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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)伝える技のかずかず

 ア 塗りを重ねる

 **さん(今治市桜井 昭和6年生まれ 66歳)
 **さんは漆器の製造卸しを営んでいる。**さんの父親は越智郡朝倉村の出身、親戚(しんせき)の漆器屋で修業した後、角物専門で独立した。昭和57年(1982年)に89歳で亡くなるまで、戦中戦後にわたって漆器店を経営してきた。**さんは2代目、昭和23年(1948年)中学校卒業以来、塗り(下地、上塗り)から加飾の前までの工程を修業した。昭和40年(1965年)にタオル製造業に転換したが、昭和50年からは漆器店経営に専念し、塗りを専門として、現在に至っている。えひめ伝統工芸士認定者である。**さんに塗りの工程やポイントについて語ってもらう。

 (ア)塗りの工程(⑦⑧)

 「塗りの段階は、下地(したじ)、上塗りよ。下地付けは最低2度するわけよ。下地師が上塗り師の所へ持ってくるときは、水研ぎしてきれいにして持ってくるんよ。
 下地漆というのは違うんだから。一番最初に漆の木から漆液を取って、これを遠心分離器で取ったんが生漆(きうるし)よ。これが下地漆よ。それから天日とか、電熱器で水分を取ってできたんが中塗り漆、それからもっと水分をどんどん取って(精製して透明度をよくし)、それに顔料、染料などを加えて呂色漆じゃの、色目漆じゃの、絵漆を作るんよ。透明度のええ漆で、色合わせの漆を作るわけ。うちらで採るのは、透明な漆のうちに『朱合(しゅあ)い漆』(透(すき)つや漆のこと)言うんがある。透明といっても飴(あめ)色よ。それと黒漆があるわけよ。それにつやのあるのと、ないのと、全つや、半つやなどいろいろある。漆は20種類くらいある。桜井で使うのは、黒漆と朱合い漆、下地漆、中塗り漆くらいじゃがね。」

   a 下地

 下地は塗りの前段階である。木肌を見せる塗り以外はすべて下地を施す。本堅地法は伝統技法で、工程が多く、接合部を表面に出さず丁寧に仕上げる方法である。

 〔準備〕
  地の粉下地(地の粉(*6)と生漆と米糊(こめのり)とを練り混ぜたもの)、錆(さび)下地(砥(と)の粉(*7)と生漆を練り混
 ぜたもの)を作る。
   ① 素地固め(下地つけと布着せ)
     素地のはぎ目や接合部をコクソ(うどん粉を漆に入れて粘らせ、木の粉を加え固くしたもの)で埋める。十分乾かし
    た後、素地に布(綿布、麻布)を糊漆ではり付ける。「実際問題としては、素地には、節があったり、割れがあったり
    するから、彫って埋めていくわけよ。」
   ② 下地塗り(下地あわせ)
     ひのきべらで地の粉下地を3回ほど塗っては乾かし、塗っては乾かす(地の粉づけ)。

 次に、錆(さび)下地を1回塗る(錆つけ)。乾いたら、中荒砥石で平らに水研ぎする。

   b 塗り

 〔準備〕
  漆の不純物を取り除くために吉野紙を用いて濾過(ろか)する。漆刷毛(はけ)を洗う。「漆濾(こ)すときには、吉野紙いうて
 薄い和紙、それへ渋で塗って固めたのを一番外側に2枚して、内側には6枚して濾すわけよ。それを2回繰り返す。ほこり、
 ごみが全部採れる。漆の粘いのを温めてよ。」
   ① 中塗りと炭研ぎ
     中塗り漆(無油黒漆)をかけ、乾燥させる。乾くと、ホオの木の炭で研ぎ、表面の凹凸をなくし、ほこりを洗い落と
    す。
   ② 上塗り
     上塗りには二つの技法がある。一つは、朱漆でも黒漆でも刷毛で塗り放しにして仕上げる。これを「塗り立て」、
    「花塗り」といい、桜井漆器の伝統的な技法である。
     もう一つは、「呂色仕上げ」の技法である。呂色漆(無油精製黒漆)を塗り重ねて乾固させた後、呂色炭(サルスベ
    リの木炭)で研ぎ出し、砥の粉と種油で練ったものを布につけて摺(す)り磨き、最後に砥の粉の細粉を直接指や手のひ
    らにつけ、油を摺り落としながら磨き上げる(胴摺り)。生漆を脱脂綿に含ませ拭きながら十分に漆を吸わせ、もんだ
    和紙に種油をつけ、こすりながら漆を落として磨く(摺り漆)。乾かした後、角粉(つのこ)(鹿(しか)の角の粉)でこ
    すり、油と残存する摺り漆を磨き落とす(呂色磨き)。この摺り漆と呂色磨きを2、3回繰り返す。なお、現在は角粉
    の代わりに自動車塗装用のつや出しコンパウンドを使用している。

