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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 八幡浜の陸のターミナル

 戦後復興期の八幡浜において、鉄道は輸送機関として重要な役割を果たし、そのターミナルである八幡浜駅には多くの人が集まった。そして、駅前を東西に伸びる幹線道路のうち、特に、西の築港(ちくこう)に向かう、通称「昭和通(しょうわどお)り」(八幡浜駅の開設に併せて昭和14年〔1939年〕に造られた幅員12mの道路)沿いには、商店や事業所、娯楽施設などが並び、駅前広場と昭和通りを行き交う人の流れが途絶えなかった。しかし、その駅前広場の拡張工事(昭和38年〔1963年〕から昭和45年〔1970年〕)がなされていた昭和40年代前半ころを境に、八幡浜駅の乗客数や貨物の輸送量は、次第に下降線をたどり始め、昭和59年(1984年)には八幡浜駅での貨物の取り扱いが廃止された。
 昭和30年代から40年代初めの八幡浜駅のようすについて、Fさん(昭和31年生まれ)、Gさん(昭和39年生まれ)兄妹から話を聞いた。

(1)駅前での商売

 ア 貸し駐輪場

 「私(Fさん)が6、7歳になる昭和37、38年(1962、1963年)ころ、両親が、駅前広場の北西角の昭和通りに面した場所に平屋の家を建て、その一角で貸し駐輪場を始めました。その後すぐに、1階を貸し駐輪場、2階を食堂と売店にした店舗に建て替え、その店舗もやがては、広場の拡張工事の際に、1階を売店、2階を食堂に改装しましたので、貸し駐輪場を経営していたのは、昭和41、42年ころまででした。
 私(Gさん)には貸し駐輪場の記憶はないのですが、兄から聞いた話では、駅を利用する人に貸していて、列車に乗って市内の中学校や高校に通勤されていた先生方がよく、駐輪場に置いた自分の自転車に乗って学校へ行っていたそうです。
 当時は、自家用車を持つ人も少なくて、駅を利用する人はバスか自転車で来ていました。ですから、駅を出て市内へ行くときや市内から駅に来るときに自転車を使う人が多く、10坪程の駐輪場に、朝夕はたくさんの自転車が並んでいました。広場の拡張工事のころは、貸し駐輪場と食堂、売店を経営していましたので、両親は、朝早くから夜遅くまで、いつも忙しそうにしていました。」

 イ 売店と食堂

 「店舗を改装した後は、お土産(みやげ)やお菓子、果物などを置いていた1階の売店を父親が受け持ち、2階の『こがね食堂』を母親が親戚の女性と二人で切り盛りしていました。当時の売店のことで私(Fさん)がよく憶えているのは、地元の幸(さいわい)町にあった『松月(しょうげつ)堂』というお菓子屋さんの作ったタルトが、八幡浜土産としてよく売れていたということです。盆や正月には、帰省したり、故郷からまた戻って行ったりするのに列車を使う人も多かったので、そのタルトを買い求めるお客さんがひっきりなしに来て、幼かった私も包装紙を折る手伝いをしました。
 食堂は、『清水(しみず)食堂』に名前を変えた後も、昭和60年(1985年)ころに店舗の改修で店仕舞いをするまで、母親の手でずっと続きました。駅の近くには、他にもたくさんの食堂が営業をしていました。私(Gさん)がうちの食堂のことで憶えているのは、4、5歳のころ、学校の先生や貨物列車から新聞を降ろす作業員の人たちが朝早くから店に来て、食堂の入口横のショーケースに並べていた稲荷寿司や巻き寿司をお弁当代わりに買っていて、しかも、作るそばからすぐに売れていたということです。今ではコンビニエンス・ストアーでおにぎりを買うのも見慣れた光景ですが、当時の私にとっては、珍しいことのように思えました。また、駅前の広場はバスのターミナルにもなっていたので、バスを利用するお客さんが一度にたくさん食堂に来ることもありました。そういうときに、何時何分のバスに乗るので注文したものを早く持って来て欲しい、と頼まれたりすると、母親たちがかなり忙しそうにしていたことを憶えています。それから、私が小学生の低学年だった昭和40年代後半くらいまでは、当時の国鉄の従業員の宿舎がうち食堂の近くにあって、早朝の仕事をする人がそこに泊まっていましたので、朝も夜もうちに食べに来てくれていました。」

