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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 久万町の町並みをたどる

(1)町の中心地、本町と桂町

 本町、桂町は旧国道33号(久万本通り)と大宝寺門前へと向かう遍路道が重なる区間であり、古くから久万町の商業の中心地であった。明治10年(1877年)の久万町地籍図で町並みの地価等級(地租改正時に交通の便否、商業の盛衰などを考慮して定めた宅地の等級)をみると、本町が38、37、36等級、桂町が38、37等級とあり、他の町よりも高い等級になっている。なかでも久万本通り(後の旧国道33号)と大宝寺門前の道が交差する地点が38等級と最も高くなっており、当時の町の中心地であったことがわかる(図表1-1-2参照)。
 「久万町の商店街は昭和30年代までは賑(にぎ)やかでした。同じ町内でも明神(みょうじん)や菅生(すごう)の人は、久万の商店街へ行くことを『マチへ行く。』と言っていました。面河や美川から買い物に来ていた人は、当時の久万の町はものすごい都会という感覚を持っていたようです。面河や美川の人は現在でも『あの当時(昭和30年ころ)の久万の町はよかったな。』などと言って懐(なつ)かしがっています。当時の商店街の中心は、本町と桂町の境目にあたる辺りで、町の人はみんな『四つ角』と呼んでいました。旧国道(久万本通り)から大宝寺の門前へ行く角になるので昔から賑わっていたのだと思います。『四つ角』の北東角には弘化5年(1848年)に建立された遍路道標が残っています。久万川にかかる橋も総門橋(そうもんばし)と岸(きし)の下(した)橋の二つしかなかったので、菅生や直瀬(なおせ)、畑野川(はたのがわ)の方に行くにはどちらかの橋を渡らなければならなかったのです。
 昭和29年(1954年)から久万町内の道路舗装工事が始まり、最初は曙町の国鉄久万駅(国鉄バスの停留所)から住安町の製瓦(せいが)所までの間が舗装されたのですが、それ以前は砂利道(じゃりみち)だったので、夏の夕方になると打ち水をして、縁台を店の前に出して将棋を指したりしながら日が暮れるまで涼んで帰っていました。
 私(Bさん)が子どものころは、まだバスや自動車がほとんど通らなかったので、道路で縄跳びをしたり、コマを廻(まわ)したりして遊んでいました。子どものころに、かくれんぼをして遊ぶときには、家の近所にあった醸造(じょうぞう)所の蔵の中に隠れていました。蔵の中は醤油(しょうゆ)の独特のにおいがしていたのですが、大きな樽があったので隠れるにはちょうどよかったのです。醸造所の隣にある醤油屋さんは、もとは酒造業を営んでいました。私(Aさん)の友だちがそこで働いていたので、酒蔵で樽からポツポツと落ちる新酒を飲ませてくれていました。」

(2)官公署が集中していた住安町

 住安町は藩政時代に松山藩の会所(藩が専売品を生産管理、直接販売を行うために設置した役所)が置かれていた。そこに明治、大正時代は郡役所が置かれたが、大正15年(1926年)、郡制廃止により旧町役場(昭和37年に曙町へ移転)となった。江戸時代から久万町の玄関口であり、昭和30年(1955年)ころは町の北側には役場や法務局、警察署など官公署が集中していた。
 「町役場の横の公民館は久万造林の寄付で建設され、小規模でしたが県立図書館の分館が併設されていました。昭和30年代初めころから婦人会や青年団などの活動が活発になり、公民館を中心に結婚式の簡素化など『新生活運動』が始まったのです。昭和30年代は町内でも家電『三種の神器』と言われた白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が普及するなど、生活様式が大きく変化した時期でした。テレビが出始めのころに、商店街の散髪屋2軒と食堂と電気屋にテレビを置いていたのですが、昭和34年(1959年)の皇太子殿下(平成天皇)のご成婚パレードなど、大きな出来事が放送されるときには、みんなが店の外からテレビを見ていました。『ちょっと頭を下げよ。』『前の人は座れよ、真ん中の人は中腰ぞ、後ろの人は立てよ、その後ろはイスの上に上がれよ。』、当時はまだ、みんな下駄を履いていたので『前の方は下駄を脱いで低くなれ。』などと言ってテレビを見ていました。
 当時は、久万の町が賑やかだった時代で、夜中までカラン、コロン、カラン、コロンと下駄の音が響いていました。」

