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愛媛の技と匠(平成9年度)

(3)砥部焼に親しむ

 ア 砥部焼の魅力

 **さん(伊予郡砥部町大南 昭和20年生まれ 52歳)
 **さんは、社長業のかたわら陶磁器研究家として、「砥部焼のことならこの人に聞けばわかる。」と言われる存在である。主な著書には「砥部磁器史・上」、「砥部焼と松前の唐津船」などがある。また、「えひめ雑誌」(愛媛新聞社発行)の中の「愛媛の陶芸文化」を平成8年1月号より、現在も連載中である。
 今年(平成9年)、砥部焼にとって画期的な出来事があった。それは、砥部から姿を消していた「淡黄磁」が「土竜(もぐら)の会」の努力によって、「’97愛媛の陶芸展」に姿を表したことである。**さんは、「遊び心を発揮しながらやっています。」と語られる中にも、砥部焼の次代を担う陶工たちに大きな期待を寄せていた。

 (ア)乳の色なす花瓶(はながめ)に

 砥部の淡黄磁は、明治22年(1889年)向井和平(愛山窯)が中国・福建省の建窯の白磁を目にし、心を奪われたことに始まる。象げ色で温か味と品性のある白磁であった。帰国後、砥部の陶石で釉薬や焼成に独自の工夫をこらし、明治26年、シカゴ世界博覧会で見事一等賞を獲得する。それまで無名であった砥部焼の名が、全国に知られることとなった。
 明治時代の中期から大正時代にかけての淡黄磁は、「伊予の白焼き」と呼ばれ、砥部焼を代表する白磁であった。正岡子規の「砥部焼の乳の色なす花瓶(はながめ)に梅と椿と共に活(い)けたり」の短歌は、淡黄磁の花瓶をみて詠んだものである。一世を風びした淡黄磁が姿を消した原因は、大正10年(1921年)の愛山窯の倒産、良質の原料の枯渇、さらに倒炎式の窯になり還元と酸化が同時にできなくなったことによる(⑩)。
 しかし、中国・建窯の白磁は、富本憲吉が砥部の陶石を使って研究したほど魅力あるものであった。この白磁は、今日でも日本の陶芸家にとって残された挑戦の分野である。西岡秀典さんの「淡黄磁花瓶」は、「’97愛媛の陶芸展」で最優秀賞に輝いたばかりでなく、砥部焼にとって新しい光となった。淡黄磁の復活のいきさつについて、**さんに話してもらった。
 「わたしたちの淡黄磁は10年ほど前に『淡黄磁研究会』を作り、戦前の砥部の代表的な白磁の復活に取り組んだのが最初です。最近、やっと気道に乗りかけた感があります。陶土を砥部の製土業者の佐川金広さんの協力で供給してもらえるめどがたったからです。今では西岡さんをはじめ『土竜の会』のメンバーがこの土を使って取り組んでいます。この土竜の会ですが8年くらい前になりますか、わたしが個人的に知っている若手の窯屋さんを集めたんです。作品をつくるということではなく、飲み会でもやろうということで。伊予弁で「モゲの会」と呼んでいたんです。研究熱心な個性的な人の集まりでしてね。原料屋さんの佐川さんもグループに入っていただいたんです。淡黄磁だけでなく、李朝系の白磁も作りたいという人もいましてね。佐川さんが土作りに、協力してくれたんです。作ってもらった土を使って、3、4年前に砥部焼伝統産業会館で展示会をやったんです。その時、『モゲの会』ではどうもということになって、名前をいろいろ考えたんです。わたしは、みんな焼き物が好きで土で飯を食っているんだから『ミミズ』はどうかと提案したんです。『ミミズ』では、あまりにもみすぼらしいと言われましてね。『モグラ』のほうがましだということになったんです。辞書を引いたら『土竜』と書くんです。なかなか格好いいではないかということになりましてね。
