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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 日本一の「日の丸ミカン」

(1)ミカン栽培のはじまり

 八幡浜市向灘(むかいなだ)は、市街地の北側にあって、国道197号が通る名坂峠(まざかとうげ)、権現山(ごんげんやま)(標高346m)に連なる稜線(りょうせん)、保内地区との境の矢野崎(やのさき)に囲まれた地域で、南向きに急斜面の山を背負い、海岸沿いの狭小な平地に集落が点在する。集落は、東から高城(たかじょう)、中浦(なかうら)、大内浦(おおちうら)、杖之浦(つえのうら)、勘定(かんじょう)の五つから成る。
 地元の本山百春さんがまとめた「八幡浜向灘ミカンの歩み」では、向灘を次のように紹介している(③)。
 「八幡浜湾を南に臨み、すぐ後には山がせまり、平地が少なく、ミカン園のほとんどが石積み造りの帯状の段々畑である。母岩は、ほとんどが結晶の緑泥片岩の風化された礫(れき)(小さな石)を含む土壌で、地力は大変高い。
 急傾斜(最高45度、平均30度)の地形を少しでも耕作面積として広く利用するため、石積みをした狭い段幅のところもずいぶんある。標高が一番高い権現山(364m)の山頂近くまで石積みの段々畑として開墾し始めたのがいつごろの時代であるのかは、つまびらかでない。しかし、こうした段々畑としたことは非常に意義深く、先人の苦労にはたいへん頭の下がる思いがする。
 こうして段々畑ができたほどずつ、サツマイモ、麦、アワ、キビなどを作り、また桑の苗木を植え、養蚕を興した。あわせて明治、大正、昭和の初めころまでは、風まかせの打瀬網(うたせあみ)漁業なども行ない、細々とした現金収入でやっと生活していたとのことである。」
 このような地域に、明治27年(1894年)にミカンを導入したのが、大家百治郎(おおやひゃくじろう)である。導入されたミカン栽培は、篤農家(とくのうか)によって続けられた。前述の「八幡浜向灘ミカンの歩み」では、次のように記述している。
 「当時、地元の人々は、畑に樹を植えてどうするのか、今に食えなくなると、横目に見ていたようである。しかし、百治郎翁始め六人の同志の方は、黙々として苗木の手入れを続け、その後、地元の人達も歳月が経過するにつれて、有利な柑橘栽培に、われもわれもと切り換え始めたのである。」こうして向灘は、ミカン産地として歩み始めた。

