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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 夏柑カゴ

 八幡浜市とその周辺の西宇和(にしうわ)郡は県内屈指の夏柑(なつかん)栽培地であった。この地域の夏柑栽培の歴史は古く、明治10年代後半に八幡浜市日土(ひづち)地区や伊方(いかた)町三崎(みさき)地区で導入され、周辺に普及していった。夏柑は、昭和30年代中ころにダンボール箱での出荷が一般化するまで、10貫(かん)(約37.5kg)入りの竹カゴ(夏柑カゴ、ダイダイカゴ)で出荷されていた。『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』によると「容器の竹籠(かご)は萩(はぎ)市が元祖で、保内(ほない)へは清水谷巌が明治40年(1907年)に導入した。」とある。戦後、この地域の夏柑栽培熱が高まり、竹カゴは八幡浜市日土地区や千丈(せんじょう)地区、川之内(かわのうち)地区を中心に各地で盛んに作られた。
 八幡浜市川之内地区での夏柑カゴの生産について、Aさん(大正14年生まれ)、Bさん(大正14年生まれ)、Cさん(大正15年生まれ)、Dさん(大正15年生まれ)、Eさん(昭和9年生まれ)、Fさん(昭和5年生まれ)、Gさん(昭和16年生まれ)に話を聞いた。

(1)桑カゴから夏柑カゴヘ

 「川之内地区は千丈川上流沿岸に位置し、東は夜昼(よるひる)峠など400m級の山地に囲まれた山村です。大正時代から昭和の初めまで川之内でも養蚕が盛んで、現在の川之内小学校の所に製糸工場がありました。私(Cさん)が子どものころは操業していなかったのですが、まだ工場は残っていました。昭和8年(1923年)に工場跡に小学校が建ちました。その当時から、竹細工を、専業や農閑期の副業でする家が14、15軒あり、テミ(土などをすくい入れる竹編みの道具)やイモを洗うザル、マイラセ(魚や煮干しを入れる竹カゴ)、ご飯をいれるツリジョウケなどを作っていました。養蚕が盛んであった時期には桑カゴも作っていました。桑カゴは夏柑カゴの3倍ぐらいの大きさがありました。私(Cさん)の父は桑カゴを作って、八幡浜市桟橋通(さんばしどおり)の池田喜伴商店に納めていました。夏柑カゴほどではなかったのですが、結構作っている人がいました。昭和恐慌で生糸が大暴落してから養蚕は衰退し、八幡浜や西宇和郡内では桑畑に夏柑の苗を植えるようになっていくのですが、この辺りは標高が高いため気温の問題があって夏柑栽培ができなかったのです。市内の日土や宮内地区は早くから夏柑を栽培していたので、その辺りの方が夏柑カゴを作るのは早かったのではないかと思います。この地域で本格的に夏柑カゴ作りが始まるのは戦後になってからです。」

(2)竹細工の行商

 ア 竹は命ぐらい大切

 「私(Eさん)の父は竹細工職人で、箕(み)(脱穀した米や麦から不要な小片を吹き飛ばして選別するための道具)やマイラセを作っていました。子どもの時に宇和島の商店へ卸(おろ)すマイラセ一束(いっそく)(50枚束ねたもの)をオイコに背負って、ここ(川之内)から千丈駅まで運んでいました。千丈駅からは貨物列車で宇和島へ運んでいました。父は行商もしていました。近所でも3軒ぐらいが箕を作って行商をしていました。父の行商先は高知(こうち)、中村(なかむら)、宿毛(すくも)、沖(おき)の島(しま)、日振島(ひぶりじま)辺りでした。一度商売に出ると、箕を120枚から130枚持って出て、一月(ひとつき)くらいしたら帰ってきていました。早く売れると二十日ぐらいで帰ってくることもありました。あらかじめ宇和島の問屋へ箕を貨物列車で送っておくのですが、景気のよい時には、父が問屋に着いたときには送っていた箕の大半が売れてしまっているというようなこともあったようです。特に戦時中はモノがなかったのでよく売れていたようで、行商から帰ってくると囲炉裏(いろり)端で車掌(しゃしょう)カバンのような腹巻に入れていたお金を数えていました。父のように自分で作って自分で売りに行く人もいましたが、農家の人が作ったものを仕入れて、天秤棒(てんびんぼう)に担(にな)って行商に出る人もいました。毎日、棒を担(かつ)いで行商に出て、全部売れたら棒一本だけを担いで帰ってきていました。行商先は、売るものによって違うのですが、イモを洗うザルなどは船に乗って半島(佐田岬半島)の方へ、箕やショウケ(米穀類や野菜など水洗いした後に水を切るのに用いたザル)などは米作りの盛んな宇和の方へ行っていました。
 その当時は竹細工で生計を立てていたので、私の家では竹(マタケ)は命ぐらい大切なものでした。竹やぶがあったので春先にタケノコが出る時期になると、毎日、竹やぶへ行ってタケノコの寸法(すんぽう)を取っていました。この時期の竹は一晩に10cmから15cm伸びます。タケノコのそばに棒を立てて、タケノコの長さを測って印をつけます。前日に測った寸法より伸びていると、『この竹は良い竹になる。』と言って残すのですが、前日と変わらなければ『この竹は伸びない。』と言って、すぐに引いて食べていました。よい竹は伸びると、竹細工だけでなく、竹皮で草履(ぞうり)を作ることもできるからです。そのため、竹やぶの手入れは毎日していました。」