 西岡秀典さんの淡黄磁は、ガス窯で焼いたものです。向井和平さんの淡黄磁は登り窯です。登り窯の場合は、普通のお茶わんと一緒に焼くわけですね。大きい窯ですから高い温度のところ、低い温度のところと、いろいろです。品物を置く場所によってずいぶん差があるわけです。還元がよくきく場所と、きかない場所があるんです。淡黄磁というのは窯の中の、その一部の場所でしかできなかったんです。普通の染付けとは、違うわけです。呉須の焼き物と同じところに置いたんでは、全く焼けない焼き物だったのです。
 西岡さんの作品は、むしろ小さい窯を使って温度とか炎の酸化、還元の状態を工夫して淡黄磁だけをねらったものです。普通の染付けに使う土では、鉄分が多いので明るい感じの、しかも温か味のある白磁の色にはならないのです。どうしても赤茶けたような下品な色になるんで、いい材料を使わないとできないのです。そこで佐川さんが材料や作り方にも手を入れてくれまして砥部の土で、つくれるようになったんです。まだ非常に癖のある土なので、普通の窯の焼き方では割れてしまうため、そこのところを西岡さんは手を入れて、なんとか使える土になりました。土の問題が解決したので西岡さんだけでなく、何軒かの窯屋さんでも焼くようになっています。」
 さらに**さんは、「わたしは、焼き物を作る人間ではないから言えるのかもしれないのです。」と話されたうえで自分の思いを語ってくれた。
 「淡黄磁の復元は、土も違うし焼き方も違うわけですね。全く新しい技術に挑戦しなければならないのです。軌道に乗るまでは、随分(ずいぶん)、手間がかかるし労力もいるのです。一人の人がちょっと思いついて作品を作ることは、できないわけですね。作品ができるまでの蓄積がずいぶん必要なのです。わたしが思うのは、砥部ではだれかが成功したらすぐまねするんです。まねすることは独自性が出ないため、良いことでもあるし悪いことでもあるわけです。成功したものをまねすることは、努力も回り道もしないですみます。だれでもその道を通りたいと思うわけですよ。だけど逆に淡黄磁の復元は、それがうまくいったら、みんなまねする可能性があるわけです。その道をつける仕事をやったら面白いのではないかと思ったわけです。わたしが陶芸家の立場だったらしないでしょうが、人に火をつけたり、援助したり、文献を集めたりとやっているわけです。」
 淡黄磁の制作過程については、西岡秀典さんが「’97愛媛の陶芸展」(写真2-1-44参照)のトークショーの中で、わかりやすくていねいに話していた。
 「土は、佐川金広さんに作っていただいたものです。耐火度もうまく調整してありますし、ロクロで成形しやすいように粘土質のものもある程度入れてあります。非常に安定した粘土になっているんです。ただ『はしかい』と言いますか。具体的に言いますと、ロクロもでき、素焼きもできて、薬もかけて焼けるんですが、本焼きして冷(さ)める段階(20℃から40℃くらい)で割れるんです。窯の中で形が無くなるんです。粉々が残っているだけなんです。
 これは、生地と釉薬の縮みが違っているためです。砥部の場合は生地の方が釉薬よりよく縮む状態になるんです。そのために釉薬が突っ張っているので、生地が割れるのです。やっかいな土であるわけです。萩焼きは釉薬がよく縮むので、細かいひびが入ったような焼き物ができるのです。ただ作っていただいた土は、いいところばっかり取っているので、色が非常にきれいになるのです。今は、縮みを防ぐために、ほんのわずか長石を入れまして、何とかこういう形のものが作れるようになっています。釉薬の調合は、柞(いす)灰を使った釉と石灰を使った釉を使っています。今回の場合は石灰が20%、粘土が25%、それに長石類が30%くらい入っていましてシンプルな釉です。
 淡黄磁は中国ですと白磁なんです。ただ酸化気味の白磁ということになります。日本では酸化焼成磁器、酸化磁器、白磁というものです。淡黄磁という特別の名前を付けたものは砥部だけなんです。淡黄磁にかかわって10年になりますが、今だに失敗ばかりしています。わたしは好きなことをしているんですけど、うちの奥さんは大変みたいで感謝しています。」

