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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 南予を駆けめぐった卸売りの仕事①

(1)文具卸売業をいそしむ

 「私は、広田(ひろた)村の高市(たかいち)(現砥部(とべ)町)で生まれ、終戦後、八幡浜の叔母の家に養子で来ましたが、養い親(叔母の夫)が亡くなり高校進学をあきらめました。その後、事情があって佐賀県の伊万里(いまり)に行き、文具を卸す業者のところで働いていました。それが始まりで、佐世保(させぼ)とか平戸(ひらど)とか、あちこち営業の手伝いをしながら各地を回り、仕事を覚えました。八幡浜の叔母の願いもあって、昭和31年(1956年)に伊万里から八幡浜へ帰ってきました。
 私は、文具卸の仕事を佐賀県から帰ってからも八幡浜で続けていましたが、昭和45年(1970年)、文具卸専業をやめ、フジマート卯之町(うのまち)店のテナントとして文具や化粧品、アクセサリーを売る店を新たに開きました。卸売りも頼まれればしながら、知り合いの文具店を手伝っていた時期もありました。フジマートのテナントは、私の子どもが企業に就職して店を継がないので、平成9年(1997年)にやめました。
 スーパーのフジが第1号店を出したのは宇和島で、昭和42年(1967年)、駅前の恵美須(えびす)町にあるフジ宇和島店が開店しました。開店にかかわった知人が、八幡浜の私に、『フジと取り引きしないか。』と持ちかけてくれたのです。それですぐにフジ宇和島店と取引を始めました。フジから注文があれば、うちの店を通さずに直接メーカーから品物を送らせます。例えば、ちり紙の注文が入ると、ちり紙を大分県の業者からトラック1台分送らせます。ものすごく売れました。ちょうど田中角栄首相のころ(1972~1974年)ですが、『こんなに売れていいんやろうか。』と思うくらい、本当に何でもよく売れていました。そういう関係もあって、フジマート卯之町店にテナントで入ることができたのです。一方で、『親父(おやじ)さんが亡くなったから手伝ってや。』と頼まれて、同業者の文具店の仕事をしていた時期もありました。」

(2)文具を仕入れる

 Aさんは、保存してある得意先名簿のノートを見せてくれた。Aさんのノートによれば、文具卸の元売りの取引先は57社にもなる(図表3-2-3参照)。愛媛県内が20社、大阪市が22社で多い。そのほかは、広島県(6社)、東京都(3社)、香川県(2社)、大分県、兵庫県、京都府、奈良県、愛知県(各1社)など、全国に及ぶ。Aさんから、元売り業者について話してもらった。
 「五十崎(いかざき)の天神産紙さんや野村(のむら)の池田さんには、ろ過する紙を買いに行っていました。酒を造るとき、ろ過する紙に泉貨紙(せんかし)がよく、酒造業者から頼まれて買い付けに行っていました。
 紙には1号紙、2号紙という言い方があります。1号紙は女性が使う紙で、一番柔らかな紙です。2号紙は今でいうティッシュペーパーのような紙、3号紙は昔の便所に置いてあったちり紙で、1号紙や2号紙に比べ厚みがあります。天神産紙さんは2号紙も扱っていました。壬生川(にゅうがわ)や川之江(かわのえ)、伊予三島(いよみしま)からも、紙を取り寄せていました。」
 Aさんのノートに記された松山の取引先には、パイロット万年筆、三菱鉛筆、セーラーなどの支店や子会社が名を連ねている。大阪では、不易糊(ふえきのり)、シャチハタ、富士模型、奈良では呉竹(くれたけ)など、全国に知られたメーカーの名がある。
 「県外にもいろいろ取引先がありますが、これらは、私の卸売業の取引先のほか、しばらくの間手伝いに行っていた店の取引先も含まれています。文具もいろいろありますし、例えばノートならコクヨ、極東、興亜など、取引先は様々でした。昭和30年代には、大阪の取引先に商品を注文したら、トラック便ではなく船で荷物が届いていました。それで港が栄えていました。」

