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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)やちゃら編みと文人染め

 ア 松山地方の竹工芸品

 **さん(松山市日之出町 昭和16年生まれ 56歳)
 松山地方の竹細工の歴史は古く、聖徳太子が推古4年(596年)道後温泉に行啓(ぎょうけい)した際、付近に竹林が多いのを見て、民人に竹の編み組みの方法を教えたのが始まりと伝承されている。竹工芸品は、藩政時代の初期に三津浜(松山市)において発達したといわれている。明治に入ってからは、旧松山藩士の中に竹細工に生計の活路を求める者も多く、明治末期には、地域産業として城下町周辺から道後(松山市)地域に普及していったようである。
 製作技法の特徴は、型を使わないで編む「宙(ちゅう)編み」である。目の粗い編み方で大きな形になるため、動的な点が魅力である。なかでも不規則なパターンで自由に編む「やちゃら(やたら)編み」(「みだれ編み」ともいう)を得意としている。
 渋めの茶褐色に染めて仕上げるのも松山地方独特で、この技法は「文人染め」と呼ばれる。こうしてできた製品を「黒もの」といい、花籠・衣装籠・書類入れ籠・茶道具類などの工芸品がつくられている。
 **さんは、愛媛で最初の竹工芸一級技能士の一人で、製造卸業の2代目であり、松山竹製品協同組合理事長でもある。職人として、また経営者として業界の内情に精通している**さんに、竹工芸品の歴史や作業工程、松山地方の竹製品業界の現況や将来の見通しなどについて語ってもらった。

 (ア)2代目として

 「竹工芸一級技能士の検定は昭和55年(1980年)に高知県まで受検に行って、愛媛県内で初めて資格を得た。その時、愛媛から行って、合格した仲間は4名だった。
 わたしの父は、昭和23年(1948年)から花籠を主体として製造卸業を始めていたので、わたしは昭和35年(1960年)4月に高校を卒業してから、父の元で家業を手伝いながら、製作技術を修業した。職人が問屋を兼業しているのは、この業界ではそんなに珍しいことではない。
 松山の竹製品の第1期黄金時代は、大正から昭和の初期にかけてで、輸出によって業界は大きくなっていった。第二次世界大戦後はものすごくよく売れよって、そのころが第2期黄金時代であった。当時は、物資がなかったから何をつくってもどんどん売れた。その時期に商売気を出して、商売を大きくする気持ちがあればよかったが、父は買いに来る人にだけ売ればよいという商売をしていた。その上、職人気質だったから、大阪あたりの問屋には買いたたかれていたらしい。
 ところが、わたしの代になるころには父の商売が認められていて、**の製品は安くて良いという信用ができていた。だから、わたしの商売はやりやすかった。
 現在、松山市内の問屋業は3軒で、職人の数は30人そこそこ、また何かの形で竹製品業界にかかわりのある者は5、60人である。職人は、3軒の問屋と取り引きしている者もいれば、1軒の問屋としか取り引きしない者もいる。」

