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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 沖合トロール漁業

 昭和33年(1958年)に発行され、八幡浜市内の小学校で使われた副読本『小学校社会科 八幡浜のくらし』の中には、「トロールぎょ船」の項目があり、次のような内容が書かれている。

   「ぼくらの住んでいる八幡浜(やわたはま)は、トロール漁(ぎょ)業がさかんです。ぼくのお父さんも、近所の友だちのお
  父さんも、たいてい船にのっています。(中略)船はとおい長崎(ながさき)や、鹿児島(かごしま)のおきでりょうをしま
  す。台風のころになるとぼくはラジオの前にすわります。あみがスクリュウにまきついたりしますと、冬でも海にとびこん
  ではずさなければなりません。寒い冬の日でも、風のつよい日でも一生けんめい魚をひいている人たちは、ほんとうにごく
  ろうさんです。この人たちのおかげで八幡浜(やわたはま)の町は、だんだんゆたかになります。(②)」

 第3種漁港(利用範囲が全国的で県外漁船の水揚げが可能な港)である八幡浜漁港は、愛媛県内唯一(ゆいいつ)の沖合トロール漁船の基地である(トロール船は、もともと200t級以上で、オッター・ボードまたはビームとよばれる漁具で網口を広げて漁獲効率を高めた1艘(そう)びき沖合底びき網漁業を行なう漁船をいう。そのため、200t未満の船でオッター・ボードなどを使用せずに2般びきで底びきを行う八幡浜の沖合トロール漁業は、本来のトロール漁業とは異なる)。最盛期の昭和23年(1948年)には、27統(とう)54隻(せき)の沖合トロール漁船が港を賑(にぎ)わせた。それらの船から水揚げされた豊富な魚介類(ぎょかいるい)は、県内外の各方面に出荷されるだけでなく、地元に水産加工品業を生み出し、その練(ね)り製品業や煮干(にぼ)し業などは、八幡浜の地場産業として発展した。前述の副読本『八幡浜のくらし』の中の、「この(沖合トロール漁業に従事する)人たちのおかげて八幡浜の町は、だんだんゆたかになります。」のとおり、沖合トロール漁業は、八幡浜市の経済発展の一翼を担ってきた。
 沖合トロール漁業の仕事や乗組員とその家族の生活について、Aさん(昭和14年生まれ)、Bさん(昭和18年生まれ)夫妻と、Cさん(昭和16年生まれ)、Dさん(昭和19年生まれ)から話を聞いた。

(1)トロール漁業の仕事

 ア 船に乗る

 「私(Cさん)は、昭和34年から平成3年(1959年から1991年)までトロール船に乗りました。木造船からやがて木造鉄鋼船に変わり、今のような鉄鋼船で仕事をするようになったのは昭和50年代になってからでした。私は農家の出身なので、それまで漁船に乗ったことがなく、最初のころは、船酔(ふなよ)いが辛くて仕事を辞めようかと何度も思いました。その時分は、油を浸み込ませたウエス(機械類の汚れをふき取るぼろきれ)を燃やしてご飯を炊(た)いていたのですが、その匂いを嗅(か)ぐたびに酔いがひどくなりました。ですから、3か月間ぐらいは、船酔いで仕事どころではなく、船の揺(ゆ)れに慣れることに精一杯でした。そのときは、水揚げのために陸(おか)に上がっても、身体が揺れているように感じて気分が悪い時期もありました。
 私(Aさん)は、昭和33年(1958年)に島根県から八幡浜に来て、翌年の昭和34年から平成13年(2001年)まで、トロール船に乗りました。私も船酔いには苦しみました。ある時、酔って戻す(嘔吐(おうと)する)ものがなくなって血を吐(は)いたのですが、先輩の船員からは、『血を吐くまでにならんと(ならないと)船には慣れん(慣れない)。』と言われました。昭和30年代ころの船は木造で、しかも小さかったので、今の鉄鋼船に比べれば船の構造や大きさによる安定性が悪く、どうしても揺れてしまって酔いやすかったのです。
 大きな鉄鋼船に変わって、網を引き揚げる時の危険度も低くなりました。鉄鋼船は、『バックトロ』といって、船尾(せんび)から網を降ろしたり引き上げたりしますので、網を巻き上げる時に船が安定していて、巻き上げローラーも、人のいる場所から離れたところに取り付けられています。それに比べ、木造船のときは、舷側(げんがわ)(船の側面)から網を降ろし、その舷側に取り付けたローラーを使って網を引き揚げますので、大漁の時には船が傾いてしまい、場合によっては転覆することもありましたし、巻き上げられているワイヤーを誤って握ってしまい、ローラーに手を挟(はさ)まれてしまうこともありました。
 トロール船に乗っていた船員は、八幡浜や佐田岬(さだみさき)半島の町や三瓶(みかめ)の出身者がほとんどで、県外から来る人は少なかったと思います。船主の水産会社の中には、八幡浜漁港以外にも、下関(しものせき)や長崎の港を基地とするトロール船を持っている会社もありました。下関のトロール船に八幡浜出身の人が乗ることも多くて、私(Aさん)も一時期、下関に行っていました。」

