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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)住まいを飾る木工の冴え

 ア 木彫とともに生きる

 **さん(宇和島市栄町港 昭和5年生まれ 67歳)
 「自然と調和した潤いのある城下町」をキャッチフレーズに掲げる宇和島市は、伊達藩の城下町として栄えた歴史と文化の町であり、南予(愛媛県南部)の水陸交通の要衝でもある。町の真ん中、こんもりと盛り上がった山の頂にある宇和島城は、10万石の風格を今に伝え、天守は国指定重要文化財となっている。市の東部や南部の山間には、古刹(こさつ)が集中し寺町を形づくるとともに、江戸期の神社、仏閣が多く見られる。これら多くの文化的遺産の改築の都度、その建物に調和した木組みや彫刻の修復が施され、往時の木工の技の高さをかい間見ることができる。人々の住まいにも落ち着いた和風の建物が多く、城下町の風情がほのかに感じられる。潤いのある城下の町なかで、欄間(らんま)彫刻(*10)の技を受け継ぎ、木彫の道一筋に生きてきた**さんの話を要約した。
 「父は欄間彫刻の職人でした。昭和20年(1945年)、宇和島の戦災ですべてを焼失してしまい、立ち直って、ぼつぼつ仕事を始めたのは昭和22年の暮れでした。その後、後を継ぐ予定の兄が戦死してしまっていたことが分かったのです。余り健康に恵まれない父の落胆と多忙を見かねて、ちょっとした間に合う仕事を手伝っているうちに、後を継ぐ成り行きになったのです。世の中が落ち着きを取り戻すとともに、父は欄間彫刻に本格的に取り組むようになり、それに従って仕込まれるというより、見様見まねで木彫の仕事を覚えていったのです。
 彫刻の仕事も年季を経てくると、1段格が上の堂宮彫刻をやってみたいと思うようになり、東京都港区芝白金の山本栄雲師匠に師事したいことを父に打ち明けて相談したが、健康の優れない父からいい返事は聞かれなかったのです。昭和29年、内弟子が入ることになり、好機が到来しましたが、父の健康を考えてみると、よくよくの(思い切った)決断で山本師匠に入門したのです。
 木彫の方は、自分なりに修業してきていました。師匠にはその年数で仕事の程度は予想できたのでしょう、入門の当初から堂宮建立の現場に出張して木彫の仕事に取り組むことになったのです。その後、希望していた、建物の大きさから彫刻寸法の割り出し方法を習うことができたのです。師匠は無口で進んで教えてくれる性格ではなかったですが、聞けば隠すことなく教えてくれました。足掛け3年という短い間でしたが、目をかけて仕込んでもらったことは、今考えると実に幸いでした。師匠の下で、さらに深く修業したかったのですが、3年目に父の持病のぜん息が重いとの知らせがあり、不本意ながら帰郷することになったのです。師匠は『その気になれば、どこにいても修業はできる…。』と慰め、励ましてくれました。これを契機に思い切って欄間彫刻の家業を継いだわけです。」