(2)「日の丸ミカン」をつくる、売る

 戦後、日の丸ミカンを栽培しながら、組合に勤め活躍したAさん(昭和6年生まれ)から話を聞いた。

 ア うまいミカンを作る「太陽」

 「明治時代に大家百治郎が導入したのは、晩生(おくて)の普通温州(うんしゅう)(尾張(おわり)系統)でした。戦時中は、どこの産地も同じですが、ミカンよりもイモや麦を植えて食糧増産に努めるよう奨励されました。戦後になると、ミカンが換金作物として有望になりましたが、既設の果樹園は戦争中放置されたままでしたので、廃園に近い状態だったのです。それを復旧させるのにかなりの年数をかけました。それから昭和30年代にミカン園を広げていったのです。産地化したときは普通温州だけでしたが、宮川早生(みやかわわせ)を入れ、さらに南柑(なんかん)二〇号を導入しました。
 昭和40年(1965年)ころは普通温州が多かったですが、現在は、宮川早生が全体の55%、南柑二〇号が30%、残りが普通温州です。10a当たりの収量は、宮川早生であれば平均して3.5t、多い年には4tくらいで、向灘は他の地域より多いです。
 日の丸ミカンがうまいのは、三つの『太陽』のおかげです。一つ目はお天道(てんとう)さま(太陽光)です。二つ目は石垣の乱反射、三つ目は海からの反射、この三つです。でも、私が皆さんにお話しするときには、四つの『太陽』だと言っています。四つ目は、組合の統制力、組織力、人の和(わ)です。これが加わって四つの『太陽』があるから、日本一になったんだと言っています。
 組合員の、ミカンに対する愛情や日常の努力が大切です。『ミカン山に行ってなんぼだ。ミカン山で金を拾え。』と今も若い人に言っています。『いつもミカンに接して、ミカンとものが言えるようなミカンづくりをせにゃならん(しなければいけない)。今、ミカンが、消毒してほしい、肥料がほしい、水がほしい、こう言っているのが、ミカンの木を見たら分かるようにならにゃならん(ならなくてはいけない)。』これを、私らの組合では徹底してやったのです。
 昭和30年代、40年代には、組合員全員で園地を回っていました。『ちょっと芽が多い。』とか、『樹高が高すぎる。』、『スギ垣が手入れできてないぞ。』というように指摘し合っていました。スギ垣は重要で、手入れが悪いと、消毒したときミカンの木に十分かからないし、太陽の光が当たりにくくなり、いいミカンができません。スプリンクラーになってからは、園地の環境整備に特に気をつけなければなりません。毎年、スギ垣の剪定(せんてい)をしなければいけないのです。何年もしなければ、天まで届くような高いスギになってしまい、隣近所に迷惑をかけることになるのです。みんながそれぞれ自分で見て確認するのが当たり前でした。『あの人の言うことなら、やらにゃいけん。』と統制がきいて、レベルの高いミカンを作ろうと徹底してやっていたので、どこへ出しても恥ずかしくないミカンができていました。
 昭和30年代は、作業はほとんどが手作業でした。18ℓの薬剤や30kgの肥料を背負って山に上がることもありました。現在は、防除(消毒)や散水、除草などの機械化が進み、経営規模を拡大することができました。ですが、機械に任せきりでなく手をかけてこそ、いいミカンができるのです。」

 イ ミカンづくりの四季

 Aさんは、ご自身が「佐賀の果樹」誌に執筆した論考を示しながら、ミカンづくりの作業を話してくれた(④)。
 「春の仕事は、剪定、施肥(せひ)、防除、除草、スギ垣の剪定です。防除は、昭和30年代には、12月から3月まで、マシン油乳剤(ゆにゅうざい)でカイガラムシの防除を行っていました。カイガラムシは葉の裏側に付くので、手作業で防除作業をしなければ効果があがりません。防除をすれば、ダニ類も発生しにくくなります。春マシン、冬マシンと言っていました。
 夏は、まず除草、それから摘果(てっか)、防除です。昭和35年ころ、ヘリコプターでの農薬散布をやりました。日の丸、朝日、マルム(㋰)の三つの組合が協議会を作り一緒にやりました。散布境界の確認のため、私がヘリコプターに乗って、パイロットに『ここからここまでやってくれ。』と指示しました。最初は長谷(はせ)小学校の校庭を借りてヘリポートにしていましたが、向灘の防波堤に『Ⓗ』と書いてそこに移し、農薬を積み込んで散布しました。BHCという農薬です。そうしたら、『養殖の魚が死んだ。』『鯉が死んだ。』と苦情が出て、補償問題になり、3年ほどでやめました。
 秋になると、摘果の仕上げ、枯れ枝の除去、防風垣の再確認など、環境整備をします。
 冬は収穫です。多くの農家は、収穫作業のために人を雇っていました。昭和30年代、私は組合に出ていたので、家のミカン採収のことは家内にまかせており、三崎の女性に、ミカン採りの手伝いで11月の終わりから25日間くらい、住み込みで来てもらっていました。私たちが1階に寝て、住み込みの人を2階に寝させていました。そのうち住み込みから通勤に変わり、朝6時前に自動車で三崎を出て7時過ぎには来ていました。」