 イ 海原で魚を獲る

 (ア)漁場に向かう

 「トロール漁業の漁期(りょうき)は、毎年、9月1日から翌年の4月30日までと決められています。漁期の最初の船出(ふなで)の前日には、船の所属する水産会社ごとに乗組員が集まって、これから始まる漁の安全と大漁を願いながら、『しおおろし』と呼んでいた酒盛(さかも)りをして気勢(きせい)をあげます。
 船が大きくなって速力も増してくると鹿児島県沖などの遠方でも漁をし始め、9月1日に網を入れようと早めに出漁(しゅつりょう)する船もありましたが、昭和30年代、40年代は、漁場がそれほど遠くなかったので、ほとんどのトロール船が8月31日に出漁していました。八幡浜漁港の向灘(むかいなだ)の岸壁に並んだ10統(とう)20隻(せき)がそれぞれ船出していく時には、景気のよい軍艦(ぐんかん)マーチが鳴り響く中を、紙テープを持った会社の人々家族などに見送られながら、大漁旗(たいりょうばた)をはためかせて湾内を3周ぐらい回ってから漁場に向かっていました。
 トロール漁業は、2隻の船が一緒に網を引いて行います。2隻の船は、大体は第一何々丸、第二何々丸というような船名が付けられていて、漁の全責任を負う漁撈(ぎょろう)長が乗っている方が主船で、権利船と呼んでいました。その漁撈長以外に、一つの船に普通は10名ずつ乗組み、それぞれの船には、船長、機関長、通信局長、甲板(こうはん)長と甲板員、機関員の役割分担がありました。時には、漁撈長が主船の船長を兼ねることもありました。どこの漁場に行くかとか、どのタイミングで網を入れるかなどは、ブリッジ(船の甲板(かんぱん)上の高い位置にあって操船や通信を行なう場所)にいる漁撈長がすべて判断して指示を出します。
 トロール船が漁をすることのできる漁業区ははっきりと決められています。瀬戸内海(せとないかい)や宇和海、四国や九州の沿岸部は、それぞれ地元の漁師の人たちの漁場なので禁止区です。大分県佐伯(さいき)市に、灯台で有名な水ノ子島(みずのこじま)という無人島がありますが、豊後水道のちょうど真ん中辺りに位置する、その水ノ子島灯台の南側の海域が漁業区です。漁場で網を入れていると、別のトロール船が近くで操業することもありましたが、八幡浜の船以外は、漁法が違うのでめったに見ませんでした。」