(3)福井町と福井座

 福井町には鴇田峠(ひわだとうげ)を越えて辻から下ってくる遍路道と土佐街道が交差するT字路があり、嘉永5年(1852年)に福井町の町人によって建立された遍路道標が残っている。そこから大宝寺門前への道は隣接する桂町とともに人通りの多い町であった。また、福井町には福井座という常小屋(じょうごや)があり、映画(活動写真)や芝居、歌舞伎が行われていた。現在のように娯楽のない時代に福井座で興行される映画や芝居は子どもから大人までが楽しみにしていた。

 ア 福井町

 「現在のスーパーマーケットの始まりになる『主婦の店』が町内にできたのが昭和30年代で、町内では福井町の2軒の店が始めました。セルフサービスで商品は衣類、履物(はきもの)、文具、小間物(こまもの)(化粧品などのこまごましたもの)など多くの品揃(ぞろ)えをして、ディスカウントをして販売する商法をとって流行(はや)っていました。福井座の入口にあるアイスキャンディー屋さんと曙町の精肉店ではアイスキャンディーを作っており、店の前を通るとトントントンという冷凍機のモーターの音がしていました。自転車の荷台に氷と書いた旗を立てて、チリン、チリンと鐘を鳴らしながら、野尻から明神の方まで売りに来ていました。
 福井座の前の小道を通ると、うどん屋のうどんのおいしそうなにおいがただよっていました。現在では、食べたいと思ったらいつでもうどんを食べることができるのですが、当時はそうではなかったのです。病気になったときなどに『うどんが食べたい。』と言うと、『それなら、うどん作ってやらい。』と食べさせてもらえるくらいでした。ましてや、食堂でうどんを食べるようなことは、めったにありませんでした。」

 イ 福井座の思い出

 「福井町の呉服店の横の小道を裏へ入って行くと、川べりに福井座がありました。大きな2階建の建物で、歌舞伎、浄瑠璃(じょうるり)、芝居、映画が行われていました。昭和30年ころには、舞台あいさつに大物役者や俳優が来ていました。歌舞伎役者の松本幸四郎(八代目)も来たことがあります。有名な役者が来るときには、宣伝のため『チンドン屋』が出て町中を練(ね)り歩いていました。福井座は戦前からあるのですが、いつごろできたのかは知りません。私(Aさん)が子どものころには、福井座の裏側の小道から役者さんが化粧をしているのが見えました。ドーランで化粧をしている姿をじっと見ていました。
 ほとんど毎日何かの興行がありましたが、映画が多かったです。昭和20年代は、映画とは言わないで活動写真と言っていました。私(Cさん)は、小学校6年生の時(昭和27年ころ)に学校から帰ると時々、福井座で映画を観ていました。お父さんが吉田峰雪という有名な活動弁士をしている友だちがいたので、裏からこっそり入れてくれていたのです。そのころ上映されていた映画はほとんど無声映画で、内容を口頭で解説する活動弁士がいました。トーキーの映画が主流になるのは、昭和30年代に入ってからでした。平日の昼間でも20、30人はお客さんがいて、冬になると福井座の真ん中に大きなストーブを置いていたのですが、薪(まき)のストーブだったので2階の席は煙(けむ)たくてたまりませんでした。
 久万で最初にカラー映画が上映されたのは、ディズニー映画の『砂漠は生きている』でした。私(Eさん)が小学校5年生か6年生の時でした。明神小学校から先生が引率してくれて観に行ったのですが、はじめて総天然色(カラー)の映画を観てすごく感動したことを覚えています。町内には何か所か映画の案内掲示板があって、プログラムにあわせて次回上映予定映画のカラー刷りのポスターと上映日を書いた紙を自転車で貼って回っていました。映画は2本立てで、3、4日上映されていました。明神には、農協前と明神小学校の下と仰西(こうさい)の3か所に掲示板がありました。まだ、テレビが久万では映らないころで、福井座へ学校から文部省の推薦映画を観に連れて行ってくれるのを楽しみにしていました。座席は200席余りあったと思います。中学校から鑑賞に連れて行ってくれた『ノンちゃん雲に乗る』(昭和30年公開)は、全校生徒の半数を上回る子どもが来ていて、一杯でした。」

