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愛媛の景観(平成8年度)

(2)明治が生きているまち②

 イ 明治の面影

 **さん(八幡浜市広瀬 昭和5年生まれ 66歳)
 **さん(西宇和郡保内町川之石 大正12年生まれ 73歳)
 近代化の波に洗われ、各地で〝歴史の証人〟とも言うべき貴重な建築物や町並みが急速に姿を消している。しかし一方で、その意義や重要性を認識して観光資源として生かしたり、保存や再建に熱心に取り組み始める所も少しずつ増えてきた。保内町もその一つであり、こうした動きの中で旧白石和太郎邸洋館も町の手で保存されることになった。
 そこで、この旧白石和太郎邸洋館にゆかりの方に話をうかがった。

 (ア)ハイカラの気風

 **さんの曾祖父初代宇都宮壯十郎は初代白石和太郎とは義理の兄弟であり、その関係で白石和太郎の本宅・洋館の両方が宇都宮家へ渡った(*10)。
 **さんに洋館でくらした思い出をうかがった。
 「わたしは川之石で生まれ、昭和15年(1940年)、小学校5年生までここにおりました。その後この地を出まして、戦後に保内に戻ってまいりました。
 この洋館がいつ、何の目的で建てられたのかははっきりとは分かりません。ただ、初代白石和太郎は明治32年(1899年)に没しておりますので、それ以前に造られたということになります。また、2階の一番広い部屋の入り口には「会議室」という札が掛っていました。わたしが住んでいました時分は、この洋館は、嘉永7年(1854年)建築の記録が残っている左隣の家屋(*11)(現在、**さんの母親宅。)とつながっておりました(図表4-1-7参照)。その後、昭和59年(1984年)に二つの建物は切り離されましたが、つながっている部分の天井は、ステンドグラスのような模様の入った厚さ約2cmのガラスが張られ、とても明るいものでした。また、洋館内の照明はすべてシャンデリアでした。
 洋館正面に向かって右隣が宇都宮家の母屋でした(現在は二宮医院となっている)。この部分も洋風建築です。わたしの曾祖父の初代宇都宮壯十郎によって建築が着手されましたが、完成を見ずに亡くなったため、祖父(2代目宇都宮壯十郎)によって完成されたということです。洋館と母屋の道路に面した部分には鉄柵がありました。子どものころは、この鉄柵の周りで鬼ごっこをしたりして遊んでいました。わたしの弟が鉄柵に上ってふざけている写真も残っています。その鉄柵も、金属製の観音開きの扉や窓枠などとともに戦時中に供出されたということです。鉄柵があった部分は、今現在は生け垣に変わっています(写真4-1-12参照)。また窓枠は、金属部分を取り除かれたままの状態で現在も残っています。
 わたしの祖父は、ハイカラな人でした。残っている写真を見ると、洋服を着てシルクハットをかぶりステッキをついているという格好をしています。祖父は大正8年(1919年)、現在のインドネシア共和国のスマトラ島に本社があったスマトラゴム会社の株主となりました。後に、周囲から押されて社長に就任し、大正14年には本社を訪れたということです。その関係だと思うのですが、わたしが使った食器類や家具などは外国製のものが多かったです。わたしが小学生の時、コーヒーについて学校で学習する機会がありました。わたしの学級のほかの子供たちはコーヒーというものを知らなかったので、わたしの家でサイフォンを使ってコーヒーをいれ、それをポットに入れて学校まで運び、教室でみんなと一緒に飲んだこともあります。
 また、終戦後のことですが、当時は物資不足ですから、衣類は古着を仕立て直しては着ていました。そのとき、『仕立て直して着なさい。』と祖父から渡された背広はすべで〝プリンセス切りかえ〟という、当時の日本ではほとんど見かけない方法で仕立てられている貴重な背広だったことを覚えています。
 このように、祖父は、貿易や海外での会社経営などを通じて、国際的な視野を身に付けたのではないでしょうか。そして、こうした外国の物をどんどん取り入れていくという家風は、おそらく曾祖父の代から受け継いできたものでしょうし、白石家にも共通していたのではないでしょうか。こういう雰囲気の中で、洋風建築が取り入れられていったのではないかと思います。」