 (イ)網を引く

 「片方の船が、先端に袋状の魚溜(うおだ)まりのある網を入れると、もう一方の船が近づいて行って、その網の片方の端に繋(つな)いだワイヤーロープを受け取ります。それから、両船で網を放出して、並んで走りながら網を広げ、2時間ぐらい網を引きます。そして、徐々に船の間を詰(つ)める寄せ漕(こ)ぎをして、網を入れた方の船が、再び網の端を受け取って、船尾のローラーで網を巻き込み、網の魚溜まりを揚げて、巾着(きんちゃく)の紐(ひも)をゆるめるように魚溜まりを開けて、魚を作業甲板に取り込みます。ただ、網にかかった魚が多いときには、網の端を戻さずに、両船をぴったりと合わせて両方から網を巻き込み、魚溜まりを開くのを半分くらいに止めて魚を両船に分けることもありました。網と魚を取り込んだ船では、その後、魚を選(よ)って(選別をして)、網の点検や整理をします。その間に、もう一方の船が、今度は網を入れて同じことを始めます。このような作業を、2隻の船が休む間もなく交替で繰り返しますので、常に、どちらかの船が魚を選っている状態で両船が網を引くことになります。ですから、魚を選り終えて網を入れている2時間ほどが睡眠時間なのですが、魚が多くて選別が終わらなければ、網を入れた後で続きをしなくてはならず、その上に、底びきで海底の岩場に網が引っかかって破れてしまうと、選り終えた後に網の修理をすることにもなり、なかなか寝る間もありませんでした。魚が一番獲れていた昭和50年(1975年)前後のことですが、私(Cさん)の場合、3日間ぐらい横になれなかったことがあります。」

 (ウ)魚を選る

 「昭和50年ころは、エソやグチ、タイをはじめ、どんな魚もたくさん獲れました。昭和53年(1978年)ころには、ハゲ(カワハギ)が、1回の投網で卜ロ箱(漁獲物を入れる木箱)にして1,000箱から1,500箱くらい獲れたことがありました。ハゲなどを加工した珍味(ちんみ)食品がよく売れていたころなので値もよく、たくさん獲れるのはよかったのですが、ハゲは角(つの)があるので網からはずしにくく、選り分けや箱詰めの作業が4、5時間もかかり、睡眠不足のまま3、4日間はそれが続いて大変でした。ただ、そのハゲも、ある時からほとんど姿を見なくなり、その後は、スルメイカやヤリイカが獲れるようになりました。
 イカは、獲れるときには相当な量が網にかかり、しかも鮮度が落ちて傷みやすいので、すぐに処理をしながら選らなくてはなりません。まず、時間が経(た)つと色が晒(さ)れてしまう(体色の透明感のある赤褐色が退色して白っぽくなる)ので、少し赤みが残るような処理をします。それから、イカを大きさで分けて、昔は木で作ったトロ箱でしたが、発砲(はっぽう)スチロールの箱に変わってからは、その中に氷を敷いて叩(たた)き締(し)め、その上に見栄(みば)えよくきれいにイカを並べ、薄いナイロンシートをかぶせて箱を積み上げていきます。
 選別作業は、どの魚も同じようにやります。魚の種類や大きさによって選り分け、それをきれいに何百箱も詰める作業を、次の網を入れるまでにやり終えなくてはならないので、時間との勝負でした。それらの作業は甲板長の指示で行ないます。網が揚げられ、甲板の上に魚が取り込まれると、網を点検する者と魚を選る者とに分かれて作業を始め、網を修理する必要がなければ、選別のほうを手伝います。魚の選り分けには、それぞれの役割分担にかかわらず、ほぼ全員が取り掛かっていました。その、網を引いて獲れた魚を選る作業を、漁に出ている3、4日間、休むことなく繰り返します。」

 (エ)まずは腹ごしらえ

 「漁をしている間は、網を揚げて魚を選り終えると、次の網を入れてその網を揚げるまでに少し時間があるので、そのたびに食事をしていました。ですから、1日に5、6食はしていました。その食事の用意はすべて、『飯炊(まんまた)き』と呼んでいた司厨士(しちゅうし)(船中の炊事担当者)がしていました。飯炊きもまた、水揚げで船が寄港している間に食材の買い出しに行ったり、海に出れば食事を作ることにかかりっきりになったりしますので、他の役割と同様に大変です。そのかわりに、時間が取れないときは魚の選り分けには加わりませんし、当番(港と漁場との間の船の操縦を乗組員が交替で行なうこと)もありませんでした。飯炊きの仕事は、乗組員の健康や体力、士気などに大きな影響を与える重要な仕事です。漁撈長になった人の中には、飯炊きを経験した人が少なくありません。
 ご飯は、煉瓦(れんが)で造った竈(かまど)にお釜(かま)を置いて炊きました。燃料には、重油を浸み込ませたウエスの前は薪(まき)を使っていました。薪は普段は外に置いていて、雨が降ってきたら、トロ箱を積んでいる所へ移して雨に当てないようにしていました。私(Aさん)は飯炊きをしたことがありますが、おかずは、大概が刺身(さしみ)で、時々は、魚の煮付けや酢漬けを作っていました。仕事の段取りをできるだけよくして、早朝の食事の用意をその前の食事の時に構えておけば、早朝の食事の準備ができればすぐに寝ることができるので、睡眠時間を少しでも取れるように工夫していました。」

