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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)わが町の手前味噌

 味の世界には、四原味(甘味、酸味、辛味、苦味)があり、その調和が大切であるといわれているが、日本人には、これ以外に旨味(うまみ)が大切であるとされている。そして、その旨味を求めて、われわれの先祖は、古来より日本人独特のものをつくりだしてきた。『大宝令』(701年)によると、「末醤」という字があり、これが現在の味噌になってきたとされている(①)。しかし、味噌はつくられる土地の気候や風土によって、微生物の働きが微妙に変わるため、同じ材料を用いても、その出来上がりにはいろいろな違いが見られる。また、各家庭でつくられていたものなので、その種類は実にさまざまである。
 基本的には、種麴としての黄麴菌によるデンプンとタンパク質の分解と、その生成産物を分解する酵母菌等の働きで味噌独特の風味と旨みがつくられている。
 味噌は原料から大きく分類すると、米味噌と麦味噌と豆味噌がある。米味噌は、米麴を用いて、大豆と塩を配合してつくられるもので、日本の味噌の8割を占めている。麦味噌は米味噌と同じ材料で麦麴を使ってつくられており、九州を中心に関東北部や中国・四国の一部でつくられている。豆味噌は、大豆を使った味噌玉という特殊なつくりかたをし、中京地方(愛知・三重・岐阜)の限られた地域でつくられている。
 愛媛県においても、古くから家庭の味・おふくろの味として味噌はつくられてきたが、麦味噌を中心としながら米味噌もつくり、味噌文化圏でみると米味噌圏と麦味噌圏の交差する地域といえる(③)。
 本項では、現在も町に1軒の麴屋があり、家庭での味噌づくりも行われている三瓶町に焦点をあてて、そこでの味噌づくりを通して、その移り変わりを見てみることにした。

 ア 味噌をつくって

 **さん(西宇和郡三瓶町津布理 昭和2年生まれ 70歳)
 **さん(西宇和郡三瓶町津布理 昭和8年生まれ 64歳)

 (ア)麴屋をはじめて

 昔は、各地域には米麴を中心とした麴を売る麴屋があったが、現在では、県下で10軒あまりになっている。現在は、麴・味噌屋として主に味噌づくりをしている**さんに、麴屋を営んでいたころのことを聞いた。
 「昭和11年(1936年)わたしが小学校3年生の時に、現在の野村町(東宇和郡)にありました渓筋(たにすじ)村というところから、わたしの祖父が麴をつくるために麴屋の権利を買って、ここに出てきたんです。麴屋の資格というのは、免許制ですので税務署の免許がいったんです。
 この店はわたしの祖父が出てくる前も、他の人が麴や日用雑貨を売っていました。昭和11年ころは各地に麴屋というのがありまして、三瓶にも2軒ありました。
 普通、麴屋では種麴(麴菌の乾燥胞子で、業界では『もやし』と呼ぶ。)を大手の種麴屋(もやし屋)から買ってきます。今でも、もやし屋は全国に結構ありますよ。例えば、京都の菱六、熊本の松尾などが知られています。うちは、父がとりよったので、今も大阪の樋口というところのもやしを使っています。昔のもやしは、粒状のものばかりでしたが、今は粉状のものを使っていますが粒状のもあります(写真1-2-1参照)。今も、年に一遍くらいは、『どうですか』というてもやし屋の人がきよりますよ。」
 種麴屋の歴史は室町時代から続いており、現在も創業600年以上の伝統を持つものが全国に10社ある。純粋な種麴は、木灰(きばい)(性質はアルカリ性)が他の雑菌を排除し、麴菌には多量の胞子を着生させることができる性質を利用してつくられており、この技術は日本人の知恵の結晶の一つである(①)。
 「太平洋戦争(1941~45年)が激しくなるにつれて、米がなくなり仕事がなくなって、結局、終戦後に麴屋をまた始めました。しかし、そのころは父もわたしも郵便局に勤めていましたので、うちの家内とおふくろとで麴はつくっていました。昭和30年(1955年)ころになって、麴の需要もなくなってきました。それまでは、けっこう密造酒や、甘酒などに使ったりしてよく飲みよりましたから、遊び役みたいなことでも(たいした量ではないけれど)仕事はありました。」
 甘酒は、米のおかゆを炊き、人肌に冷めたら米麴を混ぜ2、3日熟成させたものを、秋祭りなどのときや、病人食としてよく家庭でつくって飲んでいたが、米麴は、密造酒の材料として使われることもあり、税務署の取り締まりは厳しかったようである。その様子を**さんに聞いた。
 「麴つくるには、税務署の免許がないとつくれなんだんです。わたしの子供のころ覚えているのは、税務署の人が『こんにちは』ともなんにも言わずに、たたっと入ってきて、すぐ室(むろ)の中に飛び込んで、帳面と引き合わせるんです。だから、米をどこからなんぼ仕入れて、麴がなんぼできて、だれになんぼ売ったというのを、全部控えとかないけんのです。今もえらいかもしれませんが、そりゃ昔の税務署はえらかったですよ。」
 また、**さんの奥さんの**さんも次のように語った。「わたしとばあちゃん(義母)が麴をつくりよった時に、ある人からイースト(酵母のこと。アルコール発酵に関係する。)も一緒に買ってきてくれと頼まれたことがあって、帳面にイと書いとったんです。そして、その人がどうして税務署に問われたのか知りませんが、うちから買ったと答えたんです。そうすると、税務署の人が来てうちの帳面を見て、『このイは何か。』と問い詰められたことがありました。ただ、加工賃くらいもらって、お使いしたくらいやのに。それ以来、『麴屋はいややなあ。』と言いよりました。」
 **さんは、現在も麴の製造販売をしているが、その様子を**さんは次のように語った。
 「昔は、みんな甘酒をよくつくっていましたので、米麴はよく売れていましたが、今はあまりでませんので12月から1月にかけての寒い時期だけつくって、紙の袋に入れて売っています。麦の麴でも、たまに麦の甘酒(麦酒(むぎざけ))をつくる人がいます。」