(3)曙町と省営バス

 曙町には国鉄バス駅と伊予鉄バス駅が斜めに向かい合う形で設置されていた。昭和9年(1934年)に省営バス(国鉄バス)が久万-松山間の運行を開始し、昭和19年(1944年)には伊予鉄バス駅が置かれ上浮穴郡内への運行を始めた。戦後、バスの大型化により利用者も増え、二つのバス駅を中心として人が集まり周辺が発展した。また、省営バスが運行する以前の大正9年(1920年)には久万索道株式会社が創立されて久万-森松間の貨物輸送が開始された。国鉄駅から西に上がる道は久万索道駅(現在の久万高原町役場)に通じており、戦前の曙町は物流の拠点でもあった。

 ア 省営バス

 「昭和30年(1955年)ころの人々の移動は、バスが主でした。松山へ行くときは、ほとんどの人がバスを利用していました。久万-松山間のバスは昭和9年(1934年)から省営バスの運行が始まっています。省営バスというのは運輸省(戦前は鉄道省)が営業していたバスのことです。戦中、戦後のしばらくの間は木炭バスでした。昭和30年ころには国鉄バスになっていましたが、昔のなごりで多くの人は『省営バス』と呼んでいました。久万から面河や美川、小田に行く路線は伊予鉄バスが運行していました。
 現在は松山まで1時間ほどで行くことができますが、昭和30年ころは2時間半ぐらいかかっていました。冬に雪が降ると半日かかるということもあり、『バスで松山へ日帰りで行った。』と言うと皆が『へぇー』と驚くぐらいだったのです。昭和41年(1946年)に昭和天皇が植樹祭で大久保(おおくぼ)(松山市久谷町)へお見えになるということで、国道33号の三坂峠辺りの改修が進み時間も短縮されました。バスは昭和28年(1953年)にそれまでの小型のボンネット型のバスから大型バスになりました。当時ロマンスカー(ロマンスシートと呼ばれた二人がけの座席を設けたバス)と呼ばれていたバスに変わったのですが、いつも満席で『今日は松山まで立ったままだった。』とか『子どもが寝ているから、席を譲ってあげた。』などとバスに乗った人たちがよく言っていました。
 商店街の道幅は、現在とほとんど変わりません。そこをバスが行き交っていたのです。現在のバスよりも小型のものだったので何とか離合ができたのですが、11月の秋祭りが終わり、面河渓(おもごけい)の紅葉の時期になると紅葉狩りに行くバスが増え、商店街の中を通って行くので離合がなかなかできないため渋滞し、バスが家の軒(のき)や庇(ひさし)に当たってそこが削られたり、電柱に当たって傷がついたりしていました。昭和42年に国道33号のバイパスが開通して久万町の中心が段々とバイパス沿いに移るようになりました。国鉄バスや伊予鉄バスの駅もバイパス沿いへ移転し、旧道での渋滞もなくなりました。道路が整備され車が普及したことにより松山へ行く時間が短縮されて、買物やレジャーなど、生活様式の変化とともに生活圏が広がったのですが、商店街の顧客の町外への流出が始まったのもこのころからです。」

 イ 青木大明神

 「伊予鉄駅の北西隅に『青木大明神』が祀られています。戦国時代に長宗我部軍が伊予に攻めよせた時に、戦死した武将を祀(まつ)っているといわれています。八月末に子ども相撲(ずもう)を奉納していますが、そのいわれは〝昔この町のたくさんの家で長男が早世することが頻繁(ひんぱん)に起こったので、古老たちが集まって相談し、『子ども相撲をして、武将の霊をお慰めすれば、そのような災いは無くなる。』ということになり、子ども相撲を奉納すると平安になった。〟と伝えられています。現在も子ども相撲は続けられています。」

図表1-1-2 明治10年(1877年)の久万町地価等級図

図表1-1-2 明治10年(1877年)の久万町地価等級図

『明治10年の久万町地籍図』および『地価一筆帳 上浮穴郡久万町村』から作成。