 (オ)駆け引きに勝つ

 「どのトロール船がどれだけの魚を獲ったか、ということは、1航海ごとの水揚高が数字で出されますので、すぐにわかります。私(Cさん)は、通信局長として、いろいろな魚の相場や、各船の仕切(しきり)(決算)の情報を集めて、どの漁場にどのような魚がたくさん獲れるかを分析し、漁撈長が次の漁場を判断するための材料をまとめていました。港を出れば、他の船との駆け引きが始まります。魚の相場は、本社(トロール船を所有する水産会社)とのやり取りで把握しました。今は、魚ごとの相場の一覧表や推移表などをファクシミリで送ってもらえますが、ファクシミリがなかったころは、古くはモールス符号による電信にはじまり、無線や電話で、一日中、タイの値がいくら、エソの値がいくら、というように確認しながら、それぞれの魚の高値と安値を拾っていました。一つでも間違えれば、それまでの作業が無駄になるので気が抜けませんでした。しかも、同じような作業をどの船もしているわけですから、情報の裏を探りながら仕事を進める必要もありました。
 水揚げのタイミングを判断する情報を手に入れることも、通信局長の大事な仕事でした。何隻もの船が同じ時に水揚げをしてしまうと魚の値が下がってしまうので、入港予定日が他の船と重なっていることがわかると、本社の意向を確認した上でそれらの情報を漁撈長に伝えていました。その結果、漁撈長が、『1日ずらすか。』と判断して、水揚げをする日を替えることがよくありました。また、魚の値がよくなりそうだという情報が事前に入ると、値のいい当日に入港することもありました。魚を獲るのが一番大変ですが、魚群の情勢や魚の相場、漁船の動き、天候などの情報を総合して、的確な判断を下せるための材料をつくることもなかなか大変でした。」

 ウ 魚を八幡浜の市場まで運ぶ

 「大体3日間か4日間ぐらい続けて漁をしたら、八幡浜の魚市場に水揚げをしていました。魚場がそれ程遠く離れていない場合は、本船にそのまま魚を積んで港に帰ります。ただ、船が大きくなるとともに漁場も広くなり、遠くでも操業し始めると、一時期は、漁場まで運搬船に来てもらって魚を市場まで運んでもらっていたこともありました。陸上輸送が発達してくると、鹿児島県沖とか高知県沖とかで漁をしたときは、近くの漁港に寄港し、そこで魚をトラックに積み替えて八幡浜の魚市場まで運ぶようになりました。私(Cさん)が乗っていた船の場合は、鹿児島県沖で獲れた魚を近くの山川(やまがわ)町(現指宿(いぶすき)市)の港に降ろし、そこから八幡浜までトラックで陸送していました。地元の小さい魚市場ではたくさんの魚は捌(は)けませんし、八幡浜の魚市場は販売ルートが出来上がっていて取引の値もよく、エソやグチなどの魚は八幡浜特産の高級練り製品の原材料になりますので、そういった地場産業とのつながりもあって、八幡浜まで帰ってきていたのだと思います。
 八幡浜漁港までは、漁場から港までの距離によって2交替とか3交替とかの当番制で乗組員が船の舵(かじ)をとって帰っていました。昭和30、40年代ころは、船の速度が今よりも遅く、宮崎県沖からであれば、朝出発して午後3時か4時ころに着いていましたので、3交替ぐらいはしていたと思います。そして、港に着いて魚市場に水揚げをした後は、またすぐに漁場に向かうので、急いで、次の漁のための燃料や食料、発泡スチロール箱、氷などを積み込んだり、傷んだ網を取り替えたりします。自宅が港の近くにある者は、1時間ぐらい一旦家に帰り、シャワーを浴びて衣類などを取り替えることができましたが、魚がたくさん獲れていたころは、その時間もとれず、『今日は、家に帰る間(時間)がない。』と家族に連絡をしたこともありました。」


