データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)糸を紡ぐ乙女たち

 昭和12年(1937年)、旧北条町(現在の北条市)に建設が決まり、翌13年9月に完成した紡績工場は、当時、我が国紡績業界の最新鋭工場といわれ、まちの発展の核として大いに期待された。また、そこでは工場内に学校が設置され、戦後は中学校卒業者に対する高等学校進学が奨励されるなど、従業員の教育に力を注ぐとともに、特に女子従業員が楽しく生活することができるよう寮(寄宿舎)での生活環境の改善なども図られてきた。本項では、この工場で青春の日々を過ごした乙女たちと、彼女たちを暖かく見守り続けた人々の姿を追ってみた。

 ア 寮母として

 **さん(北条市北条 明治42年生まれ 88歳)
 **さん(北条市柳原 大正5年生まれ 81歳)
 **さんは、工場建設決定の直後に事務職員として採用され、完成後は寮母として、また**さんは昭和18年(1943年)から寮母の仕事に従事し、共に昭和40年(1965年)に退職した。二人に話をうかがった。

 (ア)寮内の様子

 「広々とした田んぼの中に、北条工場の建設予定地を示す柱が立てられていたのを覚えています。この工場には、当時としては最新の技術がいろいろと使われていました。敷地内には電柱が一本もなく(配電線は地下を通っていた)、植木などで公園のように整備されていたこと、また、自動ドアや水洗トイレがあったことなどが、その例です。特に、自動ドアには驚かされました。前に立てば扉が自然に開くものなど、それまで見たことがありませんでした。
 女子寮は東寮が3棟、西寮が3棟、間にセメントの廊下を挟んで建っていました。1棟は2階建てで、各階に部屋が8つずつあり、1部屋の広さは15畳、定員は10人でした。最盛期には、この寮がいっぱいになりましたから、1,000人近い寮生を預かっていたことになるわけですね。
 寮生の大半は地方で採用された女工さんですが、その採用は、『募集人』と呼ばれた人たちが請け負っていました。地方ごとにいる募集人が、その土地から女工さんを集めて連れて来るのです。学力が低い者が女工さんになるのではありません。北条工場の採用試験に合格しなかった者が、高等女学校の入学試験に合格したということもいくらもありました。また、『北条工場だったら寮が完備されており、工場内に学校もあって、安心して任せられる。』という親の考えで、応募してくる人も多かったんです。
 寮内には、情操教育の一環として主にクラシック音楽を流していました。この発案者は社長さんでした。当時としてはとても珍しい、自動的にレコード盤を入れ替えていく電気蓄音機を使っていました。何という曲を流しているのかを寮生に説明しなければなりませんので、音楽の解説書を求めに、松山市内の本屋まで出掛けたこともありました。
 どうして、このような寮になったかと言いますと、それは社長さんが、『若い女の子が働きにきているのだから、ただ働かせるだけではいけない。何かを身につけて親元にお返ししなければいけない。』という考え方を持っていたからだと思います。きちんと県知事の認可を受けた『鹿島(かしま)家政青年学校』を工場とは別棟の講堂内に開設し、教員経験者などを採用して、国語や料理など、他の青年学校(*3)と同様の教育課程を実施しました。この青年学校の役割を引き継いだのが、県立北条高等学校定時制(*4)です。
 終戦後の占領下のころの話ですが、『寄宿舎』、すなわち寮についての日本と外国とのとらえ方の違いが問題になったこともありました。外国で『寄宿舎』といえば、労働者を囲いの中に閉じ込め、行動の自由を奪ったうえで酷使することを目的とした施設を意味していました。ですから、北条工場の寮についてもそのように誤解されたわけです。この誤解を解くのに、しばらく時間がかかりました。とにかく、当時の日本の一般常識とは、かなり異なった形の工場でした。」