 (イ)問屋の役割

 「問屋の役割は、作る立場と売る立場の接点になっていくことである。京都などの問屋の注文を受けて、技術的・単価的につくることが可能かどうかの判断をしていくことになる。その点では自分が職人であるが故に、判断が即座にできて都合が良い場合と悪い場合がある。
 わたしのところは花籠が主体であるが、製造工程は原竹のさらし(乾式と湿式がある)、切断と縦割り、ひごづくり(写真2-4-2参照)、編み組み・籐(とう)かがり、漂白、染色・磨き・塗装、ほこり付け(侘(わび)・寂(さび)をだす技法)がある。高級品では、職人さん自身がそれぞれ製作する作品に合わせて、切断と縦割り、ひごづくりのそれぞれを刃物を使って手作業で行い、編み組みは各種の編み組み方法と松山地方独特の『やちゃら編み』という特徴のある技法をミックスして用いて、『文人染め(黒もの)』と呼ばれる染色・磨き・塗装とほこり付け(液体に浸す方法と吹き付けの方法)の技法が施される。作品に銘をいれるような細かい仕事もある。
 竹細工は、元々は自然のままの竹で、笊(ざる)とか箕(み)(穀物と異物を振り分ける道具)といった実用品としてつくられ始めたと思われるが、それがどうして染められるようになったのか、また松山が染色の創作地なのかどうかは分からない。
 最初は、例えば灰でふいてきれいに磨いたさらし竹のような素材で、花籠などをつくりだしたのではないかと思う。そして、その作品が座敷で使われるようになって、青竹でつくろうと、さらし竹でつくろうと、結局座敷へ上がったものがお茶の道具などとして、黒ものと呼ばれるようになったのではなかろうか。その中でも、松山地方の染め方は茶褐色に染める独特なものだが、そのように染色した方が、花を生ける器として花を引き立たせるためのコントラストが良かったんだと思う。器を殺して花を生かすという点で、すばらしい技法だったのだろう。それで染め始めて、ほこり付けをして古びた感じを出し、花籠自体を骨董(こっとう)品化するようにしたものだと思う。作品によって染色の度合いを加減をしている。染料は昔からのものを使っている。
 工芸品には3、4年生のマダケがよい。マダケの外に、ハチクやトラフチク(高知県産)も使う。昔は、材料の竹については竹屋と職人さんの間だけで取り引きが行われ、問屋はタッチしなかった。ところが昭和30年代の後半くらいから、ここらあたりの竹に花が咲いて枯死してしまった。それで需要と供給の関係から竹の値段がうなぎ登りに高くなって、1年そこそこでものすごく値上がりした。そのため、問屋が県外の方まで買い付けに行った。材料不足は昭和49、50年(1974、75年)がピークだった。それ以来、問屋が竹をあてがわないと、職人さんだけでは竹をよう集めんようになってきた。
 竹不足の昭和49年ころ、父と一緒に高知県へ買い付けに行った。そこで、『こんな竹は使えまいか。』と言われて、トラフチクを見せられた。『こんな竹てて、これで籠つくったらすごいものができるぞよ。』と言うて、すぐ出してもらった。折しもオイルショックと重なって、この竹のお陰で世の中の物価の上昇についていくことができた。それだけ高く売れた。そんなことがなかったらこの竹業界はもたなかったかもしれない。
 油抜きをすることをさらしと言っているわけですが、トラフチクは外の竹に比べて油が多いので、火であぶってさらす。この方法を乾式というわけです。生の時、山に生えている時には、表皮に白い粉がふいているような状態です。1、2年目の竹には模様がなく、3年目にはとらふ(虎斑)になる。それを切れば良いわけなんですが、最近は高年齢化もあって、竹林の管理が十分に行き届かず品質が落ちています。
 問屋によって、得意とする製品は異なっています。うちは花籠が中心ですが、他の問屋さんには茶道具を得意としているところもあります。」