(3)八幡浜市内と近郊での卸売り

 Aさんのノートには、卸売りの営業で取引きした店の名前が地区ごとに記入されている。Aさんの取引先は、旧八幡浜市内に56か所、旧保内(ほない)町(宇和海側)に32か所、旧伊方町内に27か所あった(図表3-2-4参照)。
 「昭和30年代から40年代にかけて、西宇和郡や大洲市、喜多郡、東宇和郡など八幡浜の近隣各地の文具屋や雑貨屋、学校を訪ねて注文を取り、卸していました。注文取りで回ったときに、前回の注文分の集金もしていました。菓子屋や薬局なども、包装紙やちり紙を注文してくれるので回っていました。傘屋をしながら、店頭に文具を置いていた店もあります。そのように、本業をしながら兼ねて文具や雑貨を売る店が多かったです。農協も顧客でした。ただそれも40年以上前のことで、過疎で客がいなくなり、私が回っていた店の大半は、もうやめていて営業していません。スーパーやショッピングセンターに客が行くようになり、今、店が残っているのが不思議なくらいです。
 保内や伊方へも、名坂峠(なざかとうげ)を越えて文具卸の営業に行っていました。当時の名坂峠は、まだトンネルがなく、峠道を自転車や自動車で行き来しました。今の国道やトンネルは、旧道の下にあります。昭和30年代には、文具を八幡浜市内の多くの店に卸していました。市内の高校にも『おうむ』『白竜』などのざら紙や『はごろも』の白墨などを売っていました。」

(4)佐田岬半島をめぐる

 Aさんから、佐田岬半島への卸売り営業について話を聞いた。
 「佐田岬半島へは船で行っていました。八幡丸(やわたまる)や繁久丸(しげひさまる)です。私は卸屋ですから、見本だけ持っていて、毎月のように浦々や村々の店を回って注文をとって帰るのです。半島から帰ると、注文を受けた品物をそろえて、八幡浜の港(みなと)の荷物置場に持って行き、別便で送ります(図表3-2-5参照)。すると、半島の各集落から船で来ている運送業者が、それを注文主まで運んでくれます。食料品や下駄(げた)、箪笥(たんす)、雑貨などいろいろな荷物を運ぶ船持ちの業者が、私の注文品も運んでくれていました。当時は半島の頂上線(メロディーライン、昭和62年〔1987年〕開通)はありませんでしたし、半島の人口が多く、運ぶ品物が多かったので、船での運送業が成り立っていたのです。今、渡海橋(とうかいばし)が架かっている場所には、当時、向灘(むかいなだ)と港とを結ぶ渡海船(とうかいせん)があり、いくらかお金を払って乗せてもらっていました。」