 (イ)寮母の仕事

 **さんと**さんの話が続く。
 「寮母の仕事のうちで、一番大事なことは、寮生一人ひとりの名前と顔を覚え、心身の健康状態を常に把握することでした。そのために、寮生が出勤する時には、玄関で一人ひとりの顔を見ながら、『いってお帰りなさい(いってらっしゃい)。』と言って送り出し、仕事から帰ってきた時には、同じように玄関で一人ひとりの顔を見ながら、『お帰りなさい。お疲れさま。』と言って出迎えました。しかし、寮生全員が一斉に仕事に出掛け、一斉に仕事を終えて戻ってくるわけではありません。彼女たちの仕事は3交替制で、早番(はやばん)は午前5時から午後1時30分まで(この間、午前8時から朝食をとる)、昼専(ひるせん)(昼間だけの仕事)は午前8時から午後4時30分まで、そして、夜業は午後1時30分から午後10時までとなっていました。そのそれぞれの寮生に対して、送り出しと出迎えのあいさつをしましたので、なかなか大変でした。でも、その時にうかがえる顔つきで、彼女たちの気分は分かりました。また、入浴は、夜業を終えた寮生と一緒にしていましたが、そこは、彼女たちの健康状態を知るための大切な場でした。裸の体や顔色など、あるいはふろ場での会話の様子などから、そうしたことはよく分かりました。
 時計の針が午前0時を回り、そろそろ床に就こうかと思ったころ、悩みを抱えてわたしたちの所へ相談に来る寮生もおりました。その時には、徹夜してでも話を聞いてやりました。朝は4時に起床のベルを鳴らさないといけませんから、寝る時間はありません。わたしたちが寝坊して寮生を起こす時間が遅れたら、現場に迷惑をかけることになります。いくら睡眠不足でも、辛抱しなければなりません。こういうことも何度もありました。
 失敗談もいくらでもあります。ある時、外見は元気に見えるのですが、頭痛などを訴えて仕事をよく休む寮生がいました。仕事が嫌でずる休みをしているのではと思い、『あなたはここにいても仕事にならないから、少しの間里に帰ったらどうか。』と言って帰らせたことがありました。その後、その子の親から、『うちの子は、原爆に被爆したことの証明書を持っているはずだから、荷物の中を捜してもらえないか。』と言われました。捜してみると、確かにその証明書があったのです。被爆の後遺症で体調を崩していたことが分かり、『知らないとはいうものの、本当に失礼なことを彼女に言ってしまった。』と申し訳なく思ったこともありました。
 さらに、寮生一人ひとりについて、出身地はどこで、どのような家庭環境で、またどの部署の仕事についているのかなどを知っておくことも、寮母として基本的なことでした。それは、例えば地方から採用した女工さんは、祭りなどで工場が休みの時には里帰りさせるのですが、その日のうちに実家に戻れる距離の者もいれば、遠方から働きに来ていて1日がかりでないと実家にたどり着けない者もいるのです。そうすると、同じ3日間の休暇でも、実際に家族とだんらんできる日数が人によって異なり、遠方の者の親から、不公平だという文句が出るのです。また、同じ出身地でありながら、働いている部署が異なるために、取ることのできる休暇日数が違うということもありました。こうなると、『休みの日数が不公平な会社へ働きに出ることはない。』という声が地方に広まり、その後の従業員の採用に影響が出てきます。寮生の休暇が公平になるように、里帰りするための交通手段や所要時間を知るため、すべての寮生について家庭訪問をしました。また、募集してきた女工さんを、それぞれの学力の程度や体格などに応じて、工場のどの部署で働かせるかを考えることも、わたしたちに任されていました。
 寮生の休暇の調整も寮母の仕事でした。どういうことかと言いますと、工場の仕事は流れ作業ですから、各部署に付く女工さんの数はバランスがとれていないと、能率が悪くなります。つまり、一つの部署だけに女工さんの休暇が集中してはいけないんです。ですから、この調整が必要になるのです。
 このように、1,000人の寮生をお世話するというのは、本当に大変なことでした。人それぞれの顔が違うように、気分も違う。能力も出身地も家庭環境も違うのですからね。
 去年(平成8年)のことですが、約50年も前に世話をした城辺(じょうへん)町(南宇和郡)出身の元寮生が、わたしたちを訪ねて北条まで来ました。彼女は、病気で倒れたため杖をつかなくては歩けない状態になっていました。その後彼女から、『どうしてももう一度北条へ行ってお会いしたいと思っていた。これでもう何も思い残すことはない。』という内容の手紙が届いた時は、言葉では言い表せない思いがして、胸が詰まりました。
 寝食を共にするなかで、寮生との信頼関係ができ、心のつながりが深まりました。その親子のようなきずながあったからこそ、寝る時間も十分に取れないような厳しい寮母の仕事に耐えられたのだと思います。今、当時を振り返っても、寮母の仕事がどうしようもなくつらくて、ばからしかったという思いはありません。逆に、現在まで続く彼女たちとの交流や、その中で聞く『当時は、紡績工場に勤めたなどと言ったら、何か肩身の狭い思いをするような雰囲気があったが、わたしたちは少しも恥ずかしいと思っていない。胸を張って、工場で働いていたと言える。』という言葉に支えられて、今まで生きてこられたのだと思います。」

