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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)砥部焼が生み出す美と心①

 イ 土のロクロ

 **さん(伊予郡砥部町大南 大正11年生まれ 75歳)
 陶和会でろくろの先生役となった**さんは、昭和11年(1936年)から3年間、砥部町立窯業試験場の研修生としてロクロの基本を学んだ。以来、家業の製陶業に従事し、昭和32年(1957年)に「哲山窯」を開いた。
 このころから花器も多様な形が求められるようになり、窯元の間では「従来の型物の花器だけを作っていただけでは将来が危ない。新しい商品には、ロクロの技術を身に付けなければ。」との思いがあった。小窯の若い後継者にとって、ロクロで作ることができれば石こうの型もいらず、形も自在で、しかも小資本での制作が可能になる。ロクロを使った花瓶づくりは、大きな魅力であった(⑥)。
 陶和会から広まった技法に「櫛(くし)目膨(ふく)らまし」がある。ロクロで円筒形にひいた陶土の外側に金櫛で櫛目の跡をつけ、それを内側からの手圧で膨らませると、模様は回転でねじれ広がって独特の文様の花瓶ができる。この「櫛目文」の技能や石こうの花型を使っての花柄模様の「印花(いんか)(*15)」の技能を確立したのは**さんである。昭和52年(1977年)、ロクロ成形によって「国の伝統工芸土」に認定され、平成8年には「ロクロ成形工」として卓越した技能者「現代の名工」の労働大臣表彰を受けている。
 陶和会の人々に「ロクロの師」と、尊敬を集めている**さんに話してもらった。

 (ア)親の代から花瓶づくり

 「ここの窯でも5、6年(昭和38年ころまで)は、蹴(け)ロクロ(写真2-1-11参照)でしていました。蹴ロクロは、蹴るのとロクロの上の土を上に伸ばすのが一緒で、呼吸が合わないといけませないな。しかし、電動ロクロだと『じ~っ』と手を置いているだけで伸べることができるわけです。初めは腹に力がいって、腹がこるようで、結構できるのかと思いました。慣れたら蹴らなくてよいので半分の力で作れます。今みたいな固い土は、蹴ロクロではようしません。以前の土は、粘かったから少し柔らかくても花瓶を作ることができたんです。今は少し固くないと作りにくいのです。
 親の代からほとんど花瓶です。あのころ(昭和14年ころ)、花瓶はあまりはやらなかったんです。田舎では、いつも花を生(い)けることなどしなかったんです。花瓶は花を生けないといけんもんになっていたから、だれまり買わなかったんです。今は、飾り花瓶で十分売れますから。食器は手間がいって、製造は製造、仕上げは仕上げと体制が整っていたらやりよいです。花瓶は一人でやれますが、若い時でないといけません。食器のように柔らかい土だと楽なんですが、固い土ですから力仕事なんです。」

 (イ)粘りのある土づくり

 「ずっと、砥部の土を使っていますが製造方法は変わってきました。以前は石を砕いて粉にして、それをタンクの中に入れ、手ごし(*16)で上澄みを取って下に沈んだ砂は捨てていました。手ごしの場合は石粉が細かくなかったら捨てる部分が多くてもったいないのですが、すごい粘りのある土ができていたのです。
 いま使っている土は全ずり(*17)です。そうすると珪(けい)石(*18)が入ったりして粘りが薄いのです。それと大小混ぜものをしないと焼いていて割れる率が高いんです。また長石(ちょうせき)(*19)やいろいろなものを混ぜないと安定感がないわけです。木節(きぶし)(*20)土などを混ぜると粘りはでますが、長石はよけい粘りがなくなって、サラサラの土になるんです。
 土もみ(土練りのこと)は楽になりました。以前は朝起きたら御飯前に土を『ゴシゴシ』手で練っていましたが、今は機械が練ってくれるので固い土が練れるようになって。いま使っている土などは手ではようもまないし、もんでも『パラパラ』になります。機械でやると土の中に空気が入っていませんから切れる率も少ないのです。空気が入っていたら、ひびがゆきますからね。いまの若い人は機械がみんなしてくれるから、うっかりしていると土もみなどできないかもしれません。」

