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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)愛媛の「姫」づくり

 明治2年(1869年)に版籍奉還が実行され、続いて明治4年(1871年)廃藩置県が断行された。伊予の国では、廃藩置県(明治4年7月14日)前後から、愛媛県に統合(明治6年2月20日)されるわずか1年7か月の間、8県が松山・宇和島2県に併合され、やがて石鐵・神山の2県に改称されるなど、あわただしい変化があった(⑪)。
 「えひめ」という名称は和銅5年(712年)、太安万侶(おおのやすまろ)(?~723年)が編纂(へんさん)した『古事記』の国生みの神話に出てくる。「……次に伊豫之二名之(いよのふたなの)島(*18)を生みき。此の島は、身一つにして面四(おもよ)つ有り。面毎(おもごと)に名有り。故(かれ)、伊豫(いよの)国は愛比賣(えひめ)と謂(い)ひ、讃岐(さぬきの)国は飯依比古(いひよりひこ)と謂ひ、粟(あはの)国は大宜都比賣(おほげつひめ)と謂ひ、土左(とさの)国は建依別(たけよりわけ)と謂ふ。(⑫)」とある。このように四国の4か国にはそれぞれ名前があり、伊予の国を「えひめ」と呼んでいる。これは古代の人々が土地には神霊が宿るものと考えた信仰によるものであろうと言われている。とすれば「いよ」は地名であり、「えひめ」はその地の神の名であるから、「えひめ」は「いよ」の別名ともいえる。さらに「えひめ」はその意味するところ「うるわしい女神」であるのだから伊予の国はうるわしい女神の国であったということになる(⑪)。
 この「愛比賣」を伊予の国の新県名に採用し、愛媛県と定めた経緯についてはつまびらかではないが、明治2年刊行の半井悟菴(なからいごあん)(*19)が著した伊予の国の地誌『愛媛面影(えひめのおもかげ)(⑬)』が深く関係していたようである。悟菴はその序文に「是(こ)を愛媛の面影としも名づけたるゆゑよしは、古事記に、此島は身ひとつにして面四あり、かれ伊豫国を愛比売といふとあるによりて、やがて巻の名におほせつるなりけり。」と記している。『愛媛県史(⑪)』では、「『愛比売』に『愛媛』の文字を当てたのはこの書物の名が最初であった。新県名が決められる4年前に出されたこの不朽の名著『愛媛面影』の書名が審議され、採択されたものと考えられる。」と述べている。『古事記』に出てくる名を県名にしたことは、王政復古を旗印にした明治維政府の好みに合っていたに違いないと言われている。ともあれ、うるわしのわがふるさとにふさわしい県名が誕生したのである。
 この愛媛を代表する郷土玩具(がんぐ)であり、民芸品として親しまれているのが姫だるまであり、姫てまりである。「姫」は愛媛の「媛」、まさに愛媛の本来の意味をも象徴しているようなだるまであり、手まりである。
 姫だるまは、神功皇后(じんぐうこうごう)が仲哀(ちゅうあい)天皇と共に九州へ下られる途中、道後温泉で湯あみをされ、後に九州で御子(みこ)(応神天皇)を無事出産されたという伝承にちなみ、皇后を模してつくられたものとも、応神帝の幼時の姿を追想してつくられたものとも言われている。現在は主に土産品として売られているが(写真3-2-24参照)、神功皇后の伝承から姫だるまを出産祝いに贈る風習が生まれ、また、起き上がるだるまということから病気平癒(へいゆ)、あるいは、商売繁盛の縁起物として松山市の伊予豆比古命(いよずひこのみこと)神社の祭り、いわゆる椿(つばき)祭りなどでも売られている。姫だるまがいつごろからつくられるようになったかはつまびらかではないが、『道後温泉(⑭)』に「享保6年(1721年)につくられたものを見たことがあるから、それより古くから、この地方でつくられていたものであろう。」という記述があるので江戸時代にはつくられていたと思われる。

 ア 張り子姫だるま

 **さん(松山市鴨川 大正3年生まれ 83歳)
 **さん(松山市鴨川 昭和26年生まれ 46歳)
 姫だるまには、張り子、糸かけ、金襴(きんらん)(金欄の布をはる姫だるま)の3種類があり、**家が製作しているのは伝統的な張り子姫だるまである。**さんは張り子姫だるまづくりの4代目だが、現在では**さん(**さんの息子の嫁)が後継者として製作に励んでいる。