 (イ)洋館とともに

 旧白石和太郎邸洋館(写真4-1-13参照)を譲り受け、そこで平成2年まで「川之石ドレスメーカー女学院」を開校していた**さんに洋館への思いを語ってもらった。
 「**さんが八幡浜ドレスメーカー女学院へ通われて師範の資格を取られたころ、そこの先生から『川之石でドレメの学校を開きたい。』という話が**さんに持ち出されました。それに対して**さんが、『それなら、学校の建物は自分のところではどうだろうか。わたしも非常勤の形でしたらお手伝いできます。』と答えて、その方向で開校の準備が進んでおりました。それを、『ぜひ、自分に学校の経営を任せてもらいたい。』と**さんに頼み込んで承認してもらったのが、**です。それが昭和24年(1949年)のことでした。翌年の暮れに、わたしは、松山ドレスメーカー女学院の院長や副院長から『川之石ドレメの院長になってくれないか。』と頼まれ、ここにやってきて経営者である**と結婚しました。
 主人は、この洋館が由緒のあるすばらしい建築物であることは知っていたらしく、女学院の学則にもその旨を載せていたくらいです。またこの洋館は、洋裁学校を開くには最適の場所にあったんです(図表4-1-7参照)。というのは、一つにはこの場所は、当時の商店街の一画で人通りが多かったんです。商店街を通り抜けてバスが八幡浜市から伊方(いかた)町へ行き来し、そのバスを利用して通ってくる生徒もおりました。国道197号が町の北方に東西方向に開通してからは、保内町の中心部は国道沿いへ移りましたが、昭和24年当時はあのあたりは一面に田が広がり、道といえばあぜ道がある程度だったんですよ。もう一つの理由は、当時はここからこんぴら橋を渡って東の方向へ歩いて5分くらいのすぐ近くに、東洋紡績川之石工場があって、女工さんが約700人働いており、その人たちの多くが学院の生徒になってくれていたからです。
 その時分だったと思うのですが、この洋館の建築にかかわったという高齢の職人さんが訪ねてきたことがありました。その人は八幡浜市日土(ひづち)町在住で、『自分が16歳の時にこの洋館の建築が始まった。自分などは若くて技術も未熟だったから、とてもその職人としては採用されず、下働き程度の仕事をしました。採用されたのは、みんな大阪の職人だった。』と話していました。わたしの主人は、洋館を修理する時には、技術に信用のおける左官や大工を雇い、さらに釘一本にいたるまで、それを使っていいかどうか、自分が確認してから許可をするほどでした。『その木材を使うのはだめじゃ。違うものを用意してくれ。』と主人が職人に注文を付けていたことを覚えています。主人は左官でも大工でもない、まったくの素人なんですが、おそらくそのきちょうめんな性格がそうさせたのでしょう。
 この洋館の屋根(瓦(かわら)ぶき)は、今までに一度もふき替えをしていません。それでも、100年近くたとうとする今でも、まったく雨漏りしません。
 このような古い建築物は維持・管理に費用や手間が掛かり、個人の所有のままだとどうしても絶えて無くなってしまいます。今回、町により保存されることとなり、大変よろこんでいます。半世紀近くここに住んでおりましたから、わたしは人生の大半をこの洋館とともに歩んできたことになります。ですから、この洋館は自分の子供のようで、とても愛着が深いです。ずっと長生きしてもらいたいと思っています。」

 ウ よみがえる鍰(からみ)レンガ

 **さん(西宇和郡保内町川之石 昭和33年生まれ 38歳)
 **さん(西宇和郡保内町川之石 昭和25年生まれ 46歳)
 保内町において、鍰レンガ(*12)(口絵参照)の新たな活用や、明治の面影を残す町並みの保存活動を行っている保内まちなみ倶楽部(くらぶ)の方に話をうかがった。