 イ マイラセの行商

 「私(Dさん)も戦後の昭和21年(1946年)から24年(1949年)にかけて竹細工の行商に出ていました。ほとんど高知へ行って商売をしていました。夏柑カゴ作りを始める前のことです。終戦後に、千丈地区で作った竹細工を仕入れて高知へ持って行き、売ったのが始まりで、この周辺で作ったマイラセを何万枚も高知へ持って行って売っていました。漁師の家が一度に200枚、300枚と買ってくれたのです。一度、行商へ出ると、1週間から10日ぐらい出ていました。予(あらかじ)め荷物は汽車で送って、その後で私も汽車で行っていました。高知県の佐川(さかわ)町から安芸(あき)市までの沿岸はほとんど回りました。奈半利(なはり)までは一度いったことがあるのですが、それより向こうは交通の便が悪いので行かなかったのです。
 マイラセでもショウケでもそうですが、八幡浜で作られた竹細工は組みフチ(フチの部分を竹ヒゴで編んでいること)をしているのです(写真3-1-2参照)。普通はフチを縛るか、グルグル巻きにするかで、フチを編んでいるものはありません。組みフチは八幡浜独特の方法で仕事が丁寧(ていねい)だったのです。そのお陰でよく買ってもらい商売ができたのです。マイラセの行商で生活をしていたのですが、だんだんと夏柑カゴが流行(はや)りだして、行商をやめて夏柑カゴを作るようになったのです。」

(3)ほとんど全戸がカゴ作りにかかわる

 「夏柑カゴ作りが、この地域で盛んになるのは、昭和24、25年ころからです。早くから作っていた人は、昭和22、23年ころから始めていました。箕やマイラセを作るのは技術が要(い)るので、だれでもできるものではなかったのですが、夏柑カゴは作る過程も簡単なので、要領を得るとだれでも作ることができ、素人でも少しの間、見習いをすれば作ることができます。私(Gさん)の父は、『吉田の方で夏柑カゴの作り方を習ってきた。』と言っていました。
 西宇和青果と三崎青果が使う夏柑カゴは、ほとんどを川之内地区で作っていたと思います。その状態が昭和33年(1958年)ころまで続きました。当時は夏柑の値段が良かったので、たくさんの夏柑カゴが必要だったのです。川之内地区に150世帯ぐらいあったのですが、ほとんど全戸が夏柑カゴにかかわる仕事をしていました。
 最盛期(昭和30年ころ)は川之内で1年間に4万個ぐらいは作っていたと思います。私(Dさん)の家は、人を4、5人雇って作っていたので、年間で1万4、5千個作っていました。人を雇って作っていた家は川之内で10軒ぐらいありましたが、通常はその家の夫婦を中心に作っていました。1軒の家で1日に20個ぐらい作れるようになると一人前です。作業場は、納屋のある家は納屋を改造してそこで作っていたのですが、ほとんどが納屋のない家だったので、寝床以外の部屋の畳を全部上げて、板の間の上で作業をしていました。
 夏柑カゴ作りは長時間働いて、たくさん作らないと採算が取れない仕事だったので、朝は6時、7時から仕事を始めて、夜も9時、10時まで仕事をしていました。隣近所で競争するようにして晩(おそ)くまで仕事をして、『あそこの家は、まだ電気が点いているから、まだやらないけん。』と言いながら、晩い時は夜中の12時ころまで仕事をしたこともありました。今考えると、あの当時にテレビがなかってよかったと思います。この仕事は、ラジオを聴きながらはできますが、テレビを見ながらではできないからです。
 夏柑カゴ1個の値段は60円から70円ぐらいでした。うどん一杯が30円ぐらいの時代です。夏柑を運ぶための入れ物なので、そんなに値段が高いわけではありません。夏柑カゴで儲(もう)けて、御殿が建つようなことはなかったです。半年はイモや麦を作り、後の半年は食べるために夏柑カゴを作って、現金収入を得るという家がほとんどでした。」