   c 乾燥

 室(むろ)に入れて乾かす。塗ったままにしておくと、漆が下に垂れて漆の層がむらになる。むらになると縮みができる。そのために、以前は数分おきに裏返して防いだ。現在は自動回転乾燥器を使用している。

 (イ)塗りのポイント

 「塗りの乾くのが、8時間から12時間じゃわね。それが理想的じゃわい。夏は早く乾くんよ、冬は乾かんよ、それだけの設備せな。湿度と温度との。漆を買うときには、夏用と冬用と買うわけよ。今日の湿度はこのくらい、温度はこのくらいと目安を付けて、塗る前に混ぜて作るわけよ。時間のかかるんは構わんのよ。漆が乾いとるかどうか見るのは、漆の面に息を吹き当てたらね、乾いてなかったら息がかからん(くもらない)。乾いたら息がかかるわけ。
 ほこりやごみのないこと。上塗り師は、ほこりやごみを孔雀(くじゃく)の羽毛の根元で引っ掛けて取る。昔の職人は炭俵のカヤを削って使っていた。
 漆刷毛(*8)(写真2-3-4参照)でしたら、泡が立たん。漆で塗ったら、悪い刷毛で塗ると泡が立ってなかなか消えんのよ。太い髪の毛の刷毛では泡が消えん。漆は表面張力が強いから、なかなか消えん。この刷毛は毛が細かいんで、泡が消えよい。この固い毛の刷毛は、粘い漆のときに使う。そやけん、塗るんもなかなかよ。漆刷毛は、ちいとでも漆が残っとったら、刷毛が固うなる。全部種油染ましとるんよ。固まってしまったら後使えんようになる。刷毛掃除した後の漆の入った種油は、『付き溜(だ)め』言うて、今うちらは板戸、天井や柱などに塗ってる、これが全部そうよ。昔は桜井の家(漆器屋)は付き溜めを全部塗っとるよ、なんぼでもできるもん。」

 イ 花鳥風月を描く

 **さん(今治市長沢 昭和14年生まれ 58歳)
 **さんの父親は今治市旦(だん)の出身で、蒔絵師であった。**さんは蒔絵師2代目に当たる。父親は明治43年(1910年)生まれ、桜井の漆器製造業「飴(あめ)屋」に招へいされていた紀州蒔絵職人の弟子になった。桜井の蒔絵師は、この「飴屋」の系統が主流で、ほかに会津(あいづ)斎藤系の流れがあるという。彼は、年季明けの昭和3年(1928年)ころ、師匠を頼って紀州黒江に行き、やがて独立し、そこで所帯を持った。昭和20年(1945年)今治に戻り、昭和26年の秋、蒔絵師として再出発した。今治市浜桜井に住み、その後80歳くらいまで現役であった。
 **さんは、昭和29年(1954年)に中学校を卒業し、父親のもとで修業した後、紀州黒江に修業に出た。昭和38年に独立し、現在に至っている。えひめ伝統工芸士認定者である。**さんに、修業時代のことや蒔絵の工程について語ってもらう。