 (ア)4代目の苦労

 「わたし(**さん)どもの家で製作している姫だるまは、明治4年(1871年)に伊予郡南伊予村(現在の伊予市)の**が考案しただるまで、椿祭りで売り始め、縁起物として愛好されていたということです。その後、**の子、**と**とが松山市清水(しみず)町に居を構え、父の後を継いでそれぞれ改良を加えながらつくっていました。その**の代には従来の木彫りの型も陶製の型に変えました。張り子をはがす際に刃物を使いますので木型では形がくずれてしまいます。そこで焼き物にしたのです。お陰でそのだるまの型は松山の空襲(昭和20年〔1945年〕)の折にも焼け残り、現在でも使っています(写真3-2-25参照)。**の子の**が3代目、わたしの夫です。夫は昭和53年(1978年)に死去、一時は途方に暮れました。3代続いてきた張り子姫だるまづくりもこれでおしまいだと思っていたのですが、得意先から是非続けてもらいたいと懇願され、4代目を継ぐ決心をしました。
 しかし、4代目を継ぐというのは生易しいことではありませんでした。最も苦労したのは顔づくり(*20)です。わたしは、**家に嫁いだからにはだるまづくりで御飯を食べさせてもらうのだからと思い、いろいろ技術を習い、夫と共に張り子姫だるまをつくっていたのですが、顔づくりだけは夫の専門で、顔には一切さわらせてくれませんでしたし、教えてもくれませんでした。夫は生前、蚊帳(かや)の中で顔を塗っていました。顔を塗る時ほこりが付着するとそこが傷になるので子供も寄せつけません。お茶を持って行って、近くで動き回ってもしかられたものです。顔づくりでまず困ったのは塗料の調合(胡粉(ごふん)、ゼラチン、水の割合)が分からなかったことです。次は塗り方です。地塗り、中塗り、上塗りと7回くらい塗るのですが、上手に塗らないと顔の凹凸がなくなってしまいます。塗った液が流れて鼻筋の両側にたまると鼻が低くなり、見場が悪くなってしまうこともあります。さらに顔づくりは湿度にも影響され、晴れた日と雨の日とでは出来上がりが違ってきます。また塗料の調合の仕方や溶き方の微妙な違いが顔の色つやに影響を与えます。そのようなわけで、とにかくやせる思いをしながら顔づくりを中心に研究を重ね、技を磨きました。いいかげんな品物をつくって出荷したのでは先祖に申し訳ないと思い、研究期間中(2、3年)注文を断っていました。つまらないものをつくったのでは伝統を継いだことにもなりません。ですから夫の死後、すぐに品物ができたというわけではなかったのです。」