 (ウ)松山の製品の特色

 「松山の竹籠の編み方の特色として、『やちゃら編み』というのがあります(写真2-4-4参照)。基本的な技法と自由で独創的な発想の技法とが、一つの作品の中に生きているのが松山の『やちゃら編み』と呼ばれる作品の特徴です。他の産地の職人さんがまねのできない技法なんですよね。
 松山の製品は豪放で大きくて安いから、価格としては中級品から低級品なんですね。しかし品物が安いからといって、松山の職人の技術レベルが低いということではありません。技術的にはいろいろと難しい技法を駆使しながらも、価格の安い製品をつくるところに、松山の職人さんが持つ技術のすばらしさがあります。多くの人に使ってもらえる商品をつくる職人さんが多いのですが、高級な商品を主につくっている職人さんもいます。芸術的な値打ちのあるものをどのように創作していくかという工夫が加わってくると、一味変わった抜きん出た高級品ができてくるんですがね。竹工芸品の場合は、自分で描いたイメージどおりの物が出来上がった時点で、100%の作品の完成であって、つくった後で、熱とか薬品の関係で思いがけない付加価値が出て来ることは絶対にありませんからね。
 ねらいどおりの作品がつくれるということは、大した技術なんです。そして、松山の職人さんのねらいが、できるだけ多くの人々に楽しんでもらえる作品をつくろうというところにあるわけですから、それはそれで価値の高いことだと思います。
 全国的な視野でいえば、最近この竹工芸の世界に入って来る人は、作家志向の若者が多いのではないでしょうか。
 松山の竹工芸業界の将来については、後継者不足とか、職人さんの高齢化の問題とか、いろいろ難問を抱えています。しかし、日本に竹がある限り日本人の心は、輸入品などでは満たされないものがあると思います。伝統の技術へのこだわりの気持ち、値段にかかわりなく自分だけが持つものといった心情があると思うのです。わたしの息子の時代には、インテリアの分野や建築様式の中での竹の使用など、新しい分野が開けて来て必ず生き残っていくと思っています。」

