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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 大島のくらし

(1) 島のなりわい

 ア 漁業に生活をかける

 「昭和30年(1955年)ころには、四ツ張網(よつばりあみ)が9統(図表1-3-3の㋓参照)あって、島の漁業収入の大半を占めていました。獲れたイワシ(カタクチイワシ)は煮干(にぼ)しにして、1袋800匁(もんめ)(約3kg〔1匁は3.75g〕)で網元に納めていました。大漁不漁によって違いますが、島全体で年間に1万から3万袋程の水揚(みずあ)げがありました。1統20人程の網子(あみこ)と煮干し製造業者を併せた300人余の島民が、漁期の3月から10月末まで、四ツ張網漁に生活をかけていました。賃金は半年払いの歩合(ぶあい)制で、水揚げの半分は、船や網などの道具を構え油代々バッテリー代を払う網元が取り、残りの半分を網子が均等に分けていました。
 島に電気が通るまでは、集魚灯(しゅうぎょとう)のバッテリーを八幡浜まで持って行って充電していました。昭和32年(1957年)に電気が入ると、私(Cさん)のところともう1軒とがバッテリーの充電を商売で始めました。うちでは2統の約24個のバッテリーを充電していたときもあります。2軒で収容できないバッテリーは全部、漁協(八幡浜市漁業協同組合大島支所、図表1-3-3の㋕参照)の島栄丸(とうえいまる)に積んで八幡浜に持って行っていました。
 私(Dさん)も四ツ張網漁の手伝いに行ったことがあります。1隻に女性が1、2人、男性と一緒に乗り、夕方に沖に出て、網を引き上げて朝方に帰っていました。ヤンザ(仕事着)の中にボロ(襤褸(ぼろ)〔着古した衣服〕)を着て、いろいろな手伝いをしました。棒で海中をかき回しながら網を引き寄せて、6人ぐらいで轆轤(ろくろ)のようなものを使って網を引き上げることもしました。獲ったイワシの中からいくらかをもらって、それを自分のうちの食料にしていました。
 あれほど盛んだった四ツ張網漁も、昭和40年(1965年)ころに島外の巻網船が近代的な漁法で周辺海域を操業するようになると、年々、水揚げが減り、なくなってしまいました。
 昭和40年代に入って、三重県の2業者が音泊で真珠(しんじゅ)養殖を始めて、島の女性を作業員として雇っていました。真珠養殖も一時は盛んだったのですが、拡大しなかった理由の一つには、海がきれいすぎて貝の餌(えさ)になるプランクトンが少なすぎたということがあったそうです。
 私(Bさん)は昭和40年代の初めころにハマチ養殖を一度だけしましたが、うまくいきませんでした。元手のお金がかかるというのも大変でしたが、一番困ったのは台風被害でした。今のような生簀枠(いけすわく)ではなかったので、台風のたびに魚が逃げてしまうのです。その上、餌を八幡浜から運ぶ必要があったので経費面でも不利でした。島での養殖は、いろいろな面で難しさがあります。
 島に動力船がまだ少なかった昭和30年代の初めころ、春先には、私(Cさん)とBさんとで佐島(八幡浜港の沖合約5kmにある島)の沖まで海藻(かいそう)を採りに櫓漕(ろこ)ぎ船(ぶね)で行っていました。採った海藻を山のように船に積んで持って帰り、乾燥させてから合田(ごうだ)や真穴(まあな)に持って行って、農家に直接売っていました。金肥(きんぴ)(化学肥料)がまだ少ない時分でしたので、肥料として畑に撒(ま)くための藻がよく売れました。島の者の中には、泊り込みで佐島辺りに藻を採りに行っていた人もいました。皆、そのような苦労をしていました。」

 イ 麦とイモ

 「昭和30年(1955年)ころの主食は、麦飯とイモ(甘藷(かんしょ))で、それにイワシをおかずにするぐらいでした。イモは切り干しにしたものを俵に詰めて売っていました。時々、その俵を集荷して八幡浜まで運ぶ貨物船が、若宮(わかみや)神社(図表1-3-3の㋑参照)の下の岸壁まで来ていました。イモやイワシを加工して売るのが現金を手に入れる主な方法で、それ以外で収入を得るためには島から出て行くしかありませんでしたので、ほとんど自給自足の生活をしていました。
 麦が実るころには、島の山が天辺(てっぺん)まで黄色くなっていました。高い山や集落から離れた山にある畑では、千歯扱(せんばこき)を持って行って、そこで脱穀(だっこく)をしていました。落とした実は、叺(かます)(わら筵を二つに折って左右両端を縄で綴(つづ)った袋)に入れて担(かる)(背負)って帰り、殻竿(からさお)などを使って殻を取り除いていました。時には、青年団が、久保津の空き地で、家々から集めた麦を、機械を使って脱穀する奉仕活動を行うこともありました。麦やイモの収穫のときは山の上がり下りが相当に大変で、特に忙しい時期は学校が農繁(のうはん)休学になって、子どもたちも麦やイモを担ったりして家の手伝いをしていました。
 裸麦を石臼(うす)で押しつぶした『平麦』で作った麦飯は、柔らかくて、とても美味(おい)しく感じました。それから、小麦を石臼で挽(ひ)いて、できた小麦粉で作った手延べうどんは、今と比べれば黒いうどんで見た目はよくなかったですが、当時は、めったに食べることのできない御馳走(ごちそう)でした。」