 (ア)欄間師として

 木造の家とともに受け継がれてきた欄間の沿革について、**さんの話を略述する。
 「奈良時代以前の建物に欄間はなかったようです。平安後期のころから採光を目的として簡単な縦横の木組みによる格子欄間が用いられ、次いで斜め木組み格子の菱欄間や筬(おさ)欄間(*11)などが寺院などに多用されました。鎌倉から室町期にさらに進歩して、平面的な透し彫りと木組みを併用した組欄間なども用いられたようです(写真3-1-14参照)。透し彫り単独の欄間の出現は南北朝後期といわれ、その後、平面彫りから肉の厚い丸彫りへと移り、桃山期以降にはさらに豪華な技巧を凝らした彫り物が取り入れられました。仏堂に始まった欄間が端正な美しさから、やがて住宅にも用いられるようになり現在に至っています。しかし、近年は住まいの変化から、欄間の需要も減少して一般的でなくなっています。
 欄間という名称については、室町時代に武家・公家の書院造りの座敷において、寒ランの芳香を透し彫りの欄間越しに楽しんだことに由来しているという一説があります。住まいに欄間が取り入れられるようになったのは、武家社会の衰退により商人の経済力が強くなり、書院造りの構造様式が一般的になったことなどが考えられます。このような欄間の移り変わりは、なぜかわたしの欄間師としての流れと全く同じで興味をそそられます。昭和30年代半ばまでは建具としての木組み欄間、経済復興期のころは透し彫りの欄間、さらに、絵画的に図案化した透し彫りに移り、くらしが豊かになるにつれて、立体的で豪華な彫り物を施した欄間に移っていったのです。
 一般の家の木組み欄間の素材は、南予の地域では官林物(国有林産)と言われる、目の込んだヒノキの良材が愛用されていたが、このヒノキも伐採の進行により枯渇していったのです。また、高級の筬欄間にはキリ材が用いられた。このキリの原木は漁師の浮き用に植林されていたものです。面白いことに、古くは『浮き用には盗伐してもかまわん』とされ、よく『キリの木を盗まれた…』という話があったのです。しかし、素性の良いキリ材が少なく、欄間用材は主に大阪の問屋へ特注していたので高価でした。その他に高級材として、昭和40年(1965年)過ぎまでは銘柄のスギ材が用いられ、その後は地物のヒノキ材が使われました。
 欄間細工は刃物の切れ味で決まると言われ、軟らかいキリ材を扱うときは、剃刀(かみそり)のように刃を鋭く研ぐことが大切です。反対に硬いケヤキ材を扱うときには、刃先を極くわずかに丸めて鈍くしておかなければ刃が欠けることがあります。道具の研ぎ方は、材の硬軟によって違い、キリの細工物は、刃先に特に神経を使います。しょっちゅう(いつも)刃を研ぎ、目立てをしながらの仕事となり、何かにつけてキリの細工物は、手間がかかります。
 堂宮の建立用材や彫り物にはケヤキ、ヒノキや入手しやすい地物のクス材などがよく使われます。クス材は高知県須崎(すさき)市方面に多いためか、西土佐(高知県西部)地方や当地域の古い神社・仏閣の彫り物によく使われているようです。
 当市の奥まった山手には古刹(こさつ)が多く建立されています。それらの建立当時の用材、特にケヤキなどの主要材は、『山越えをして土佐産の木材を運んだ』と言います。おそらく膨大な労力を要したことでしょう。そのケヤキ材は、今ではお目にかかれないような、素直な良材が使ってあります。同じケヤキ材でも木目や材質によって差がありますが、古い堂宮のケヤキ材は、素直な材が使ってあります。この材は、ほどよい軟らかさで彫り物に最適なのです。槌(つち)と鑿(のみ)を使わなくても、手鑿で突いて仕事ができるのです。年輪(木目)の込み具合もほどよく、仕上げ後の狂いも少ないのです。寺院はケヤキ材、神社はヒノキ材を主に用いて建立したようですが、近年良材の入手が困難になり、材の使い分けもなくなりました。
 現在、大抵の手仕事が機械化され職人は楽になりました。しかし木彫は、あくまでも手先の仕事です。透し彫りの穴開けの一部に糸鋸(いとのこ)機を使いますが、昔は盤固(ばんこ)という工具に挟み、挽回鋸(ひきまわしのこ)でゴソゴソやっていたものです。ただ、困るのは手彫りの道具をつくる職人がいなくなり、入手できない道具があるのです。その道具は結局自分でつくるか、他のものを加工して使います。例えば、特殊な挽回鋸などは自分でつくります。新品の鋸歯(のこば)を全部落としてしまい、肉厚の背中の部分にやすりで新しい歯をつくり、自分の思い通りに目立てと歯わきをして仕上げます。この手づくり鋸は、挽(ひ)き道が広くなり、鋸歯が隅まで入るので、後の仕事がずっと楽になるのです。
 手彫りはやはり鑿が本命です。先人はよく考えたもので、さじ鑿のようなものから、平鑿、丸鑿、裏丸鑿、刃先がわずかに曲がった鑿など多種多様のものがあり(写真3-1-15参照)、要所にかなった道具を考え出して、使いこなしていたことが分かります。仕事を始めたころはどんなに特殊な鑿でも、1本から注文に応じてくれる金物店が宇和島にあったのですが、今は特注しなければ手に入らないものが大部分です。
 一般の家の欄間は木組みから豪華な透し彫りへと移りましたが、彫り物自体は風景物、鶴亀(つるかめ)、松竹梅が多く、干支(えと)や家紋などの注文もありましたが、だんだんと特注の欄間彫刻も減ったのです。現在では台湾あたりから、規格化された欄間が輸入されているようです。」