 (ウ)花瓶も模様もふくらんでいく

 「固い土を使うようになったのは、櫛目膨らましの花瓶を作るようになってからです。これは花瓶ができた後で外側を削(けず)らないので、最初から薄く作らなかったらいかんのです。柔らかい土だともたなかったからです。
 花瓶がまだ円筒形のときにロクロを回しながら櫛目(または印文)を打って(跡を粘土に付けること)、内側から手で押さえながら膨らませていくのです。花瓶が『スー』と膨らむと、模様も『スー』と流れて膨らんでいくわけです。模様があまり広がりすぎると裂けて穴があくんです。そうかといって櫛を寝かせて打っているとしゃげ(ひしゃげ)ていくので模様がなくなって、『ガジガジ』の線だけになってしまうのです。一定のところで止まってもらいたい模様は難しいのです。
 櫛目文の道具(写真2-1-17参照)は、のこぎりの歯と同じなんです。初めは、のこを折って作ったのです。ちょっと気にいらないので自分でヤスリですって歯を大きくしたり小さくしたり、長くしたり短くしたりして作っています。あまり歯が小さすぎても櫛目の頭が欠けていけないんです。
 印文(写真2-1-18参照)というのは石こうの判を作っておいて花瓶に順々に押していくわけです。無地でやっているのもあるし、色を着けるのもあるのです。最初は印文も花瓶ができてから押していたのですが、円筒形のときに入れた方が面白いので、そうすることになったのです。商品化したのは、わたしが最初でしたが、これも陶和会で中央の偉い人の作品を見てきたりして、皆んなで『どなんするんだろう』とアイディアを出し合って順々にしてました。
 始めは遊びみたいなことでしたが、何でもできさいしたらうれしかって、家ではお金になるものを作らなければならないでしょう。夜、集まって、家でできないようなことを試験的にやってみようというのが陶和会の稽(けい)古だったんです。」

 ウ 窯(かま)と釉薬(ゆうやく)

 **さん(伊予郡砥部町五本松 昭和6年生まれ 66歳)
 **さんは、昭和23年(1948年)に設立された県立松山南高校砥部分校窯業科の最初の卒業生である。昭和27年より家業を手伝い現在、窯が集まる五本松地区で「五松園窯」を営んでいる。
 昭和50年(1975年)青白磁花瓶が「第3回日本陶芸展」で優秀賞(国際交流基金理事長賞)を受賞。釉薬の研究がこの賞につながった。砥部の生地は、鉄分を含むため白磁をねらってもやや青味づく、そうした欠点を天然灰を使った独自の配合で長所に変えたのが**さんの青白磁釉である(⑥)。以後、砥部の陶工たちがこの釉薬を用いるようになった。今や青白磁は、唐草模様とともに砥部の産地イメージを形づくる焼き物になっている。昭和52年、ロクロ成形によって「国の伝統工芸士」に認定される。
 **さんの青白磁には、ロクロで成形した後、その表面を櫛を使って草花などの彫り模様を入れた味わいのある作品が多い。また、さまざまな釉薬を使って、鉢・茶わん・湯呑(のみ)・徳利など多種多様な陶作を行っている。