 イ 得意の作品は茶道具

 **さん(松山市畑寺 大正14年生まれ 72歳)
 愛媛で最初の竹工芸一級技能士の一人であり、また昭和59年度には県指定の伝統工芸士に認定され、本県の竹工芸界を代表する職人として、繊細な編み組みの作品を得意とし、特に御所籠(ごしょかご)(茶道具を入れておく蓋(ふた)のついた箱のような道具)の製作を専門にしている**さんに聞いた。
 「わたしは昭和18年(1943年)に志願兵として入隊し、昭和23年にシベリア抑留から解放されて、ようやく帰ってきました。よく生きて帰ったと思うくらい、身体はずたずたになっていました。半年ほど体力を養って就職をしようと考えていましたが、当時は非常に就職難で、働き口がありませんでした。それで、父親が竹工芸品をつくっていましたので、見よう見まねで竹工芸品づくりを始めました。半年くらいやってみまして、どうにかこうにかものになるような感じになってきました。だから、わたしには師匠はおりません。それでも、就職口があれば就職はしたいと考えていましたが、人減らしの会社ばかりで就職はできず、結局はこの道一筋になりました。見よう見まねと言いましても、マダケの材質の見分け方や基本的な細工の仕方については、父から習いました。竹細工を始めて3年くらいして、結婚して独立しました。まあ、一人前になったというのですかね。皆さん大体そうですよ。現在、わたしの最も得意とする作品は茶道具です。一応はどんなものでもつくりますが、現在は茶道具専門でやっています。
 竹細工はひごづくりから始まります。作品をつくる上で最も大切なことは、いかに良いひごをつくるかだとわたしは思います。ひごがまずいといい作品はできんですね。ひごづくりは一番肝心なことであり、一番難しいことですね。ですから、竹選びは大切です。細工に使うマダケは、竹を取り扱う業者から選んで購入していたのですが、現在は問屋さんが調達したものを職人は使っています。
 職人は初心者でも大ベテランでも、仕事はひごづくりから始めます。編むのは案外簡単なんですよ。編む時には、何をつくるか頭の中に入っていますからね。こうやってああやって編むとか、寸法も全部頭に入っていますからね。わたしの場合は、茶道具の御所籠を専門につくっていますが、茶道具は絶対に竹製品でなくてはならないんだそうで、プラスチック製品などは駄目だそうです。そのひごづくりが大変難しいですわ。ひごの厚みの加減をみるのは、長年の経験による手加減です。これはごつい、これは薄すぎたというのが、手でちょっと触っただけで分かるんです。素人が触って、『やおい(柔らかい)・かたい言うたって分からん』というようなのが、わたしには手触りですぐ分かるのです。作品の善し悪し、出来栄えはひごづくりの段階で決まってくると言ってもいいわけです。固い竹もあれば、柔らかい竹もあるわけですからね。竹をよる(選ぶ)眼力が重要ですね。物づくりには共通して、材料の吟味と基礎基本の技術が最も大切だと思います。
 ひごづくりの秘けつは道具です。ひごの厚みを合わせる道具がちゃんとあるんです。大分県別府市あたりでは、良く使っている道具なんですが、道具屋がつくったものです。松山でその道具を使っている職人は、わたし以外にはおらんと思います。竹工芸は、現在では別府が規模も大きく、職人さんも大勢います。
 わたしがつくっている御所籠という茶道具は、昔からずっと続いているものなんです。形も大きさも何も少しも変わらんのです。京都が本場なんですが、今はもう京都には職人さんがいなくなって、つくる人がいないようです。
