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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 大島のすがた

(1)海辺の風景

 ア 浦と鼻と碆

 「大島では、小さな浜にもすべて名前があります。ちょっとした入江(浦(うら)〔海の陸地に入り込んだところ〕)や岬(鼻(はな)〔海に突き出た陸地の尖端(せんたん)〕)、岩場(碆(はや)・瀬(せ)〔海中の暗礁(あんしょう)〕)にも名前が付けられています。海に囲まれて暮らす島の人にとっては必要なことなのです。
 久保津(くぼつ)の浜は、昔から貝(アサリ)がよく採れました。今は、3月何日から何回目の潮(干潮)までというように期間が決められていますが、昔は、正月上がり(旧暦の正月が終わるころ)から掘っていました。そして、(旧暦)3月3日にお雛(ひな)様を済(す)ませて、翌日の4日の大潮(おおしお)のとき(潮の干満の差が最大となり最も潮が引くとき)には、貝掘りを兼ねながら、弁当を持って磯(いそ)遊びをよくしていました。
 『粟ノ小島』の北側の岩場を『北ノ碆(きたのはや)』といいます。戦前までは、島の春祭りの日に、ここの岩棚(いわだな)の上に甘酒を供える行事があったといわれています。謂(いわ)れは、江戸時代の終わりころに、芝居一座を乗せた船が大島に来る途中、粟ノ小島の近くの『渡ヶ碆(わたりがはや)』に乗り上げて遭難大破してしまい、風波(ふうは)の中を島民総出で救助に向ったものの、一座の子役の一人が亡くなって北ノ碆に打ち上げられました。それ以来、子どもの霊を偲(しの)び悼(いた)んで、甘酒を供えて祀(まつ)っていたのだそうです。島のどの海岸も、島民のくらしと深くかかわっています。」

 イ 青石の堤防

 「護岸の石組堤防の大半は、島の者が地元の青石(あおいし)(緑泥片岩)で組んだものです。その堤防が、終戦の時の台風(昭和20年〔1945年〕9月の枕崎(まくらざき)台風)で大きく壊れ、本浦(ほんうら)では、台風の一波で、ほとんどの石組が抜けてしまいました。わずかに2軒の家の前の石組が残っただけでしたが、崩れなかった部分は穴井(あない)(現八幡浜市穴井)の石組専門の人が手がけたところでした。音泊(おどまり)の船溜(ふなだ)まりの波止(はと)(図表1-3-3の㋣参照)は、どんな台風が来てもびくともしない、しっかりとした石組ですが、そこもその人が石をついだものです。
 その台風の時は、加重(かじゅう)にあった私(Dさん)の家にも大人の背丈(せたけ)の半分くらいまで潮が入り、弟を背負った母親に手を引かれて、高台にあった知り合いの家まで避難したことを憶えています。
 私(Dさん)の家の近くの堤防には、幅3m、長さ4mぐらいの平べったい石組で、波をよけるためか先端が丸く造られた、『ズベリ』という小さな作業場(図表1-3-3の㋠参照)がありました。ズベリでは、近所の人たちが潮汲(く)みをしたり洗い物をしたり小さな伝馬船(てんません)を着けたりしていました。加重や音泊地区には何か所かありました。
 浦前(うらまえ)の方は、ズベリは少なくて、海岸の石垣に石の階段を組み込ませた、『ガンギが多かったです。大半の家に自家用のガンギがあり、潮汲みなどをそこでしていました。」