 (イ)堂宮彫刻師として

 「東京の師匠の下を離れて帰郷したのが昭和30年代の初めでした。当時は、堂宮の仕事はたまにしかなく、一般住宅の欄間づくりが主でした。
 昭和40年代の初めころから、神社や寺院の建物の耐久年限が近づいていたのと、台風やシロアリ破損などの被害が重なって、修理や復旧の依頼が多くなりました。新築するお宮やお寺も相次ぎました。どうやら短い期間ながら堂宮彫刻を修業したことが役立ってきたのです。
 この地方の堂宮建立・修復後の年数には、ほぼ50年から100年くらいの幅があります。年数の短いものはシロアリの被害にあったと考えてよく、老朽化がほぼ同じなのは、同時期に建立され、同じころに修復したことを物語っているのです。
 神社・仏閣の彫り物には姿物(動物の姿)といわれる天女、獅子(しし)、龍、悪夢を食うと言われる獏(ばく)などがあり、唐草模様や若葉、蓮(はす)、火災封じの水の文様が上部に刻まれたものなどがあります。
 建物を支える中心になるのが柱ですが、寺院などで、柱のその上部に見られる豪壮な桝(ます)型の木組みを『斗(ます)(桝)組(ぐみ)』と言います。組み方には、出(で)組、平(ひら)組、寺院の楼門などになると、三手先(みてさき)、四手先と言って、斗組が多く重なるに従い、見た目に重厚で豪壮になってきます。また最下部の材を皿斗(さらと)、その上に大斗(だいと)、さらに通肘木(とおりひじき)が載り、桝が付き、その上に雲肘木(くもひじき)というように載せられて、巻取った最終の部分を斗尻(ますじり)というように全部名称があるのです。豪華なものほど木彫りも多くなってきます。
 本殿の梁(はり)の中央に載る蟇股(かえるまた)(*12)には姿物が一般に多く彫られ、高知県では龍が好まれ神社の拝殿両側の脇障子に上り龍と下り龍の透し彫りを配したりします。木鼻(きはな)(頭貫(かしらぬ)きなどの先端が柱から突き出た部分)には獏、獅子、龍などを配し、桁(けた)の部分の虹梁(こうりょう)(やや反りを持たせた化粧梁)には、主彫刻に合わして雲形、唐草、牡丹(ぼたん)、波形の文様を彫りますが、姿物は一切使いません。寺院の木鼻には天女、孔雀(くじゃく)、象鼻(ぞうはな)、鳳凰(ほうおう)などを彫りますが、龍や鳳凰は豪華で、割と立体感が出て引き立つものですから好まれます。
 建物の棟(むね)の破風(屋根の切り妻についている合掌形の装飾板、それがついている所)に、鳥または魚をかたどった懸魚(げぎょ)という彫り物をしますが、この懸魚に限って逆木(さかぎ)(木材の元と先を上下逆にする)に使ってもよいとされています。これ以外に木工(こだくみ)の世界で、逆木は絶対にあり得ないのです。木とともに生きてきた木工は、木材そのものをあるがままに使うことを身につけたものでしょうが、現在では理学上(強度・安定性・美観)からも明らかにされていることなのです。
 彫刻の注文は、堂宮大工の棟梁(とうりょう)からあります。彫るものは木彫師に一任という場合が多く、時には特別に指定される場合もあります。そのため、どうしても古い堂宮などを見学して、先人の仕事を研究するとともに、復元時の状況などを想像して、そこに調和する新しい図案を練り、より以上の物を考えたりすることに、彫り師としての苦心があるのです。設計図を見れば、寸法の割り出しや材種合わせはできます。しかし、現場に行って先人の仕事を見なければ、職人として、その堂宮に似合った仕事が生まれないのです。
 堂宮の改築や修復の場合は同じ彫り物の復元が多く、素材は堂宮の主要材と同種の材が仕事場に運び込まれますが、特大のものは現場へ出張して彫ることになります。
 彫るものが決まれば、図案化にかかります。人によって得意とする彫り物があり、この下絵からが、いわゆる職人の腕の見せどころです。下絵は、一般に紙に描きますが、『図をひく』といって直接素材に描く場合もあります。次に粗彫(あらぼ)りの準備として材の外形を整えて、手仕事で粗彫りに移ります。その後は丁寧に姿と形やのみ跡を整え、細工を施して仕上げるのです。木のつやなどから、見た目に最も無難に彫り上がるのはヒノキ材です。以前は地元産のマツ材が価格も安くてよく使われたのですが、近年は手に入らなくなりました。派手で豪華なのはケヤキ材で、思わぬ杢(もく)(木材の切り口面に現れる年輪や繊維のやや、複雑な模様)が出てきたりすることがあります。その杢や節などをあしらって、宝玉をつかんでいる上り竜を急に思いついたりすることもあります。木彫りには白木の面白味があり、その年輪数を生き抜いてきた木材の持ち味、ぬくもりを引き出してやることが、木を生かすことにもなるのです。」