 御所籠づくりのわたしの師匠というのはおりません。自分で見本をみて研究して始めたわけです。大きさが決まっていますから、寸法をきちんと測ります。ひごの本数も決まっていますから、1本多くても少なくてもいけないわけです。編み方は網代(あじろ)編み(写真2-4-7参照)というのですが、目をびしっと詰めて編んでいきます。ひごの幅が髪の毛程広かっても狭かっても大きさが変わってきますから、こればかりは目見当や手加減ではいきません。ノギスを使ってきちんと測ります。見本と寸分違わないものをつくるためには、そのようにしているのです。まるで精密機械の製作のようかもしれません。伝統の工芸品をつくるのに、電子工学の機械をつくるような感じですから、相当の神経を使いますね。でも長年やっていますから慣れてしまっているとも言えますが、手先が覚えているわけです。
 職人の日課は、その日の自分のつくる作品に必要な、ひごづくりから始まります。経験の長い短いは関係ありません。わたしのつくっている御所籠は、1日かかって1個しかできません。それも8時間の作業では無理ですね。10時間くらいかかっていると思います。だからかなり高価なものになります。
 わたしは、竹工芸品の製造元へ職人として勤めています。独立してやっていましたが、昭和35年(1960年)くらいから勤めのかたちをとっています。職人の場合は、決められた労働時間の枠の中で作品をつくっていくというのは、ちょっとなじまないところがありますね。製作の途中で中断することはできませんし、作品づくりに取り掛かる前には、気力を充実させる時間も必要ですからね。
 職人の場合は、作品の量と質で収入が左右されますし、決して賃金が高い職種ではありません。職人の技術のレベルには差もありますが、賃金の歩合は皆同じです。したがって伝統工芸士としての技術料は賃金には入っていません。わたしの場合、自分の作品には銘を入れています。わたしの銘は『竹山』といいます。一級技能士の資格は持っていますが、あまりメリットはありません。無形文化財にでもなれば違ってくるでしょうがね。別府にはかつて人間国宝の方がいましたが、亡くなられました。
 わたしは、白生地の作品を問屋へ出します。問屋はその作品を釜(かま)に入れて染色します。染色には染色専門の職人がおります。さらに艶(つや)出しをしたり、ほこり付けをして製品に仕上げるわけです。それで、松山の製品は黒ものと呼ばれているわけです。
 後継者は今のところおりません。竹工芸の職人の収入は少なく、細かい仕事でしかも1日座りっぱなしですからね。若い人は続きません。収入でもが特別に良ければまた状況は変わるかもしれませんが。せんだって、若い人が弟子にしてくれと言って入って来たんですが、弟子入りしたばかりのときは何もできませんから、2、3か月でやめてしまいました。外から見ると、座って手だけ動かしておればよいから楽に見えるのかもしれませんが、1日中ひざを組んで同じ姿勢で作業をするというのは、相当の重労働ですよ。基礎基本を覚えるだけで、最低でも1年以上はかかりますから、辛抱ができないのだと思います。一つの作品しかできないのでは職人になれませんから、一通り何でもできるようになるまでには、4、5年は経験せんといけません。編み方をはじめとして、仕事の種類が多いですからね。
 いろんな人が、いろんな仕事を言うてきます。変わったものでは、渓流釣りのときの魚籠(びく)をつくってくれというのがありました。つくらんわけではないが、相当高いものになるぞなと言うのですが、それでもつくってくれと言う人もおります。
 花籠も時にはつくりますが、この場合は、ノギスを使ってひごづくりをするような必要はありません。これはどうにでもなります。花籠にもぴんからきりまであります。
 普通一般にいうみだれ編みを、松山ではやちゃら編みと言いますが、これなどはあらくたい(大ざっぱ)ですね。ミリ単位を要求されるわけではなく、ひごの幅が少々広くても狭くてもいいし、大きさもぴしっと決まっているわけではありません。基本的なことはありますが、発想は自由ですからね。」