 イ 寮生と共に

 **さん(松山市竹原 昭和7年生まれ 65歳)
 **さんは、昭和49年(1974年)1月から平成8年3月まで、産業カウンセラー(*5)として北条工場に勤めた。**さんに、寮生とかかわってきた思い出をうかがった。

 (ア)意識の改革

 「わたしは、この工場の寮に来る前、ある化学繊維工場の寮に勤めていました。入社当時の北条工場の寮生のほとんどは、南予出身者でした。会社が高校卒業女子も採用し始めたころから、県内全域より入社してくるようになりました。一番多い時で、400人くらいの寮生と接しておりました。そして、彼女たちに接して驚かされたことは、紡績工場と化学繊維工場とでは、寮生の意識がこんなにも違うのかということでした。紡績工場に勤めていることを、彼女たちは自分自身で卑下していたんです。周囲よりも、少し程度の落ちる職業に就いているという感じ方をしているようでした。なぜ、彼女たちがそのような意識を持っているのかといいますと、『女工哀史(*6)』や『あゝ野麦峠(*7)』に描かれているような、大正から昭和初期にかけての女工さんの悲惨な印象が強いからなんです。そこでわたしは、この意識を取り除くことが、ここでの一番の課題だと思いました。
 その一つの方法として、中学校卒業の彼女たちの初任給と、短期大学を卒業して県内のある銀行に就職した者などとの初任給を比べました。実際、わたしの知り合いに、4年制大学を卒業してある航空会社に就職している女性がいたのですが、彼女に北条工場の女子従業員の初任給の額を話すと、『え、中卒でそれほどもらえるの。わたしの基本給より多いじゃない。』と言ったくらいです。こういうことを彼女たちに話して、ここに勤めていることが、県内でいかにいい条件に恵まれているかということを、まず教えこむことに苦労しました。」