 (イ)紙ごなしから始まる

 「張り子姫だるまづくりは、まずだるまの型(写真3-2-25参照)にはり付ける紙をつくる『紙ごなし』という作業から始めます。新聞紙と『きずき(生漉紙(きずきがみ)という和紙)』とを交互に何枚も重ねてはり合わせます。その際、のりの濃さにも注意しなければなりません。きずきを使うのは、紙に粘りを持たせるためです。はり合わせた紙は、軽くもんでしわをつけ、柔らかくだんごのように丸めて半日ほど寝かしておきます。型にはりつける時には、それを広げて、乾燥していたら手で水を打って湿らせて、再びよくもんで柔らかくします。この紙ごなしを上手にやらないと型にはり付けた折にしわが伸びにくく、きれいにはれません。紙ごなしは張り子づくりの最も大切な作業であり、その技を身につけるまでには年数がかかります。
 次は、型にはり付ける作業ですが、丸いだるまの型に一枚の紙をはるのですからどうしてもしわができます。そのしわを伸ばし、できるだけ厚みを一定にして滑らかにはります。シワの部分をちょっと割いて寄せるようにしてはったり、竹の表面でこすったりするのですが、難しい仕事です。だるまの大きさによっては何枚も重ねてはります。大きいものほど分厚くしなければなりません。特大のだるまをつくる場合には20枚近くも使います。型から張り子をはがす型抜き作業では、素焼きの型の背の溝(写真3-2-25参照)に沿って小刀で切り目をつけ、へら(昔はクジラの歯でつくったへら、現在は薄い竹べら)で静かにはがします。下手をすると張り子が裂けてしまいますので、簡単なようですが、技が要ります。目張りにはきずきを使い、滑らかにはり合わせます。
 その後、粘土を型に入れてつくった台を張り子の下につけ、その台の生乾きの段階で穴を開けておき、後でその穴に串を刺し、それを持って塗りの作業をするのです。胡粉(ごふん)と膠(にかわ)を混ぜた塗料で白く塗り、天日で乾かした後に赤い塗料を塗り、再び乾燥させて最後に膠で光沢をつけます。それから宝珠をはったり蓑(みの)や塗り笠などの文様を描きます(写真3-2-26参照)。これらは初代**が考えた文様です。
 一方、顔づくりが済むとその顔に目や口を描き、横髪、前髪を付け、張り子にはめ込んで仕上げるのですが、この目や口の描き方によって姫だるまの表情が微妙に変わってきます。3代目作の姫だるまと現在のわたしのつくっている姫だるまを見比べると目の描き方が少し違っています。3代目作のほうは上まぶたがとがった山形になっていてぱっちりとした目になっています。この目の描き方は、**の妻が考案した**家姫だるまの伝統的な描き方なのです。今は上まぶたがなだらかで優しい目になっています(写真3-2-27参照)。姫だるまですから優しくかわいらしい表情にしたいと思い、変えてみたのですが、お陰さまで評判がよいので続けています。もちろん伝統的な目の描き方を守ってほしいと言われる人もいますが、伝統、伝統といってもお客の多くはやはり目もと、口もとのかわいい姫だるまを選びます。目や口は手書きですから、ちょっとした筆の運び方によって表情が違ってくるし、目じりの下がりかげん、鼻筋からの目の離れ具合などによっても変わってきます。とにかく少しでも皆さんに好まれる表情にしたいと努めています。使用する筆は普通のものではなく、馬の尾の毛でつくった針のような細い筆です。この筆は今でも自分でつくるのですが、10本つくっても実際に3本くらいしか使えません。この筆づくりも技の一つになるでしょう。」

 (ウ)後継者は**さん

 「戦前は人を雇い、分業で仕事をしていましたが、戦後は夫と二人でつくっていました。息子が結婚してからは嫁(**さん)に家事を任せて仕事に専念していましたが、できれば嫁にも姫だるまづくりを伝えたいと思っていました。幸い嫁も本気で習う決心をしてくれたので教えました。しかし、その間、これはいかん、こんなのは駄目、伝統を受け継いで仕事をしようと思うならば、ここはこうしなければならないなどと厳しいことを言いましたが、お陰でよかったと嫁は言ってくれます。今では嫁も皆さんに気に入っていただける品物をつくることができるようになり、満足しています。」
 「わたし(**さん)は、この仕事を手伝い始めてから10年くらいになりますが、完全に一人でやり始めてからは6年くらいです。お陰さまで注文も多いのですが、なにしろ手を抜くところが全くない手間のかかる仕事ですし、家事もしなければなりませんので、たくさんはつくれません。品物は道後の土産物店やホテル、松山空港スカイショップなどに納め、また県の物産協会の東京支部や東京の全国の民芸品を扱っている店にも出しています。現在いろいろな姫だるまが売られていますが、わたしのところの姫だるまにはすべて**作の名を入れ、箱の中には品物とともに『姫達磨(だるま)の縁起(*21)』という印刷物を入れております。これからも**だるまの伝統を守り、皆さんに喜んでいただける姫だるまづくりに努めたいと思っています。」
 「わたし(**さん)は目が不自由になったので細かい仕事はできなくなりました。目さえ見えれば今でも続けているでしょう。夫の死後、やめようかと思ったこともありましたが、嫁(**さん)がこのように後を継いでやってくれていますし、続けてきてよかったと思っています。嫁の描く姫だるまの顔はかわいらしいですよ。息子もそう言います。しかし、今のわたしには見えませんので、『あゝ、ほう(そう)かね。信じとらい。』と答えるしかありませんが、内心喜んでいます。」

 イ 糸かけ姫だるま

 **さん(松山市松前町 昭和4年生まれ 68歳)
 **さん(松山市松前町 昭和9年生まれ 63歳)
 糸かけ姫だるまは、昭和7年(1932年)先代**さんが考案したものである。**さんは、一時郵便局に勤めていたが、昭和28年(1953年)に退職し、父から技術を習い、10年後に2代目となった。**さんは、**さんのもとに嫁いでから共に姫だるまづくりに携わってきた。

