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愛媛の景観(平成8年度)

(1)甘さの思い出

 **さん(松山市西垣生町 大正8年生まれ 77歳)
 **さん(松山市東垣生町 昭和6年生まれ 65歳)

 ア 「さとくり小屋」のある風景

 昭和20年代(1945~54年)までの砂丘上の畑作物の一つに甘蔗があり、栽培された甘蔗からは『たきごみ(粗糖(そとう))(*1)』が作られていた。当時、甘蔗栽培とたきごみづくりに従事していた**さんに話をうかがった。

 (ア)甘蔗の栽培

 「垣生地区の海岸端の砂地では昔から甘蔗の栽培が盛んでした(*2)。甘蔗は、砂地で栽培したものの方が、土で栽培したものよりも糖分が多くなるんです。ですから、この垣生や松前町黒田地区などの海岸端の砂地は、甘蔗の生産地に適していることになります。
 昭和22年(1947年)ころの話ですが、植え付け用の苗は、秋に収穫する時に束ねて砂の中に埋めておくんです。そして、春になってからそれを掘り出して、節を残すように20cmくらいずつの長さに切り、それぞれを1mくらいの間隔で畑の畝(うね)に植え付けていきます。甘蔗は節から芽が出るんです。植える時期は3月ころですかね。
 栽培する作業のなかでは、『谷をとる』ことが大変でした。『谷をとる』というのは、甘蔗の背丈が高くなって不安定になってくると、『タニトリ鍬(くわ)』で茎の根元に土を寄せてきて、風で甘蔗が倒れるのを防ぐことをいいます。甘蔗は、50cmくらいは茎が地面に埋もれていないと、背丈が高いだけにすぐ倒れてしまいます。倒れると、根が地中から出てしまいますから、甘蔗の成長は止まり、あとは腐るだけです。『谷をとる』のは夏の間に3回くらいはしないといけないのですが、暑いからといって上半身裸で作業をしたら、甘蔗の葉で体を切ります。ですから、ほおかぶりをし、長そでの服を着て肌を出さないようにしてするのですが、長さ50mくらいの畝の谷とりをやり終えると、それこそもう汗びっしょりです。それと、収穫間近の10月ころは台風が来る時期でしょう。台風の風で甘蔗が倒れるのを防ぐために、畝の中央に杭をうち、その杭を柱にして丸太を横につないで伸ばし、それで甘蔗を両側から挟んで縄で結びつけていきました。これもほんとうに大変な作業で、地区のみんなが総出でしました。収穫の時期は、10月の終わりから11月にかけてでしたね。
 昭和30年(1955年)ころから後の甘蔗畑は、飛行場や企業団地・住宅地へと変わっていき、今はもうその面影はありません。」