 (ア)修業時代のこと

 「うちらは、子供時代に手伝わされたろ。おやじが、『これやってろ』と言って、この段階踏んだ、この段階踏んだと順々にできる仕事をさせ、段階が上がってくるわけよね。絵にしても、木の葉の葉脈みたいなもんじゃったらね、『ちょっと失敗しとっても筆を葉っぱから出さんように引けよ』、と言うて筆線を引かしてくれるわけよ。葉脈はかなりあるけんね、親方がするんはうるさいんよ。梅なんかやったら、葉脈描くんは面倒かろ。ほやから弟子にね、『こうように描けよ』とぱっと渡しといて、弟子に『遅い』か、『早い』か、『もうちいと、丁寧に描かんかい』と言いもてね。見えんとこは金蒔いてしもうたら、あんまり目立たんけん。そやけん、弟子の時期があんまり長かって、親方になったときに苦労するんは、鶴(つる)の足や梅の枝の細い線をやらしてもろてないことよ。これには決めがないんよ。もう、めっそ(おおよそ)でやらにゃいかんのよ。良い蒔絵師になったら、十描いたら十、同じ枝振りで描く。弟子の間は、何か下にたどるものがないと、こんなとこ描けんやない。やり直しがきかないからね、すっすっとやらないかんから。
 中学卒業後は、しばらくおやじと一緒にやっとった。まあ、学校へ行かんようになっただけよ。中学のときは3時間しよったんが、日がな1日の10時間になったそれだけのことよ。このころは、安物、半日ローラー転がして、漆じゃないなんとかいう洋金混ぜて、直接描くやつをやっとった。しかし、やっぱしそれだけしか知らんいうことになるけん。世間一般にだれだれに師事するいうのは、その人が自分にないことを習いたいけん。おやじに『紀州でだれぞ紹介してくれ』と言うと、おやじは『どななんが習いたいんぞ』と言うんで、『もう安もん(物)の絵は飽くだけ描いとるんじゃけん、ちいとええ仕事もしとかなんだら、時代がどなになるやら分からんのじゃけんね。あれ描けんいうて、中途半端な半熟人じゃったらいかんけん』と言って、紀州へ修業に出た。
 そのころ、ほかの人は皆京都行ったり、輪島へ行ったりしてたね。でも、おやじは『桜井は、よそへ行って、ええ腕つけて帰って来た人は皆貧乏しとるんよ』と言う。親方が悪いんじゃけどね。親方が、『輪島と同じもんで、輪島より安う作れ』と言う。ほんなら、しわ寄せが職人にくるんよ。安いもの描かんといかんけん。『向こうに負けんだけのええもん描け、金なんぼでもやるけん』と言うなら、よそで修業してきてまだ勉強していかないかんけどね。
 昭和33年(1958年)、20歳の時に、まだ生きとったおやじの師匠を頼って紀州黒江に行き、厄介になったんよ。ほとんど代替わりのころで、この師匠は隠居がてらぼつぼつ仕事しよっただけじゃったけどね。そこは、大阪蒔絵じゃったんじゃけど、大阪に仕事がないようになって、紀州に出てしよったところじゃったわいね。
 行った当時、うちらは月5,000円で住み込みやったんよ。半熟人ぐらいのところで行っとったんよね。朝は6時から、晩は11時ごろまで仕事やけん。月に1日と15日の2日しか休めん。夜の12時にしまう銭湯には、しまいごろ行く。蒔絵師が一番遅いんじゃけん。行って帰って、寝るだけ。朝は紀州の茶がゆ、昼は飯炊いて白御飯、晩はそれのぬくめた残り物。家内中が忙しいけん、別に晩にごちそう作るじゃのいうことはない。茶がゆは、1斗(約18ℓ)のなべに米1合(約0.18ℓ)か2合じゃけんね、10人ぐらいが待ちよるんよ。混ぜてくれなんだら、湯だけよね。体が、百姓するより、腹が減るようにできとる。
 昭和36年から2年ほど、流れは会津斎藤系(蒔絵師)の人の弟子になった。桜井では指折りの手は早いし、絵は上手じゃった。」

 (イ)蒔絵師「修峰(しゅうほう)」

 「昭和38年に独立したが、仕事がないので10年ぐらいへら(別)の仕事をした。10年景気が良かったら、10年景気が悪いけんね。波が大きいけんな。漆器はいわゆる生活必需品じゃないから。世の中だいぶ景気が出てきたぞいうて、後追うて漆器の景気が出てきて、駄目になるんも早うて。どうして弟子採らんのぞ言われても、弟子入れたら食わしてやらないかん。弟子に得意先分けてやるいうたら、わいの仕事があるとこならええが。昔から伝統工芸いうのは、10人の弟子を篩(ふるい)にかけて、自分の後継ぎ一人しかこしらえんのが残ってきとるんよね、かえって。よそに教えて増え過ぎたら、ワーとしてみんなが安売り合いこしょう。
 昭和50年(1975年)ごろから再出発した。蒔絵を続けるんじゃったら、まあ、これが最後じゃないかと思うた。おやじがまだできよる間に、ちいと(少しは)うちも手を慣らさんと、なんぼ(いくら)小さい時分に手を入れとるけん、忘れとりはせんけど、手が付いてくるかこんかが問題じゃけん。で、半年くらいおやじと一緒にしたわい。その時から、『修峰』の号となった。それまではおやじの銘しか入れよらなんだ。『修』は自分の名、『峰』は、おやじの兄弟子の号『光峰』にあやかって、1字もらった。銘を付けるのは、やっぱし商品価値も在るしね。」