 ア 三机近辺をめぐる

 佐田岬半島中部の旧瀬戸町(現伊方町)には、Aさんの取引先が32か所あった(図表3-2-4参照)。
 「昭和31年(1956年)ごろの話ですが、半島での営業は、例えば八幡丸に乗ると、塩成(しおなし)(現伊方町塩成)に上がり(下船)ます。廻船問屋は岩村さんで、沖合にとまった八幡丸から港までは小船に乗って上陸しました。塩成の店で商売して三机(みつくえ)に行き、10軒ほど営業で回ります。そして三机の岩宮旅館に一晩300円で泊まりました。旅館からは、サービスでたばこのピース(当時30円)をくれました。
 この岩宮旅館は、九軍神(太平洋戦争の真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇(せんこうてい)に乗り込み戦死した9人のこと。三机湾で訓練をしていた)が泊まった旅館として有名です。昭和25年ごろだったでしょうか、九軍神をテーマにしたロマンス小説があり、九軍神の一人と岩宮旅館の娘さんが恋愛関係になったという筋書きでした。その小説は、本当はフィクションだったのですが、私は小説が実話で『モデルになったきれいな細身のお嬢さんがいるはず、ぜひ会いに行かねば。』と思い込んでいたので、それが楽しみで岩宮旅館に泊まったところ、おばちゃんがいるだけで、それらしい人はいなかった、ということがありました。
 三机で一晩泊まったら次は大江(おおえ)に行きます。大江では、ある衆議院議員の実兄が店をしていました。そこで商売をして三机小学校大江分校に行き、続いて志津(しつ)へ行き、小島(こじま)へ行きました。大江から先は道路らしい道路がなく、全部細い山道を歩いて行くのです。商売をしながら歩いて行くので、小島に行くと夕方になります。ある時、小島の次の田部(たぶ)の大田原商店で泊めてもらうことにして、小島を発(た)とうとしたら、小島の取引先の高月さんが『提灯(ちょうちん)貸してやらい(貸してあげよう)。』と言ってくれました。提灯を借り、ローソクをともして山を越え、田部まで火伏道(ひぶせみち)(山火事が広がるのを防ぐために木を伐(き)って火を遮断(しゃだん)させるための道)を歩いて行きました。すると、灯を見つけた野良犬(のらいぬ)が『ウー、ウー。』とうなりながら私について来て、怖(こわ)い思いをしました。借りた提灯は、あとで、高月さんから注文を受けた品物を八幡浜から送るときに一緒に送り返しました。
 田部の大田原商店のおっちゃんは、いつもイカの夜釣りに行くのです。おっちゃんは『おーい、お前、イカ釣りに行かんか。連れていっちゃらい(連れていってあげよう)。』と私を誘ってくれました。私も若かったので『連れていってや。』と誘いに乗りました。イカはたくさん釣れましたが、私は商売の品をたくさん持っているので、イカの持ち帰りはしませんでした。
 田部の次は神崎(こうざき)に行きました。昭和30年代当時、神崎で変わったものを見ました。それは、お墓に白い石を盛ってお供えしているのです。ご存じのように半島には田んぼがほとんどありません。米が作れないので、お金持ちは別として普通の人はお米やお金がないので、お墓に供えるお餅(もち)の代わりに、白い石を墓前に供えていたのです。その石は今も残っています。一番たくさんあるのは神崎でしたが、ほかの集落でも見かけました。どうも集落ごとに白い石の意味が違うようで、お年寄りの話では、神崎ではお餅(もち)の代わりでしたが、別の集落では、三途(さんず)の川の渡り賃の六文銭(ろくもんせん)の代わりのようでした。白い石が墓前にあるので、よそから来た私のような者は『何でじゃろう(何でだろう)。』と思うのですが、その集落の人は『あたりまえ。』なので何も不思議に思わないのです。
 神崎から大久(おおく)に行き、大久から船で八幡浜に帰りました。その時その時、商品の動き具合をみて、寄らない取引先もありましたから、このコースを1泊2日か2泊3日くらいで回っていました。また、反対に、八幡浜から大久へ船で行き、大久で上がって、大久から神崎へ行って三机まで集落を回って行き、塩成から船で帰ることもありました。ほとんど毎月1回はこの地域を巡回していました。
 また、神崎から長浜(ながはま)へ行く船便があり、神崎から寄港地の三机まで利用したことがあります。船主(ふなぬし)は長浜の人で、乗る人は少なかったように思います。ある朝、雨が降り出し、風も強くなりました。船は出るのですが、海は荒れているのです。神崎の港から沖の船のところまで小船に乗っていったのですが、小船が揺れて揺れて、『小船が沈むんじゃないか、死ぬんじゃないか。』と、本当に怖い思いをしました。船頭さんは平気な顔でしたが。三机まで行き、下船しました。このように、いろいろなコースをとりました。」