 (イ)味噌屋をはじめて

 昭和30年代は、戦後の復興でいろいろなものが目まぐるしく変化したが、食生活においてもそれは見られる。そんな変動の中、麴屋から味噌づくりを始めた当時のことを**さんは次のように語った。
 「昭和30年(1955年)ころには、コーヒーやいろんな飲みものが出だすし、酒も国がどんどんつくり密造酒もなくなるしで麴の需要が減ってきました。その当時、麴組合の会で八幡浜税務署の間(接)税課長が『もう、麴の時代は済んだから、今からは、味噌をつくりなさい。』ということをいわれて、昭和32年ころからわたしとばあちゃんで味噌づくりを始めたんです。現在は長男夫婦にまかせ、わたしども夫婦は、助言をしたり、手伝う程度です。
 味噌をつくるのにも許可がいるので、食品協会や保健所などの講習を受けて許可をもらいました。
 最初、八幡浜の方にいって、2斗(36ℓ)くらいの桶(おけ)を買ってきて、ばあちゃんが知っていた昔のやり方で始めたんです。味噌づくりを始めたころ、麦洗いはきれいにやらんといかんので、2斗桶に頭をつっこんで洗っていました。昭和40年代にはいって加工を依頼してくるお客様が増えたので、手動の洗浄機でやりだしたんです。そのころ、お父さんが夜に会でさしつかえるときには、お駄賃をだして子供たちに回してもらったこともあります。今は、スイッチ一つで回ります(写真1-2-2参照)。
 種麴をつけて出てくる『はな(*1)』は、白色ですが、ある程度たったら黄色になります。そうなると年を取っているので、そこまでおいとったらいけんのです。ですから、はなが白く出るころを日中になるように見計らってもやし(種麴)をまくんです。塩あわせ(塩切(しおきり))の時間は、同じもやしの量でも、周囲の温度なんかで微妙に違います。ばあちゃんと始めたころは、そこらあたりがよく分かっていなかったもんで、夜中にそういうことになって、『今から寝んといかんのに。』といいながら、塩をあわせたりしたもんです。味噌づくりを始めて27、8年間は、朝2時半に起きてまきをたいて麦を蒸して段取りして、ちょうど昼間に塩をあわせるようにしていました。この家を12年前に新しく建てて、ボイラーを使うようになってからは朝は4時に起きることになりましたが、この蒸し加減とはなのつきかたと、塩加減が味噌の善し悪しを決めているんです(写真1-2-3参照)。
 昔は、このあたりも各家庭の納屋で味噌を2種類つくっていました。一つは豆を入れて3年くらい寝かせた醤油味噌で三歳(みとせ)醤油といって上の部分を醤油として使っていました。しかし、女の人が紡績工場(昭和36年〔1961年〕には、伊予紡績が操業を始める。)なんかにでるようになり、家を新築するはで、味噌をつくる時間も場所もなくなり、家庭での味噌つくりはしなくなってきました。そうなってくると、うちに材料を持ってきて味噌をつくってくれいうてきだしたんです。味噌をつくり始めたころ、近くでできる団子麦(実が紫色で蒸すと粘りのある麦で、団子ができるぐらいなのでこの名前が付いている。)いうのを持ってこられて、『これで、味噌をつくってやんなはいや(下さい)。』と頼まれたことがありました。この麦をついて蒸したら、おもちみたいに粘いので『この麦は、普通の麦と違わい。』といいながら、味噌をつくったこともありました。真網代(まあじろ)(八幡浜市)では、『米麴をつくってくれ。』いわれて、それに麦の蒸したものとを混ぜてつくっているところもありました。今も注文で製造することもあります。
 また、味噌をしよるあいだは、納豆なんかも食べん方がいい(納豆菌と麴菌とを合わせないため)ということで気を遣いますが、昔から味噌づくりに関していろいろなことが言われてきました。例えば、味噌をつくる時期を、三瓶地方では渋柿の渋抜きをするころがいいとか、宇和地方では稲の穂が出だしたころがいいと言われています。しかし、同じ菌のつきかたでも、長雨(梅雨)の時期と夏の土用(立夏の前の18日間)の乾燥した時期とは違います。一般の人は、温度の管理がしやすいので夏の土用にしたらいいと思います。うちは、室の室温を30~35℃くらいにして、味噌がなくなったら冬でもつくります。
 また、子(ね)の日は味噌が粘るとか、卯(う)の日は味噌が膿(う)むというので、味噌づくりはしてはいけないと言う人もいますが、味噌屋はそれでは味噌をつくれません。しかし、注文で味噌をつくるときにそんなことを言う人のは、その日は避けてつくったりしています。」