 (ア)窯元にとっての革命

 戦後の窯の移り変わりは、試験場で実験的に使用し、その後窯元に普及していっている。昭和28年(1953年)試験場砥部分場に重油窯が設置され、薪(まき)窯より重油窯への関心が高まる。昭和34年に梅野精陶所が登り窯から重油の倒炎(とうえん)式窯に切り替えた。従来の薪の窯では燃料費は生産費の30%を越えていた。これが油の窯になると30%の燃料費の節約になった。砥部焼の最初の燃料革命といえる。昭和38年(1963年)に県立窯業試験場に電気窯、43年にLPガス(液化石油ガス)窯が設置。昭和40年ころから50年代にかけて窯元の間に電気窯、ガス窯が普及していった。特にガス窯は従来の重油窯に比べて燃料費が30~40%も安く、窯の回転も早く、窯の内部の温度差が少ないなど焼成(しょうせい)(陶磁器を焼くこと)で苦労していた窯元にとって革命的なことであった。
 窯を使って釉薬の研究に余念のない**さんに、窯の特長について話してもらった。
 「わたしのところでは、昭和30年代の中ごろまで薪でやっていたんです。大きな煙突がありましてね。いわゆる倒炎式窯です。炎が横から行って、上にあがって、下に落ちるんです。そして煙突に抜けるというやつです。一つの単窯の炎が落ちる式なんです。登り窯のように炎が下から順々に上がっていくんではないんです。薪が燃える間は、3分から5分でしょう。また燃やさないかん。一昼夜やりますから、何キロもやせまさいね。
 いま、わたしのところは電気窯とガス窯(写真2-1-21参照)の両方でやりよんです。素焼きを電気窯でやって、本焼きをガス窯でやっているんです。上絵付けで、赤色とか緑色を着けるでしょう。酸化焼成で750℃くらいで焼くんですけど、電気窯がいいんです。電気窯のいいところは、まんべんに酸化で焼けるところです。電気釜で御飯をたくのとつい(同じ)で、もっと強い電熱線が窯のぐるりにあって、間接加熱という感じになるんです。低い温度でも、きれいに焼けるんです。
 ガス窯のいいところは、電気窯はボルト数で温度が自然に上がるのを待たないかんけどね。ガス窯だったらガスの量である程度、長く焼いたり短く焼いたりの調節が楽にできるんです。電気窯は、間接的だから炎というものがないんです。ガス窯は炎で焼くようになるから、電気窯より『冴(さえ)』があるんです。釉薬にもよりますが、光沢のよさが感じられるんです。」

 (イ)一銭のお金にもならんこと

 「青白磁をやりだしたのは、もう30年も前になります。このように続いたのも砥部の生地に合うたということです。素材を生かすというか、素材の鉄分をうまく利用して青味を着けるというか。もともと青白磁というのは、中国が始まりなんです。景徳鎮(けいとくちん)窯(中国チャンシー〔江西〕省)で焼かれた青白磁は釉薬に含まれている微量の鉄分が水色に発色して、彫り絵の凹(くぼ)んだところに青が濃くたまったので『影青(いんちん)』と呼ばれ一世を風びしたのです。
 わたしが使っている天然の灰は、柞灰(すいばい)(*21)です。九州地方に、だいぶあるんですけどね。宮崎県の都城で販売しているところのものです。幾分、陶石(坏土(はいど))そのものに鉄分があるわけで、柞灰を入れることによって青白の青味が半透明というか鮮明になるというか、落ち着いた緑にというか沈んだようになるのです。青白磁は、白磁や青磁と同じで還元焼成なんです。ローソクでいうと炎の元で焼いているのが還元焼成で、炎の先、上の部分で焼いているのが酸化焼成なんです。陶和会でみんなで勉強しながら、教えあいしながらやってきたことが砥部に青白磁が広がったんだと思います。」
 工房の横で話を聞きながら小さな焼き物を作っていた奥さんは、当時の様子を笑いながらこう話してくれた。
 「わたし、結婚した時に食べていかないといかんし、子育てもしていかないといかんのに、どうてて(どのように考えているのかわからない)もう薬を調合して小さな秤(はかり)で計って、それもたった一つの抹茶茶わんなどにかけて窯で一つだけ焼くんです。そんな繰り返しで1銭のお金にもならんことをして。それで、わたしは内職でお土産みたいなものを作っていました。子供にもかもて(かまって)やれんし、これで子供の教育はかまんのじゃろかと思ったこともありましたけどね。それでもお陰で子供はスクスク育ってくれました。」

