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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)椀舟(わんぶね)がもたらしたもの

 ア 技の導入と産地づくり

 (ア)椀舟が動く

 桜井(さくらい)漆器(①)のふるさと、桜井(現今治(いまばり)市)は、明治の初めころ、「戸数585戸、人口2,539人、土地は米、麦作に良い、その他産物なし、近世、漆器を製造して諸国に販売し、生活する者が多い」と記されている(②)。桜井には、漆器原料の木地や漆、その他の各種原材料もない。気候も乾燥していて、漆器製造に有利な条件は一つもない。また、高度な漆芸の技術を生み、育ててきた土地柄でもなく、後背に漆器を求める需要地も存在しなかった。そうしたなかで、これが発達した要因は、行商と交通の便、それに技術を導入して起業していく企業家精神にあったと考えられる。
 まず、行商については、その始まりが、藩政時代の拝志(はいし)(現今治市)の「ケンド舟(*1)」にあるといわれる。この瀬戸内各地への舟行商が先駆となり、啓発された隣郷の桜井は、やがて漆器産地の紀州黒江(きしゅうくろえ)(現和歌山県海南市黒江)につながり、名だたる椀舟行商(*2)が誕生する。
 明和2年(1765年)、桜井は天領となる。人々に藩政時代よりも、行商活動を自由にさせた。これに先立ち宝暦年間(1751~64年)には、紀州黒江とつながりがあったとされる。また、肥前(ひぜん)(現佐賀県)伊万里(いまり)・唐津(からつ)との陶磁器取り引きも、漆器取り引き以前より始まっていたようである(③)。「春は唐津 秋は漆器(紀州)」という里言葉が当地にはある。行商が、伊万里・唐津で仕入れた陶磁器を春に中国・上方地方でさばき、帰りに黒江で漆器を仕入れて、秋にこれを九州・中国地方で売りさばくという形態をよんだものである。この形態は、明治中期ころから、漆器専業のいわゆる椀舟行商に傾斜していったようである。

 (イ)漆器の製造を始める

 行商が盛行するにつれて、漆器の製造が有利なことに着目する椀舟の親方が現れた。製造の始まりは、文化年間(1804~18年)だという(④)。創始者については、「弘化年中(1844~48年)、月原政右衛門」説(⑤)や「天保年間(1830~44年)、西条(さいじょう)の蒔絵師(まきえし)茂平なるものこの地に来住して」説(『愛媛県誌稿』)などがある。これらに対して、近藤福太郎さんは、その著『伊予桜井漆器の研究』の中で、「文化・文政(1804~30年)のころ、六代喜多屋(月原家)紋左ヱ門は西条から指物師(さしものし)と塗り師を招いて製造を始めた」としている。
 いずれにしても、行商の最大の取り引き先であった紀州黒江との強いつながりを当初から、あるいは今日まで示している。西条藩は紀州藩の支藩であり、黒江は紀州藩の保護により繁栄し、国内有数の漆器産地であった。やがて桜井が産地形成をするに当たって、主として黒江から職人を迎え入れ、技術を導入していったことは疑うことができない。
 当時の製品は、渋地(しぶじ)といわれるもので、擬金粉で模様を施し、塗りは極めて粗雑、種類も重箱、広盆にすぎなかったが、九州地方の販売先で意外の歓迎を受けたようである。

 イ 特産地の成立

 (ア)櫛指(くしさし)法の採用と他産地技術の導入

 桜井産の角物(かくもの)漆器が堅牢(ろう)無比と評判を得た技術に、櫛指法がある。角物とは、重箱、会席膳、文箱などの箱物のことである。従来、角物では、その四隅の接着には釘(くぎ)を使用していたため、破損しやすいという難点があった。そこで、接合する2枚の板の端に、櫛の歯状の凹凸を作り、これをかみ合わせるという方法を取り入れた。これが櫛指法である。この技法の採用により、角物は堅牢な品質を得ることになった(写真2-3-1参照)。
 明治初年ころには、製造を専業とする者が十数戸になり、職人を各漆器産地から招いて、盛んに製作するようになった。京都から蒔絵師蒔常を始めとして、明治9年(1876年)に能登(のと)輪島(現石川県輪島市)から招かれた高浜儀太郎が沈金を伝え、同11年ころ紀州黒江から漆工宮崎藤蔵が招かれた。さらに、明治14年ころには、加賀(かが)山中(現石川県山中町)から下岡松太郎ほか4名、安芸(あき)の宮島(現広島県宮島町)から稲田政吉ほか2名のろくろ師が前後して来住し、ここに桜井に丸物漆器の一貫製造が始まった。明治20年には、紀州黒江の漆器業者加藤文七らが来て、郷里から熟練職工十数人を呼び寄せて、新たに事業を開始した。