 (ウ)麦味噌一筋

 **夫妻から聞いた麦味噌製造上の話を、基本的な製造工程の順にまとめてみた。

   a 麦の選別

 「麦は、香川県の麦(裸麦)を使います。麦は、昔から粒が小さいほうがいいんです。また、米は新米、麦は古麦いうて、麦はその年にできたものではありますが、なるべく古いほうがいいんです。2、3年前、外麦(外国産の麦)で味噌づくりを頼まれてつくったことがありましたが、国産の麦よりも、はなのつきは早かったですが麴が固かったです。」

   b 製麴(せいきく)

 「前日の夕方に麦をよく洗って、水に一晩つけ込んでおくんです。翌朝4時に起きて、その麦を水きりして、蒸し器にボイラーの蒸気を入れて蒸すんです。蒸せたら、むしろを敷いて、その上に白い木綿の布を広げて、扇風機で冷ましながら、麦を広げていきます。手加減で、手をいれて熱くない程度に冷めたら、蒸せた麦を押したりもんだりして傷をつけて、はながつきやすくして、麦味噌用のもやし(1袋40gで麦200kgに対応)をまんべんに混ぜるんです。このあたりは、口では言い表せない、長年の勘ですな。そうしたものを、一昼夜、もろぶた(麴蓋(こうじぶた))に乗せ室に入れてはなをつけさせて(写真1-2-4参照)、翌日の昼過ぎに塩をあわせるようにします。室の温度は、温度計で計って34、5℃になるように調整しています。夏には、40℃を超すときもあるので、戸を開けたりして調節して、麴の機嫌をとりながらやります。
 米麴は、米を夕方よく洗って、翌朝蒸して冷めたところで米麴用のもやしと混ぜて室に一昼夜入れて、翌日白いはながついたころに、小さいもろぶたに取って広げます。それを積んでふたをして、濡(ぬ)らしたむしろを上からかけて湿度を調整しながら、さらに一昼夜おくと、3日目の朝に米麴ができます。今はむしろのかわりに濡らしたネルの布をかけ、はながつくまでは、朝・タ、ネルに水を染み込ませています。米麴の方が難しいんです。」

   c 塩切(塩あわせ)