 (イ)なぜ青白磁なのか

 砥部焼の工芸品といった場合は、青白磁の花瓶や大皿が、砥部を代表する焼き物になっている。青白磁の登場は昭和49年(1974年)、**さんが「日本陶芸展」に出品した青白磁花瓶が優秀賞を獲得したことに始まる。この受賞を契機に、砥部の陶工たちは自分たちのロクロ技術を全国レベルだと自覚するようになると共に青白磁釉を使う者が続出したのである。
 砥部焼の工芸品の多くが「なぜ青白磁なのか」**さんに尋ねた。
 「砥部の焼き物は、白い生地の磁器ですから模様がないと淋しいのです。それで日常の食器においては、伝統的に染付けが盛んになったし、独自のものもできたのです。しかし、工芸品となると文様で勝負するのは、なかなか難しい面があるんですね。文様は技術的には行きついたところがあって、中国、そして日本の有田など、すでに先人がやっているところです。そこで新しい味を出そうと思うと、難しいとこなんですね。焼き物に絵を描くということは、文様が大事になるんです。新しい文様を創作するというエネルギーは、よほどの才能がないと本当に大変なことなんです。富本憲吉先生が『本当に新しいもの気にいったものは、一生のうちに三つできればいい。』と言ったくらい難しい世界なのです。新しいと思っても、だれかがやったことをアレンジするくらいのものしかできないのが現実でしてね。
 個人の陶工では、工芸品で挑戦しにくいところがあります。まず、形がよい上に模様もよくなければいけない。青白磁の場合は、釉薬自身の美しさで勝負できるところがあります。今の砥部の作家は、作ること絵を描くことも一緒にやりますが昭和30年ごろまでは分業だったのです。有田や九谷では今でも分業で、作る人と描きは別の人です。砥部の場合は分業ではないですね。そうすると絵も100%、形も100%、釉薬も100%という世界は、よほどの才能がないとできにくいわけです。昭和40年ごろから、砥部にはロクロが上手な人が多くでました。そこでロクロを中心に勝負できるものを作ろうと、追求したわけです。
 **さんはロクロの技術が上手なだけでなく、形のセンスがあります。そして釉薬についても非常にくわしかったんです。砥部の生地に合うところまで研究して青白磁というものを作りだしたんです。**さんが『日本陶芸展』に出品した作品は白磁の延長に近いと思いますが、独自なものを作ったわけですね。それが日本の評論家に『砥部でこんなものができるのか。』と全国的な評価を得たわけです。
 砥部の生地には、やや鉄分がありまして青白磁とよく合うわけです。青磁にも合います。砥部には、ロクロの上手な人が育った風土がありましたから『我々もやれる。』となったんです。みんながロクロで勝負できる作品ということで、青白磁の世界を目指したわけですよ。これからはですね、ロクロの技術だけでは駄目です。釉薬も大体のものは、やりきっていますからね。新しいものとなると難しいです。青白磁のためには彫りとか、彫刻であるとか、文様であるとか、その形を作り出す能力がいる時代が来ています。」