 イ 三崎近辺をめぐる

 佐田岬半島西部の旧三崎町(現伊方町)には、Aさんの取引先が64か所もあった(図表3-2-4参照)。
 「三崎地区で商売するときは、何通りかコースがありました。その一つが、名取で船を下りるコースです。名取(なとり)で船から上がって各商店や小学校を回ります。昭和30年代の名取は、先取りする精神というか、進取の気風が強いところで、革新的な考え方の人が多かったように思います。
 名取から山越えをして二名津(ふたなづ)へ出ます。二名津は町が大きいので、取引先が多かったです。そして、二名津から明神(みょうじん)へ行きます。
 明神には水野商店がありました。はじめて水野商店へ行ったとき、そこのおばちゃんの口が悪く(言葉遣いがよくない)、『おどらぁー(お前)、どこから来た。』と尋ねられました。それで恐る恐る、『文具卸の商売で八幡浜から来たんよ。』と言ったのです。それが、取引先として付き合いだしたら、『こがいなええ(こんなによい)おばちゃんは、どこにもおらん。』というおばちゃんでした。そして明神から松(まつ)へ行き、松で打ち切ってもとの道を帰り、三崎へは山越えをしませんでした。
 釜木(かまぎ)へは、毎月ではありませんが、名取や大久から回りました。釜木には埋蔵金かあるらしいというので、埋蔵金を探しに行ったことがあります。本当かどうかは知りませんが、昔、釜木に『おこのごろ』という名前の海賊(かいぞく)がいて、蓄えた小判を49個の壷にいれて隠したという話でした。商売をしながら探しましたが、見つけることはできませんでした。釜木の近くの平礒(ひらいそ)へは、1年に1度行くくらいでした。
 日なちを改めて(別の日に)三崎へ行くのですが、三崎には3日間滞在します。三崎本浦を起点にして、串(くし)や正野(しょうの)に行くのです。朝の5時か5時半に起きて、旅館でおにぎりを用意してもらい、三崎本浦を出ます。三崎本浦から遠い串や正野へ、道なき道を歩いて行くので、どうしてもその時間になります。三崎本浦に天然記念物のアコウ樹がありますが、あそこが海岸で、そこに幅50cmくらいの細い道がありました。三崎本浦と正野との間には定期船がなく、自分で船を借りて正野へ行くとお金がかかりますから、歩いていくのです。
 串の中学校の理科の先生で、大変優しい堀田先生という方がおられました。先生の奥さんは洋裁をしておられましたが、お父さんは、潜水で土木工事に従事していて特殊な技術を持っておられ、店(堀田商店)もしていました。店では、テングサで作った羊羹(ようかん)を売っていましたが、とてもうまかったので、それが楽しみで堀田商店によく行っていました。あとで、堀田建設(八幡浜の建設業者)の創業者があの、串中学校の先生だと知った時は、とても驚きました。
 正野の仙石さん方の前は、今は港の近くの住宅地や旅館、レストランになっていますが、当時は湿地帯でした。仙石さん方で商売しては、その湿地帯で石を投げて遊んだ思い出があります。港には家族を船に乗せて漁に来ている船がたくさん留(と)まっていました。正野は裕福な集落で、いい品物がよく売れていましたから、たびたび行きました。正野で商売して、山を越えて正野小学校へ行きます。正野小学校には、仲のよかった同級生が勤めていたので、正野に泊まることにして、その時は酒か焼酎かを一本持っていき、先生方や近所の人たちと酒盛りをしました。一晩飲んで、近くの取引先を回って帰りました。岬の灯台の手前に阿部さんという取引先があり、1年に1回くらい行くようにしていました。佐田岬灯台の下の海岸まで、遊びに行ったこともあります。今、イケス(先端部の養魚池)がある辺りですが、当時は砂浜が広がっていました。正野での商売のときは一晩泊まることが多かったですが、日帰りで三崎本浦に帰ることもありました。
 与侈(よこぼり)へは、1年に3回くらい行っていました。当時は若者や子どもも多く、皆のんびりしていました。とにかく、半島の先端まで、この2本の足で歩いて行っていました。
 昭和33年(1958年)でしたか、三崎本浦に自動車が入れるように道路が整備されました。その時、取引先のメーカーに『三崎まで道が通じたから、文具の宣伝に来てくれや。』と依頼したら、宣伝カーがやってきました。サクラか三菱鉛筆のどちらかだったと思います。八幡浜から三崎まで、海岸沿いの舗装(ほそう)していない道を、4時間くらいかかってたどり着き、三崎で一晩泊まりました。三崎に着くと、宣伝カーを見たことがない子どもが20、30人、珍しそうに宣伝カーの後ろについてくるのです。取引先に宣伝カーが到着して、私が店の人に『はじめて宣伝カーで来たけん、文具とってや。』と言うと、店のほうも、『おう、何ぼ(いくら)でも置いとけや。』と、文具の注文を5年分くらいしてくれました。三崎の人は気がよいので、当時は、少々の押し売りはかまいませんでした。」

図表3-2-1 明治17年における愛媛県の主要港取扱高(価額)

図表3-2-1 明治17年における愛媛県の主要港取扱高(価額)

『明治十七年愛媛県統計書』により作成。単位は円。明治17年当時の愛媛県は、香川県と合わせた北四国一円であった。三津港は現在の松山港。なお、坂出港の価額は10円一致しない。

図表3-2-2 県全体に対する八幡浜の卸売業・小売業の事業所数比率

図表3-2-2 県全体に対する八幡浜の卸売業・小売業の事業所数比率

各年次の『愛媛県統計年鑑』、『統計からみた市町村のすがた』により作成。

図表3-2-3 Aさんの取引先(元売り)

図表3-2-3 Aさんの取引先(元売り)

Aさん筆記資料により作成。

図表3-2-4 Aさんの取引先(卸し)

図表3-2-4 Aさんの取引先(卸し)

Aさん筆記資料により作成。資料にあるとおりに集計したため、保内町は二つに分けて記載している。

図表3-2-5 昭和30年代から40年代の八幡浜港

図表3-2-5 昭和30年代から40年代の八幡浜港

聞き取り調査及び住宅地図により作成