 ウ 三つの島をつなぐ

 「大島での土木工事の中では、大島と三王島(山王(さんおう)神社を祀り、神域とされている島)と地大島(畑などがある無人島)をつないだ橋や道ができたのが一番画期的だったと思います。橋や道ができる前は、潮がかなり引けば(砂州(さす)〔砂礫(れき)の堆積(たいせき)が堤(つつみ)状になって両岸に達しているもの〕伝(づた)いで)大島から二つの島へ歩いて渡れるときもあったのですが、大体は櫓漕(ろこ)ぎ船(ぶね)で渡っていましたので、三つの島が結ばれるのは島民の夢でした。
 大島と三王島とをつなぐ橋は、最初は木製で、昭和32年(1957年)に本格的なコンクリートの橋に付け替えられました。橋の下の真ん中を船が通れるようにしていたのですが、潮が引けば浅瀬になるので、当時は、青年団がその辺りの海底を毎年浚(さら)っていました。
 三つの島がつながって、地大島の畑へ出作(でさく)に行くのも楽になりました。三王島と地大島とを結ぶ道は、昭和24年(1949年)にできたものが台風で壊れてしまって、昭和32年に造り替えられました。ただ、それに続く地大島の道はまだなくて、昭和37年(1962年)に長浦(ながうら)から始まった護岸工事の後で今の海岸道路が造られたので、昭和40年代の初めころには地大島には山道があるだけでした。ですから、大入池(おおにゅういけ)(雨乞(あまご)いと豊漁と航海の安全に霊験(れいげん)あらたかな竜王(りゅうおう)神社が祀られており竜王池ともいう。)に行くのにも、坂出(さかで)から山道を歩くか、櫓漕ぎの伝馬船で渡るかしか方法はありませんでした。
 三つの島をつなぐ橋や道ができたおかげで、海水浴客も増え、観光名所として大島が広く知られるようになりました。私(Bさん)が商売の関係で方々に行って『八幡浜の大島から来ました。』というと、『ああ、あの海水浴場のある島ですか。』とよく言われたものでした。」


(2)町並みをたどる

 ア くらしを支える店や仕事場

 「島には、郵便局や農協、漁協の支所をはじめ、衣料品店や履物(はきもの)店、米・酒店、理髪店、美容院、大工(だいく)、樽(たる)屋など、いろいろなお店や職人さんがいたので、大体のことは島の中で済ませることができました(図表1-3-3参照)。
 鍛冶(かじ)屋も2軒あって、私(Cさん)の家の前の鍛冶屋さん(図表1-3-3の㋘参照)は宇和島で修業された刃物(はもの)鍛冶で、気に入らないことがあると仕事をしない職人気質(かたぎ)の人でしたが、切れ味のよい鎌や包丁(ほうちょう)などを作っていました。もう1軒(図表1-3-3の㋚参照)は野(の)鍛冶で、主に農具を作ったり直したりしていました。
 島の道路の海側部分は、ほとんど埋め立てられたものです。私(Bさん)の家の海側もそうで、そこで、もともとは精米(せいまい)所(実際は精麦(ばく)で、それを大島では精米と言っていた。)をしていました。うちの精米所がなかったころは、島の人は皆、櫓漕ぎ船で穴井(あない)や真網代(まあじろ)まで精米をしに行っていました。その後、昭和35年(1960年)ころになると麦を作る家が急に少なくなり、精米の仕事もなくなってしまったので、精米所を縫製工場(ほうせいこうば)(図表1-3-3の㋖参照)に建て替え、注文を受けて軍手(ぐんて)のニット編みからはじめ、やがて衣料品の縫製を手掛(てが)けました。昭和40年代になると島に縫製工場が5軒できましたが、昭和30年代はまだ私のところだけでした。縫製工場がたくさんできた背景には、農業や漁業以外で女性の働ける場所が島内には少なかったことがあったと思います。最盛期には40名ほどの女性が縫製工場で働いていて、島の経済の有力な担い手でした。
 食べるものは大体自給自足で、島には雑貨店も結構あって、それらの店にあるもので用を足していました。昭和30年代以前の話になりますが、師走(しわす)(12月)の末ころになると、近所の4、5軒で自家用の帆掛(ほか)け船1隻を出し、それぞれの家の者が乗り合わせて八幡浜まで行き、正月用の買い物をしていました。そのような船のことを『市船(いちぶね)』と呼んでいました。もち米や半年分くらいの調味料、お土産(みやげ)などを積んだ市船が島の港に帰ってくるころになると、子どもたちが浜に出て自分の家族の乗った船を待ち受け、船が見えると、『市船んもんた(が帰ってきた)。荷船(にぶね)んもんた。やれ嬶(かか)茶沸(わ)かせ。茶の下ゴンゴラゴン。』と囃(はや)したてながら喜んでいました。
 民宿や旅館(図表1-3-3の㋐、㋙参照)には、夏に地大島に海水浴に来た人たちがよく泊まっていました。たまに浪曲師(ろうきょくし)や人形劇の劇団が島に来ることもあり、江ノ浦(えのうら)の民宿(図表1-3-3の㋛参照)が会場になることが多く、浪曲師や劇団員の人たちは、そこを宿にしていました。宿泊客の中には、富山(とやま)の薬売(くすりうり)などの行商人もいたようです。
 行商といえば、昭和30年ころには、お節句(せっく)のドガン豆(穀類膨張(ぼうちょう)機で製造するポン菓子のこと)を作る、『豆煎(まめい)り屋さん』と呼ばれていた女性たちが内子(うちこ)から来ていて、私(Cさん)のところ(図表1-3-3の㋗参照)は旅館ではありませんでしたが、うちによく泊まっていました。その人たちは浄瑠璃(じょうるり)を語るのが上手で、夜になると勝手の間に見台(けんだい)を据(す)えて浄瑠璃をしていましたので、島中から浄瑠璃が好きな者がうちに寄って来ていました。その豆煎り屋さんは、リヤカーで道具を運びながら島を回っていましたので、家の近くまで来ると米やトウキビと薪(まき)を持って行き、お金を出して煎ってもらっていました。そして、できたものに砂糖を付けたりしてお菓子にしていました。」