 (ウ)鑿跡をたどる

 「城下町宇和島には、江戸期の神社・仏閣が多く、山手には寺院が立ち並んでいる通りがあります。その建物の造改築の都度、彫刻も新しいものや修復が施されていますが、特に古刹には、それは見事な彫刻を多く見受けます。各地に遺されている古い堂宮の修復を手がけてみると、同じ木彫師として先人の技がいかに高いものであったかを思い知らされます。
 これまでに、各地の堂宮の彫り物や、その修復にかかわらせてもらいましたが、その中で特に印象に残っているのは、2年ほど前に拝高(はいたか)神社(南宇和郡内海(うちうみ)村油袋(ゆたい))の唐破風造(からはふづく)り拝殿の懸魚(げぎょ)に鳳凰(ほうおう)を彫ったもの(写真3-1-18参照)、高知県宿毛市柏島(すくもしかしわじま)の稲荷神社の彫り物や、伊予市稲荷の稲荷神社楼門の蟇股(かえるまた)や懸魚の修復に参加させてもらったことです。この折には先人の鑿跡、細工跡につくづくと見とれるとともに感心させられたものです。復元ですから元通りに彫っていくのですが、じっくり見ると何人もの職人さんの手にかかっていることが分かるのです。若手の職人さんの彫ったところを、師匠か兄弟子が手直しをして教えた鑿跡を、ほぼ読み取ることができるのです。たどっていくにつれて、細工に同じ手のものを感じ、当時の職人と一緒に仕事をしている思いに駆られたものです。
 堂宮彫刻の流派にも関東派と関西派があります。同じ龍の彫り物でも、関東派は細かい鑿使いでどことなく優しくなめらかに仕上げます。関西派は高い所のものだから、荒い鑿使いで大ざっぱに仕上げます。それで調和を図っているのです。わたしはどちらかというと関東派に属します。この地域の彫り物の復元にかかわってみると、関西派の彫り物がほとんど占めていますが、任されるとどうしても関東派の手が出てくるのです。
 50年近くにわたって南予全域と、西土佐(高知県西部)方面で多くの堂宮の彫刻を手がけてきました。しかし、自分の仕事で満足のいく仕事は一つもないものです。堂宮彫刻師の後継者は残念ながら今のところいません。欄間と違ってこの仕事は際限なく奥が深いのです。ここまでという限界もなく、年季明けもないものですから、弟子入りする若者がいないのが心細いですね。」
 (**さんは平成10年1月急逝された。心を寄せた堂宮彫刻は、南予を中心に、四国西南の地一円に見られる。)