(2)トロール船の乗組員のくらし

 ア つかの間の一家だんらん

 「トロール漁業の仕事では、3日間か4日間ぐらい沖に出て、水揚げをしたらまたすぐに沖に向かう、ということを月に7、8回繰り返し、それを、正月休みを除いて、漁期の8か月間にわたって続けます。ですから、今は月に2回ある休日(15日ころと月末の給料日のころ)も、私(Cさん)たちが働き盛りのころには、月に1日しかありませんでした。その日だけは、自分の家の布団(ふとん)で寝ることができました。そして、漁期では、正月休みが家族とゆっくり過ごせる唯一(ゆいいつ)の機会でした。12月30日か31日に港に入り、『あえ』(もてなしの品)として会社からもらった、魚やイカなどの詰まったトロ箱を持って家に帰りました。ただ、その休みも3日間ぐらいで、1月5日には出漁していました。
 昭和30年、40年代は、漁に出てしまうと家から船へ連絡をするのも難しい状態でした。私(Bさん)の場合、どうしても必要なときは、会社の事務所を通して主人に連絡をとっていました。ある時、身内に不幸があって高知県沖で漁をしていた主人に伝えたのですが、八幡浜までは船が帰れないので、タクシーの運転手と運賃の交渉をして高知から自宅までタクシーで帰って来たことがありました。
 船の上で携帯電話を使うようになる前は、船舶(せんぱく)電話というものを使っていました。電話機自体が大きくて動かせず、しかもなかなか繋がらないという、今思えば不便なものでした。やっと船に電話がついて家族と連絡がとれるようになると、皆がかけたがりましたが、使い放題にしてしまうと業務に支障が出るということで、電話機を置いていた通信室に常駐する私(Cさん)が、その管理を任されていました。」

 イ 沖での安全を祈る

 「私(Cさん)は、昭和42年(1967年)12月28日に、佐田岬(さだみさき)半島の神崎(こうざき)(現西宇和郡伊方町神崎)沖で遭難(そうなん)しました。大時化(おおしけ)でしかも吹雪(ふぶき)になって視界が無くなり、2隻のうち私が乗っていた方の船が座礁(ざしょう)して、11名の乗組員の中で2名が亡くなりました。丁度その前に、私のいた通信室の片方の戸が壊れて開(あ)かず、正月休みに修理する予定でしたので、そのことを知っていた乗組員は、私が逃げ場をなくして死んだものと思ったそうです。ところが、岩場に乗り上げて船が横倒しになった拍子(ひょうし)に、それまで開かなかった戸が自然と開いたのです。事故直後は遭難信号も連打したのですが、途中でバッテリーが切れて通信ができなくなり、しかも、真っ暗闇(くらやみ)の通信室の中に潮が入ってきたので、その開いた戸からなんとか脱出して九死に一生を得ました。今でも、『なんで、あの時に戸が開いたんやろう。』と思うことがあります。
 漁をしている間、乗組員の人たちは相当大変だったろうと思います。昔は、今よりも小さな船で、時化の時も、むしろ沖に出る船が少ないのでチャンスとばかりに、よく海に出ていました。ですから海難事故も結構起きていました。私(Bさん)の二人の弟はいずれもトロール船に乗っていましたが、そのうちの一人が、昭和47年(1972年)に、佐田岬灯台の近くで船が渦(うず)に巻き込まれて遭難し、20歳で亡くなりました。その前にも、主人の乗る予定だった船が沈んでしまう遭難事故があり、主人が無事に家に帰って来るまでは心配で、いつも気が気ではありませんでした。」