 「はなが、人間でいえば18歳ころのピンピンしよるはな盛りの時に塩をあわせるんです。年を取った時に塩をあわせても味噌にはなりますが、おいしい味噌にはなりません。ここの所も、長年の勘でしょうな。塩は市販のを使い、混ぜるときには手をきれいに洗って素手でやります。麴菌が発酵しており結構熱を持っていますので、冬はいいんですが、夏は熱いです。
 味噌の塩分濃度が12%くらいになるように、塩を混ぜてやります。今でも、1合塩にしてくれとか、8勺(しゃく)塩にしてくれという人があります。1合塩や8勺塩といったら、麦1升に対しての量です(1合は0.1升〔0.18ℓ〕、1勺は0.1合)。
 塩を入れるというのは、保存性と麴菌の働きを鈍らせるという働きがあるんです。だから、塩を入れないと、明日の朝には山吹色みたいになって毛(麴菌の菌糸)が伸び過ぎてしまいますよ。」

   d 仕込み・熟成

 「塩あわせした麦麴を、ミキサーに入れて、空気を入れないように仕込むんです。うちの味噌は、麦麴の甘さと塩だけで、大豆も甘味料も防腐剤も入れていません。豆の味噌から比べると大分甘いですね。
 始めは、1俵桶でたくさんつくってやっていたんです。その後生産量が増えて、酒屋に頼んで大きな丸い樽を分けてもらいやったりもしましたが、丸い樽は場所もとるしで、狭いところにたくさんしようとおもうと四角のタンクになりました。四角のタンクは、グラスファイバーで周木(しゅうき)(三瓶町)の造船所でつくってもらいました。本当は、木桶がいいんですが、最近は木桶をつくる人がいないのでできんのですよ。
 味噌が膨張しますので、仕込みはタンクの8分目くらいにまでにして、わき出してしまわないようにします。仕込んだら、一度に出すまでふたは開けません。寝かしている樽の中でも相当熱を出しており、グラスファイバーのタンクでも下の方が相当膨張します。
 夏仕込みで8か月くらい、冬仕込みで10か月くらい自然に寝かせると味噌ができます。寝かせる間に、麦もなれて、形がなくなるほどになります。
 頼まれて、大豆を入れるときには、はなのついた麦麴と塩をあわせるときに大豆を炊いたのを一緒にあわせるんです(大豆は全量の2割程度)。米麴をつくるのでも、餅米(もちごめ)を使ってくださいという人もいますし、好きずきですね。
 夏には味噌の中で活発に発酵して味噌が膨(ふく)れるので、ソルビン酸(*2)を少し入れるんですよ。都会にだすと、『膨れるんだが。』と苦情をいわれることがありますが、膨れるのが本当で、何年たっても膨れん味噌は中を殺してしまっているんです。素人から見ると膨れると中が変になっているんだと思うんでしょうね。今ごろは、何年たっても変化しないきれいなのを好まれるんですよ。味噌の賞味期限はだいたい1年くらいです。古くなった味噌は、キュウリなんかの味噌漬けをつくったりするのに使います。」

   e 麦味噌の販路

 「うちの販売先は、半分以上はよそ(三瓶町以外)ですよ。地元出身の人が、おみやげで持って帰って、その地域の人にあげたりして、口コミで全然知らん所から注文がきたりもしますよ。多くは、大阪方面ですが、遠いのはアメリカやオーストラリアなんかにも送ったこともあります。また、群馬県前橋市の業者で、大豆アレルギーの人のためにうちの麦味噌を送ってくれいうところもあります。関東の方は米味噌が多くて、麦味噌はつくっていても、大豆を入れます。うちの味噌は、麦麴だけでつくっていますので。」

 イ 味噌づくりをとおして

 **さん(西宇和郡三瓶町蔵貫浦 昭和2年生まれ 70歳)
 **さん(西宇和郡三瓶町蔵貫浦 大正15年生まれ 71歳)
 各地に、いろいろな形の地域おこしが盛んであるが、その中におふくろの味を生かすものもある。三瓶町の生活改善グループ「かめさん」もそうした取り組みの中で、味噌づくりを取り上げてきた。