 イ 娯楽の舞台

 「江(え)ノ浦で食料品や雑貨を売っていた『ロウヤ』(図表1-3-3の㋜参照)は、昭和30年(1955年)ころにはまだ網元(あみもと)をしていて、そこの倉庫を、昭和30年代後半に八幡浜の業者が、映画上映のできる小屋に改造しました。任侠物(にんきょうもの)や人情物(にんじょうもの)の映画が多くかかり、週に1回程の上映日には、朝から屋外マイクで音楽が流れて島中が華(はな)やかになり、土間(どま)に筵(むしろ)を敷いた座席はいつも満席でした。
 島に映画が来る前は、春祭りのころに行なわれる村芝居を楽しみにしていました。役者はすべて島民で、青年団を中心に芝居好きの人が集まって、農閑期(のうかんき)に御旅所(おたびしょ)(図表1-3-3の㋒参照)や個人の家で稽古(けいこ)を積み、人情芝居や歌舞伎(かぶき)芝居を演じていました。衣装もほとんど自分たちで構え、歌舞伎芝居のときは、対岸まで穴井歌舞伎の役者衣装を借りに行き、中には三番叟(さんばんそう)を踏(ふ)む(演じる)芸達者もいました。加重の学校運動場跡(図表1-3-3の㋟参照)に仮小屋を建てて、その中に筵を敷いて観るのですが、桟敷(さじき)席は指定で、区費(大島区に納める金)納入の上位者から順に前の席に座れるような桟敷割りを区の役員がしていました。白塗りの役者たちは御花(おはな)(祝儀として与える金品)をもらう人もいて島のスターでした。その村芝居や、その後の映画も、ラジオやテレビの普及とともになくなりました。
 映画小屋の前の道をはさんだ海側が網置き場(図表1-3-3の㋝参照)で、昭和30年代は、その広場で盆踊りをしていました。楕円形(だえんけい)の輪(わ)の中心に口説(くど)き舞台を作って、そこに新亡者(しんもうじゃ)(初めてお盆を迎える死者)の位牌(いはい)を飾り、30年代後半にレコード踊り(レコードの音楽に合わせた踊り)がはじまるまでは、太鼓(たいこ)を打ちながら謡(うた)う口説きに合わせて、両手に扇子(せんす)をかざしながらゆっくりと優雅に踊る、高松踊(たかまつおど)りが主でした。口説きの囃(はや)し詞(ことば)は『ヨーホイ節』と『ヤーアートセ一節』の二つがあり、ヨーホイ節は『ヨーホイヨーホイ、ヨイヤナー、アアエラマカヤッサイ』と囃したて、ヤーアートセ一節は『エエヤーアートセー、ヤーアートセー』と囃していました。ヨーホイ節のほうは廃(すた)れてしまって、今は口説き囃すことのできる人はいません。当時は、もちろん先祖の供養と新亡者の慰霊が目的ですが、娯楽の少ない島では盆踊りを楽しみにしている人も多くて、夜中まで踊りが続き、熱気に包まれていました。」