 ウ 休漁中のくらし

 「同じ船員でも、貨物船の場合は1年を通して働けますが、トロール船の場合は、休漁中の4か月間は仕事がなくなります。出漁の準備は9月の直前になってからなので、その間に、何か他の仕事をしなければ収入がありません。そのため、私(Aさん)は、鉄筋(てっきん)組みや水道工事、瓦葺(かわらふ)きなど、いろいろな仕事をしました。
 人によって仕事はばらばらで、私(Cさん)は、船の中での空き時間で電気工事やボイラーの勉強をして資格を取り、電気店で働きました。トロール船に乗ればお金がたまると思われがちですが、月々の給料が一般的な額と比べて高くても、その8か月分で1年間生活をしなければならないので、年間をとおしてみれば他の人とかわりません。しかも、船に乗らない4か月間は船員年金の掛(か)け金が納められていないので、たとえ船員を32年間続けたとしても、実際は20数年間掛けたことにしかなりません。4か月間を継続できる任意(にんい)保険も後になって出来ましたが、魚がたくさん獲れて給料がよいときであれば保険を掛けることができても、収入が少なくなるとそれもしんどいのです。ですから、トロール船の船員の生活を、生涯をとおした全体として考えれば、金銭的にも決して楽なものではありません。退職金もありませんし、1漁期1漁期が勝負です。」

 エ 家族で苦楽をともにする

 「トロール漁業で魚がよく獲れて一番忙しかったころが、ちょうど私(Bさん)のうちでも、子育ての一番大事な時期でした。主人はほとんど船の上にいましたし、今のように連絡をとることもできなかったので、相談したい時にそれができませんでした。たまに帰ってきたときに話をしても、1日ぐらいしか家にいられないので、喧嘩(けんか)になりそうになってもそれを我慢しました。機嫌(きげん)よく見送っておかないと、沖でもしものことがあったときに後悔すると思ったからです。子どもたちの方も、幼いときには、父親がいないのが当たり前になっていました。家の前で遊んでいて、帰って来た主人を見るなり、泣きながらおもちゃを持って家に逃げ込んできたことがありました。しばらくして子どもが父親に慣れたころに漁に出て、子どもが父親を忘れたころにまた帰って来る、一時期はその繰り返しでした。子どもが小学生のころも、主人がせっかく家にいるのに、人見知りをするのか、父親と話そうとせず、『母ちゃんはどこ。』と主人に聞いていたそうです。主人も私たち以上に寂しい思いをしたと思います。そして、主人が船に戻る時間ころに、なぜか子どもがよく熱を出したり怪我(けが)をしたりしました。窓から落ちて救急車で運ばれた時は、出漁前の主人に知らせると心配をかけるので連絡をしませんでした。ただ、子どもたちも今では、『お父さんがまじめに働いてくれたけん、私らもこうしておられる。』と言って、主人に感謝しています。
 私(Cさん)のうちも同じです。トロール船に乗っていた32年間は、子どものことを家内にまかせてきました。平成2年(1990年)4月に子どもが高知県の大学に進学することになり、漁の休みの日に私がトラックを運転して引越しをする予定でした。ところが、その前日に、宇和海の近場(ちかば)の漁場で、春先の『のぼり鯛(だい)』(桜鯛ともいい、桜の咲くころに産卵のために浅瀬に群集して漁獲されるマダイのこと)が相当獲れて、引越し予定日の朝、一旦市場に水揚げしてから、すぐにまた同じ漁場に引き返すことになったのです。しかも、それが、次の日も、その次の日も、となり、『明日は、(引越しに)行こうわい。』とそのたびに連絡し続けて、結局は、引越しを4日間遅らせたことがあります。驚く程の水揚げがあってうれしい反面、内心では『子どもに悪いことをしたなあ。』と思ったことを、今でも忘れることができません。その時の『のぼり鯛』ではありませんが、トロール船に乗っていて一番うれしい時は、やっぱり、魚がたくさん獲れた時でした。」
 かつては競うように出漁したという沖合トロール漁船も、現在では1統2隻が操業するのみとなった。しかし、トロール漁船の乗組員たちの、漁にかける熱意と「魚のまち」を支えているという自負は、これからも八幡浜の若い漁業従事者たちに受け継がれていくことであろう。