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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)F1に見る夢

 **さん(北条市中西外 昭和20年生まれ 52歳)
 全国で唯一、レース用エンジンの部品製造および開発を専門におこなっている**さんに話をうかがった。

 ア モータースポーツの世界

 (ア)F1(エフワン)とは

 「モータースポーツの最高峰の一つがF1レースです。F1とは何かといいますと、それはフォーミュラ1の略称です。そして、『F』はフォーミュラ(規格)の頭文字で、4輪タイヤが車体から露出した一人座席のレース専用車を意味し、『規格』の名の通り厳格な諸規定の枠内で製造されます。また『1』は、最高レベルを表します。このF1によって、世界最高のレーシングドライバーの座を競うシリーズが、F1グランプリレース(1950年に確立)です。これは、毎年世界10数か国で開催されるレースを、シリーズとして巡回してポイント制で優勝を争うもので、そのうちの1戦が、毎年11月ころの3日間、三重県鈴鹿市で日本グランプリとして開催されています。この日本グランプリには、延べ40万人から50万人が、スタッフや観客などとして国内はもちろんのこと世界中から訪れます。日本でこれだけの人数が、それも世界中から集まるイベントは、他にはあまり見られないと思います。しかし、このような世界規模の大会が日本で毎年開催されていることを、日本の人々はあまり知らないのではないでしょうか。『たかだが自動車レースじゃないか。それがどうした。』という見方をする程度でしょう。
 これに対して、欧米におけるモータースポーツ事情はかなり違います。フランスに、4輪車によるモータースポーツを世界全体で統括している組織(国際自動車連盟〔FIA〕)がありますが、それが今年(平成9年)国際オリンピック委員会(IOC)によって認定されたそうです。これによってモータースポーツが、将来、オリンピック種目の一つになる道が開けたわけです。このように、外国におけるモータースポーツの認識には、かなり高いものがあります。」

 (イ)モータースポーツが果たした役割

 「現在の高性能自動車の原形は、1950年代に、世界に先駆けて日本のオートバイメーカーが、排気量250cc・4気筒(*1)エンジンを製作し、それがツインカム・4バルブの高性能なものでした。そして、ツインカム・4バルブは、この時点で完成されたと言えます。これを各自動車メーカーが研究開発して、1980年代に、排気量1,600ccの一般大衆車に搭載されました。これも、日本が世界で最初です。諸外国では、ようやく最近になって、ツインカム・4バルブのエンジンが搭載されるようになってきています。
 日本車は優秀であるとよく言われます。ディスクブレーキ(回転軸に取り付けられた円盤の両面を押さえ付けて回転を制動するブレーキ装置)、空力性能(空気抵抗を利用して、車体を安定させる方法)、タイヤなど、さらには排気ガス規制についても、日本の技術力は優れています。そして、この大きな理由の一つは、各メーカーがモータースポーツに参加する中で、新しい技術の開発にしのぎを削ってきたという経験を持っているからです。モータースポーツについて、『どうして、あんな危ないことをするのか。けがをするかもしれないし、ひょっとしたら死ぬかもしれないのに。』という意見も、ある一面ではそのとおりです。しかし、高性能な自動車の技術を維持し発展させていくために、モータースポーツが大きな役割を果たしてきたことも、また事実なのです。」

