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愛媛の景観(平成8年度)

(1)田ごとの月影

 西条市千町(せんじょう)には見事な棚田が見られる(口絵参照)。棚田は、標高約150mから500m程度にまで及び、そのすばらしい眺めは、能登半島(石川県)の千枚田に肩を並べるほどである(⑥)。かんがい用の池もなく、ただ山腹斜面を流れる谷川の水を利用するのみという自然条件のもとでの約20町(1町は1ha)という広さは、全国的にも珍しいといわれている。
 ここでは、この棚田とともに生きる千町の人々のくらしぶりを探った。

 ア 斜面に生まれた田地

 **さん(西条市藤之石本郷 大正7年生まれ 78歳)
 **さん(西条市千町    大正9年生まれ 76歳)
 **さん(西条市千町    昭和7年生まれ 64歳)

 (ア)平地をつくる

 千町地区は、傾斜地であると同時に地滑り地でもある。このような土地にどのようにして田地を作り出し、またそれを維持し続けているのであろうか。千町で農業を営んでいる**さんにうかがった。

   a 田んぼを開く

 「山腹斜面に田んぼを開くには、山手側は斜面を削り取り、その時に出た石を反対側に積み上げて(積み上げる角度は山手側に約15°傾ける)平らな部分を作り出します。ですから、山が『なそい(傾斜が緩やかな)』ところは、石を少し積み上げるだけで奥行きの広い田んぼができます。それに対して、山腹斜面の傾斜角度が30°を越える『きぶい(傾斜が急な)』ところになると、『ギシかけ』の高さが2尋(ひろ)(1尋は5尺または6尺〔1尺は約30cm〕)くらいあっても、田んぼの奥行きが1尋ほどしかないところもあります。1反(0.1ha)がそのまま1枚の田んぼになっているものがあったり、田んぼ1枚が30坪(約1a)ほどのものがあったりと様々です。」

   b 地滑りと闘う

 「千町地区のすぐ下を、国道194号に沿って谷川(加茂川の支流の河川名)が流れています。この谷川の川岸周辺は『ギチ』という白い土で構成されています。この土は、雨が降ったら非常に柔らかくなって、川へ流れ込んでいくんです。千町地区の傾斜地を下で支えている土が流れて無くなっていくわけですから、地滑りが起こるのです。約50年間で30cmから40cm、ひどいところは1mくらい滑ります。このギチが、川沿いに散らばって分布しているからやっかいなんです。川岸一帯がギチならば、千町地区全体が一斉に地滑りします。しかし、散らばっていますから、例えば、1枚の田んぼの両端が下がって、中央の部分が下がらずにそのまま残るということが起こります。こうなると、1枚の田んぼの中で段差ができ、水をためた時の深さが部分ごとに違って、苗がうまく育ちません。
 段差を直すのはなかなか難しい。いったん、田んぼの表土を全部取り除いて、ギシかけに寄せます。それから、段差を水平にならして地固めをし、その後、寄せてあった表土を元に戻します。現在の労賃でこの作業をやるとしたら、田んぼを買うのと同じくらいの費用がかかるほど大変な作業なんです。ですから、現在はここまできちんと直すことはせずに、表土だけをならしたり、あるいは、横に長い1枚の田んぼを何枚もに小さく区切って、段差が目立たなくなるようにしながら米作りをしています。でも昭和20年(1945年)くらいまでは、15年から20年に1回は必ずこの作業をやっていましたよ。」

