、無料で分けてあげています。知り合いの陶芸家も以前、『おもしろい色が出るから釉として使う。』と言って、素灰を取りに来たことがあります。
 また、私はしていませんが、木酢液(もくさくえき)を取って売っている業者もいます。木酢液を取るのはかなりの手間が必要で、かつ木酢液を作る装置は独自のもので既製品がなく、鉄工所などに製作してもらわなければなりません。自分で考えて、こう作って欲しいと頼むので費用がかかり、1台10万円くらいすると聞いたことがあります。木酢液は、煙を冷(さ)まし、落ちてきた水をエスロンパイプや竹で集め、下に置いた皿で受けて集めるのですが、その受け皿の材質は、不純物の出る鉄ではなく、アルミニウムで作ってもらわなければならず、それが高価なのだそうです。その皿の、下の方には水が溜(た)まり、上には不純物が溜まるため、澄んだ中ほどがよく、早く濾過(ろか)させようと思えば炭を入れておくのがよいそうです。
 木酢液は、肌の痒(かゆ)みやあせも、発疹(はっしん)などにもよく効くらしいです。また、酒が好きな人は、酒を飲む前でも飲みながらでも、木酢液を飲んでおくと酔いにくいのだそうです。消毒液の代わりに野菜にかけることもあります。」

写真2-2-1 炭焼き窯

写真2-2-1 炭焼き窯

愛南町僧都。平成25年10月撮影

写真2-2-2 トビとサライ

写真2-2-2 トビとサライ

下がトビ、上の三つがサライ。愛南町僧都。平成25年10月撮影

写真2-2-3 白炭作り

写真2-2-3 白炭作り

愛南町僧都。平成25年10月撮影