 (イ)桜井漆器の盛衰

 明治22年(1889年)、桜井漆器の年産額は10万円に達した。しかし、一方では粗製のきらいがあり、業界の発展に支障が生じたところから、明治29年、伊予国桜井漆器業組合を結成し、製品の改良、弊風の改善を誓った。日露戦争後には、主力商品であった低廉の渋地塗りは次第に堅地(かたじ)塗りに取って代わられ、精巧優美な堅地塗りが総生産額の6割を占めて、紀州物を超えると言われるまでになった。
 大正末期から昭和の始めにかけてが、全盛時代であった。大正12年(1923年)には、製造戸数60戸、職工数362人、販売卸商4軒、行商親方数128人、売り子数768人となった。その後、漆器行商が低迷し始め、それに伴って製造も次第に不振となっていった。この原因としては、経済界の不況が第一に挙げられるが、根本的には庶民の好みと生活様式の変化にある。すなわち、会席膳からちゃぶ台へ、塗り椀から陶磁器へ、重箱から折り詰めへの変化である。太平洋戦争が始まると、統制経済下で職工の減少、原料資材の不足などで閉塞状況に置かれた。

 ウ 伝統的工芸品産業としての道

 戦後復興は容易ではなかったが、昭和22年(1947年)、桜井漆器工業協同組合が設立され、再建の歩みが始まった。翌23年の調査によると、製造戸数34戸、技術者164人とある。昭和20年代後半には、九州の炭鉱景気で重箱、とりわけ弁当重(箱)が飛ぶように売れ、復調の兆しも見えた。しかし、戦後の生活様式の急変、インフレ生活、原料の入手難などの悪条件に加え、行商者が月賦販売活動に吸収されてしまい、販売を行商者に依存していた漆器生産は急速に減退していった。
 昭和49年(1974年)、伝統的工芸品産業の振興に関する法律が施行された。愛媛県では、県内で製造されている伝統性のある工芸品、民芸品等の良さを見直し、その産業の健全な育成と振興を図り、県民生活に豊かさと潤いを与えるとともに、地域経済の発展に資することを目的とし、「特産品産業振興対策要綱」を昭和54年10月から施行した。桜井漆器はそれに基づき、昭和55年10月に、愛媛県の伝統的特産品の指定を受けている。指定組合である桜井漆器協同組合は、平成8年11月現在、事業者数9、従事者数25人となっている。

 エ 桜井漆器の製作工程

 漆器を作る場合、まず器形を他の材質によって成形する。この成形段階のものを素地(きじ)といい、さらにこれを塗り、そして加飾(かしょく)をする3工程に分けられる。
 桜井漆器の場合、伝統的には素地は木材である。第1の工程の素地作りでは、角物すなわち重箱、会席膳、文箱などの素地は、ヒノキ材を用いて指物師が製作する。丸物すなわち椀類、木皿、盆などは、ブナ、トチなどの材で木取師(きどりし)が木取りしたものを、ろくろ師が削って作る。
 第2の工程の塗りは、下地と上塗りに分けられる。下地は素地の成形、堅牢化、上塗りをしやすくするために行われるが、木材素地の下地でもっともよいのは、本堅地(ほんかたじ)塗りといい、三十数回に及ぶ工程を経て完成させるという。桜井漆器ではやや簡便な手法を採る。上塗りには、花塗りと呂色(ろいろ)塗り(呂色仕上げ)とがあり、前者を塗り立て、溜(た)め塗りともいい、桜井漆器の伝統的技法である。
 第3の工程の加飾は、漆器に装飾文様を施す工程である。蒔絵、沈金、螺鈿(らでん)(*3)(青貝(あおがい))、キンマ(*4)、存清(ぞんせい)(*5)など多くの種類がある。桜井では、蒔絵のうちの平(ひら)蒔絵、沈金、螺鈿(青貝)の技法が主に使われている。


*1:竹とカズラで編んだ農具、調整具の一種の篩(ふるい)を示すケンドをはじめ、農具類を商う行商舟。
*2:今治市桜井に発祥した漆器行商舟。
*3:貝の薄片を象眼(ぞうがん)したり、漆塗りして研ぎ出す技法。
*4:元来はビルマ(現ミャンマー)・タイの技法。朱・緑・黄色の3色の漆を塗り重ね、文様の緩(あや)を形づくる。
*5:元来は中国の技法。朱・黄・緑・ベンガラ・黒などの漆で花文を描き、あとから輪郭を線彫りする。

写真2-3-1 櫛指法

写真2-3-1 櫛指法

**さん所蔵。平成9年9月撮影