 イ わたしの修業時代

 「わたしは、17歳から2輪車のレースに出場するようになり、19歳からは4輪車のレースにも出るようになりました。その後、24、5歳で4輪車だけにしぼり、27歳くらいまでレースに出場し続けました。その中での思い出は、昭和43年(1968年)、**さんのところで世話になり始めたその年に、日本グランプリのT1クラス(軽量クラス)で優勝したことですかね。レースに出場することには、新しく開発した部品の性能をテストする意味も含まれていました。我々の世界は、善し悪しがはっきりしています。どちらのエンジンが力があるか、壊れにくいか、また、搭載した自動車のスピードが速いか遅いかということです。レースに出て比べれば、簡単に答えが分かります。これは、ごまかしが効きません。こういう面では、非常に厳しい世界だと言えます。また、自分がレースに出ることで、自動車を運転する者の立場からエンジンの開発をすることができ、仕事の上で大いに役立ったのです。
 昭和43年(1968年)からの約1年半の間、当時、2輪ロードレース界でエンジンチューナー(エンジンを調整して高性能化する業者)の神様と言われていた**さんの会社(所在地は、東京都あきる野市)に住み込みで働きながら、修業しました。当時は、モータースポーツ関係の仕事で、簡単に生計を立てることができるような時代ではありませんでした。ですから、働く時間がとても長かったです。朝は8時にならないうちから働きはじめ、深夜の1、2時までかかるというのはざらでした。満足に銭湯に行く時間もありませんでした。『寝食を忘れて』とはよく言います。しかし、言うのはたやすいですが、実際にそれを実行してみると、かなり大変でした。我ながら、風邪も引かずに寝込みもせずに、よくあれだけ続けることができたものだと思います。自分で好きで飛び込んだ道だったからできたのでしょうし、とにかく**さんの技術のすべてを覚えたい一心で必死でした。1年半という短い期間ではありましたが、5年も10年もの経験に相当するような、非常に充実した毎日を過ごせたと思います。
 エンジンの仕組みは単純です。4サイクルエンジンを例にとると、それは、『シリンダー内に空気とガソリンを吸いこむ、圧縮する、点火し爆発させる、排気する』の4行程が一つの周期で行われています。いくら技術が進歩したと言っても、現在でもエンジンそのものの仕組みは変わっていません。そして、単純な仕組みだからこそ、いかに性能をよくするかということで、エンジンの一部分をほんのわずかに磨いたり削ったりするという職人技が必要になってくるのです。
 わたしがチューナーの修業をしているころ、**さんの会社には、測定器具や工作機械も、今のように優れたものはありませんでした。『道具らしい道具はなかった。』と言っても、言い過ぎではないと思います。『この会社は、機械ぎらいじゃないかな。』と思ったくらい、設備がありませんした。この不十分な設備を補ったのが、職人の技でした。これは、まさに感覚の世界です。『ここは、もうちょっと締めておかんといかん。ここは、そんなに締めたらいかん。』など、単なる手加減で組み立てていました。そんなエンジンでも十分走ったのです。この経験を通じて、微妙な感覚が養われたのだと思います。今は、高性能な測定器具などがありますから、感覚が養われることはほとんどなくなりました。だから、今の人は、応用力に欠けるところがあります。『道具がないからできません。』とすぐに言うのです。『これはいかん。なんとかせんといかん。』と、創意工夫するということが少なくなってきたように思います。」

 ウ エンジンの「育て屋」として

 「レーシングドライバーを引退して、今度は裏方としてレースにかかわり続けました。そして、自分の手掛けたエンジンが、レースにおいて良い成績をたくさんあげ、実績ができたお陰で、いろんなお客さんがついてくれるようになりました。我々のような田舎にある、従業員が30名程度の小さい会社でも、営業活動をしなくても、お客さんの方から来てくれているという状況です。我々の技術に対する信用ですね。これによって、我々は支えられている。だから、絶対に技術水準を落とすことはできないんです。では、そのためにどうするか。それは、守りに入らないことです。つまり、『現在の技術水準でもういい。』とは考えずに、常に『一歩前へ』という姿勢を取り続けることです。
 我々のようなエンジンチューナーという仕事は、一言で言えば、『育て屋さん』です。『保母さん』と言った方が、分かりやすいでしょうか。人間の赤ちゃんは、その育て方によって、いい子にも悪い子にもなりますね。エンジンもこれと同じなんです。特にモータースポーツ用のエンジンのデリケートさ(F1のエンジンの走行距離の上限は、約400km)は、人間の赤ちゃんに近いような気がします。すぐにぐずつくし、泣くし、病気をするし、本当に世話がかかる。ただの、冷たい金属の塊ではない。わたしは、エンジンを組み立てる際に、『精魂込めて組めよ。』とよく言います。それは、組み立てている人間の気持ちの微妙な変化で、大きな違いが生じてくるからなのです。『子供は親の鏡』ということわざは、モータースポーツのエンジンにも、きちんと当てはまります。この誕生したばかりのエンジンを、いかにより良くするか、どのようにしてその性能をさらに高めるかで、わたしたちは勝負しているのです。」


*1:往復運動を行う機関の主要部分の一つ。中空円筒状で、その内部をピストンが往復運動を行い所要の仕事を行う。シリン
  ダーともいう。