 (ウ)蒔絵制作の工程(⑦⑧)

 蒔絵は漆器加飾の中心となる技術である。多彩な技法があるが、ここでは桜井漆器の主流である平蒔絵を取り上げ、その工程を要約する。なお、螺鈿(青貝)の技法が含まれている。
 ① 置目(おきめ)取り
   まず絵柄を墨で美濃紙に写し取り、その裏面に、根朱筆(ねじふで)(*9)で絵漆を用いて輪郭線をなぞる。この紙を器面
  に貼(は)り、指頭や竹の皮でこすって、絵柄を転写する。
   「置目というたら、下絵・デッサンじゃな。デッサンをデッサンだけで済まさずに、必ず紙へ写しを取るんよ。次は漆
  で、置目をとめる。」
 ② 螺鈿(らでん)(青貝)を貼(は)り付ける
   「昔は卵の白身で、焼き鏝(こて)で焼き付けよった。今は接着剤がええけん、京都あたりも皆使うらしいね。薄青貝を、
  型当てて縫い針で形に切るんよ(写真2-3-5参照)。ガラスみたいに固うないけん、ちょっと傷入れたら割れる。線が汚
  かったら、はさみで修正する。ええもんになったら、ペーパーやすり当てて丸みをつける。螺鈿を一番下に貼らないかんけ
  んね。ええ物になったら、素地に埋め込むやつもあるけんね。塗る前に螺鈿を貼っといて、バーと塗師が塗ってきたやつ
  を、いらん部分、上にかかっとる部分を小刀で取ってね、青を出す。そうやったら、引っ掛からんようになろ。ただ貼った
  だけやったら、引っ掛かるけんね。痛みやすいし、のく場合がある。卵でやったときには、カチーンと物当てたら、外れた
  とかね。漆も割合引っ付かんね。いうんはね、漆は縁やかは引っ付くんじゃが、中が膿(う)む(回りが乾き、中が乾かない
  さま)んじゃがね。空気に触れてないけん。作家とかは、手間掛けても手間賃が出とるけん、貝の両面に貝と貼るとこへ漆
  付けといて、『加減』言うて7割程度乾いてから引っ付ける。職人は、そんなもの手間暇掛けて待てんやろ。そやけんどう
  しても、生、貼るわけよ、そしたら、のきやすいわい。」
 ③ 地描(じが)き
   地描き用の筆(ネコの毛で作った卯毛(うもう)筆またはキツネの毛で作った狐毛(こもう)筆)を用い、絵漆または色漆
  で、置目(下絵)に沿って絵をなぞる。
 ④ 下上(したあ)げ
   丸筆を用い、絵漆で中つけといって、やや肉持ちよく文様を描く。
   「下上げというのは、肉を持てる漆で膨らみを持たす。高蒔絵は漆で下をこしらえとる。錫(すず)でこしらえた場合は
  『錫上げ』、錆(さび)でこしらえた場合は『錆上げ』、厚みの純度が違ってくるんよ。錆上げが一番盛れるわけよ。堅いん
  が錫上げとね。『炭粉(すみこ)上げ』言うんが、京都の一番最高の技術やけど、今度は肉取っていくんじゃがね。ここは屋
  根が立っとって傾斜つければ金の照りもええし、家とか花びらとかでも反ったと言って曲つける。炭粉を蒔いといては、炭
  でいらんとこをちびす(研ぐ)、肉取りする。そじゃけん気が遠うになる。うちらは1週間工程じゃけんね。炭粉上げで花
  びら取ろう思うたら、3か月から4か月かかる。そやけん、上は同じように見えるけど、下にどんだけ手を掛けとるかが、
  ええ蒔絵よ。仕事によってどんなにでも手を掛けよう思うたら、手を掛けられる。」
 ⑤ 粉蒔(ふんま)き(金粉入れ)
   「金を接着するための薄く漆に顔料を混ぜたものを、薄く伸ばして、むらがないように塗る。それの80%ぐらい乾いた
  ところへ、真綿や鹿(しか)皮で金粉を蒔き付着させる。ようけ蒔くときは、普通の綿を使うけんね。」
 ⑥ 粉固め(室(むろ)入れ)
   高めの温度の乾燥風呂に入れて乾かす。
 ⑦ ほそ(細筆)で描く(写真2-3-6参照)
   「葉脈とか、すすきとか、後仕上げの段階で、根朱筆で描く。ほそで仕上げをするんが難しい。茅(かや)、波、鳥のくち
  ばしや足なんか。きちょうめんにたどる、描いてはいけないという気持ちを持って。これが一番の技術ですね。」
 ⑧ 摺りかけ
   「生漆を樟脳(しょうのう)で薄めたものを、綿で全体へ摺りかけをする。赤摺りと白摺りと2度かけする。赤摺りが乾
  いて、明くる日に白摺りをかける。」
 ⑨ 磨き
   「磨き粉、砥(砥石)の粉、角粉(鹿(しか)の角の粉)などで磨き、仕上げとする。」