(4)夏柑カゴ作りの工程

 「夏柑カゴの容量は10貫(37.5kg)で、大きさは直径が約40cm、高さが約70cmです。材料は、マタケを使います。この辺にある竹だけでは間に合わないので、大洲(おおず)や内子(うちこ)、五十崎(いかざき)から集めていました。竹やぶを持っている農家から使い勝手のよい竹を買い付け、トラックで運んでいました。竹は、一束(そく)、二束というように数えます。太さ(直径)によって一束の本数が異なっています。九寸(約29cm)は2本で一束、八寸(約24cm)なら3本で一束になります。夏柑カゴの場合は、1年だけ使うものなので竹を切る時期をあまり考える必要がなかったのですが、竹の切り時は9月から10月ころになります。その時期に切った竹は虫が食わないのです。それ以外の時期に切った竹は、節の部分に虫が入って、その年は使えるのですが翌年には使えなくなるのです。切り時のよい時期に切った竹で作ったものは、一生使えます。土壁に使う竹も同様です。
 夏柑カゴを作る場合は、竹の善し悪(あ)しにはあまりこだわりませんが、竹にははすい(粘りがない、もろい)ものと粘いものがあるので、それを使い分けます。竹ヒゴは粘りがあるほうが編みやすいので、はすいものは胴輪(どうわ)に使います。夏柑カゴには関係ないのですが、竹を剥(は)いで作る竹ヒゴも、表の皮の部分が一番丈夫で値段もよいのです。その次によいのが、皮の次の緑色の皮肌(かわはだ)という部分です。ザルや箕、マイラセなどを作る場合は、どの部分を使うかによって値段も変わってくるのです。
 夏柑カゴ作りには竹ヒゴを作る工程、胴輪を作る工程、カゴを編む工程、仕上げの工程、蓋(ふた)を作る工程があります。それらを分業で行います。」

 ア 荒割り

 「竹割りという道具で竹を割って、細工包丁で表面の節を削ります。竹の直径が大きいものは、七つか六つに割る、小さいものは三つに割る、というように竹の太さによっていくつに割るかを決めます。」

 イ 小割り

 「荒割りした竹を細工包丁で必要な幅に割っていきます。夏柑カゴのヒゴなら、幅が1cmから1.5cmになるように割って、節を削ります。竹は、先の方から割っていくとまっすぐになります。」

 ウ 竹ヒゴ作り

 「小割りした竹から竹ヒゴを作ります。小割りした竹が、だいたい6枚ぐらいになるように皮から身にかけて、細工包丁で薄くはぎとっていきます(写真3-1-4参照)。1枚の厚みは、1mmぐらいになります。この薄くはぎとったものを竹ヒゴといって、これを使って編んでいきます。一つの夏柑カゴを作るのに24本の竹ヒゴを使います。」

 エ 胴輪作り

 「胴輪は、カゴがつぶれないように補強のために入れる太い竹の輪のことです。荒割りした竹を幅約3cmに割り、センという道具で竹の内側を削りながら竹を曲げ、カゴの円周に合うように作ります(写真3-1-5参照)。竹を曲げる時に力のいる仕事なので、男の人の仕事です。」

 オ 編み込み

 「竹ヒゴでカゴの底の部分を編んでいきます。夏柑カゴは、編み目が六角形になるように編んでいきます。底を編んだら竹ヒゴを立ち上げて、横まわしを入れながら編み込んでいきます。間にカゴの補強のために胴輪を2本入れます。編み込みの仕事は主に女の人がしていました。」

 カ 仕上げ

 「編み終わったら、カゴの口の部分(先端部分)に口輪(くちわ)という竹の輪を外側と内側に巻きます(写真3-1-7参照)。そして、仕上げに補強のために縦に角竹(すみだけ)を3本入れます。これも力のいる仕事なので男の人が担当します。」