 (ア)味噌づくりとの出会い

 生活改善グループ「かめさん」のリーダーである**さんに、味噌づくりのきっかけを聞いた。
 「昔は、各家庭の味噌づくりは1年間分の味噌をつくるので、お年寄りがものすごく神経を使っていてたいへんだなと思っていました。わたしが30代のときに、農協婦人部が近くの家の倉庫で農協の指導員をよんで味噌づくりの講習をするいうので参加しました。それがきっかけで、それまで味噌づくりをしたことがなかったのですが、お味噌をつくったんです。その時に『こんなに、簡単に味噌がつくれるんだったら、世話ないな。』と思ったんです。そして、うちは農家だから大豆も麦も材料は豊富にあるから、もし失敗してもまたやり直したらいいという気持ちで味噌づくりを始めたんです。初めてつくった味噌がたいへん上手にできたんで、味噌づくりに自信を持ったんです。それで、近くの農家の若嫁さんらに『味噌つくるのは簡単よ、味噌つくろ。』といって、うちの倉庫が広かったんで、みんなを誘って会員10名ほどで自家用の味噌をつくりだしたんです。それがいままで続いているんです。
 味噌が順調にいきだしたときに、これを生活改善グループの目玉にしようとして、製造許可と営業許可を取るために保健所の講習を受けにいったり、うちの倉庫を区切って、製品の保管室と製造室と原材料の貯蔵庫の3室をつくりました。これは、許可を取るために、この3室が必要だったんです。そして、そこを生活改善グループの加工場として使い、会員の自家用と三瓶町の文化祭で売る分をつくりだしたんです。
 生活改善グループでは、栄養面から大豆を使った味噌をつくってきました。大豆が入ると味がしっかりしてきます。
 その当時使っていたのは昔ながらの上から下まで太さの同じ味噌桶で、味噌を取り出すときには中蓋の空いているところから取り出して、その回りを中蓋でおさえておくんです。そうすると真中が盛り上がってきて、まわりはいつも空気に触れていないので変色しないし、上から下まで太さが同じですので、最後まで味噌は同じ状態で取り出すことができるんです。光線を通さないので回りが変色しませんし、ほどほどの水分の維持もしてくれますので、本当は木桶がいいですね(写真1-2-5参照)。」

 (イ)ひしおづくりのこつ

 **さんと**さんから聞いたひしおづくりの話をまとめてみた。

   a むしろではなつけ

 「ひしおの原料は麦と大豆です。
 麦(大麦)は洗って、3時間(夏場)か4時間(秋・冬場)水に浸しておくんです。それをせいろで蒸すんですが、湯気が出だしてから40分から45分蒸します。蒸した麦は、2重に敷いたむしろの上に新聞紙を2枚重ねて敷き(保温と水分を吸収するため)、さらに寒冷紗(かんれいしゃ)(目の粗い薄地の綿織物)を敷いた上に一山にして、その上から寒冷紗やむしろをかぶせて、温度を保ちながら、一時間ほど余熱で蒸すんです。
 大豆は、いって石臼で半割にして皮を風でとばして身だけにしておき、それに熱湯をかけて水分を加えておいたものと、さきほどの蒸した麦を混ぜます(大豆の量は、麦と同量まではかまいません。)。全体が38℃くらいになったところで、きつくもんで種麴をなじませるんです。そして、25~30cmくらいに積み上げ、真ん中の方が熱を帯びますので少しへこまして、ちょうどドーナツ状にしておいて、上から寒冷紗や新聞紙をかぶせて、さらにその上からむしろを1枚かぶせておくんです。だいたい、16時間か20時間くらいたったときに、一度手を入れて温度の加減を見て、38℃くらいになったときに、開いて全体をほぐして半分の厚さにするんです。そうして、溝をいくつかきっておいて、空気が入るようにするんです。その上に、寒冷紗を周囲からかけ、2枚の厚みの新聞紙をかけておきます。それから5、6時間したらまた36~38℃くらいの温度に上がっておりますので、また開けてほぐして、今度は全体を薄く広げ溝をきって、寒冷紗と2枚の厚みの新聞紙をかけて一晩おいときますと、翌日には真っ白いはながついとります(写真1-2-6参照)。
 種麴(もやし)は、1袋で麦2斗(36ℓ)用のものを、農協か麴屋から購入します。
 むしろが大切なんですが、今はいいむしろがなくて、昔のむしろを大切に保管しています。」