 (ア)父のこと

 「父が最初に考案した糸かけ姫だるまと現在のものとでは形も顔も違います。昔(昭和7年考案)の顔は、厚紙を切り、鼻をつけ、その上に綿を置いて白布で包み、目などを入れてつくっていましたので大変手間がかかっていました(写真3-2-30参照)。その後父は、姫だるまの顔をもっと美しくしたいと考え、人形づくりで有名な埼玉県の岩槻(いわつき)市までわざわざ顔の研究に出掛け、そこで知り合った顔づくりの職人を松山に連れてきて、岩槻の人形の顔型を参考にし、だるまの号数(大きさ)に合わせて木型を彫ってつくらせました。連れてきたからには、だるまが売れようが売れまいがその職人のつくる顔は全部買い取ってやらなければなりません。思い切ったことをしたものです。しかしよく売れました。家庭の都合でその職人が帰省してからは、岩槻から顔を送ってもらうようになりました。それが現在の顔です。この新しい顔でつくるようになってからも(そのころから糸かけ姫だるまはもちろん金襴(きんらん)の姫だるまもつくるようになった)、従来の厚紙で顔をつくるだるまも、目がぱっちりしているから目(芽)が出ると、縁起を担ぐ人には喜ばれていました。
 父はまた愛媛県の物産協会や松山市の観光協会などから依頼され、各地で開かれる物産展の実演会にも従業員を連れてよく行っていました。だるまにどのように糸をかけていくのか興味津々(しんしん)、黒山の人だかりだったそうです。親を褒(ほ)めるのは気が引けますが、松山の姫だるまを全国に紹介した父の功績は大きかったのではないでしょうか。
 父は、昭和33年(1958年)末、美智子皇后の御婚約記念として正田家に特大の糸かけ姫だるまをお送りしました。その折の正田家からの礼状は大切にしておりますが、それには『過日は見事なケ-ス入りだるまをお送りいただき厚く御礼申し上げます。なお、御祝い品等は固く御辞退申し上げております折から、1か月程床の間に飾らしていただき、後は品川区の産院へ寄附いたしたく存じております。何とぞ御了承賜りたくお願いいたします。』と添え書きされています。美智子皇后にも御覧いただけたと思うと光栄です。
 もう一つ思い出したことがあります。昭和39年(1964年)、父が協賛して『姫だるまの歌』を募集したことです。入選した歌は作曲され、振り付けられて、道後の旅館で発表会がありました。姫だるまを愛した父の気持ちが伝わってくる思い出の一つです。
 父はとにかく仕事熱心、研究熱心な人でした。わたしのところの姫だるまづくりの技法は、糸かけの秘技はもちろん、ほとんどすべて父の努力と研究の結果生み出されたものです。」