 (ウ)厚手の食器に藍の色

 絵の具を使った焼き物は、日本では「染付け」、中国では「青華(青花)」、欧米では「ホワイト&ブルー」と呼ばれ、世界中で愛好されている。中国の呉須は、天然のコバルト鉱をすりつぶしたもので、呉州で採れるので呉須と言った。今日、中国の天然呉須は入手が難しく、アフリカや中近東の西洋呉須と呼ばれるものが使われている。日本ではこのコバルト系の絵の具は、ほとんど採れなかったらしい。そのため、明治以後、ヨーロッパから西洋呉須が輸入されるまでは、中国から唐船で長崎に運ばれる貴重品であった。砥部の陶工たちは、毎年のように呉須を求めて長崎に旅をしている(⑩)。
 砥部焼に使われている呉須の魅力について、**さんに話してもらった。
 「もともと呉須を使ったものは、中近東(ペルシャ陶器にみられる)から中国に入って、染付けと呼ばれるものが中国で完成したのです。呉須は1,200℃から1,300℃という高温で焼ける白い焼き物に文様を書く絵の具として、はっきり色が出せる唯一のものだったのです。今では、いろんな色が出せる顔料が開発されていますがおそらく100年くらい前までは、きれいな色は藍色しか出なかったんです。白い器にブルーというのは、非常に清潔感があったんですね。世界中で文様のある器は、白に藍というのが主体となってきたわけです。
 中国の呉須は自然の鉱物ですから、コバルト鉱の中に不純物として鉄とかマンガンとか銅などの金属が混じっているのです。ボケるかわりに非常に温か味やら、柔らかい感じがするのです。濃淡が出やすいですね。ところが明治に入って中国のものは手に入らなくなったのです。明治の初期から砥部では、ヨーロッパのコバルトが入ってくるようになりました。ところがヨーロッパのコバルトは、色が鮮やかではっきりしているので日本人の好みからいえば、少々強すぎるとも言えます。しかし明治以降、日本全体の焼き物産地がヨーロッパのコバルト系の色になったわけです。特に印判が発達しましたから、ボケる絵の具は印刷の色になりにくいわけです。安くて、はっきりするものが都合がいいわけです。砥部でも、ずっとヨーロッパ系のコバルトを使っていました。
 戦後、柳先生、浜田先生(昭和28年〔1953年〕に来砥)、富本先生(昭和31年来砥)らの影響で砥部焼が立ち直るときも、ヨーロッパ系のものを使っていました。民芸派の先生方ですから、自然な色がいいということでした。このころ、たまたま江戸時代に使っていた中国の呉須が梅山窯に残っていたんです。それを使って試作したものが、東京の『たくみ』というところで展示会をした時、評判がよかったわけです。そんなことから江戸時代に使った不純物のある絵の具を、もう一度使いはじめたわけです。何年もすると、なくなりますね。そこで純粋な材料を組み合わせて複雑にして、むしろ不純物のある状態にしたのです。合成呉須というんです。まず、**さんとこがやりはじめて、他の窯もほとんど合成呉須です。それが現在、砥部の呉須の主流になっています。柔らかい天然呉須の発色を砥部焼のイメージにしたのです(写真2-1-46参照)。
 砥部で使っている合成呉須は、西洋コバルトを鉄とかマンガンという発色の鈍いものと混ぜ合わせて、複雑な色を出すわけです。ブルーの顔料になるコバルトは、20%くらいしか入っていないんです。後はマンガンであれば、黒っぽい色とか紫っぽい色なんです。鉄であれば、茶色っぽいんです。そういう色が混じり合って、複雑な色となり薄いところと濃いところの差になるんです。砥部は、日本の他の焼き物産地と呉須の使い方がある意味で逆の方向になっています。もっとも最近では他の産地でまねしていますがね。
 砥部の器にも、いろいろな時代がありましてね。江戸時代は薄いものを作っていたのです。砥部は有田の系列ですから薄さを追求するところがありました。ただ、砥部の場合は、有田のような高級品と産地分業みたいなものが自然にできてきましてね。庶民向きの器となると、薄さを強調していては手間もかかるし、丈夫でないとこがあります。それで、やや厚くなるということです。砥部が庶民の雑器として発展したことが、作りの厚さにつなかったわけです。
 作りの厚さは、模様のスタイルとも結びついてくるわけです。模様も「付(つけ)立て風」といって、大胆な筆使いになります。唐草などで代表される筆使いです。書道と同じですね。特に砥部は、民芸の先生方からの指導も随分(ずいぶん)あって中国、東南アジア、沖縄の筆法を取り入れています。砥部にあった伝統というよりは、新しく入ってきたものです。その筆使いがデザインをされる**さんにもあって、「付立て風」というものが、砥部の書き方として定着したわけですね。有田風の繊細な「線書きダミ」の筆法とは別に、砥部独自のものができたわけです。線書きダミは、輪郭を書いておいて、それを薄い絵の具で塗るのです。手間のいる模様なので、他の産地は一部の大先生の高級品か、機械化して型や判(はん)にして印刷しているのです。砥部は、印刷にしてしまったら筆の躍動感が消えてしまいます。手描きの産地として、動きのある筆使いを武器にしているということです。」