 イ 住まいと建具とのかかわり

 **さん(新居浜市沢津町 昭和11年生まれ 61歳)
 家が建ち壁ができれば、内部の造作が進む。そして、戸、障子、ふすまなどの建具を入れることになる。建具については、建具師という専門職がある。戸、障子に代わって建具という語が使われるようになったのは江戸時代中期(18世紀前半)といわれる。元来、和風家屋は外側から雨戸、板敷きの縁側、障子、畳の部屋という構成だったから、開ければ、すぐ外が見える障子は、仮設的な性格のものであった。ちょっと大きな声を出せば、話はつつ抜けになる。さらに障子は木でつくった枠組(わくぐ)みに、和紙をはっただけのものだから、指につばをつけて紙を突けば簡単に穴が開き、中がのぞける。「壁に耳あり、障子に目あり」なのである。
 障子のいいところは、和紙によって光が柔らぎ、閉めていても割合に部屋が明るいことと、開閉も敷居の溝を移動させるだけのことである。さらに、和紙が通気性と吸着性を持っていることも挙げられる。障子紙が茶色っぽくなるのは、煙が換気されるためで、障子のはりかえが年中行事の一つになっていた。子供のころ、障子に穴を開けた失敗や、はりかえのとき全部破った快感が思い出される。
 最近の木造建築には木組みの建具が少なくなり、洋風の建具であるサッシのドアやガラス入りの建具が多く使われるようになり、純然たる建具職の仕事が減少している。

 (ア)建具と指物(さしもの)

 家の建具を40数年間、つくり続けてきた、**さんに話を聞いた。
 「わたしは、宇摩郡富郷(とみさと)村(現伊予三島市富郷)の生まれです。13人兄弟の中、男6人の一番上です。家業は農業でしたから、日々のくらし自体は楽だったにしろ、子育てが大変だったことでしょう。昭和20年(1945年)小学校4年生の時に終戦を迎えましたが、そのころは電灯がついてなかったのです。中学校卒の同級生は、ほとんどが就職でした。兄弟で一番上のわたしは、中学卒業後家の手伝いをした後、18歳のとき、香川県観音寺市の鎌倉指物(さしもの)店へ弟子入りしたのです。その店で年季を5年と、お礼奉公を1年の計6年間修業しました。年季明けの店で働いても給料が安いので、新居浜市(愛媛県)へ戻って働くことにしたのです。そのころの日給が450円、年季明けの当時は300円だったと思います。
 内弟子時代は、毎朝7時から夜11時まで仕事をして、指物全般について修業したのです。内弟子は、親方や兄弟子から教えてもらうということは一切ありません。見て覚える、いわゆる見て盗み自分のものにするのです。時間だけはたっぷりあります。それで通いの兄弟弟子より早く仕事を覚えることができたのです。
 昔の職人は、一つの物を全部一人で仕上げます。それだけ腕に自信があり、一概(強情・頑固)でもあったのです。人様のやりかけ仕事の後始末をすることを嫌います。自分の仕上げた物に責任を持ち、いい仕事をしようとする反面、分業を極端に嫌うのです。そういう職人気質は今も受け継がれています。わたしのところの木工所(写真3-1-19参照)では主に建具をつくっていますが、一人の職人さんが最後まで仕上げます。しかし、時代が時代ですから、今の若い者に、住み込みでの内弟子の修業は到底勤まりません。昔と違って苦労が足らないのか、職人気質を持ち合わせないのでしょうか。機械化された大きい木工所では分業にしている所もあります。
 わが家では幸い息子が後を継いでいます。やはり、感覚的には今の若者の気質です。しかし、いつまでも親父(おやじ)がすべてを仕切っているわけにはいきません。若者には若者の考えや、付き合いがあるのです。今ではすべてを息子に任せて、いわば引退したようなものです。
 指物と建具のはっきりした区別はないように思います。昔は箪笥(たんす)や水屋などの箱物の家具を指物(口絵参照)、戸や障子を建具と言っていたようです。今では大型の家具類は工場で生産されるようになり、建具も規格品が大量に生産されてきています。
 わたしも注文によっては、箱物をつくったこともありますが、だんだんと建て付けの家具に変わり、さらに既製の家具を買った方が安く上がるようになり、今では仏壇の扉のみをつくるようになってきています。
 建具の寸法は、昔は決まっていたのです。高さが5尺7寸(約173cm、1尺は10寸で約30.3cm)、幅が3尺1寸5分(1分は約0.3cm)で2枚の戸で1組としたものでした。今は家が敷地に応じて建てられるようになり、建具の寸法も、ある程度その家に応じてつくられます。そのため建具の寸法の測り違いがあるのです。1寸目以上も違うことがあるのです。1分くらいの違いはよくあることで、手直しができますが、1寸目も違うとどうにもなりません。今でも職人は昔ながらの尺貫法を使いますが、設計図はメートル法が使ってあるのです。大きなミスが出てくるのはそのためです。建具4枚で横幅が3寸目も違うと、その建具はどこにも全く使い道がないのです。これからはコンピュータの時代だから、建具職人もメートル法を使うべきだと息子ともども話しているのです。」