 (イ)頑張った4年間

 **さんの話が続く。
 「彼女たちは、働きながら北条高校の定時制に通いました(*8)。昭和50年代のころは、『女の子に下宿させてまで、高校に通わせる必要はない。』という考え方がまだありました。
 県立高校の入試日は3月10日前後ですが、彼女たちは、その受験の時に初めて工場や寮を見学します。その時、寮では、すでに新入生用に部屋を空けてきれいに掃除しておりました。その部屋に受験生を宿泊させ、彼女たちが入社した後の養成担当になっている部屋長が、かゆい所に手が届くように世話をしました。このように、彼女たちは、入社するまでは『お客さん』として大事にされ、結果として、会社に対する良い印象と新生活への期待に胸膨らませて入社日を待つわけです。入社日は、3月20日過ぎでした。
 どんな職業についてもそうだと思うのですが、現実に働くということは、楽しいことばかりではありません。それは、ここの場合でも同様です。入社した途端に、導入教育とか現場での実習とかを受けるわけです。楽しいことばかりを思い描いていた彼女たちにとっては、たまりませんよね。だから、入社して3、4日たったころに、もう、ぽろぽろと涙が出だします。『仕事がつらい。家に帰りたい。』という気持ちで、一杯になるのです。しかし、そうした彼女たちの気持ちも、1学期を過ぎるころには、落ち着いてきていたようでした。
 彼女たちが、なぜ仕事を途中でやめなかったのかというと、やはり高校卒業という目標があったからでしょう。この目標があったからこそ、4年間(定時制の修了年限)頑張れたのだと思います。また、彼女たちのだれかが仕事をやめたいと言い出すと、仲のいい先輩や友人たちが、『わたしだってやめたいよ。でも、あなた、何のためにここに来たの。』と言って引き止めるんです。わたしの言葉ではなくて、同じ境遇で、しかもほぼ同年齢の者からの言葉ですから、説得力がありますよね。彼女たち同士のこのようなつながりは、この会社の他の工場にもあまり見られない、北条工場に特徴的なものでした。
 加えて、北条高校の先生方のお力添えも、忘れることはできません。親元を離れて、働きながら勉強をしているという彼女たちの状況を、本当によく理解していただいて、家庭的な感じで指導をしてくださいました。わざわざ寮まで出向いて来られ、面接をしていただいたこともありました。わたしの仕事に関しても、随分と助けていただいたと感謝をしております。今年(平成9年)の3月、定時制が閉校になりました。先生方にいろいろとお世話になったままで、わたしの方から何もお返しができずに終わってしまったような気がしております。」

 (ウ)心に寄り添って

 さらに、**さんの話が続く。
 「退社した元寮生たちから、時々電話がかかってくることもあります。ある時、そうした元寮生の一人に、冗談で、『わたしも、もうそろそろ辞め時かな。』と話しました。すると、『えっ。絶対に辞めないでください。もし、先生が辞めたら、わたしの青春がぷっつり切れたような気がする。』と言うんです。わたしが、『どうして。』と尋ね返すと、彼女は、『わたしの青春は、この工場での生活だった。だから、そこで一番世話をしてくれた人がいなくなったら、もう、わたしからこの工場が消えたのと一緒です。』と答えました。寮生の全員がこのように思っているわけではないとは思いますが、彼女たちの工場に対する思いの一端がうかがえたような気がしました。と同時に、親元を離れて働いている自分たちの悩みや思いを聞いてくれる人が身近にいるということは、彼女たちにとっては、とても大切なことだったということに、改めて気付かせられました。
 北条工場で働いた彼女たちが、周囲の人々に支えられて、定時制高校卒業、あるいは通信制短大を卒業し保母の資格を取得するなど、それぞれが抱いている目標を果たすことができたのと同様に、わたしも、彼女たちや周囲の人々に支えられながら、この仕事を続けてこられたのだと思います。毎年4月には、新入生を迎え無事卒業してくれることを願い、3月には頼もしく成長し卒業証書を手にした卒業生の姿に感動の涙を流し、20年余の会社生活を終えましたが、彼女たちとの思い出は、いつまでも忘れられないと思います。」

 ウ 希望を胸に

 **さん(北条市辻   昭和34年生まれ 38歳)
 **さん(松山市古川南 昭和35年生まれ 37歳)
 **さんは、喜多(きた)郡内子(うちこ)町出身、**さんは、東宇和郡城川(しろかわ)町出身で、昭和48年(1973年)に北条工場に入社し、昭和50年代末まで勤務した。元寮生の二人に話をうかがった。