 ウ ミカンの出荷

 「家内は、雇いの女の人と一緒に採ったミカンを山の小屋へ入れておきます。農道や索道(さくどう)(空中にワイヤーを張った釣瓶(つるべ)式の運搬機)がなかった時代には、ミカン山の小屋に入れたミカンを、市内の八代(やしろ)などに住む男の人を4人雇って、天秤(てんびん)で肩継ぎ(区間ごとにリレー)して運び下ろしていました。
 昭和27年(1952年)に農道整備が計画されました。標高50m間隔で3線を工費約4,500万円で整備する計画でしたが、農家にまだ自動車がなく、リヤカーが12、13台しかなかった時代でしたから、『ミカンを切って、道路を造るとは何事だ。』と反対が強く、計画は進みませんでした。それで、道路の代わりに索道が導入されました。
 索道では、男手を索道の上と下に一人ずつ雇えばよく、天秤で運んでいたときのように4人雇うことはなくなりました。索道は、最盛期には向灘に110本ありました。110本の工事費がだいたい4,500万円で、道路造成とほぼ同額でした。それでも『楽になった。』と喜んでいました。海辺の道路があるところまで下ろせるように、索道が設けられていました。道路がない場所では船で運んでいました。
 ところが索道は、他の農家と共同で利用しますから、早くから順番を取って待たなければならないので、大変でした。その後、昭和51年から58年(1976年から1983年)にかけて西農道ができ、昭和56年から61年(1981年から1986年)にかけて東農道が整備されました。農道ができると、軽トラックや1t車が園地に横付けできるので、便利になりました。モノレールも農道ができるのに合わせて導入されました。
 日の丸では、その日に採ったミカンをその日に出荷するのが原則ですので、ミカン採収の最盛期になると、夕食が9時、10時になることが多かったのです。平成に入って、農協の給食が始まりましたので助かりました。毎日、夕方に農協(共選場)まで給食の入った容器を取りに行きます(写真2-2-2参照)。家内は『給食がなかったらようせん(できない)。』とよく言っていました。
 だいたい我が家では、11月初めから年内に収穫して出荷を終えます。ですが、たくさん作っていて手が回りきらず、年内にミカン採収が終わらない農家もあります。そうすると、鳥や風雪の被害が多くなり、木の休まる期間が短くなって、翌年の出来も悪くなります。裏作や表作ができると、品質がよくないものができてしまいます。なり過ぎてもだめ、ならなくてもだめ。毎年コンスタントにミカンが生産できるように木づくりをしないと、いいミカンができません。これが基本です。
 これを組合の中で9割の農家ができるのか、8割なのか、また6割なのか、これが銘柄(めいがら)のよさを決定づけるのです。昭和30年代、40年代には、日の丸組合に所属する農家の経営規模が小さかったため、年内のミカン採収が徹底してできていました。日の丸の銘柄が何十年も一貫して日本一だというのは、徹底してやれる農家がたくさんあったからです。」