 (イ)水をめぐって

 米作りに水は欠かせない。千町地区での水の利用はどのようにしているのだろうか。**さんの話が続く。
 「山腹斜面を流れている小さな谷川から水を引いてくるわけですが、そのために、地面に深さ5寸(1寸は約3cm)くらいの水路を掘ったり、あるいは、モウソウチクを割って作った樋(写真4-1-16参照)を2、3本継ぎ足したりしていました。地面に掘った水路には、漏水を防ぐために赤土を練って敷き詰めますが、それでも水は途中で土に染み込みます。竹樋でも、継ぎ目から水が漏れます。でも、それがこの地区全体の田んぼにとっては良いことなんです。なぜかというと、水が染み込んだり漏れたりすることで、水を引いてくるまでの途中の田んぼにも水がたまる効果があるからです。
 また、1枚の田んぼに水をためると、すぐ下の、あるいは2、3段下の田んぼの『ヨセ(ギシかけの根本の部分)』から必ず水が染み出して、それが次の田んぼにたまっていきました。田んぼ1枚ごとにすべて谷川から水を引くのではなく、このようにして水をためていきますから、自分のところよりも上段の田んぼが荒れてしまうと、もうヨセから水が染み出してこなくなり、自分のところの田んぼも水不足で米作りができなくなってしまいます。つまり、谷川に沿って縦一列に並んだ田んぼは、水を利用することに関して一つの運命共同体なんですね。ですから、いくら隣の田んぼが水不足で困っていたとしても、おいそれとは水を分けてやることはできないんです。それをすると、今度は自分のところより下段の田んぼに水不足をもたらすことになるからです。自然条件をうまく利用して、あるいはそれに適合しながら、米作りをしているのです。
 谷川のどこから水を引き、どの田んぼに入れるかということは、慣例として決まっているんです。よその田んぼへ引いている水を取ったりは絶対にできない。そして、ある谷川の水は、一つの畝(斜面で田地として利用されている部分)を越して次の畝には原則として使ってはいけないという決まりもあります。これらが『水利権』といわれるものです。水の利用については厳しいものがありますよ。水げんかをすることもありました。」

 (ウ)天然の保水機能

 遊子水が浦地区(宇和島市)は、千町地区と同じ傾斜地でありながら、かつては飲み水にも事欠く水不足地であり、従ってそこでの農業は、稲作ではなく畑作となっている。では、なぜ千町地区には数多くのわき水があり谷川が流れているのであろうか。千町の地形の特色を、地区で農業を営んでいる**さんにうかがった。
 「千町地区をふもとから見上げると、山の頂上までまっすぐの斜面のように見えるんです。ところが、実際に歩いて頂上まで登っていくと、比較的平坦な部分が、まずこのあたり、次にここから上の、かつて小学校があったあたり、さらに上の、藤之石本郷(ふじのいしほんごう)集落のところと3段あることが分かります。頂上にも『ツルノクボ』という広さが50町くらいの平地があるんです。そこは、今は植林をして杉ばかりですが、そうなる前までは、斜面を削り石垣を積んで畑にしていました。また、そこにはこの地区の人が屋根を葺くために必要な茅(かや)を作っている『茅野(かやの)』と呼ばれた部分もありました。このように何段かある平地のおかげで、降った雨が一度に下まで流れてしまわずに、それぞれの平地のところで少し保たれ、一部がわき水となったりしながら徐々に下へ流れていく。こういう地形の恵みのおかげで、水の利用が可能となり田んぼを開くことができたわけです。」

 (エ)干ばつの時

 地形の保水機能に恵まれている千町地区ではあるが、日照りが続き地中に蓄えられている水が染み出してしまえば、わき水は無くなり谷川や田んぼも干上がってしまう。まして、かんがい用のため池が無いため、その水不足は厳しいものがあった。千町で農業を営んでいる**さんに干ばつ時の苦労をうかがった。

   a 水不足との闘い

 「干ばつの時は、人間の力ではどうにもできません。雨が降るのを待つ以外には仕方ないんです。平野部のように、川の水を電気動力のポンプでくみ上げて利用することができれば簡単なんですが、加茂川・谷川の水をポンプでここまでくみ上げようとすると、そのための電気代が高くつき、替わりにお米を買う方が安くつきます。ですから、そういうことはできません。わたしの田んぼは、千町地区でも標高の高いところ(約480m)にあり、干ばつの時は特に苦労しました。
 田んぼに水がなくなって土が割れてしまうことを『ひっつく』と言いますが、ひっついてから2、3日がたったくらいでしたら、その後すぐに雨が降れば土が元に戻るのは早いです。それが、ひっついてから1週間以上もたち、土の割れ目の広がりが握りこぶしが入るほどになってしまうと、これはおおごとなんです。その時には、田んぼの表土だけではなく床まで割れきっていますから、再び水が田んぼに入り、その作用で割れ目に泥がつまっていって閉まるまでには、大量の水が必要となります。例えば、代(しろ)かき(*13)ができるようになるためには、田んぼが干上がる前にあった量の3倍から5倍の水がいるんです。ですから、1週間から10日間は水を入れ続けないといけません。土の割れ目が閉まり水が平均2、3寸たまりだしてからさらに3日間ほどたつと、やっと土が柔らかくなって代かきを始めることができます。
 また、これほどに土が割れてしまうと、『ヨセから水が染み出して、それが次の田んぼにたまっていく』という棚田の仕組みが働きません。どうしてかというと、割れ目を通って水がまっすぐ下へ落ちるからです。棚田は、平野部の田んぼとは仕組みが全く違います。自然をうまく利用していると同時に、自然条件に左右されやすい田んぼなんです。そこに棚田での米作りの難しさがあるんです。棚田1反で米を作るのと、平野部の田んぼ5反で米を作るのとが同じくらいの労力と考えてもらったらいいと思います。」