 キ 蓋作り

 「竹ヒゴをカゴの円周に合わせて巻きながら編み込み、蓋を作ります。蓋は小学生ぐらいの子どもが手伝いで作っていました。」

(3)夏柑カゴの出荷

 「でき上がった夏柑カゴは西宇和青果や三崎農協に納めていました。リヤカーで八幡浜港まで運んでいました。カゴを2個つないで一まとめにしたものを50ずつ積んで運びます。作った人が運ぶのではなくて、運ぶことを専業にしている人がいました。だいたい、港まで2往復する人が多かったのですが、朝早くから運んで3回運ぶ人もいました。港までの距離は7kmぐらいです。今の池田喜伴商店の場所に一番大きな倉庫がありました。当時はあの辺りに港があり、そこから船に積んで半島(佐田岬半島)の方へ送っていたのです。」
 池田喜伴商店二代目の兄で、当時の池田喜伴商店で仕事をしていた、Bさんは次のように語る。
 「私の母が川之内の出身だったからでしょうか、川之内から夏柑カゴを仕入れて販売していました。西宇和青果からは専売の許可ももらっていました。その当時はオートバイに乗って、川之内まで『今度は夏柑カゴがいくついる。』ということを知らせに行っていました。川之内の人たちは一生懸命、競うようにしてカゴを作っていました。皆まじめな人が多く、仕事が丁寧でした。でき上がった夏柑カゴはリヤカーで引いて港にあったうちの倉庫へ持って来ていました。倉庫の前は夏柑カゴを積んだリヤカーがずらっと並んで、列になっていました。竹は雨に濡れると黒くなってしまうので倉庫に入れるのですが、たたむことができないので保管するには大きな倉庫が必要でした。当時、うちの倉庫が八幡浜でも一番大きな倉庫だったと思います。カゴは、港から機帆船(きはんせん)に積んで運んでいました。」

(4)夏柑カゴからダンボールへ

 「夏柑の入れ物がダンボールに変わって、夏柑カゴ作りは終わりました。私たち(Cさん、Eさん)は、三崎農協が使うカゴを作っていました。ところが、昭和33年(1958年)に突然、三崎農協から『来年からカゴはいりません。』と伝達が来たのです。時代の流れで仕方がないのですが、そのことは私たちの生活を左右する一大事であったので、夏柑カゴを作っていた14、15人が八幡丸に乗って三崎まで陳情に行きました。三崎農協で『もう少し、やらせてもらえませんか。』とお願いすると、三崎農協の組合長から、『もう、時代の流れは変わりましたよ。いつでも工場で大量生産ができるダンボールという便利な入れ物ができたので、夏柑カゴを使わなくてもよくなりました。皆さんも、入れ物を作るのでなく、中身を作ったらどうですか。』と言われました。それまで私たちは、カゴを作ることに一生懸命でダンボールができたことを知らなかったのです。三崎から八幡浜へ帰る船中での皆のションボリとした落胆振りを、今でも憶(おぼ)えています。
 それからが大変でした。夏柑カゴがなくなってビワカゴを作ったりもしましたが、それも長くは続きませんでした。夏柑カゴ作りを専業でやっていた人は2、3年間路頭に迷うような状態で、生活のために出稼ぎに出る人もたくさんいました。もともと竹細工をやっていた家では、農閑期にマイラセや種モノカゴを作ったりするようになりましたが、竹細工をする家は、全戸のうち10軒ほどで、ほとんどの人は他の仕事に就くようになったのです。
 今回、50年ぶりに夏柑カゴを作りました。道具は私(Gさん)の父が、50年前に使っていたものです。今後は、夏柑カゴや簡単な竹細工の作り方を、この地域の一つの生活文化として伝承したいと思っています。」

写真3-1-2 マイラセの組みフチ

写真3-1-2 マイラセの組みフチ

平成24年7月撮影

写真3-1-4 竹ヒゴ作り

写真3-1-4 竹ヒゴ作り

八幡浜市川之内。平成24年10月撮影

写真3-1-5 胴輪作り

写真3-1-5 胴輪作り

八幡浜市川之内。平成24年10月撮影

写真3-1-7 仕上げ

写真3-1-7 仕上げ

八幡浜市川之内。平成24年10月撮影