 (イ)木目の通り

 木の一番大きな特徴は、木目があることである。気候に寒暖の差がある地域に成育する樹木には、1年ごとに年輪ができる。年輪にはその年の樹木の歴史が刻みこまれている。つまり木目は幾星霜の風雪に耐えた木の履歴書である(⑦)。
 「障子の両側の縦の桟木(さんぎ)が親桟ですが、その外側になる面を『見付け』、内側になる面を『見込み』といい、上桟、中桟、下桟(敷居を擦(す)るから擦り桟)、においても同じです(写真3-1-20参照)。建具の場合は、必ず柾目が通った面を見付けに回し、木目が粗い面を見込みに回します。さらに、木の裏と表では、必ず木裏を表面に出して使います。これを逆に使ったり、逆木(さかぎ)に使ったりするのは職人とは言えません。建具の素材は以前は、素性の良い木を選んで、元玉(もとたま)(元口から所定の長さに切断した丸太)か2番玉を原木(丸太)で購入して製材していたのです。選んだつもりでも木によっては『あて』といって使い物にならない部分が出てきたりします。あては硬くて細工しにくく、狂いやすいのです。このあての部分を避けて木取りをするのが、製材工のこつです。原木で買うのは樹齢100年以上のヒノキの大木ですが、原木の素性は、大体は産地の山で判断します。それでも、二つ割りにすると節が出たり、あてが出たり、芯や『しらた(辺材部)』が多かったりすることもあります。建具用材には、無節で年輪の込んだものしか使えないのです。終戦後に植林されたものは、節が出て使えないため、日本産のヒノキ材が少なくなり、台湾産、北米産材、さらに中国産材などが多く、名前を覚えられないような材が入ってきています。
 現在は建具用材は、業者が1寸1分に製材にした『寸桟(すんさん)』(1寸角の桟木専用として2面柾に製材してある材)を卸にきます。現物を見て仕入れるので間違いはないのですが、以前のように丸太で買い、製材する楽しみがなくなりました。四つ割りにして目が込んだ無節だったりすると、しめたもので、最高の寸桟が大量に手に入りもうかったものでした。反対に節や、あてが出てきてがっかりすることもありました。とにかく原木を割ってみるのが楽しみでした。
 乾燥した良質の寸桟は、手挽(び)きで小割りをしていたのです。さらに小割りして障子の子桟にするのですが、『見付け』に柾目が出るように、手鋸でひき割っていきますが、今は機械割りです。素性の良い木ほど割りやすく、悪いものほど硬くて割りにくいのです。
 この小割りの仕事が子桟の木取りで、一人役で障子2枚分の桟木を挽くことができます。桟木にして3、40本くらいでしょうか。ここからの仕上げが大変な仕事で、作業台の上で手鉋(かんな)掛けをしてまっすぐに仕上げます。鉋には荒・中・仕上げ・長台(刃の台が長く超仕上げ用)があり、これを使い分けて桟木に削ります。1寸角の桟木は、最初に相対する見付けの2面を差し金で直角を出しながら削り、次いで見込みの2面を正確な直角に仕上げていきます。」