 (イ)手間暇かけて

 「糸かけ姫だるまの製作工程は63もあるのですが、概要は次のとおりです。
 まず、新聞紙を細かく切って、だるまの木型(*22)に20回くらい重ねばりをして張り子をつくります。乾いたら前面部と後面部とに割って型からはずし、底と顔の周囲及び背中(背骨に当たるところ)に糸をかけるための針金を内側から通し、粘土のおもりを底につけてはり合わせます。実はおもりをつくるだけでもいくつかの工程があり、ここまでの作業でもかなり手間がかかります。
 次は糸かけです。張り子の外側に出ている針金に糸をかけながら、全体を糸で覆い、最後は背中の針金を隠すようにして留めるのです。この作業は大変難しくて、技術を必要とする仕事です。特に顔の周りの糸かけには高度な技が要ります。実演会では必ず糸かけの技を披露したものです。どこで糸を留めるか、出来上がったものからは分かりませんので、見学者は最後まで興味を持ちます。糸はリリヤン(手芸用の組み糸)を使います。京都から150番手(番手は糸の太さを表す単位)のリリヤンを取り寄せ、2段階にほどいて、自宅で赤く染めました。
 後は髪の毛をつけたり、男のだるまにはひげをつけたりして顔をはめ込み、男の頭には鉢巻き、女にはかんざしをつけます。またモールでつくった松、山、石手川(松山市の市街地を流れている川)を表している模様もつけます。これらの仕事は、模様をつくること一つをとってみても細かい手先の作業ですから、本当に手間暇がかかります。
 姫だるまづくりの最盛期は昭和30年代、40年代だったと思います。一時は内職の人を含めて30人くらいの人を雇って分業で仕事をしていました。ところがその人たちがだんだん年をとり、健康上の問題や家庭の都合で順々に辞めていきました。経験と技術を必要とし、しかも辛気臭(しんきくさ)い手仕事ですから、趣味でつくるのは別にして現代の若い人には向きません。ですから後がまがなかなか見つかりません。最後には母とわたしども夫婦とあと一人二人とでつくっていましたが、結局数年前仕事をやめることにしました。わたし(**さん)自身、うつむいてする仕事で首を傷めたのもやめるきっかけの一つでした。周囲からはぼつぼつでもよいから仕事を続けないかと勧められましたが、すでにお話をしたように工程が多く、大変手間がかかるので、大勢で仕事を分担して、流れ作業で大量に生産しなければ商売になりませんので仕方がなかったのです。もちろん今でも知り合いの人から頼まれたような場合には、材料も残っているのでつくってあげています。とにかくわたしどもがやむを得ず仕事をやめたのは、需要が減ったというよりは、仕事をしてくれる人がいなくなったからです。
 そのようなわけで、現在ではもう糸かけ姫だるまは土産物店などにはないと思います。もしあったとすれば以前につくったものです。この糸かけ姫だるまは実用新案特許をとっておりますので、もし見かけられたら、それはわたしどもの家でつくった製品です。現在では金襴の姫だるまが主流になっているようです。」
 話をうかがった部屋には、前田伍健(*23)から送られたという「城と温泉とお国自慢の姫だるま」という川柳が額に入れられ飾られていた(写真3-2-33参照)。確かに姫だるまは、松山のいや愛媛のお国自慢の一つである。

 ウ 姫てまり

 **さん(松山市古川南 昭和4年生まれ 68歳)
 手まりは、江戸時代に少女の遊び道具の一つとして発達した。初めは綿などを芯(しん)にして綿糸を堅く巻き付けたような素朴なものであったが、江戸後期には表面を五色の絹糸で巻いた装飾的なものもつくられるようになったようである。明治以降ゴムまりの登場によって子供たちの手から離れた従来の手まりは、各地の民芸品として生まれ変わることになった。青森県八戸(はちのへ)市のくけまり、山形県鶴岡市の御殿まりなどがそれである。愛媛県においても、松山市の**さんが努力を重ねて編み出した美しい手まりがあり、娘の**さんもその技を受け継いでいる(写真3-2-34参照)。その名も愛媛にふさわしい姫てまり、広く人々に愛されている。