 ウ 花籠づくりを得意として

 **さん(松山市日之出町 昭和11年生まれ 61歳)
 **さん・**さんとともに愛媛県で最初の竹工芸一級技能士となり、平成8年度の県指定の伝統工芸士で、業界を代表する職人として花籠の製作を最も得意とする**さんに、修業時代、現況、生きざまなどについて語ってもらった。
 「わたしが生まれ育ったこの町には、子供のころには竹製品をつくっている家が4、50軒ありました。現在でもまだ10軒くらいはあります。だから小さいころから職人さんの作業を見たり、いろいろな手伝いを通して竹に触っていました。それで中学校を卒業すると、当然のことのように竹製品を扱っている人のところへ弟子入りしました。昭和26年(1951年)のことです。**さんの伯父さんが親方でした。
 修業の最初は竹割りです。そして編み方の手伝いをします。染色から製品の発送の荷造りの手伝いまで何でもやらされました。走り使いもさせられました。わたしは問屋さんへ修業に入りましたが、もし職人さんに弟子入りしていれば修業の仕方は違っていたと思います。4年間修業して、独立しました。
 作業の手順は竹選び、ひごづくりの順に進みます。製品が完成すると次の製品のためのひごづくりに取り掛かります。わたしは1日1日を単位として仕事はしませんので、朝ひごをつくることもあれば、昼過ぎのこともあり、夕方のこともあるわけです。自分だけでする仕事ですから、気ままに思いつくままに時間は使っています。
 製品が出来上がりますと問屋へ渡します。それから先、そのままで販売されるのか、染色されるのか、さらされるのか、そういったことはすべて問屋任せです。職人の側から注文をつけることはありません。
 製作過程でのポイントは竹ごしらえですね。ひごづくりです。これを間違えると良い製品はできません。薄すぎてもごつすぎても、どちらにしてもいけません。薄すぎると製品がじゃくい(やわらかい)ものになりますし、ごついと編めません。
 問屋から注文の製品の見本が来たとき、ひごの幅はノギスで測れば分かりますが、厚みは分かりません。ひごの厚みを適切につくることが一番難しいですね。ひごがきれいにできれば、作品もきれいにできます。
 修業の時に、手取り足取りで技術を教えてくれた人はいませんで、すべて見よう見まねで自分で盗んだものです。職人の世界はすべてそうだろうと思いますよ。毎日見ていますから自然に覚えてはいきます。
 製作に使う道具は、竹割り包丁・竹磨き・鋏(はさみ)・鋸(のこぎり)・幅取りなどで、修業の時から一人前になっても変わりません(写真2-4-10参照)。
 収入は、修業している時は小遣いにちょっと毛がはえた程度ですが、独立しますと全然違ってきます。製品1個が幾らということで問屋に納めます。伝統工芸士だからと言って、製品の単価が上がるということはありません。しかし、つくる品物の種類が違って、以前よりも高度な技術を要するものにはなってきますね。
 わたしの場合、作品をつくるのを丁寧にすると言うか、手間をかけるほうなんですよ。そういう理由から、出来上がった物は値段が高くはなります。
 今得意にしてるというか、自然にそうなって来たんですが、『六つ目籠』と言うものを主につくっています。これは『六つ目編み』又は『かごめ編み』とも言いますが、マダケとトラフチク(高知県産)で編んでいます。染色もさらしもしません。1日かければ出来上ります。職人はわがままですし、わたしの場合は自分一人の世界ですから、気の向くままに仕事はやっています。この品物が得意になったというよりも、問屋の方が、このような品物をわたしのところへ回して来るようになるわけです。職人の技能のレベルに応じて、それにふさわしい品物を問屋が注文してくる仕組みになっているのです。
 弟子は取っていません。なり手もいないし、給料が出せません。後継者はいないですね。作品づくりは、いつも良い物をと心掛けているわけですが、常にそうなるとは限りません。でも会心の作品というような物が出来上がるときがあります。それが決まるのはやっぱり、竹ごしらえと材質によりますね。良い竹に出会うと竹ごしらえもしよい(やりやすい)ですし、楽です。その時には良い作品ができます。
 『六つ目籠』をつくりだしてから、相当に長いです。もう20年近くになりますかね。職人にはそれぞれ得意な分野があります。花籠師・四つ目師・網代師・ひごもの師とかに分かれていますからね。一人がいろいろな物をつくりますが、得意な分野というのはあるわけです。
 わたしは、ひごものもつくります。胴が煤(すす)竹でできている花籠です。囲炉裏(いろり)のある家の、何十年間かたった煤竹を素材に使っています。煤竹の場合は長く乾燥してもろくなっていますから、細いひごはつくれません。
 新作展やコンクール用に見本づくりはします。それが売れると問屋から注文が来て、この製品をつくってくれということになって、それをつくり続けることになるわけです。従って、職人は問屋任せです。自分がこれが好きだからと言うてはできないわけです。注文のある品物でないといけないのです。職人はそれぞれの問屋の専属のようになっています。あちこちの仕事をしていますと、継続して注文がないことが生じますからね。
 今、わたしのやっている仕事は、京都の問屋が注文して来た三角形の六つ目籠づくりです。花籠として編んでいたのですが、ホテルの料理の器に使うから改良してくれという注文が来ています。このように改良作品の場合もあるわけです。見本をつくって先方へ送っています。
 わたしの作品は、松山にはほとんどありません。京都とか別府辺りへよく出ているのではないでしょうか。自分の作品は自分で見ればすぐ分かります。
 今ではこの道一筋に来て良かったと思っていますが、以前はそうは思わなかったですね。ボーナスはないし、時間を詰めてやらないといけないので大変でした。
 結婚後しばらくして、仕事が暇な時期がありました。その時期にはもうやめようかと思いました。わたしの場合は、一定の籠ばかりやってきましたので、その注文がなくなり暇になったときに一番困ったのは、次は何をするかという問題にぶつかったことでした。
 新しい品物の注文が来たとき、その品物が今までにつくった経験のない場合、どうしても手間はかかるし、良い物ができないということで悩みました。その時期、一番苦労しました。結構長かったですね。結果的にはそんなことがあったために、何でもやらにゃあいかんということになりましてね、どんなものでもできだしたということにはなったのですが。同じ物ばかりつくっていると飽きて来ることもありますが、『六つ目籠』と言っても種類は沢山ありますから、今後も仕事は意欲を持って続けていきたいと思っています。」

写真2-4-2 竹ひごづくり

写真2-4-2 竹ひごづくり

トラフチクのひごづくり作業。手・足・刃物が一体となって動く。平成9年9月撮影

写真2-4-4 やちゃら編みの花籠

写真2-4-4 やちゃら編みの花籠

染色作業のために集められた各種の花籠。平成9年9月撮影

写真2-4-7 綱代編み

写真2-4-7 綱代編み

編み組みの基本型の一つ。平成9年11月撮影

写真2-4-10 竹細工で使用する道具の一部

写真2-4-10 竹細工で使用する道具の一部

平成9年12月撮影