 (ウ)隠された小技

 「建具の木組みに関しては釘(くぎ)を使いません。すべてほぞ組み(*13)によります。その接着にはおし糊(のり)(飯粒をつぶして練った糊)を使います。このおし糊つくりも弟子の役目でしたが、麦粒が入るとつぶれんので、米粒をよるのに苦労したものです。これが、今でいう木工用のボンド(接着剤)に当たります。
 建具が入る敷居の幅は普通3寸、両側に6分の余裕を取り、その内側に7分幅の溝を2本彫ると、中央に4分の余裕が残りますが、これを四・七の溝といいます。この溝を戸桟(下桟)が走るのですが、親桟の硬い木口が敷居を走ると、桟と敷居の木目の方向(繊維方向)が違うので敷居がちびて(摩耗して)しまい、走りも悪いので、敷居がサクラ材の場合はサクラの『滑り』(写真3-1-21参照)を、木の方向を揃(そろ)えて戸桟の両端に埋め込むのです。ヒノキの敷居にはヒノキの滑りを埋め、親桟の木口を隠し、すこうし高めにしておきます。この埋め方は釘を打ったらいかんので、ちょっとした小技が要るのですが、今はこんな隠された小技もなくなり、プラスチックの滑りを埋め込み、ボンドではりつけるようです。
 古い家には、座敷と居間を仕切る建具に『まいら戸』という板戸がありましたが、これは薄い板を縦に張って子桟に止めたものですが、座敷側をふすま、居間側を板戸風にすることもありました。高級なまいら戸には漆塗りのもの、子桟の木組みを模様入りや、透し彫りにしたものなどもあったのです。
 建具職は小物の細工ですから、大工職ほど差し金を使いません。むしろ、建具の木づくり用には、差し金の物差しの部分を短くして肉厚にした『巻き金』を使うことが多く、それでことが足りるのです。1寸角の桟木を精密に切断する直角出しの線引きなどには、安定性があって使いやすいのです。この場合には、相対する面から線引きをしますが、肉厚のため内角を材面にあてたとき正しい直角を出しやすいのです。先人はその都度、使いやすい道具を考え出して使っていたのです。しかも、内直角の頂点にわずかに隙間(すきま)があるのは、角にほこりや木屑が、付着して詰まってきて極くわずかながら直角が狂ってくるのを避けるための工夫です。建具の木組みにとって直角が全ての基本ですから、ただ単なる小さい隙間ですが、巻き金に隠された先人の技ともいえるのです。線引きは全て『白(しら)書きまたは白罫(しら)びき』という専用の道具を使います。大工仕事(枠組み)で、5厘(1厘は約0.3mm)から1分くらいのくるい(誤差)は、だいたいおさまる(許容できる)。しかし、精密を要する建具の中桟の組み手や箱物などは、とてもおさまらないので、刃物で筋をつけ、それを頼りに仕事をすることになる。白書きは、1本のものと、2本の平行線をひく2丁白書きとがあり、刃先が鈍角にできている線引き専用の刃物で、他のものでは代用できません。白書きの刃を巻き金に当てて線引きをするので、物差しの直線の縁がちびてきますが、その時は砥石でまっすぐに戻してやるのです。」