 (ウ)鮎(あゆ)が泳いでいる感じ

 「’97愛媛の陶芸展」で**さんの「青白磁鮎文花器」は、最優秀賞に輝いた。花器には『鮎』が生き生きと泳いでいた。この技法について話してもらった。
 「ロクロをひいて、柔らかいうちに櫛目を入れたんです。鮎が水の中を泳ぎよるような感じを出すために鋭い線を引いたんです。それを素焼きにして、青白釉をかけて本焼きするんです。
 身近な素材でいろいろなものを彫ります(写真2-1-24参照)。この彫りを始めたのも、青白磁の釉薬を使って濃淡を表現したいというのがきっかけだったんです。花菖蒲(はなしょうぶ)、牡丹(ぼたん)、笹百合(ささゆり)、露(つゆ)草なども彫ります。菖蒲が咲くでしょう。スケッチして自分なりにイメージをこしらえて(写真2-1-25参照)、なるべく簡素化して根幹だけをつかまえるようにしているんです。彫るときは、ある程度覚えていないとできないね。特徴だけをつかまえて、『パッ』と一気に彫っていかんと。言わば瞬間のことだから失敗すると、またゼロからやり直しする羽目(はめ)になるんです。」

 (エ)なかなかやりよります

 **さんの工房の窓から外を見ると、新しい窯業団地の造成が行われていた。砥部に窯元が増えた要因をたずねた。
 「100軒(平成9年、現在)近くありまさいね。焼成方法が電気窯やガス窯になって楽になったことです。アマチュア陶芸でも窯を買うて、ちょっとやりまさいね。それに、以前の倒炎式の窯では相当広いスペースがいりましたが、今なら10坪(1坪は約3.3m²)もあればできます。作るのも蹴ロクロから電動ロクロになって、3年もやればまあまあできるようになるでしょ。釉薬や絵具も自分の思う通りになるのは難しいですが、広島や名古屋などの店から簡単に取り寄せられます。
 最近の砥部は、親父(おやじ)さんが作って嫁さんが絵を書くタイプの窯元が多くなっています。奥さん連中が作家と言えないまでも職人としては、なかなかやりよります。女性のイメージしたものが増えてくると、普通の呉須(*22)の染付けだけでない、明るい感じのものが生まれてきます。とうちゃん、かあちゃんの手作り・手描きというのも他の量産的な産地と比べいいんではないかと思います。窯業団地には、25軒くらいの窯ができるようです。」


*15:粘土の柔らかいうちに印を押して模様とすること。印は草花などの文様が多い。
*16:水篏(すいひ)と同じ意味。粉末の微細な粘土を調整する工程。粘土粉を水中に入れると細粉は浮き、粗粉は沈む。こ
  うして細・粗を分け、同時に砂・石灰石などの雑物を除去する方法。
*17:粉末の微細な粘土を調製する方法。砥部の陶石と長石、木節土などをドラムの中に入れ、玉石という固い石とともに回
  転させて陶土を作る。
*18:質は緻密で硬い。ガラス、耐火れんが、陶磁器の原料となる。
*19:天然水には抵抗力弱く、水分を吸収して陶土になる。
*20:愛知県瀬戸地方などに産する粘土。耐火れんが、陶磁器の原料。
*21:イスノキの樹皮を焼いてつくった灰。磁器のうわぐすりの融剤。
*22:磁器の染付けに用いる藍色顔料。中国に天然に産する本呉須というコバルト・マンガン・鉄などを含む黒褐色の粘土を
  用いたが、近年は人工呉須を使用。

写真2-1-11 蹴ロクロ

写真2-1-11 蹴ロクロ

歴史を語る貴重な品も工房の入口に無造作に置かれていた。平成9年9月撮影

写真2-1-17 櫛目の道具

写真2-1-17 櫛目の道具

のこぎりの歯と同じ。平成9年9月撮影

写真2-1-18 印文

写真2-1-18 印文

石こうで作ったもの。平成9年9月撮影

写真2-1-21 ガス窯

写真2-1-21 ガス窯

砥部では昭和44年に「ガス窯講習会」が開かれるなど多くの窯元に普及していった。平成9年10月撮影

写真2-1-24 削りなどに用いる道具

写真2-1-24 削りなどに用いる道具

**さんの言葉「鮎は『おでん』の串のようなもの描きました。」。平成9年10月撮影

写真2-1-25 花菖蒲のスケッチ

写真2-1-25 花菖蒲のスケッチ

自分なりにイメージをこしらえる。平成9年10月撮影