(2)駅の光景

 ア 働く人たち

 「昭和40年代の初めころまでは蒸気機関車が走っていたので、燃料の石炭を扱う作業員さんたちが真っ黒になりながら働いていました。それから、保線区(ほせんく)(線路の保守や点検などを行う所)で働く人たちが食堂に来て、食事をしたりお酒を飲んだりしていたことも憶えています。当時は、駅で働く人も大勢いて、駅前だけでなく、駅自体も朝から晩までにぎやかでした。
 駅で働いていた人たちの他にも、12月ごろになると段ボールのミカン箱を積んだトラックが駅前に並んで、荒縄で縛(しば)られてえぶ札(荷札)の付けられたミカン箱を、運転手さんたちが列車に運び込んでいました。お歳暮か何かで親戚や知り合いにミカンを送っていたのだと思います。今は宅配便で家から家まで直接運ばれていますが、トラックでミカン箱を運んで来て列車に積み込む光景は、当時の八幡浜駅の風物詩(ふうぶつし)の一つでした。トラックといえば、当時、駅前広場から幹線道路を東に出た辺りの道路際に、繭(まゆ)を積んだトラックがたくさん並んでいたのを見たこともあります。繭を列車に積み込むために待っていたのか、列車から降ろした繭をトラックに載せていたのかは分かりませんが、印象深い光景でした。
 駅前には、毎朝、年配の行商の人が来て、鮮魚を売っていました。駅周辺に住んでいる人たちが客で、魚を買えば、その場でさばいてくれていました。それから、夕方になると、ところてんやおはぎを売る行商の人が、呼び子(人を呼ぶ合図に吹く小さい笛)を吹きながら来ていました。その人も、駅の利用者ではなく駅近くの馴染(なじ)みの客を相手にしていました。暑くなった時期の夕方には、そのところてんを食べるのが楽しみでした。当時は、リヤカーに商品を積んで売り歩く人が結構いました。」

 イ 涙の見送り

 「昭和30年代の後半から40年代の初めにかけて、3月の終わりごろになると、地元の中学校を卒業した人たちが、集団就職で八幡浜を離れるために駅に集まっているのをよく見ました。『蛍の光』だったと思うのですが、音楽の流れる駅のホームで、親御さんや関係者の人たちが紙テープを持って見送っていました。当時は、駅の外からもそのようすが見えて、毎年、その時期には、涙、涙の光景が駅構内の至る所で見られました。」

(3)子どもの遊び場

 「駅周辺の店には、大体同じくらいの時期に、両親と同年輩(どうねんぱい)の人が商売を始めたところが多かったせいか、同じような年齢の子どもが結構いました。そして、私(Gさん)を含め、商売をしている家の子どもは、夕刻になると、家にいてもつまらないので、4、5人が自然と駅の広場に集まって来て一緒に遊んでいました。当時は、駅前広場の、うちの店の前辺りに、伊予鉄バスと宇和島バスのロータリーがそれぞれあって、夜の7時、8時ごろにバスの運行が終わると、バス停のベンチに座って歌ったりして遊びました。また、駅周辺の街灯も、今のものよりは大きくて結構明るかったので、その街灯に誘われて近くの大きな木に止まる、カブトムシやカナブンなどを捕ったりもしました。親としても、商売のために子どもをみることができないので、そのように、駅前で、年齢差のある子どもたちが一緒に遊んでいてくれたほうが、都合がよかったのだと思います。夜遅くなって、家の者から、『帰ってきなさい。』と呼ばれると、子ども同士で、『じゃあな。』とか言いながら、家に帰っていました。今でも、子どもと一緒に松山へ列車で行くときに駅に立ち寄ると、かつての『自分たちの基地』にいるような気分になって、懐かしくなります。」