 (ア)期待と不安の中で

 「わたしたちは、共に出身が南予ですから、北条市と聞いても、そこがどういうところなのか、全く想像できませんでした。自動車で郷里を出発し工場に到着するまで、とにかく時間がかかり、とんでもないところへ向かっている気がしました(図表4-1-6参照)。途中の犬寄(いぬよせ)峠(*9)の食堂で昼食をとったのですが、その時、『ここからどこへ行くのだろうか。』と不安を感じました。その時の場面と思いは、今でもあの峠を通る度に鮮明によみがえってきます。工場に到着した時は、そこが大都会のような感じがして、何か怖かったことを覚えています。
 寮の1部屋は、広さが15畳で、定員は5、6人。年上は部屋長だけで、後は同年齢でしたが、出身地も担当している仕事の部署もばらばらの者による共同生活でした。高校生の年齢というのは、まさに多感なころで、自分の感情をコントロールするのがなかなか難しい時期でしたから、感情をぶつけるといえば、その相手は友達しかありませんでした。友達同士で大げんかをしたこともありましたが、今思い出すと、そのころの友達が一番良かったように思います。
 また、先輩の優しさにも、心が安らぎました。郷里に帰省できるのは、盆と正月の年2回だけで、親に会えるのもその時だけでしたので、わたしたちにとって先輩は、姉や親代わりでした。20歳前後の先輩ともなると、ものすごく大人に見え、それに比べて自分たちが、妙に子供のように思えました。入社して2年くらいたてば、仕事や寮生活にも慣れてきましたね。寮生活の楽しい思い出としては、食堂を利用しての盆踊りやクリスマス会などです。また戸外では、花火大会やキャンプもしました。
 寮母さんは、わたしたちにとって、まさに親代わりでした。学校や職場のこと、さらには家庭のことなど、何でも相談しました。一人ひとりの家庭状況までも細かく把握して接しておられました。」

 (イ)社会人として

 **さんと**さんの話が続く。
 「仕事は、わたしたち女性は、早番(はやばん)(午前5時から午後1時30分まで)と後番(あとばん)(午後1時30分から午後10時まで)の2交替制で、男性のみ、これに深夜業(午後10時から翌日の午前5時まで)が加わって3交替制でした(*10)。この勤務体制に慣れるのが、まず大変でした。早番の場合は、午前4時15分に起床して、身支度と部屋の掃除をしてから出勤していましたので、冬の朝は特につらかったです。
 工場内には、紡績(糸をつむぐ)と織布(しょくふ)(糸から布を織る)の2課があり、わたしたちは、織布課の仕事に就きました。仕事場の織機の音と綿ぼこり、それと湿気や暑さに慣れるのが大変でした。仕事場の湿度を高めているのは、糸を切れにくくするためです。入って1か月くらいは、養成方(ようせいがた)と呼ばれた指導者のもとで、『機(はた)結び』などの糸のつなぎ方を覚えました。それは、布を織るために織機に張っている糸が切れた時、それをつなぐのに必要だからです。いくつかの基本的な結び方を別室で練習し、それができるようになり、さらに、機械の各部分の名称などがきちんと頭に入ってから、織機を担当しました。しかし、この結び方がなかなかできないんです。上手になるまで、本当に大変でした。
 織布課の仕事は、10人くらいで一つの班をつくり、その中で『台持ち』や『きずもどき』などの作業を分担しました。新人工員がまず最初に担当するのは、『台持ち』でした。わたしたちは、織機のことを『台』と呼んでいましたが、台持ちというのは、糸が切れて台の運転が止まった時に、糸を結んでつなぎ合わせることが仕事です。どの台の運転が止まるかは、まったく予測がつきませんから、常に台の間を歩き回っていなければなりません。織機が少し改良されて、運転が止まれば、それを示すランプが点灯するようになりました。しかし、そうはなっても、点灯すればできるだけ早く駆け付けて直さないといけませんから、同じ所にじっと突っ立っているわけにはいきません。一人の工員がいくつの台を受け持つかは、その工員の熟練の度合いによります。新人は、5台も受け持つのが精一杯ですが、慣れてくると、2、30台くらいを担当していました。
 台持ちの作業に慣れてくると、次は『きずもどき』という作業を担当しました。織り上がっている布にきず(織り目がおかしい箇所)が入った場合、そこまで布をほどき、きずを無くしてからもう一度織り直す作業です。きずは、わたしたちが織機を巡回して点検している時に発見するか、あるいは織っている布にきずが入ると、だいたいの場合、織機が停止するので分かりました。織機ごとに、1日に何mの長さの布が織れたかが分かるようになっていましたから、作業の上手下手の評価は厳しかったです。ですから、いかに効率良くいい布を機械に織らせるかということを常に思い、必死で働いていました。機結びがより早くできるように練習したり、巡回のコースを考えたりと、いろいろ工夫しました。織布課のすぐ隣が、『仕上げ』といわれる部署で、そこでは、出来上がった布の点検をしていました。きずができても、巡回中に見逃し、かつ織機も停止せずにそのまま織り上がってしまうこともあり、そうした製品が見つかると、仕上げから厳しく注意を受けました。
 また、きずもどきを担当するくらいまでに仕事に慣れてくると、織機から出るにおいで機械の調子が悪くなったことが分かるようにもなりました。
 わたしたちのころは、一度始めた仕事を途中で投げ出して実家へ帰ることなど、親は絶対に許してくれませんでした。しかし、わたしたちが退社した昭和50年代末ころには、親の方が、『仕事が嫌だったら、帰ってきていいよ。』と言う時代になっていました。ですから、そのころには、寮の門限を破っても知らん顔をしていたり、早番で4時15分に起床した後の部屋掃除ができない寮生が増えていました。」