 エ ミカンを売る

 「昔は、8貫(約30kg)入りの木箱でミカンを出荷していました。箱にわら縄を『キ』の字になるようにかけていました。
 昭和10年(1935年)ころには、日系人が多かった北アメリカや、中国の青島(ちんたお)に輸出していました。ミカンの実1個ずつを『マンダリンオレンジ』と印刷された化粧紙に包み、米杉(べいすぎ)(アメリカスギ)でできた10ポンド(約4.5kg)の木箱に入れて出荷していました。戦争が始まってうまくいかなくなり、輸出をやめました。
 昭和34年(1959年)に木箱から段ボールに変わりました。尺貫法が改正されて貫からkgに単位が変わったので、それに合わせて、段ボールに変えたのです(⑥)。また、これに合わせて、天(てん)・特(とく)・イ・ヨ・ノ・ミ・カ・ムというサイズの呼び方が、3(さん)L・2L(ツウエル)・L・M・S・2S(ツウエス)に統一されました。選果機も大型化し、オートメ(自動)化されました。
 ミカンは、サイズ以外に、品質によって秀品、優品、良品、可品、別可品に分かれます。別可品は、かつてはジュース(加工用)になっていたのですが、『日の丸ミカンがジュースではもったいない、少々器量(きりょう)は悪いが中味は変わらない、買い手がいっぱいある。』ということで、販売していました。
 昭和30年代には、優秀な農家なら、秀品が6割も7割もありました。向灘全体では、昭和39年(1964年)には、早生温州の秀品62%、優品が32%、良品が6%で、それ以下はありませんでした。大干ばつのあった昭和42年(1967年)は、生産量が激減しましたが、品質の比率はあまり変わりませんでした。日の丸は、他の共選よりはるかに高い厳選主義を徹底していたので、高い価格で売れました。
 糖度センサーがない時分は、色と形、病害虫の有無など、人間の経験と目視(もくし)で見分けていました。まず農家が選別し、それから組合で専従の選果員が選別しました。選果機で大きさごとに分け、台の上で色の悪いもの、器量の悪いものを選別するのです。ですから、例えば、出荷量を農家ごとに、早生(わせ)の秀品のLがいくら、Mがいくら、Sがいくら、と全部計算しなければなりませんでした。一農家で25種類くらいあり、そろばんで3回検算していましたが、間に合わないときは、昼間は共選で計算し、家に持ち帰って夜中まで決算をしました。こういう苦労を4月までしていました。
 ミカンの輸送は鉄道が主流で、八幡浜駅から出荷していました。船でミカンを運ぶことも何年かあり、八幡浜から糸崎(いとさき)(広島県三原(みはら)市〔愛媛青果連の基地があった〕)へ、そこから貨車で東京の神田(かんだ)市場(平成元年〔1989年〕までの東京都中央卸売市場。大田(おおた)市場に統合)まで運んでいました。現在は高速道路が整備され、トラック輸送に変わりました。
 日の丸ミカンは全部東京に出荷します。昭和の時代は、8貫(約30kg)入りの木箱、その後15kg入りの段ボール箱で出荷し、ほとんどが神田市場(東京都中央卸売市場)から仲買を経由して、果専店(かせんてん)(高級果実専門店)に流れていました。ところが今は、果専店の販売力が落ちて、大手スーパーで10kgと5kgの箱で販売するのが主流です。黒箱(日の丸ミカンの箱は黒色)は、平成7年ころに誕生しました。『千両』というネーミングもマッチしました。
 日の丸は、東京でトップブランドです。東一(とういち)(東京青果)の最初にセリにかかるのは、日の丸ミカンです。東一で日の丸ミカンがいくらで取引きされた、という情報が全国の市場にFAXで流れ、それがその日の値決(ねぎ)めになるのです。そういう役割を日の丸ミカンがしているのです。」

 オ ガス燻蒸

 「昭和10年から36年(1935年から1961年)ころまででしたが、ミカンの木のガス燻蒸(くんじょう)をしていました。最初は、ポット方式といって、ミカンの木全体に、渋(しぶ)を塗った和紙で作った覆(おお)い(燻蒸幕)をかぶせ、縦・横・高さを測って体積が何立方になるかを計算して、薬剤の量を計算し、燻蒸幕の中で、素焼きの鉢(はち)に硫酸(りゅうさん)を何cc、青酸(せいさん)カリを何gと、計算した量を入れるのです。青酸カリを入れると同時にブワッと反応しますから、息を止めて蓋(ふた)をして幕の外へ飛び出すのです。
 次はテジロン方式です。これは缶詰(かんづめ)に薬剤が入っていて、幕の中で薬剤の缶詰の蓋(ふた)にかなづちで穴をあけると、青酸ガスが噴出するので、すぐに幕の外に飛び出します。
 最後にドイツのダスター方式になりました。筒(つつ)の中で、青酸ガスを錠剤にしたカルテットを粉砕するとガスが発生し、虫を殺していました。これはてきめん、どんな虫も死んでしまいます。下手(へた)をすれば人間も死んでしまいます。『一息ならめまいを起こし、二(ふた)息なら死ぬ。』と言われていました。ある農家で飼っている犬が、主人について幕の中に入っていてしまい、主人が『あれ、うちの犬がおらんが。』と気付いて後で幕を開けてみたら、中で犬が死んでいたという話があります。向灘で一人亡くなっています。めまいがして人工呼吸した例はいくらもあります。夏に行う共同作業でしたが、ガス燻蒸は一番こわい、危険な作業でした。
 戦前には、『春燻蒸』といって春にガス燻蒸をしていましたが、これをやると木が弱って果実が太らないのです。組合が勧めた春煉蒸をしたら、ミカンが太らなくなって小玉になり、お金にならなかったことが原因で、『役員のやり方が悪い。』とされ、意見の対立から、昭和11年(1936年)、日の丸と朝日に組合が分裂したのです。」

