データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 商店街のくらし

(1)生活の変化

 ア 車に乗る

 「業務用の車が普及し始めても、まだ各家庭に乗用車が普及していない昭和20年代後半、私(Eさん)は、宇和島の和霊(われい)神社境内で行われたサーカスを見るために、地元の人が手配した幌(ほろ)付きのトラックで連れて行ってもらったのが、陸路で城辺から宇和島まで行った最初の記憶です。
 私(Cさん)のうちには、昭和38年(1963年)、東京の学校に行っていた私が夏休みに帰省すると自動車がきていました。その購入した車は、2人乗りで、後ろが荷台になった軽四自動車でした。
 私(Aさん)が初めて車を買ったのは、昭和38年(1963年)ころで、松山の販売店からでした。松山まで車を受け取りに行ったのですが、当時は、今のように整備された道路ではありませんでした。松山を出て法華津(ほけつ)峠の辺りを上がったり下がったりしながら走り、城辺に着くまでに約10時間もかかりました。城辺まで車を持ってきてもらうこともできましたが、できるだけ早く乗りたかったので、泊まりがけで松山へ行きました。車のギヤは前進と後進の切り換えしかなく、排気量は200㏄もなかったと思います。その車も悪路を走っていたので、半年ぐらいで壊れてしまい買い替えました。
 自動車の運転講習(教習)は、宇和島や高知県の宿毛の自動車教習所で受けて、試験は松山へ受けに行っていましたが、昭和42年(1967年)には城辺でも運転免許を取ることができるようになりました。私(Eさん)のうちに車があり、当時は、路上運転の教習がなかったので、免許取得後に、2tぐらいのトラックをはじめ自動車、バイク、自転車、歩行者で賑わっていた商店街での運転は、とても怖い思いをしました。」

 イ 冷蔵庫

 「私(Cさん)の家には、氷屋から氷を買って、それを入れて使う、木で作られた冷蔵庫がありました。それが、電気の冷凍冷蔵庫に代わったのは昭和43年(1968年)でした。現在、飲食店などには、コップなどでレバーを押すと自動で氷が出てくる製氷機が設置されていますが、その機能の付いた冷凍冷蔵庫を、私の結婚を機にアメリカに住む友人に頼んで取り寄せたのです。その冷凍冷蔵庫は、氷を作るために水道と直結していました。
 私(Aさん)は酒屋をしていたので、昭和38年ころにビール瓶を20ケース分ぐらい入れることのできる電気冷蔵庫を宇和島の商店に特注しました。その冷蔵庫には自宅用の食品や飲み物などを少し入れていたこともありました。やがて、電気冷蔵庫に代わってショーケースが登場しました。」

(2)娯楽

 ア ぎおん祭りと秋祭り

 城辺商店街を見下ろす諏訪(すわ)山(約40m)は、中世の山城跡でもあり、現在は山頂に諏訪神社が鎮座している(図表1-3-2の㋚参照)。諏訪神社の夏祭りは「ぎおん祭り」と呼ばれ、旧暦6月14日に行われた宵(よい)祭りには、旧城辺町の町民だけでなく南宇和郡の内外から多くの人が参詣に訪れていた。このぎおん祭りに合わせて、城辺商店街ではさまざまな催し物が行われて賑(にぎ)わった。花火の打ち上げもその一つで、昭和30年代には、城辺橋の上流や下流で仕掛け花火を実施するなどスケールを拡大し、見物客を喜ばせていた。ぎおん祭りは諏訪神社の神事であり、城辺商店街の人たちが楽しみとするお祭りでもあった。
 「祭りの時には、作ってもらった浴衣(ゆかた)を着て、お参りに行ったことを憶えています。商店街には万国旗が飾られ、街灯にも飾りが付けられていました。それから、各商店も、自分の店で扱う商品を利用して、『出し物』をショールームに飾っていました。金物店か家具店が、タンスの取っ手を利用して蛇を作っていたのを今でも憶えています。
 私(Cさん)は、呉服店の商品を使って、俳優の大村崑が演じた丁稚(でっち)どんをモデルにした人形や、亀、鯛、宝船などを作りました。出し物は、祭りの2日間だけ店の中や店頭に飾っていましたが、その準備は、1、2か月も前から始めていました。商工会の役員や町長などが審査員となってコンテストを行ったこともありました。祭りの時の商店街の飾り付けは、昭和30年代が一番盛んに行われていました。
 僧都川での花火大会は、規制がどんどん厳しくなって打ち上げる場所がなくなり、今では実施されていません。それまでは、家の近くで花火が上がっていましたので、その音がズンズンと響いていました。
 以前のぎおん祭りは、城辺町商工会の下部組織が祭りの実行委員会をしていました。京都の祇園(ぎおん)祭と一緒で、旧暦で実施していましたが、現在は、『城辺夏祭り』という実行委員会のもと、不定期ですが8月に行われています。
 そして、秋祭りの時は、商店街で屋台が出て、牛鬼が練り歩いたり、馬を走らせたりしていました。馬に花をつけて、何頭も走らせました。馬には人が乗らず、両脇に人がいて、馬を叩(たた)いて走らせ、途中に警棒を持った人がいて止めていました。また、獅子舞が各地を回り、山車(だし)もありました。山車の上部で芸子(げいこ)(芸妓(ぎ))さんが三味線を弾き、山車が止まった時に山車の周りでは人が踊っていました。
 神輿(みこし)は各地から諏訪神社に集合し、蓮乗寺の小西酒造に向かい、伊勢町、矢の町、古町と練り歩き、河原にある御旅所から各地に戻り、夕方4時ころに諏訪神社に帰ってきて、舞込みをしていました。当時は、振り袖を着ている人が多く賑やかでした。
 高野山(こうやさん)(仏眼院(ぶつがんいん)の通称)では、昭和30年代前半くらいの春の時期に相撲(すもう)大会をしていました(図表1-3-2の㋙参照)。花祭り(釈迦(しゃか)の誕生の法会)に行って甘茶を飲んだり、紙芝居を見たりしました。夏には、城辺以外の人も来て盆踊りをしていました。」