 (ウ)高校生として

 さらに、**さんと**さんの話が続く。
 「北条高校の定時制では、早番の時は、午後5時に登校して午後9時まで授業を受け、後番の時は、午前中に授業を受けて、午後1時30分から仕事にかかりました。特に早番の授業は、仕事の疲れのため眠かったです。教室は、全日制と同じでしたから、早番の時は、わたしたちの登校と全日制の生徒の下校が重なるんです。互いが擦れ違う時は、何だか切ない思いをしたこともありました。また、体育科のある先生が、全日制の生徒を『お前らは、規則正しい生活ができないのか。定時制の生徒を見習え。』と言って怒っているのを見た時には、複雑な気持ちがしました。日曜日には部活動もしていました。とにかく、自分が自由にできる時間はほとんどなかったことを覚えています。でも、自分で言うのも変ですが、まじめに通学したと思いますよ。周囲にも、中途退学をした人はいませんでした。働きながら学んでいるという状況がみんな一緒だったので、学校に通い続けることができたのだと思います。もし、これが一人だけだったら、多分続かなかったでしょうね。定時制でお世話になった先生方に対しては、懐かしさで一杯です。
 それまで親元にくらしていた者が、中学校を卒業していきなり実社会に出たわけです。高校生活イコール社会人生活でしたから、その時に学んだ人間関係の大切さやそれを維持していくことの難しさなどは、現在のいろいろな場面で役立っています。時間を守って行動するとか、周りと協調しながら仕事や寮生活をしていくなど、社会人としてのあるべき姿勢を教えられ、精神的に早く自立できたような気がします。それに、忍耐力も身に付き、『あの時頑張ったのだから。』という思いが、現在生きていく上での支えになっていることは、間違いないです。いろいろと厳しいことも多かったですが、今振り返ると、いい経験をしたと思います。」


*3:戦前、小学校修了後の勤労青少年を対象とした教育機関。昭和10年(1935年)、青年学校令により全国市町村に設立さ
  れた。昭和22年、学校教育法の公布により廃止。
*4:県立北条高等学校は、昭和22年(1947年)、県立松山農業学校として設立され、翌23年に県立松山農業高等学校(同
  年、定時制課程を併設)、28年には県立松山北高等学校北条分校と改称され、昭和39年(1964年)より現在の校名とな
  る。
*5:各種の産業職種の中で、心の健康や人間関係の問題をはじめ、個人生活での適応の問題など、職場の様々な相談活動に従
  事する相談員のこと。
*6:大正末期の紡績・織物女子労働者の苛酷な労働の実情を記した書。細井和喜蔵著。1925年(大正14年)刊。
*7:製糸女工や『女工哀史』を生み出した農村と工場の実態、資本家の姿など記した記録文学。1968年(昭和43年)刊。
*8:北条高校との提携は、昭和44年(1969年)4月より開始された。
*9:松山市から大洲経由で宇和島方面に通じる国道56号の、伊予市と伊予郡中山町にまたがる峠。
*10:昭和43年(1968年)より、深夜業は男性のみとなるにともない、それまでの「夜業」の名称は「後番」となった。

図表4-1-6 北条工場への道のり

図表4-1-6 北条工場への道のり