   b 雨乞いの習慣

 「棚田での米作りは、人間の力の及ばない自然の条件に左右されやすいというところに、雨乞いの習慣ができてきたのでしょうね。祈とう師とともに、千町地区を挙げて大勢の人が笹ケ峰へ出掛け、雨乞いのお祈りをしていました。特に『この日は雨乞いに行く日』というものではなくて、干天が続いて困ってしまった時に出掛けよったんです。笹ケ峰の頂上には、口の直径が30cmくらいの甕(かめ)がありました。その中に雨水がたまっておるんです。祈とう師が護摩(ごま)をたき(*14)ながら30分間ほど拝み、次に甕の水を四方へまき散らせて終わります。天候が下り坂になるのと雨乞いを行った時がたまたま一致して雨が降ると、『雨乞いの効き目があった。』ということになるんです。田んぼに水があるかないかということは、その年の一家の生計に直接影響しますから、みんな真剣です。しかし、この行事も、昭和10年(1935年)ころからほとんど行われなくなりました。戦後、昭和20年代に1度か2度、地区を挙げてではなくて一部の人たちが雨乞いをしましたが、それが最後となりました。」

 イ 棚田での耕作

 **さん(西条市千町 大正13年生まれ 72歳)

 (ア)農事暦の復元

 千町地区の棚田では、どのような方法で米作りをしていたのであろうか。千町で農業を営んでいる**さんにその様子をうかがった。
 「5月上旬ころに鋤起(すきお)こし(鋤を使い田の上を掘り起こすこと。『田おこし』とも言う。)とあぜづくりをします。これは重労働ですが、毎年しないといけません。その方法は、まず、あぜに生えている雑草を削り取ります。そして、田んぼの土を鍬で上げてはあぜに置き、それをきれいにならします。あぜをしっかり作っておかないと、田んぼの水もちが悪いですから、これは米づくり全体の手間の半分をかけるほどの重要な作業です。
 次に、田んぼに苗代を作ってそこで苗を約30日間育て、6月上・中旬に田植えをします。この後は、水がいつも適度にたまっているように見回りをする水番の作業になります。棚田では、常に水が下段へ流れていますから、うっかりすると夜のうちに田んぼに水が無くなっていることもあるんですよ。ですから水番はだいたい朝の仕事です。それと、オゴロ(モグラのこと)とのかかわりで、朝に見回る方が都合がいいのです。というのは、オゴロは、夜明けの、おひいさん(太陽のこと)があたりはじめるころに活動するようで、その時にあぜにトンネルを掘るからです。そこから水が流れ出しているのを発見しないといけません。
 草取りには、コロガシ(除草機の一種。)を使っていました。期間をおいて3回くらいは草取りをしていましたかね。最終回は、だいたい土用のころ(7月下旬ころ)でした。稲株の間を、縦横十文字に転がしていくのですが、このコロガシを使うことは稲の成育上いいことなんです。どうしてかというと、土の新陳代謝を促すからです。つまり、田んぼは水をいつもためていますから、土の中の有機質が腐って発生した有害ガスが土の外へ出にくいんですね。それが、コロガシによって土を混ぜかえすことで、ガスも外へ出るし、新しい水や空気が土の中に入ることにもなるからです。
 コロガシの横幅は稲株同士の間隔よりも狭いですから、いくらコロガシを使っても、稲株の回りにはどうしても草が残ります。それは全部手で取り除きます。四つんばいになって、稲株と稲株の間に頭を突っ込んで取ります。ほおに稲の葉が触れると皮膚が切れますから、そうならないようにほおかぶりをします。夏の作業ですから、ほおかぶりが暑くてだらだらと汗が流れ、それが目に入って痛かったものです。この作業を『止め草』といいます。『稲の草取りの最後』という意味ですね。これをしなかったら、残った草が稲と同じくらいに成長し、草の方が栄養分を多くとるようになってしまいます。この作業で稲の手入れはだいたい終わります。穂が出て10日目ころから、田の水を落として(無くして)土を乾かし、収穫の時に人が入りやすいようにします。米の収穫は10月の終わりころでした。
 米の次は麦を全ての田んぼで作ります。稲株を一つずつ人力で掘り起こし、その後、牛を使って耕して幅50cmくらいの畝を何列か作り、畝の中央に種麦をまきます。麦踏みは翌年2月ころに1回ほど行いました。収穫は5月ころで、それと並行して米作りのための鋤起こしやあぜづくりをするわけです。この麦は、ほとんどが一家の食用でした。麦の中にわずかの米を入れて食べていました。正月や盆・祭の時以外の普段の日に米だけを食べている家は無かったですね。米だけを食べるようになったのは、千町地区では昭和30年代の中ころからだったでしょうか。現在は、ここで麦を作っているところはありません。」