 (エ)木肌の手ざわり

 われわれは、木の香も新しい白木の肌を好む。さらに、時がたてばやがて灰色にくすんで来る木肌を、こんどは「さび」といった独特の見方の対象にして別の立場から愛でている。さらにまた、木肌の魅力を生かす技とセンス、鑿の冴(さ)えによって、美意識は一層高められることになる。木は単なる材料というよりも、銘木のように美術品として取り扱われ、一般の用材の中にもその考えが入ってくるため、木に対する評価は理性よりも感情が優先するのである(⑦)。
 「木づくりの建具の種類は数多いが、一番難しく年季の要るのは、やはり、格子戸など木組み戸でしょうか。だんだんと少なくはなってきたが、今でも数寄屋造りの家などには用いられています。次いで、杢(もく)(木目)を生かしたケヤキ板などをはめ込んだ洋間の開き戸(扉)なども手間の要る建具です。和風の家の玄関は必ずと言っていいくらい『格子戸をくぐり抜け…』の歌で有名になった格子戸が入っていました。一見同じような格子戸にもいろいろな木組みがあります。しかも、1本の釘も使うことなく、隠れたところに様々な手間がかけられているのです。いい仕事をするには、いい素材を選ぶことと、見えないところに手間をかけ念入りな仕上げをすることです。今でも古い民家の年季の入った格子戸やまいら戸などは、愛着があるのでしょうか、復元を依頼されたりします。古いものほど実に念の入ったいい仕事がしてあり、頭が下がる思いです(写真3-1-22参照)。本当にいい素材というのは、目合い(年輪の混み具合と木目の通り具合)と色合いで決まります。最高の建具は、1本の木から取った材を使って、その家のすべての建具を組むことです。ただ残念なのは、いい素材がだんだんと手に入りにくくなってきたことです。
 今ではつくることがなくなった雨戸などは、弟子が最初につくらされる建具です。雨戸は軽くするためスギの薄板を真鍮(しんちゅう)の釘(くぎ)で張り付けます。ヒノキは硬いので使いません。スギ材も素性の良いものでないと、雨にぬれると反りくり返って、開け閉めができなくなることがあります。硬い木が雨にぬれると、膨れて、打ってあった釘を一緒に持ち上げてしまう。天気になって乾くと木は元に戻(もど)りますが、浮き上がった釘はそのまま残しておく(元に戻らない)。次の雨でまたその釘が持ち上げられ、木の戻りにまた、そこへ残しておく。これが繰り返されると、鉄釘はさびついてしまっているので、木と同じに膨れて浮き上がっても元へ戻るが、真鍮の釘は自然と抜け落ちてしまう。それで雨戸は真鍮の頭の丸い釘を使って、軟らかいスギ板を張ったのです。鉄の釘を使うと浮きはしないが、古くなるにつれて鉄さびが染みになるので、よい雨戸には使用しません。
 年季が明けて新居浜に帰り、最初の数年は建具大工として勤め職人でした。ここに木工所を開いて30年余りになります。お陰様で、いつも手が回らないほど忙しく仕事をさしてもらいました。最も忙しかったのは、あちこちで木造の学校が建築された昭和30年代の半ばころでした。机、椅子、窓などあらゆる大量の建具などが木づくりでしたので、連日連夜の夜業(よなべ)仕事でした。その後、住宅様式が変わって、昭和40年(1965年)過ぎに鉄サッシュの建具がぼつぼつと出回り、次に気密性重視のアルミサッシュの建具が普及していったのです。くらしの利便性から、室内装飾も新建材が至る所に使われるようになり、地域の風土に合った木造の家や、受け継がれてきた土壁やまいら戸、軟らかい光を取り入れる障子なども少なくなってきています。ガラス障子戸の滑りや戸車、蝶番(ちょうつがい)(*14)などもプラスチック製が出回り、音がしなくなった反面、懐かしい格子戸の音も聞こえなくなり、木肌の手触りというか、ぬくもりを感じることが少なくなった気がしてなりません。」


*10:天井と鴨居の間に採光・通風・装飾用に、竹の櫛、格子、透し彫り、丸彫りなどの彫刻や木組を施した板を取り付けて
  ある部分、出入口の上の明かり取りなどもいう。
*11:筬というのは機織の小道具。縦の桟を細かく入れ、横桟を上下に各一筋、中央に三筋ほど入れた欄間を言う。
*12:社寺建築で荷重を支えるための部材の下方が開いて、蟇(カエル)の股のような形をしているから言うが、今では装飾
  用となっている。
*13:2部材を接合するとき、一方に突起のほぞをつくり、他方にほぞ穴をうがって両方を合わせることをいう。
*14:扉などに取り付けて自由に開閉のできる金具のこと。

写真3-1-14 透し彫り(上)と木組み(下)の欄間

写真3-1-14 透し彫り(上)と木組み(下)の欄間

一般住宅用の既製品。平成9年11月撮影

写真3-1-15 木彫師の使う丸鑿

写真3-1-15 木彫師の使う丸鑿

丸鑿(上)と裏丸鑿(下)の一部。平成9年7月撮影

写真3-1-18 拝高神社の拝殿

写真3-1-18 拝高神社の拝殿

唐破風造りの懸魚に鳳凰、桁隠(けたかく)しに鶴(左)・亀(右)、虹梁に唐草が配されている。**作。平成10年1月撮影

写真3-1-19 木工所内部の作業台と自動鉋盤

写真3-1-19 木工所内部の作業台と自動鉋盤

平成9年7月撮影

写真3-1-20 雪見障子(見込み面)

写真3-1-20 雪見障子(見込み面)

下部の枠に透明ガラスが入り、障子枠が上下できる。平成9年7月撮影

写真3-1-21 建具に隠された小技

写真3-1-21 建具に隠された小技

左から障子のすべり、ガラスの戸の戸車、ふすまの下桟(敷居をすべる部)が変色している。平成10年2月撮影

写真3-1-22 新しく復元された木組み(格子)戸

写真3-1-22 新しく復元された木組み(格子)戸

平成9年7月撮影