 (ア)創意工夫を重ねて

 「わたし(**さん)の実姉は、ある時、近所のおばあさんが綿をまるめ、糸をかけて手まりをつくっているのを見て、『おばあさん、これきれいなあ。教えて。』と言ったところ、『ええ、ええ、教えてあげるぞな。』と快く教えてくれたということです。その姉から手まりづくりを習いました。わたしは結婚してから30歳のころまで家で洋裁をしていたのですが、これからは既製品の出回る世の中になるから手まりづくりのほうがよいのではないかと姉に勧められたのです。昭和35年(1960年)ころだったでしょうか、姉はわたしの家に泊まり込んで教えてくれました。『あんた偉そうに言うけん(から)もうやめる。』と言っても、姉は『せにゃいかん(しなければならない)。これをせなんだら食べていけんと思うたらできる。あんたは洋裁もしよって器用なんじゃけんできんことない。』とはっぱを掛けたり、おだてたりして、根気強く教えてくれました。お陰で今日のわたしがあるのです。
 つくり始めたころは、袋の中に籾殻(もみがら)を入れ、木綿の糸で固く巻いてつくっていましたが、手間もかかり、その上しばらくすると柔らかくなり、形がくずれてくるので弱りました。そこでおがくずをのりで固めたまりをつくらせることにしたのですが、採算がとれないということで、結局芯(しん)になるまりは発泡スチロールになりました。現在でも大きさが直径6寸(1寸は約3.03cm)までのものには発泡スチロールを使います。ただし8寸や1尺(約30.3cm)というような大きな姫てまりはわずかしかつくりませんので、発泡スチロールでつくらせたのではこれまた採算がとれません。ですからその場合は主人(**さんの夫)に協力してもらって自宅で新聞紙を原料にしたまりをつくりますが、出来上がるまでに1か月ほどかかる非常に手間のいる仕事です。新聞紙を洗濯機でかくはんし、搾ってのりを混ぜ、再びかくはんして、型(御主人の自作)に入れ、圧縮(男の力が必要)して、厚さ2、3cmの半球をつくります。乾いたら二つの半球を貼(は)り合わせ、表面を磨いて仕上げるのです。このまりは大変硬くて、糸を強く巻くことができるので、出来上がった姫てまりに光沢が出ます。
 また、姉に習ったころは糸の色の種類も少なかったのですが、もっと色の種類を多くして、美しい模様をつくり出そうと思い、京都から糸(人絹)を仕入れ、県立今治職業訓練学校(現在の今治高等技術専門学校)に依頼していろいろな色に染めてもらうことにしました。
 姫てまりづくりは、まず芯になるまりに水をつけ、赤く染めた綿(脱指綿)をかぶせて、赤糸で押さえ、それから中心を決め、想定している模様に応じて、4等分、8等分、12等分し、そこに黒い印(しるし)をつけておきます。次に黄色い糸で均等に(約2mm間隔)下巻きをし、上下の中心点から等距離の位置にベルトをかけます(写真3-2-35参照)。この下巻きをしただけの手まりでもきれいです。ここまでの作業で特に難しいのは、一つは綿かけです。つるつるした発泡スチロールのまりに綿をかぶせなければならないからです。練習を重ねないとうまくいきません。わたしも今では簡単にできますが、初めて発泡スチロールに綿をかぶせた時には滑って苦労しました。その点新聞紙でこしらえたまりのほうは、どうしても表面ががさがさしているので容易にできます。もう一つは下巻きです。下巻きをした上に上巻きといって色糸を巻いて模様をつくっていくのですが、どうしても下巻きの部分が見えますから、きれいに均等に巻いておかなければなりません。その均等に巻くというのが難しいのです。ですから下巻きが上手にできない人は、あっさりした粋(いき)な模様よりは、12等分を基にしてつくる大きい派手な模様にして、できるだけ下巻きを隠すようにしたほうがよいでしょう。
 さて、いよいよ色糸を使って模様をつくる作業に入りますが、デザインは自由ですから花などをヒントにして図柄を考えます。新しい図柄を考えついても紙にその図案を書いてみたりはしません。頭の中で柄と色合わせを考えるだけでつくることができます。新しい模様を想定して色糸をかけていると、初めはおかしなものができそうで、どうなることやらと思いますが、完成すると美しい模様になっています。きれいな花を見て、こんな花模様にしたいと思ったら、頭の中で色合いを考えてすぐに巻いてみるというようなことをしています。一度つくったらそのつくり方は忘れません。今までにつくった模様のつくり方もすべて覚えていますので、それを応用して次々に新しい柄を生み出していくのですが、とにかく、いつも頭の中では新しい模様のことばかり考えています。これはわたしの頭の老化防止にもなっているようです。これからはいつまで見ても飽きがこない上品な模様を編み出したいと思っています。色糸は先程お話ししたベルトのところで留めてずれないようにします。それ以外のところでは一切とじたりしません。ただ巻くだけで模様をつくっていくのです。この点が姫てまりの特色であり、最も技を必要とするところです。」