(3)ミカンづくりを支える組合と地域

 ア ミカンづくりを支える組合

 「私(Aさん)は、昭和27年から39年(1952年から1964年)まで、日の丸みかん出荷組合の専務のような仕事(理事と事務長)をしていました。就任した時、組合長は32歳、専務職の私が21歳でした。『役員は組合のために。』という方針でやっていました。私の提案で、正副組合長経験者を顧問に据(す)えて、役員会と顧問会を年に2回開き、『今年はこういう方針でミカンを作る。』『今年はこういう販売をやりたい。』と相談していました。組合の全財産を私が預かって、生産、販売、決算、税務まで仕切っていました。
 向灘には、日の丸と朝日のほか、マルム(㋰)の三つの出荷組合がありました。昭和39年(1964年)に日の丸と朝日の両組合が合併したのは、私が長年仕えた日の丸の組合長と、私のいとこであった朝日の組合長とを説得することができたからです。朝日の組合長に『朝日の組合員を説得してほしい。日の丸は私がするから。』と言って、紆余曲折(うよきょくせつ)の末、合併が実現したのです。
 反対が根強く、なかなか大変でした。『合併するなら日の丸のマークを消して新しいマークに替えろ。』『ばかもん、昭和8年からやっている日の丸をはずせとは、何事か。』と言い合い、議論になりました。日の丸のマークは、当時の組合員らが投票で決めたもので、清水太郎兵衛(たろうべえ)さんが考案したものです。なぜこのマークを作ったかというと、海風に翩翻(へんぼん)とはためいて世界に雄飛する日の丸のようなミカンにしたいという願いが込められているのです。私は日の丸の由来を聞いておりましたので、一歩も引くことなく、『絶対に俺はこれを守る。』と言い張って、今に残すことができました。
 さらに、昭和43年(1968年)に農協と合併してからは、営農指導員として本部に入り、六つの小さい出荷組合を集約して、大きな『八協(八幡浜青果農業協同組合)』に一本化していったのです。御荘(みしょう)や城辺(じょうへん)(現愛南町)の人が、甘夏柑(あまなつかん)を作り始める時、『山を見せてほしい。』『貯蔵はどういうふうにしているか。』と見に来られたことがあります。日本で最初にハウスミカンを始めた蒲郡(がまごおり)(愛知県)や、三ケ日(みっかび)(静岡県)からも視察に来られました。
 昭和50年代までは、居間や板間にムシロを敷いて、摘(つ)み取ったミカンを50cmくらいの高さまで積んで仮貯蔵していました。人間は板間で寝ていました。それを見聞きした視察の人が、『日の丸ミカンはさすがじゃ。ミカンを床の間や座敷に寝させている。』と驚かれました。」