 (イ)たきごみづくり

 **さんの話が続く。
 「甘蔗を収穫した後、『さとくり』が始まります。さとくりというのは、たきごみづくりのことで、11月ころから翌年の2、3月ころまではやりよったですよ。
 大正時代末ころのことですが、甘蔗を搾る作業は、『さとくり小屋』と呼ばれた小屋の中で、牛に臼(うす)をひかせてやりよったんです。そういう小屋が、4、5か所ありよったね。ですから、さとくり小屋の広さは、牛1頭が臼の周りを回れるくらいありましたね。
 わたしがたきごみづくりの作業員として従事するようになったのは昭和22年(1947年)ころです。たきごみは、5人から10人、大きいところでは20人くらいが資金を出しあって一つの株式組織を作り、工場を建てて製造していました。製造の作業は、夜勤と昼勤の2交代・24時間体制で行われ、その交代は、朝6時ころでした。
 そのころは、もう牛と臼を使って甘蔗を搾るのではなくて、電気モーターを動力とする鉄製のローラーに甘蔗をかまして(挟んで)搾っていました。搾り機の下にタンクを置き、搾り汁をうけます。搾り汁は真っ黒い色をしています。これがタンクに一杯にたまったら、ひしゃくでくみ出して、今度は、『砂糖だきの釜(かま)』へ入れてたくんです。この釜は、口の周りに木枠をはめ込んで、普通の釜より口を高くして搾り汁が多く入るようにしてあります。この時に汁と一緒に石灰を入れます。ふたをしてとろ火でたき続けると、表面に浮き出たあくの泡が、木枠の切り込み口からあふれ出ます。約1時間たいていましたかね。あくは、目の細かい布で作った特製のひしゃくを使ってすくい取りもします。
 このようにしてたいた汁を、今度は『スマシ』という高さが1mくらいで木の栓が取り付けてある桶(おけ)に、釜からひしゃくでくみ出して移し変えます。このスマシの中で、あくを吸い取った石灰やその他の不純物を沈殿させ、上澄み液を木の栓から流し出して、同じように木枠をつけた隣の釜に注ぎ込みます。ですから、釜は2つ1組で使うことになります。釜に流し入れた上澄み液を、次は、べとべとに粘るまで煮詰めます。煮詰めて水分をとばしきってたきごみにするわけですから、常に混ぜていなければ焦げ付いてしまいます。竹製の長い竿で約30分間混ぜ続けるのですが、この作業がなかなか大変なんです。これをする人のことを『仕上げ師』とか『上げ師』とよんでいました。いわゆる職人さんで、たきごみづくりの専門家ですね。呼ばれれば小野村(現在の松山市の東部)まで仕事をしに出かけていきよったそうです。小野村でも甘蔗の栽培とたきごみ作りはしよったんです。でも製品の質は、あまりよくなかったようです。たきごみができたかどうかは、煮詰めたものを水の中にぽとっと落としてみてその固まり具合で分かりました。煮詰め終わる時には、火を消すことも兼ねてかまどのたき口から中へ、釜の尻へ向かってひしゃくで水をかけ一気に冷します。
 煮詰め終わったものを、次は、つぼへ移します。つぼへ移してからも、5分から10分たつごとに混ぜなければなりません。それでかなり『シャリ』がきたら(ざらついてきたら)、20斤(1斤は約600g)とか30斤というように計量して木箱に入れ、それが固まったら、箱の上に『〇〇工場生産』と書いた紙をはって出荷するんです。ですから、たきごみは、今わたしたちがよく目にする白砂糖のように砂状のさらさらしたものではなくて、固まりなんです。わたしの祖父の時分には、たきごみの固まりをてんびんで担いで行商に出ていました。三味線のばちのようなものをその固まりにあて、それをかんかんとたたいて割って量り売りしていたようです。
 今はもう、たきごみはないのじゃないですか。たきごみづくりには人件費がかなりかかるので当然値段は高くなります。ですから、白砂糖には販売競争で勝てないんです。」

 (ウ)「歯固め」の味

 たきごみにまつわる思い出を、『垣生のあゆみ(③)』の編さんに携わり垣生地区の歴史に詳しい**さんにうかがった。
 「現在のように、お菓子などの甘いものが豊富にある時代ではなかったですから、たきごみを少しずつかじって食べよったですよ。また、『歯固(はがた)め(かきもちのこと(④))』に挟み込んで食べることもありました。もちが焼けて膨らんでいくとともにたきごみが中で溶けてずうっと広がり、さらには外にも溶け出てきて、それはおいしかったですよ。また、『歯固め』はもち米と粉米(こごめ)(玄米をついて精製する時にくだけた米)を混ぜてもちをつくのですが、その時に一緒にヨモギの葉を入れ、さらにたきごみを入れて作ることもありました。このもちを焼いて食べると、これもおいしかったですよ。今はもうこのあたりでは、個人の家で『歯固め』を作ることはほとんどなくなりましたね。」
 最後に、垣生地区の景観の変化について、再び**さんにうかがった。
 「この垣生地区の景観の変化には驚かされますね。第一、浜辺がなくなってしまいましたからね。かつては、ポンポンと音をたてながら海の沖をすべっていく船を眺めることもできましたし、波の穏やかな海水浴場では、子供たちがそこで泳ぎ、腹がへれば、蛸(たこ)めしを食べるという光景も見られました。今は、この地区の子供たちは、プールで泳がなくてはいけないようになりました。そういう光景を見ると、やはりどこか寂しい思いがしますね。」


*1:甘蔗の茎を圧搾した汁に石灰乳を加え、不純物の大部分を除去した糖液から結晶させたままの砂糖。糖分96%。粗糖を
  溶解して遠心分離機で糖蜜を除き、骨灰で脱色し、結晶・生成させた白砂糖を製糖という。
*2:垣生地区の甘蔗栽培は、今から約230年前に讃岐の国から宇摩郡を経て伝わったものといわれている。明治20年(1887
  年)ころが全盛で、製造家46軒で耕地面積は40町を越していたという(③)。