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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 国定公園石鎚の誕生と面河渓開発

(1)面河渓への道路開発

 昭和30年(1955年)、石鎚山は国定公園に指定された。この出来事はこれまでの観光スタイルが一変する大きなきっかけとなった。指定に伴い観光客数の増大が見込まれ、直前から面河渓周辺の自動車道および林道の整備は急速に進み、五色橋(ごしきばし)や鉄砲石川(てっぽういしかわ)に抜けるトンネルや遊歩道もこのとき造られた。まず、昭和27年(1952年)に関門から五色河原までの林道開発工事が始まり、昭和30年(1955年)に完成した。五色橋から鉄砲石川へと抜ける林道工事は昭和29年に始まり、昭和36年に完成した。この激変ともいうべき面河渓開発を目の当たりにしてきたAさんに当時の様子を聞いた。
 「関門のトンネルの工事は昭和30年直前だったと思います。掘り出した岩や土砂は谷底に落としたため、清流が河原になったほどです。水は土砂の下を流れていたので上を歩けるぐらいになっていました。当時は面河ダムの承水堰(しょうすいぜき)がなかったので川の水量は多く、そのままにしておいても土砂は自然に流れていきました。
 通天橋(つうてんきょう)が完成する前、橋台しかできていなかったころは、その上にワイヤーを張って資材を運びました。関門のトンネルは既にできていたので通天橋まで車で資材を運び込み、ワイヤーを使って対岸に運んだ後、荷車で引っ張っていきました。橋ができてから資材が運びやすくなったため、その後すぐに五色橋ができました。鉄砲石川(てっぽういしわか)の方へ入るトンネル(現在の国民宿舎面河の裏にある)を掘って、掘ったときに出た石は崩してセメントに練り込むバラス(砂利)にして使いました。下から運んだのは砂ぐらいでした。
 五色橋ができるまでは鉄砲石川に行くには、今、面河ダムの承水堰ができている場所辺りに吊(つ)り橋があったので、それを使っていました。かなり老朽化していましたから昭和38年(1963年)の豪雪の時に雪の重みで落ちてしまいました。対岸に渡る別の方法としては、五色河原に仮の橋があったのも覚えています。岩の上に40cmぐらいの幅の、確かモミの大木を板にしたものでした。それを渡ったら梯子(はしご)がかけてありました。」
 昭和43年(1968年)から44年にかけて、関門から五色橋までの区間の一部は観光客による混雑を解消するため、幅員がこれまでの2倍程度まで広げられた。これによりほぼ現在と変わらない道が完成したことになる。

(2)宿泊施設の建設ラッシュ

 国定公園指定前、面河渓中心部には宿泊施設が渓泉亭(けいせんてい)1軒しかなかった。しかし、関門から面河渓までの道の整備が進むと同時に、新たに3軒が建設された。渓泉亭の手前に公立学校共済組合山荘が、紅葉河原近くに県健康保険組合山の家が、鶴ヶ背橋(つるがせばし)を渡ったところに面河ヒュッテ「山の家」がそれである。現在、建物は面河ヒュッテ「山の家」と渓泉亭しか残っておらず、それぞれ宿泊の対応はしていない。観光施設がひしめきあった当時の盛況ぶりは相当のものであったことが想像される。この当時の賑(にぎ)わいについてAさんは次のように振り返った。
 「関門から奥の車道ができるまでは、トラックの荷台に乗ってやって来る観光客をよく見ました。昭和30年ころからは貸し切りバスが多くなり、旧道(現在の関門遊歩道)を人がずっと埋め尽くした時もありました。文化の日は特に多く、関門辺りでは車が身動きとれないほどでした。秋の観光客の交通整理は安全協会の人がやっていましたが、異常なほどの混雑ぶりから観光客に怒られてしまうので、逃げだす人もいました。営林署で働いていた私も駆り出されて、土日は大忙しでした。後の掃除もしましたが、ゴミはすごい量でした。トイレは渓泉亭と面河ヒュッテ『山の家』だけにしかないため、全く足りていませんでした。」
 「山の家」は戦後、面河渓の保勝と宣伝に尽力した中川愛美さんにより、昭和24年(1949年)に関門に建てられた。無料宿泊が可能で、一般登山家や探勝客が利用していたらしい。昭和30年に現在の場所に移設されている。面河ヒュッテ「山の家」が昭和25年(1950年)から30年までに発行したと考えられる観光案内パンフレットでは「山の家」がまだ関門に位置しており、渓泉亭周辺に他の宿泊施設が存在していない。また、昭和25年に若山から関門に移った中川紅緑館(こうりょくかん)が表記されていることから、上記のように発行年を推定した。このような名所を紹介するパンフレットを片手に、人々は渓谷内を探勝していたのだろう。