 (イ)販路は全国

 「製品はすべて愛媛県の婦人職業協会に納め、協会から県内外に出荷されています。京都では京都の手まり、九州では九州の手まりとして店頭に並んでいます。『あら、わたしの柄じゃが。わたしのつくった手まりが京都の手まりとして出とるがな。』と思ったこともあります。また以前熊本市の水前寺公園に行った時、土産物店の人が『奥さん、これは手づくりで、手間暇かけてつくったものだが安くしておきます。』と言うので、見るとわたしらが70円くらいで出荷した手まりで、値段はなんと700円、『高いなあ、なんぼ人間がようてもよう買わん。』と大笑いしたことがあります。連れの友人は『これ**ちゃん(**さん)のじゃがね。あんたが巻いた手まりじゃがね。70円で巻いたものが700円じゃと。』とあきれた様子でした。
 協会からは製品の模様などについての要望があります。それはもちろん取引先の業者からの要求ですが、『**さん、どないかならんか(何とかならないか)。研究してみてくれ。』と言われると、わたしも負けず嫌いですから、できないことはないと思って研究しました。姫てまりの模様を派手にしないと業者がとってくれないと言われた折には、ラメ(金糸、銀糸)を入れてつくり、きれいだと評判になったこともあります。また、赤、白抜きのレトロ(復古)調の少し渋い柄を研究してみてくれと言われ、試作品を送って製作したこともあります。そのようにお客の好みによっても新しい模様を考えなくてはなりません。考えるのは好きですが、注文どおりの模様をつくり出すのは大変です。
 わたしらが子育てをしているころは、働きに行くところも少なく、女が働きに出ると主人にしかられるような時代でしたから、わたしが姫てまりづくりを教えた人の中には、子供を大学に進学させるために内職として続けた人もあり、今でも感謝されています。わたしにも二人の娘がおりますが、『あんたらがきれいな着物や洋服を着ることができるのは手まりのお陰なんよ。』とよく言ってやったものです。現在でも愛媛県女性職業センター(松山市)では、姫てまりづくりを内職向けの技術指導の一つに加えています。この指導を受けた人は修了証書をもらい、内職を希望すれば県の婦人職業協会に登録して仕事をする仕組みになっていますが、内職仕事というのは、根気を必要とし、収入も低いので、昭和ひとけた生まれくらいまでの人ならば辛抱してやるでしょうが、今の若い人には向かないでしょう。わたしは長らく女性職業センターで姫てまりの技術指導を行ってきましたが、現在は娘が後を引き受けて指導しています。娘は小さいころからわたしの仕事を見て育ちましたので、あまり教えなくてもつくり方をよく知っていて上手につくります。今では大きな手まりは娘がつくり、わたしは小さいのを主につくっています。お陰さまで需要もあり、忙しいが楽しい毎日を送っています。姉から習った手まりづくりを続けてきて本当によかったと思っています。」


*18:二名之島(四国)に「伊予の」と冠した理由について、『愛媛県史(⑪)』では「これは恐らく瀬戸内海の航行が盛んに
  なり、四国島が都方面に向かう船人の注目をひき、まず、最初に位置する伊予地方は船人との交渉も多く、従って彼らの知
  識も豊富になって、四国といえば伊予が強く印象づけられたことによるのではないかと考えられる。」と述べている。
*19:半井悟菴(文化10年~明治22年〔1813~89年〕)今治藩医の家に生まれる。医者、神官、国学者、歌人、しかも歴史
  地理に造詣が深い人物であった。
*20:粘土におがくずとのりを混ぜて練ったものを顔の型に入れて乾燥させ(型から抜きやすくするため、型の内側には雲母
  の粉を振っておく)、型からはずした顔には胡粉(貝殻を焼いてつくった白い粉)とゼラチンに水を加えよく混ぜ合わせた
  塗料を何回も塗る(**さん談)。
*21:『姫達磨の縁起』には「七転八起の我も花の春」という俳人内藤鳴雪(弘化4年~大正15年〔1847~1926年〕)の句
  が載っている。
*22:木型は先代の自作。大きさは1号(大)から6号(小)まで。外に特大がある。
*23:前田伍健(明治22年~昭和35年〔1889~1960年〕)愛媛県川柳界の第一人者。県川柳文化連盟の初代会長を務めた。

写真3-2-24 松山空港の売店(スカイショップ)に陳列されている姫だるま

写真3-2-24 松山空港の売店(スカイショップ)に陳列されている姫だるま

平成9年9月撮影

写真3-2-25 戦禍をくぐり抜けた陶製の型

写真3-2-25 戦禍をくぐり抜けた陶製の型

平成9年7月撮影

写真3-2-26 横にすると蓑の文様がよく分かる

写真3-2-26 横にすると蓑の文様がよく分かる

平成9年7月撮影

写真3-2-27 張り子姫だるまの目に注目

写真3-2-27 張り子姫だるまの目に注目

平成9年7月撮影

写真3-2-30 厚紙で作った顔

写真3-2-30 厚紙で作った顔

平成9年7月撮影

写真3-2-33 前田伍健の自筆

写真3-2-33 前田伍健の自筆

平成9年7月撮影

写真3-2-34 **さん親子の姫てまり

写真3-2-34 **さん親子の姫てまり

平成9年7月撮影

写真3-2-35 下巻きをしてベルトをかけた手まり

写真3-2-35 下巻きをしてベルトをかけた手まり

左側の手まりにはベルトが見える。平成9年7月撮影