 (イ)牛の使用

 **さんの話を続ける。
 「昭和25年(1950年)くらいまでは、鋤起こしや代かきは牛を使ってしていました。畑の作業だったら人力だけでも大丈夫なんですが、田んぼの作業となると、人間よりは牛でやる方が早いんです。わたしは牛を2頭飼っていました。それで、農作業が済んだら1頭を売ってしまいます。飼っておく手間を少しでも省くためです。新しい牛は、翌年の鋤起こしの時分に買いました。
 棚田は面積が狭く、奥行きが約1m50cmで横幅が30m余り、ギシかけの高さが約3mもある田んぼもあるんです。ですから体の大きな親牛よりも子牛の方が動かしやすいんです。しかし、子牛に作業の仕方を教えこむのが一苦労なんですね。夫婦が協力して調教します。女房が牛の口取りをして、亭主が牛の後ろで掛け声をかけて手綱をさばいて作業を覚えこますのですが、暴れ回っていかんのです。代かきの仕方の調教は、泥水の中に入ってしますから、お天気のいいときでもカッパや蓑(みの)を着てやらないと、体じゅう泥だらけになります。調教が進むと、口取りの者がいなくても手綱さばき一つで人間の思う方向に動くようになります。牛にも、覚えの悪いのや気性の荒いのやいろいろおりまして、機嫌が悪くなると座りこんでしまったりします。牛にそうされた時は、『おまえ、牛になめられとんじゃわ(なめられている)。』と笑われたものでした。
 狭い田んぼで牛を180度方向転換させるのも、なかなか難しいんです。まず、牛に付けてある農具を人間が抱え上げます。そして牛を何歩かバックさせて、牛の方向を反転させながら、人間も農具を抱えたままで牛のお尻の辺りについて回るんです。作業に慣れた牛なら、お尻に農具や人間が少々触っても気にしないんですが、慣れてない牛だと、たまげて(驚いて)田んぼから飛び出るんです。その時、人間は農具を抱えていますから非常に危ないんです。例えば、代(しろ)ウマグワ(代かきに使用する農具の一つ。)は鉄の歯がたくさん付いていますから大怪我するんですよ。またここは、平野部と違ってギシかけが高いでしょう。ですから、牛がギシばなから下へ飛び降りた時は、牛に付けてある農具が牛に突き刺さることもあるんです。
 牛も朝から作業をしていると、夕方になると疲れるんですよ。仕事がしんどくなって、牛小屋へ帰りたいと思い始める。ですから、田んぼの中で、自分の小屋がある方向ならばすっすっと進むんですが、反対に向いたらもう動かんのです。小屋から離れると考えるんでしょうね。もう、やる気がない。それを無理に動かそうとしよったら、今度は田んぼの中で寝てしまいます。そうなったら、『こりゃこりゃ』と声を掛けて起こさないといきませんから、もう大変です。
 禎瑞(ていずい)や氷見(ひみ)(西条市)、さらに丹原(たんばら)(周桑郡)の農家が、自分たちが使った牛を、代かきが終わった5月ころにここへ預けに来ていました。約100日間、山に青草がある間だけ預かって、10月の秋祭のころに持ち主に戻します。お礼として米を2俵半(1俵は約60kg)ほどもらっていました。」