 イ 昭和42年の大干ばつ

 昭和42年(1967年)、西日本一帯を大干ばつが襲い、灌漑(かんがい)施設がなく雨水のみが頼りであったミカン産地は大打撃を受けた。八幡浜では、7月13日から10月3日まで、80日余りにわたってほとんど降雨がなく、井戸は枯(か)れ、水道は時間給水や断水となった。ミカン農家は水を運搬して灌水(かんすい)したが、枯死するのを食い止める程度で、大きな被害が出た。
 「当時はパチンコ屋さんからどっど、どっどと冷房の水が出ていましたので、それを一斗缶(いっとかん)に汲(く)んでドラム缶に溜(た)めて水を集める、という原始的な作業をしました。もらった水は、海岸端(ばた)に工事用パネルを組んでシートを敷いたものの中に移し、ポンプのエンジンをかけて、そこからエスロンパイプで山へ送りました。」
 当時、農協の指導員であったAさんは、この時のことを『命枯れるな』という本にまとめている(⑦)。それによれば、干ばつが続くなか、限られた水を隣近所や親類同士で奪い合う光景が見られたという。新たな井戸を掘ったり、電波探知機で地下の水脈を探したり、懸命(けんめい)の対応策がとられたが効果はほとんどなかった。市内のスーパーやパチンコ店、工場の排水をもらい、毎日毎日、トラックで畑に水を運んだ。水を運ぶために新たに買われた車は、向灘地区だけで40台に及んだ。そして、連日の水運搬に疲れたために、水運搬中に死亡事故を起こした農家の人が自殺するという痛ましい悲劇も起こったという。
 このような苦い経験と地元の熱意に押されて、国と県、地元市町は南予(なんよ)用水事業に取り組み始めた。20年の歳月を費やし、野村ダムと水路を建設して農業用水や飲料水を宇和海沿岸の水が乏しい地域(宇和島市から旧三崎町まで、幹線110km、受益ミカン園約7,000ha、受益人口約17万人)に送るようにしたのである。Aさんは、「80年か100年に1回とも言われる昭和42年の大旱魃の実態を農業者の目を通して後世に語り伝えたい、更にこの苦しい貴重な体験の中から、何らかの水資源対策事業の早期着工を訴えたかった。」と、執筆の動機を記している。
 「小学校、中学校にもこの本を配っています。地元の白浜(しらはま)小学校や江戸岡(えどおか)小学校にも、ゲスト講師として何回も行きました。最近は、ロータリークラブやライオンズクラブなどで、『今は水の苦労を忘れているが、どういう苦労があったのか、お話ししてほしい。』と頼まれて話をしています。私はどこへ行っても、『この水を飲む時は、必ず野村(のむら)町や宇和(うわ)町の人たちに感謝して飲んでほしい。南予用水事業は、子や孫のために水利権を買う事業であった。』と訴えています。」

(4)ミカンづくりにかける思い

 「サラリーマン家計は引き算計算ですが、農業家計は足し算計算だという違いがあります。サラリーマンは、所得が決まっていて、決まった額から生活に必要な経費を引いていき、残らないと貯金ができないのです。ですが、農家は、出荷したものの販売代金が東京の市場から振り込まれるまでは、いくらの収入かわかりません。生産経費をどれだけ抑えられるか、ミカン収入以外にプラス要因をどれだけ作れるか、ということです。ある地区では、かつて、ミカンの木の間にネギを植えて生産していました。ネギは雪が降ると値が倍になります。ネギでプラス要因を作っていたのです。プラス要因はいろいろあります。そのような足し算計算のおもしろさが農家にはあるのです。これからの農業は『脳業』なのです。知恵比べ、脳比べです。これからは、やればやるほど、おもしろい時代が来ると思います。
 今は、ミカン農家にとって厳しい時代ですが、だんだん生産量が減って80万t市場になってきていますから、よい品を作っていれば、もう一度売り手市場に必ず変わるでしょう。しかも、冬場は何と言っても、ミカンのニーズが絶対あります。ですからこれから、本当に性根(しょうね)いれてミカンづくりをすれば、おもしろい時代が来ると信じています。
 産地の力とは、すばらしい若者が何人いるかで決まる。すばらしい商品をいくら作るかで決まる。」
 長年のたゆまぬミカンづくりと組合や地域での活動の経験を、Aさんは力強く語ってくれた。産地の将来に対する不安もあるが、トップブランド産地の誇りと堅実な実践を、若い世代が引き継いでくれることを願いつつ、Aさんは今日もミカン山で仕事をしている。

写真2-2-2 日の丸みかん共選場

写真2-2-2 日の丸みかん共選場

八幡浜市向灘。平成24年11月撮影