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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 海路から陸路へ

 八幡浜は、江戸時代末期に宇和島(うわじま)藩の殖産興業政策もあって長崎(ながさき)方面や大坂(おおさか)方面との交易地としてにぎわい、明治17年(1884年)には八幡浜港が県内で最も移出入額の多い港となり、「伊予の大阪」と称せられるまでに発展した。川之石(かわのいし)もまた、良港の川之石港と雨井(あまい)港で、江戸時代には「千石船(せんごくぶね)」と称する貨物船が九州方面や大坂方面の航海につき、当時は八幡浜をしのぐ繁栄を誇った。
 「西四国の玄関」としての地位を築き、近隣地域における商業の中心地となった八幡浜は、海上交通の中心地であり、同時に陸上交通の中心地でもあった。昭和14年(1939年)に国鉄(現四国旅客鉄道株式会社)八幡浜駅が開設され、昭和20年(1945年)に八幡浜-卯之町(うのまち)間が開通して国鉄予讃線が全通すると、佐田岬半島を迂回(うかい)して松山(まつやま)方面へ向う航路や京阪神航路は次第に姿を消したが、八幡浜周辺の沿岸地域を結ぶ航路は盛況で、昭和31年(1956年)の『旅客航路事業現況表』によれば、八幡浜港と川之石港がそれぞれ起終点及び中間寄港地となる旅客航路は、前者が11航路、後者が5航路あり、八幡浜港と川之石港が重要な拠点であったことがわかる。
 しかし、国道197号(昭和33年〔1958年〕に県道八幡浜-三崎(みさき)線として開通し、昭和62年〔1987年〕には頂上線〔佐田岬メロディーライン〕として開通)をはじめとした道路網の拡大や道路の改良にともなう、バス路線の開通や自家用車等の普及により、それらの沿岸航路も次々と廃止されていった。
 本節では、沿岸航路の貨客船などが寄港した八幡浜港や川之石港、松山方面や宇和島方面へのターミナルである八幡浜駅、旧八幡浜市と旧保内(ほない)町とを結ぶ国道197号の名坂(なざか)峠をそれぞれ取り上げ、それらの場所にかかわりのある人々の仕事やくらしぶりを、聞き取り調査によって探った。