 ウ 金箔(きんぱく)の輝き

 **さん(今治市桜井 昭和8年生まれ 64歳)
 **さんは、沈金師である**さんに嫁(とつ)ぎ、沈金師4代目松斎(しょうさい)、現在は改め初代梅斎(ばいさい)として活躍中で、えひめ伝統工芸士認定者でもある。**さんに沈金について語ってもらう。

 (ア)沈金師の系譜

 「**家の出身は輪島になります。儀(よし)太郎が初代で、その末子(5男)が3代目です。長兄が兄弟子で2代目、3代目の師匠になるんです。習うごろには、儀太郎は亡くなっとったんだろうと思います。3代目がいつごろから沈金を始めたか、はっきり分かりません。ここらは皆学校卒業したら、軒並みしよったようです。結婚したごろには、大勢弟子がいて、義母も子守を雇うて、木皿に金箔を入れたりして、大勢がしよったそうです。
 3代目の長男が**、昭和6年(1931年)生まれです。戦時中は漆も金もこないので、昭和12年ごろ、3代目も28歳ぐらい、主人が幼稚園のときに、家を売り払って、一家皆、四阪島(しさかじま)(現越智(おち)郡宮窪(みやくぼ)町)の住友(住友鉱業四阪島製錬所)へ行ったみたいです。ここら辺の職人さんたちも皆製錬所へ行ったみたいです。
 昭和42年(1967年)に、3代目は定年になり、義母が桜井の人だったことでもあり、どうしてもということで、家を買い求め、こちらへ帰ってきました。そして、仕事を再開したんです。28年ほどブランクがあったけど、仕事は、昔しとったからできたんです。そのごろは、高度成長時代で、仕事は毎日夜中の12時ぐらいまでせないかんぐらい、ようけ(たんさん)あったそうです。
 結婚したのは昭和31年(1956年)です。わたしは香川県の出身で、編み物学校の講師で四阪島に来ていて知り合いましたので、こんな仕事は全然知りませんでした。四阪島生活を17年しましたが、主人は心臓を悪くし、昭和48年に退職して、桜井に帰ってきたんです。この仕事があるんで、3代目が元気な間に習ったらいいというんで。器用な人で、直ぐに仕事ができだしました。そして、わたしも朱入れ、箔入れを習ったんです。仕事は分業で、彫るのは男性がして、金箔入れるんは女の人で、手分けをしていました。わたしはたまたま、主人が入退院を繰り返していたものですから、必要にせまられて、彫りも習いました。それで今、彫りと箔人れの両方ができるんです。主人は昭和58年(1983年)に亡くなりました。3代目はずっと現役で、昭和63年に亡くなりました。それで、わたしが4代目松斎ということになりましたが、女だということもありまして今の梅斎に代えたんです。」