 イ 砥部の里づくり

 **さん(伊予郡砥部町宮内 昭和15年生まれ 57歳)
 「アートの里づくり会議」が生まれたのは、平成元年7月である。町が募集した「いきいき砥部を考え実践する会」に集まった同志が世話人となって町内外に呼びかけたことがきっかけになった。会議の代表である**さんの言葉によれば、自称「砥部大好き人間」が大真面目に論じ合ってきたと言う。
 その活動のいくつかを取りあげてみると、「私達の町を考える」「砥部川上流物語」「湯布院の『里』を作った旗手たちと『砥部』を語ろう会」「国際化の中の砥部『外国人の見たわが町』をテーマにした座談会」「川登に水車の里復活」「砥部町総合公園の列柱に陶板デザインを提案」「アートの里写生大会」「水車の里蛍まつり」などである。活動は、職業・年齢を越えて広がり機関紙「アートの里」も第6号を数えている。その中で今も「アートの里づくり会員募集中!!」-砥部ファンの方なら県内外問いません。会では里づくりのアイディア提言や、地域や町づくりの研究、全国の町づくりグループとの交流をめざしています。また月1回の定例会を開いています-と呼びかけている。
 **さんが勤めている松山南高校砥部分校の1室で「アートの里」づくりの取り組みを語ってもらった。
 「『アートの里づくり会議』は、砥部の里が芸術全体が展開する里になったらという夢談議から出発したんです。心の時代は、アートを目指す感覚を喜ぶ時代なのです。砥部の風土(写真2-1-47参照)にアート的なものが醸成されて広がっていったら砥部焼そのものも、そこから刺激を受けてもっとグレードが上がっていくのではないかと思うのです。いつまでも伝統埋没でやっていると旧態依然としたものが残るんです。そこに刺激を加えていってアートフルな環境が育っていったらいいなと、そんなつもりで取り組んでいるんです。
 砥部の良さは、まだまだ田舎が残っていること、松山のすぐ隣りにありながらあまり都市化しないでいることは、奇跡に近いと思っています。これを大事にしないと罰(ばち)が当たるという思いがあったんです。芸術の分野ではパリ派だの印象派だのといった独自のスタイルがその時代、時代に生まれてきたのです。何々様式というのがどこの地域にもあると思うのです。ところが我が国の場合、中央崇拝のところがあるから中央の亜流みたいなところがあるのです。独自性に欠けるんですね。砥部焼はちょっと違います。砥部焼というブランド性をもっています。そのような伝統工芸は全国に誇れるし、それを地域がもっているのです。『焼き物砥部』がもっている砥部様式は、どこに対しても砥部ということで太刀打(たちう)ちできるのです。これはすごいことだと思っています。
 砥部は、とらえ方によっては技を生業(なりわい)として成り立ってきた町です。技術を手に入れるためには、外から入ってくる人にすごく開かれた状態をもっていないと停滞しますからね。そういう意味では、砥部は非常におおらかなんです。受け入れる風土があるんです。職人さんたちも自分たちが蓄積してきた技を、だれにでも知りたかったら教えるとか、教えてもらうとか、そういう家族的な雰囲気がずっと残っているのです。明治時代などは、国際化に通じるようなすごく開明的な町だったわけでしょうね。淡黄磁の向井和平や新派の井上正夫が出るような土地だったのです。砥部はこのように狭いところですが、いろいろな文物が交流し技が交流していくような、あるいは新しい知識が入ってくるような、開明的な風土であったと考えています。
 わたしは常に自己革新していかなければ時代から遅れていくから、新しい試みをやってきました。オリジナルを目指すのはアートの原点です。アートという観点になると、まだまだ時代性には乗っていないんです。砥部焼もここ最近はすごく革新されてきたと思うのですが、もうちょっと食器屋さん的なイメージから、アートフルな満足度を提供できる焼き物産業が問われていると思うのです。
 そこで『アート里づくりの会議』では、いろいろ提案してきたんです。砥部の町が倉敷(岡山県倉敷市)みたいになったり、湯布院(大分県湯布院町)みたいになったりしても、ちっとも似合わないんです。やはり砥部にしか似合わないものがあると思うのです。こういう素朴な里の景観を大事にして、砥部がアートフルにいろんな活動が展開できる町になっていけばと思うのです。川登の水車の復活も永年の夢でした。僕らの提案と佐川巌さんのご理解を得てのものです。水車は『砥部の里』の昔ながらの景観を伝えてくれる数少ないシンボルであり、『焼き物の里』砥部の宝だと思うのです。砥部町総合公園の列柱の陶板(写真2-1-48参照)は、デザインを『アート里づくり会議』で考えて欲しいという依頼があったんです。会員の西岡一広さん(平成8年、上絵付けで「国の伝統工芸士」に認定)をはじめ会員が案を作りました。
 今、可能性というところでは、砥部焼のモニュメントや陶壁などで環境を造成していく状況が生まれてきているんですね。この砥部分校自体も陶板を使っています。ゆくゆくは、その土地の産物によって町のグレードを上げていくような環境づくりですね。そこに砥部焼の求められる新しい役割があると思います。わたしたちは、外からのいろんな情報にアンテナを張って敏感に受けとめて、こちらからも情報を発信していく、この感じを大事にしたいんです。『アートの里』機関紙も一応、全国に発信しているんです。」

写真2-1-44 ’97愛媛の陶芸展

写真2-1-44 ’97愛媛の陶芸展

平成9年8月27日から9月1日まで、「いよてつそごう百貨店」で開催。出品会員71人、出品数216点。平成9年8月撮影

写真2-1-46 呉須で描いた食器

写真2-1-46 呉須で描いた食器

砥部焼に使われている呉須は、温か味のある柔らかい感じ。平成10年1月撮影

写真2-1-47 窯元が多く集まっている五本松地区

写真2-1-47 窯元が多く集まっている五本松地区

右手前には花とみかんが供えられた石仏がみられる。平成10年1月撮影

写真2-1-48 砥部焼総合公園の陶板

写真2-1-48 砥部焼総合公園の陶板

公園の進入路100mにわたって列柱が20基立ち並んでいる。平成9年4月撮影