 ウ 命を守る診療所

 「昭和32年(1957年)に、市立八幡浜総合病院大島出張診療所(図表1-3-3の㋔参照)が開設されました。それ以前は、一時期まで、お寺にお医者さんが住んでいましたが、その方もかなり年をとっておられ、急患の対応が難しそうだったことを憶えています。ですから、診療所ができて医者と看護師が着任した時は大歓迎でした。看護師さんは島の出身の方で、お医者さんは宇和島の病院に勤務されていた方が家族を連れて来てくれました。二人とも、退職されるまでの20数年間、島の医療のために本当によくしてくれました。もと軍医であった先生は、気さくな人柄(ひとがら)で、私(Cさん)が病院に行くと、『碁(ご)を一局(いっきょく)打とう。碁を打たなければ薬をやらん。』と笑いながら言われたことがあります。また、往診の帰りにうちに寄って、『何を食べよるんなら。』と上がってきて、ご飯のおかずを勝手に取って食べていたこともありました。島民と一緒に生活しておられた先生と、その先生を手助けしていた看護師さんは、島に、なくてはならない人でした。
 大病(たいびょう)や大怪我(おおけが)、歯痛(はいた)、中耳炎(ちゅうじえん)など、診療所で治療ができない場合は、八幡浜の病院まで行きます。私(Dさん)も子どもを連れてよく行きましたが、大郵丸(たいゆうまる)(大島-八幡浜間の郵便逓送(ていそう)を兼ねた貨客船)の船底の、箱のようなところに子どもを背負って入って、時化(しけ)の中を八幡浜まで病院通いをするのはとても不安でした。
 その大郵丸も大時化になると欠航することがあって、診療所ができる前のことですが、私(Bさん)の母親の具合が悪くなった時に、特船(とくせん)(大怪我や急患があった場合に臨時に出す船)もない時分でしたので、母親を八幡浜の病院に連れて行くために、父親と二人で穴井まで櫓船(ろぶね)を漕(こ)ぎ、そこで母親を船から上げて八幡浜まで行ったことがあります。
 今は船が速くなったので、緊急の場合に八幡浜まで行き来ができるようになりましたが、昔、私(Aさん)の父親が重体になったときに、病院には連れて行けない状態でしたので八幡浜まで医者を迎えに行ったのですが、その船が音泊の沖辺りまで帰ってきた時に父親は息を引き取りました。ですから、島にお医者さんと看護師さんがいるということは本当にありがたいことです。」

 エ 島の子を育てる

 「音泊に学校(平成21年〔2009年〕に閉校した八幡浜市立大島小学校は、明治39年〔1906年〕に加重に創建され、その後、昭和24年〔1949年〕に中学校を併設した校舎が音泊に建てられた〔図表1-3-3の㋢参照〕。)ができる前は、加重に学校がありました。ただ、運動場が狭(せま)かったので、運動会の時だけは、音泊の網元の網干し場(図表1-3-3の㋡参照)を借りて使っていました。島の者が手伝いながら、トラック(競走路)にする部分の小石や雑草などを除(の)けてそこにラインを引き、子どもたちが走りやすいように整備していました。そして、運動会が終わるとその場所を元のように戻します。昔から、学校行事には島の者が率先して協力していました。
 島民にとって学校の先生は神様でした。島に赴任(ふにん)して来られるときには皆で出迎え、荷物運びを手伝ったりしていました。島では物が盗まれるようなことがなく、家の玄関に鍵をする習慣がなかったので、赴任してきた先生から、教員住宅(図表1-3-3の㋞参照)に鍵をしていたら、子どもたちが『先生、どうしちな(どうして鍵をするの)。』と不思議がっていた、という話を聞いたことがあります。先生方にしてみれば、戸惑うような生活環境だったかもしれませんが、『これ食べなはいや。』と言いながら魚を持って行ったり、学校から教員住宅へ帰る先生を呼び止めて夕食に招いたりしていました。
 先生方が異動で島を離れられる時には、大勢の子どもや大人たちが桟橋(さんばし)に集まり、紙テープを持って、島を離れる先生方を見送っていました。そのときだけは、大郵丸も汽笛(きてき)を鳴らしながら桟橋沖を2、3度回り、皆で別れを惜(お)しみました。その光景は島独特のものだったと思います。」

図表1-3-3 昭和30年ころの大島の町並み①-1

図表1-3-3 昭和30年ころの大島の町並み①-1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-3 昭和30年ころの大島の町並み①-2

図表1-3-3 昭和30年ころの大島の町並み①-2

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-3 昭和30年ころの大島の町並み②-1

図表1-3-3 昭和30年ころの大島の町並み②-1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-3 昭和30年ころの大島の町並み②-2

図表1-3-3 昭和30年ころの大島の町並み②-2

調査協力者からの聞き取りにより作成。