(2)悲願がかなう

 ア 電灯がともる

 「昭和31年(1956年)に島の電気導入工事が完成して、その電気を使い始めたのは、翌年の昭和32年でした。電気が通った時には、皆で『ばんざい。』と大声を揚げながら喜んだものでした。それまでも電気自体はあったのですが、バッテリーを電源にして家の灯りを点けていました。家庭用バッテリーは1か月程で上がりますので、その度に八幡浜まで船で運んで充電していました。
 そのバッテリーも昭和30年ころから使われ始めたぐらいで、それまでの家の灯りはランプが主で、大きな傘(かさ)のついたランプを天井(てんじょう)からつり下げて使っていました。ただ、そのランプも部屋毎に付けるほどはなかったので、持ち運びのできるカンテラをよく使っていました。缶詰(かんづめ)の缶に穴を開けて小さな灯心(とうしん)を入れ、その灯りで勉強をしたこともあります。
 私(Cさん)は、昭和35年(1960年)に電気工事士の免許状を取り、島内の各戸の電気工事をしていました。当初は電気を引く家も少なかったのですが、徐々に増えて、『コンセントを付けてくれ。』とか『ブレーカーを取り替えてくれ。』とかいろいろな依頼があって忙しかったものです。それ以来、四電(よんでん)(四国電力株式会社)の委託故障修理のため75歳になるまで電柱に登りました。
 電気が通って購入した家電製品は、照明器具を除けば、ラジオが多かったです。それからローラー式の絞(しぼり)具が付いた洗濯機だったでしょうか。炊飯器はすぐには入らずに竃(かまど)で炊いていましたし、冷蔵庫もずっと後でした。昭和39年(1964年)の東京オリンピックを機にテレビを買う家も増えましたが、それまでは、テレビを持っていた2、3軒の家の4畳半くらいの座敷に、大勢の人が集まって、力道山(りきどうざん)のプロレスなどを見ていました。」

 イ 水がでる

 「昭和30年代は、まだ井戸水を使っていました。井戸を持っている家も多くて、水を大切に使えば何とか生活はできました。ただ、涸(か)れない井戸は各地区に二つ三つぐらいしかなかったので、渇水のときには、皆がその井戸から水を汲(く)むので、なかなか釣瓶(つるべ)が空(あ)かず、夜中の2時ころに汲みに行った人もいました。井戸の持ち主の許可があるとはいえ、自分の家の井戸のように使っていたのは、島中が水の苦労をしていたので、水を分け合うことが当たり前になっていたのだと思います。
 昭和30年ころは、井戸水を五右衛門風呂(ごえもんぶろ)に入れて、薪(まき)で沸(わ)かしていました。何軒かの仲間内で順番に風呂を焚(た)き、自分の家で焚かない日は、もらい風呂をしていました。もらい風呂のときには、湯が沸きやすいように、燃えやすい麦藁(わら)や豆殻などを薪と一緒に持って行きました。
 渇水の時には、井戸水に潮水を半分くらい入れて潮湯(しおゆ)にしていました。ただ、私(Cさん)のうちでは、渇水でなくても、冬になると、『今日は冷えーけん(冷えるので)、潮湯にするか。』と言って、時々は潮湯に浸(つ)かっていました。潮水に含まれる塩分やミネラル分で身体がよく温まったのでしょう。その潮湯も、昭和40年代半ばには、電気温水器の普及とともに、島からなくなりました。」
 昭和42年(1967年)の大渇水の時には、八幡浜市に2隻の漁船をチャーターしてもらって水を島に運び、当時、大島区の区長をしていた私(Cさん)と区長代理のBさんともう一人の役員の3人で、水の入ったタンクをリヤカーに積んで、各家に水を配給して回りました。それを35日間続けました。しかも、ちょうどその年に島で赤痢(せきり)が流行して、しばらくの間は井戸水も使えませんでした。それらのことがあって、このままでは島の水は駄目(だめ)だと区で判断して、給水船を運航してもらおうということになりました。しかし、市や県をはじめ、いろいろなところに陳情に出向いたりして島の水事情と水の苦労を訴え続けたのですが、なかなか話が進まずに大変苦労をしました。ですから、いろいろな人の力添えのおかげで、昭和45年(1970年)に給水船『おおしま』が運行されて簡易水道が始まった時には、個人的にもうれしかったですし、当時の新聞に、『悲願の水道できる 八幡浜の大島』『日の丸たてお祝い さっそくふろたく人も(②)』という見出しの記事が書かれたように、島の中は喜びに沸(わ)きました。」


<参考引用文献>
①昭和3年(1928年)7月12日付「海南新聞」、『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』P477
②昭和45年(1970年)4月2日付「愛媛新聞」

<その他の参考文献>
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・愛媛県『愛媛県史 社会経済I 農林水産』 1986
・八幡浜市『八幡浜市誌』 1987
・保内町『保内町誌』 1999