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愛媛の景観(平成8年度)

(2)もっこを担いで

 **さん(松山市南吉田町 大正14年生まれ 71歳)
 **さん(松山市南吉田町 昭和8年生まれ 63歳)

 ア 吉田浜の埋め立て

 松山海軍航空隊の飛行場建設の様子について、**さんに話をうかがった。
 「松山海軍航空隊の飛行場建設が着手されたのが、昭和16年(1941年)のことです。これに伴い吉田浜の海岸線、すなわち忽那(くつな)山から南約3kmが埋め立てられました。
 埋め立て工事前の吉田浜は、高さが10mから15mの砂の小丘と湿田が交互に広がっていました。また、海岸沿いにはクロマツの林が続き、秋になるとその中に松露(しょうろ)(香りの強い食用キノコ)がとれました。この小丘の砂を取って高さの低いところへ持っていってならしました。その作業に使ったのがトロッコとエンジン付きの『ガソリンカー』でした。ガソリンカーというのは、ディーゼル機関車を一回り小型にしたもので、それが線路の上を、20両くらいのトロッコを引っぱって走っていました。当時の工事のほとんどは、機械を使わない人力が主でしたから、トロッコの砂の積み降ろしは、すべて人間がしていました。トロッコには、より多くの砂を積めるように縁の高さを高くするための木の枠が取り付けてありました。トロッコ1台に作業員が2人ずつついて砂を積みます。まあ、相手が砂ですから、スコップも土に突き刺すよりは入りやすいですし、力もそれほどはかかりません。砂を降ろす場所に着いたら、まずその木枠をはずし、次にトロッコの片方に木の棒を突っ込んで、その棒を担ぎ上げてトロッコを傾け、砂を降ろします。空になると丘へ戻りそこで再び砂を積み込みます。これを繰り返して地面の高さが平均化されると、高さの低い別の場所へ線路を寄せて(移動させて)いきます。これを『線路よっこ』といいました。この線路よっこの作業もすべて人力です。
 飛行場を作るための埋め立ての6割くらいは、浜の小丘を削り取った砂でできています。残りの4割くらいは、浜の砂が足らなくなったので、海底の砂を『サンドポンプ』で吸い上げて使いました。船を浮かべ、海水と砂とを一緒に船に吸い上げます。船から陸地までの間には、パイプが海面に浮いた状態で渡されていて、吸い上げられた海水と砂はそのパイプを通って埋め立て予定場所にまかれます。このパイプは人がその上を楽に歩いて通れるくらいの太さです。まかれると、海水は自然と流れ出していき、後には砂だけが残ります。こうして埋めていくわけです。昭和18年(1943年)に入り、埋め立て工事も終わりに近づいたころ、現在、工事現場などで見かけるパワーシャベルが使われるようになりました。ただし、動力は蒸気力でした。
 砂で埋めただけでは、地面が不安定ですから、地固めのため『ぐり石(直径10~15cmの丸石)』を敷きました。続いて飛行場の滑走路をコンクリートで固め始めたのが、昭和18年4月ころです。出来上がった滑走路の周りには、切芝を張ったのですが、それは女の人の仕事でした。この工事にかかわる『人夫賃(にんぷちん)』には、1種、2種、3種の等級がついていました。『1種人夫』というのは、現場監督のこと、2種はその下で、3種が平の人夫です。この『3種人夫』で1日1円50銭くらいの賃金じゃなかったかと思います。賃金は、1月に2回、15日ごとに、通貨ではなく金券(通貨と引き換えられるべき紙幣)で支払われていました。労働時間は現在とだいたい同じで、朝8時から午後4時30分ころまでだったと思います。
 また、この飛行場づくりには、県内各地の青年団も勤労奉仕で加わっていました。一つの青年団が10日間ずつ、自宅に帰ることなく飯場に寝泊まりしながら働いていました。『奉仕』ですから当然無報酬でした。」

 イ 夕日に浮かぶ掩体壕

 松山空港の周辺を歩くと、コンクリート製の奇妙な構造物が目につく(写真4-2-3参照)。戦争中に戦闘機を格納するために作られた掩体壕(えんたいごう)である。掩体壕づくりについて、実際に作業をした経験を持つ**さんに話をうかがった。
 「掩体壕は、現在は周りを田や家に囲まれてしまい、ぽつんとあるように見えます。しかし、もともとは道幅が14mくらいの誘導路で飛行場と、あるいは掩体壕同士が結ばれていたんですよ。掩体壕はここ吉田地区には10くらいありました。現在、残っているのは三つです。また、掩体壕同士の間には、至る所に土まんじゅうのような土手を築いて、敵戦闘機の襲来に備えて対空機関砲が据えられていました。
 掩体壕の入り口は誘導路に面し、横方向に滑らせて開閉する押し戸が付いていました。戸は幅15cmくらいの木枠でできており、間に砂と小石が詰められて木枠を補強していました。大人2人や3人が押したくらいでは動かないほどの重さがありました。入り口部分以外の三方、つまりコの字型には、爆風除けのために壕と同じ高さの土塁が築かれていました(現在では取り除かれている)。これくらい頑丈な作りにしていないと、爆撃を受けた時、壕の中の戦闘機を爆風から守ることはできません。戦闘機1機が当時の値段で30万円くらいしていました。家1軒の建築費用が1,000円から1,500円という時代でしたから、どれほど戦闘機が高価で貴重だったか分かるでしょう。
 昭和19年(1944年)から掩体壕が作られはじめました。田を埋めて整地をし、その上に作っていったんです。作業には、一般の徴用の人と、旧制中学の生徒とがきていました。現場監督は、海軍の下士官です。その見張りは怖かったですよ。主に、徴用の人がコンクリートの部分を、学徒が土塁を作りました。学徒がもっこを担いで土を運んで築いていくんです。もっこは、1m四方のむしろの四角(よすみ)のそれぞれに縄を付けて、その縄に棒を通し、棒の前と後ろを2人で担ぐ運搬用具です。その土は、誘導路以外のところを掘って持ってきました。ですから、掩体壕の周りの田には穴があき、そこに雨水がたまって池のようになっていました。
 現在、田や畑の中に掩体壕だけがぽつんとあるように見えるのは、終戦後、この地区の農家の人が、自分たちで掩体壕の土塁や対空機関砲用土手を崩し、誘導路を取り除き、掩体壕が作られる以前の田の姿に復元したからなんです。その作業は、並大抵の苦労ではなかったです。終戦後の占領の時期は、掩体壕は米軍の弾薬庫になっていました。占領の終了後からは、現在まで物置として利用されています。」

写真4-2-3 今も残る掩体壕

写真4-2-3 今も残る掩体壕

松山市南吉田町。平成8年5月撮影