 ウ 棚田とともに生きて

 (ア)米の値打ち

 千町地区の外に住んでいる者がここを訪れて棚田を見たとき、「なぜ、このような傾斜地で米作りを続けているのだろう。」という疑問がまず浮かぶのではなかろうか。そのあたりの事情を、もう一度**さんにうかがってみた。
 「例えば、昭和9年(1934年)ころでは、土木作業員の労賃が1日90銭くらいで、その時に米1升が30銭していましたから、米の値打ちはかなり高かったんですね。そして、米に値打ちがある状態が戦後もしばらく続いたので、棚田での米作りでも生活することができました。しかし昭和55年(1980年)ころからは、物価が上がる割には米の値段が上がらなくなりました。つまり、米の値打ちが下がってしまったんです。現在、この地区の一軒当たりの水田面積の平均は約3反で、7、8反の広さの田んぼを持っているのはめずらしいんです。そして、7、8反の田んぼでも年収は100万円そこそこなんです。
 では、この年収の額で、なぜ現在もこの千町地区で農業を続けられているのかというと、実際に従事している人が、平均年齢約70歳の高齢者だからです。つまり、そういう人は年金や恩給をもらえるでしょう。そのお金で生活しているのです。ですから、年金や恩給をもらえない若者にここで農業をやれといってもそれは無理なんです。結局、若者はここを離れて会社勤めなどをすることになります。
 このままでしたら、おそらく5年くらい先には農業のやり手がだれもいなくなり、ここの棚田は荒れてしまうでしょうね。」

 (イ)棚田への思い

 最後に、棚田とともに生きてきたことへの思いを**さんに語ってもらい、この項を閉じることとしたい。
 「今、ここで農業をしているのは、すべて戦前生まれの人たちです。そして、この人たちにはまず、祖先から受け継いだ棚田を守りたいという気持ちがあります。それとともに、土地が傾いたのを自分だけの力で直したり、あるいは苦労してあぜを作ったりと、いろいろと土地に手を加えています。つまり、土地とかかわることが自分の生活そのもの、もっと大げさに言えば人生そのものなんです。そこに、土地への愛着が生まれるんです。収穫による収入と生活費の支出とを差し引きすると、ほとんど利益はなくなり、『まったくばからしいことよ。』と思います。しかし、土地への愛着があるからなかなか農業をやめることができない。自分の田んぼへ時たまひょっこりとやってきて、1曰くらい農作業をしては帰っていく。後の期間は別の所でくらしているという仕方では、土地への愛着はわいてこないんです。農業というのは、手間暇掛けた後の収穫の喜びがあるからおもしろい。その時に作物への愛着も生まれるんですね。損得勘定ばかりだったら、農業はやれませんよ。
 この千町地区は、景観としてとてもきれいですよね。今は、休耕田などが増えて草やぶが目立つようになってしまいましたが(写真4-1-19参照)、昭和40年代ころまでは、田んぼの石垣にさえ草ひとつなく、それが太陽の光で真っ白に輝きながら何段も上へと重なって続いている。それは本当にすばらしい景観で、それを目にするたびに、『ああ、すごい棚田だなあ。』と感慨にふけったものでした。
 わたしが実際にここで生活し始めたのは、16歳の時です。それまでの間に1度だけ、小学校6年生の5月でしたが、わたしの親のふるさとである千町へ来たことがありました。ちょうど麦の実るころでしたので、麦の黄金色が棚田一面に輝いていました。その時の、『うわあ、すばらしいなあ。』という印象には強烈なものがありました。その後、会社勤めをしていたわたしに、それを辞めてここで農業をしようと決心させたのは、小学校6年生の時のその印象でした。わたしも、なんとかしてこの景観を保ちたいという思いはあります。しかし、地区の高齢化・過疎化の現状を考えると、寂しいことですが、この景観が無くなっていくのも仕方のないことかなとも思っております。」


*13:田植え前の田に水を充たし、鍬などを用いて土塊を砕き、田の高低をならすこと。目的は、土にねばりをもたせ、水漏
  れを防ぎ、苗が根づき成長することを助けることにある。
*14:壇を設け、ヌルデの木などを燃やし、祈りをおこなうこと。

写真4-1-16 竹樋

写真4-1-16 竹樋

平成8年7月撮影

写真4-1-19 千野の棚田

写真4-1-19 千野の棚田

中央に雑草が茂った休耕田が見える。平成8年7月撮影