 (イ)沈金の今昔

 「義母の話ですが、昔は木皿や会席膳など簡単な仕事がほとんどで、毎日漆器屋さんから山のように依頼されていたそうです。だから、弟子たちは簡単な帆掛け船をちょっと彫るだけで、箔もちょっとだけ、パッと押さえて、ポンとするくらいのものだったんです。それで数をこなすから修練ができたんです。大きな模様はあんまりなかったです。戦後、菊の花や千羽鶴などを全面に彫り詰める総彫りとかが出てきたんです。
 現在では、後継者の人はほとんどおりません。私がたまたましよるだけで。年季はいるし、保証が何もないでしょう。これだけでは生活できません。もう、趣味でやるくらいですかね。趣味でやるにしても、普通の木には彫れんでしょう、やっぱり漆の塗ってる板に彫らんといかんから。稽古(けいこ)するにしても、ちょっと失敗した製品にならないもので練習する具合で。お皿とかああいうものでは練習できません。」

 (ウ)沈金の製作工程(⑦⑧)

 沈金とは、完成した無地の漆器に彫刻をし、金箔を埋め込んでの装飾作りである。
 ① 置目(おきめ)(写真2-3-7参照)
   鉛筆で、美濃紙にデザインを描いて、下絵を作る。黄硫黄(きいおう)(粉末)を水で溶き、細筆につけて、下絵の線をた
  どる。漆塗りの面を食用油で拭(ふ)く。下絵の黄硫黄の面を、漆塗りの面に重ね合わせる。上から漆刷毛でこすり、下絵を
  漆の面に写す。
 ② 彫り(写真2-3-8参照)
   荒描きのみ、描き彫りのみで輪郭線を彫る(荒彫り)。次に、細線を毛彫りのみで埋める(毛彫り)。
   「漆の膜は薄いんです。深く彫り過ぎると素地が出てしまう。彫りは失敗が許されん、彫り直しはできんのやから。滑ら
  かな彫りでないと、箔のきれいな金色が出ません。彫りが一番難しい。彫り口が悪いと金色がよくなくて仕上りが悪いんで
  す。」
 ③ 箔下(はくした)漆塗り
   彫り面に、木製へらで箔下漆を塗り、彫り口に漆がよく入るように丁寧に塗り込む。塗り面を綿布で拭きあげる。彫った
  くぼみにだけ漆が残る。
   「梅雨時など、湿り気があったら漆が乾いてしまう、乾くのが早い。漆の拭き加減がある。拭き過ぎると箔が入りにくい
  し、拭き足りないと金色が悪いんです。」
 ④ 箔置き(箔入れ)(写真2-3-9参照)
   金箔を箔紙に移す(箔うつし)。金箔を貼り、指で押し込み、真綿を入れた絹袋でたたき込む。灯油を染み込ませた和紙
  で、余分の箔を拭きとる(箔落とし)。
   「湿気がなかったら箔の食いつきが悪い。下地が悪かったら、彫りにくいし、金箔の色が悪いし、難しいんです。漆がき
  れいに入ってなかったら彫れんし、下地と食いついてなかったら、ポコン、ポコンともげてしまうし、ごまかしがきかんの
  です。」


*6:瓦、土管などを粉砕した荒い粉。
*7:特殊な土を焼いた細かい粉。
*8:人の毛髪で精製した上質の刷毛、削り出して消滅するまで使用できるようにしている。
*9:精巧な蒔絵の線描き用の筆で穂先と腰が強い。昔は木船、今は倉庫のネズミの背筋毛または脇よりの長毛で作られる。

写真2-3-4 種油の染み込んだ漆刷毛

写真2-3-4 種油の染み込んだ漆刷毛

平成9年9月撮影

写真2-3-5 青貝を型通りに切る

写真2-3-5 青貝を型通りに切る

平成9年9月撮影

写真2-3-6 蒔絵を描く

写真2-3-6 蒔絵を描く

平成10年2月撮影

写真2-3-7 下絵を漆の面に転写する

写真2-3-7 下絵を漆の面に転写する

平成9年9月撮影

写真2-3-8 荒彫りのみで輪郭線を彫る

写真2-3-8 荒彫りのみで輪郭線を彫る

平成9年9月撮影

写真2-3-9 金箔を絹袋でたたく

写真2-3-9 金箔を絹袋でたたく

平成9年9月撮影