   b 醤油の混合・仕込み

 「はなが黄色くなりかけたときがつけ込む時期です。塩の変わりに醤油(濃口醤油)を入れます。だいたい、麦1斗(1斗は10升)に対して大豆6升を入れていまして、今は、これを2つにわけてその1つをプラスチックの樽に入れています。醤油の量は、手で押さえて見てじわっと醤油が出てくるぐらいがいいんです。翌日になったら、この水分は味噌が吸い取っています。毎日、つけ込んだ樽を傾けてゆするんです。そうして3日したらもう食べることができるんです。
 今は、精白した麦を使いますが、昔はあら麦といいまして、皮をかぶった麦を大釜でぱちぱちいわせていったものに、炊いた大豆を混ぜ、それに塩と水を入れてつくっていましたので、今のやり方と反対です。
 その中に、うなぎを取るときの竹筒のようなかごを入れておいて、その中に染み出してきた汁を醤油として使っていました。その回りのものも、ひしおとして食べていました。」

 (ウ)新たなスタート

 **さんたちの生活改善グループの活動も、今年(平成9年)から町の施設の一部を使って新たなスタートをきることになったが、そのいきさつや活動の様子を**さんに聞いた。
 「今年になって、町の方から生活改善グループへ、加工場の運営の話がきまして、この加工場で、味噌をつくるようになったんですが、材料の購入費がないし、つくっても3か月は売れないわけです。そこで、菓子製造の許可を取って、おまんじゅうなどの菓子をつくり、その収入で麦を買って5月から味噌づくりを始めだしたんです。できた味噌は、給食センターや老人ホームにも入れさせてもらってますし、びんびん市(*3)に出したりもしています。
 お菓子は、主にしば餅(サルトリイバラ〔サンキライ〕の葉でくるんだ餅)をつくって、びんびん市で売っていまして結構評判がいいんですよ。ただ、しばの葉が少なくなりましたので、今度はいも餅をつくろうとしています。それ以外に、夏かんやサマーオレンジのママレードもつくったりしていますが、自然のペクチン(*4)を抽出してやっていますので、手間がかかります。また、つくった味噌を使って鉄火味噌をつくったり、小魚をいれ込んだつくだにをつくったりもしています。
 味噌づくりにしても、おまんじゅうつくりにしても、ここだけはわたしらだけのものよというところがありますね。」


*1:子のう菌類である麴菌が菌糸の一部に胞子柄をつくり、その先端にいっせいに胞子をつけて白い粉を付けたようになった
  状態。
*2:カビ、酵母、好気性菌に対し発育防止作用がある。毒性は少なく、中性または酸性で抗カビカにすぐれ、特定食品の抗カ
  ビ剤に用いられる。
*3:三瓶町で、毎月第3日曜日に行われている。びんびん市の「びん」は、三瓶町の「瓶(びん)」からきている。
*4:植物体に広く分布するコロイド状多糖類。黄白色の無定形粉末で水に溶け粘度の高いコロイド溶液になり、それに酸と糖
  を加えるとゼリー状になる。

写真1-2-1 麦麴用のもやし

写真1-2-1 麦麴用のもやし

粉状の種麴(もやし)でうぐいす色をしている。平成9年11月撮影

写真1-2-2 洗浄機

写真1-2-2 洗浄機

現在の動力を使ったもの。平成9年11月撮影

写真1-2-3 麴のはな

写真1-2-3 麴のはな

蒸した麦に黄麴菌が一面に増殖している状態を、はながつくという。平成9年11月撮影

写真1-2-4 室の中ではながつく

写真1-2-4 室の中ではながつく

もろぶた(麴蓋)に入れた蒸し麦に白くはながついている。平成9年11月撮影

写真1-2-5 味噌桶(一俵桶)

写真1-2-5 味噌桶(一俵桶)

中蓋の中空の所から味噌をとっていた。平成9年11月撮影

写真1-2-6 むしろではなつけ

写真1-2-6 むしろではなつけ

室の中で麴菌を増殖させている。手前の新聞紙は、写真撮影のためとってある。平成9年11月撮影