 イ 子どもの世界

 「御荘へ遊びに行くことはめったにありませんでした。私(Dさん)は、お大師さん(御荘平城(ひらじょう)の観自在寺〔四国八十八か所40番札所〕の縁日)には親と一緒に行っていました。私(Aさん)たちが子どものころは、御荘の平城へ行くと、そこの子どもたちからいつ石を投げられるか分からなくて警戒していました。それは、平城は官庁街、城辺は商店街と区別され、平城と城辺に住む人には互いにライバル意識があったからです。中学校の野球大会でも、両地区の学校が対戦するときは、応援に来ていた人たちも興奮していました。実際に、平城と城辺の子どもたちの間で、石投げ合戦が起きたこともありました。私の遊び友達はほとんど城辺商店街の子でしたが、土居(どい)(商店街から城辺大橋を渡った旧御荘町と隣接する地区)の子どもとも仲がよかったので、その子を通じて仲よくできた平城地区の子どもが何人かはいましたが、だいたい平城の子どもとは仲が悪かったです。それでも、南高(愛媛県立南宇和高等学校)でお互いが一緒になると、『おい、お前と喧嘩(けんか)したな。』と言い合い、仲よくなっていました。
 子どもの時の遊びといえば、私(Dさん)の家は真宝寺(しんぽうじ)に近かったので(図表1-3-2の㋐参照)、友達と一緒に、お寺で缶蹴りをしたり、僧都川を渡って三島神社へ遊びに行ったりしました。また、家の裏が田んぼだったので、芹(せり)や蓬(よもぎ)を採ったりして遊びました。私(Eさん)は、お正月には、家族や友達と、羽根突き、双六、福笑い、カルタ、百人一首などをして遊んでいました。春の田んぼでは、レンゲを摘んで首飾りや髪飾りを作り、菜の花を摘んでおままごとをしていました。麦秋(ばくしゅう)(麦の収穫期、初夏)のころには、麦わらで籠(かご)を編んだり、笛を作りました。烏野豌豆(からすのえんどう)(ヤハズエンドウ)の実でも笛を作って遊んでいました。私(Cさん)は、パッチン(メンコ)やオハジキをしたり、夏になると、僧都川へ行って泳いだりしていました。私(Aさん)は高野山の川や水源池で泳いだり、野球をしたり、地面に穴を掘ってビー玉を転がせて遊んだりしました。それから何人かで五寸釘(くぎ)を地面に打ち立て合う遊びもしていました。地面に立っている相手の釘に向けて釘を打ちつけ、相手の釘が飛びのけば自分の勝ち、また、自分の釘が立っているときは、相手に飛ばされなければ自分の勝ちとなる遊びです。それに備えて、どの子どもも、たくさんの釘を集めていました。」


<参考引用文献>
①城辺町『城辺町誌』 1966