 (ア)「保内まちなみ倶楽部」の活動

 倶楽部の活動歴の概要を倶楽部員である**さんにうかがった。
 「平成元年に6人のメンバーで『川之石の景観を考える会』をつくり、活動範囲は保内町川之石地区に絞りました。そして、どういう景観に着目しようかと悩んだところ、町内には2本の川が流れ、それに橋が13ほど架かっているという特徴ある景観に気付きました。そこで、橋の名前とその由来を一つずつ調べていきました。こうした活動を3年間くらい続けるなかで、川之石地区内だけの活動では不十分ではないかという声が出ました。そこで、町内全域において、現存する歴史的な景観や建築物の再評価を目的とし平成4年に結成されたのが『保内まちなみ倶楽部』です。
 この動きをさらに発展させ、『保内まちなみ倶楽部』を母体として今年(平成8年)の4月に『保内大学』が設立されました。入学資格は『保内町を愛している人』。年齢制限はありません。現在50人ほどの学生が、活力ある保内町をつくろうと勉強しています。将来的には、既存の大学の1学部だけでも保内町に移転してもらえるためのその受け皿づくりと位置付けています。夢のような話かもしれませんけどね。
 全国各地で、町づくりや村おこしということが言われるようになって、もう10年くらいたつと思います。『保内まちなみ倶楽部』の活動も、そうした動きの中で歩んできたわけです。そして、町づくり・村おこしグループが活動を続けていくには、今が一番難しい時期なのかもしれません。特に若い人たちの間で地元への愛着心が年々薄らいでいるように思います。3年くらい前、ある若者から『ここの町の名称が保内町だろうが八幡浜市だろうが、別にかまわない。ただミカンさえ作れて、その収入で生活ができれば自分はそれで満足だ。』という意見を聞いたことがあります。そのときには、自分たちの活動は、周囲の人たちにどれほど影響があったのだろうかと悩みましたね。町づくりや村おこしの要点は、結局は『人づくり』です。だから、簡単に成果の出るものではありません。活動を長く継続していくことで、自分たちが生まれ育った保内町のよさをもっと見直そうという輪が少しずつでも広がっていけばと思っています。」

 (イ)鍰レンガの復活

 保内まちなみ倶楽部員である**さんに、鍰レンガの新たな活用に取り組んだときの様子をうかがった。
 「最初から鍰レンガに着目していたわけではなく、まず、保内町の町並みを後世に残していく方法の話し合いから始まったんです。その過程で、町並みがどのようにして作られたのかその歴史をさかのぼって調べていくと、鉱山経営で富を築いた先人の手によるものであったことに行き当たりました。そして、それらの建物の基礎石や塀に利用されているのが鍰レンガなんです。従って、これに着目することが建物や町並みを見詰め直すことにつながり、さらにそれが保内町全体の価値の再評価にもつながっていくのではないかと考えたわけです。
 鍰レンガは、値打ちのない廃材とだけ見なされてきました。でも、光線の当たり具合でおもしろい色合いを見せるんですね。そういう観点から見直せば、新しい活用の仕方があるのではないか。また、そうすることで、鉱山の歴史や町並みの価値も現代によみがえってくるのではないかと考えました。さらに『からみ』の言葉に、『人々がからみ合いながら(様々にかかわり合いながら)町をつくっていく。』という意味合いを含ますことができるので、町づくり活動の素材としては好都合でした。
 鍰レンガの新たな活用を始めるためには、まず数多く集めなければなりませんが、この作業だけでもなかなか大変でした。15年くらい前であれば、町のあちこちに捨てられていたのですが、最近ではほとんど見かけなくなりました。そこで、家を取り壊したら基礎石として出てきたという話を聞けば、分けてもらいに行きました。レンガはかなり重いんです。約20cmx20cmで長さが約40cmの直方体(口絵参照)のものになると、1個が約40kgにもなります。『こんな重たいものを集めてどうするんぞ。疲れるし、めんどくさい。』とぶつぶつ言いながら集めたことを思い出します。
 集めたものを、今度はどのように使うか。基礎石ではなくて、現代にマッチするようなデザインを考えて活用することになりました。また活用場所は、できるだけ多くの人に見てもらうためには、やはり公共的な所がいいということで、銀行の駐車場の外壁(写真4-1-15参照)とショッピングセンターの前庭に使わせてもらうことにしました。そして、この二つが完成したのが平成5年のことです。この時は、わたしたちも、確かにいいものができたと思ってはいたものの、正直に言って、ほかの人々にどれくらい評価してもらえるかが不安でした。すると、まず新聞にカラー写真で取り上げられ、その翌日に松山市に住んでおられる方が、自宅を建てる基礎石として活用したいという相談のためにその銀行にやってきました。廃材としかみられなかった鍰レンガについてこのような反応があることに驚かされたと同時に、集める時の苦労が報われたとも感じた、とてもうれしい出来事でした。
 現在、町内に残されている古いものを大切にして、遺産として後世に伝えるとともに、それらに込められている先人の思いを新しいものの中に生かしていく、つまり、『古いものを生かした新しいまち』として保内町の独自性を示していきたいと思います。」


*10:白石家、宇都宮家は姻戚関係にあり、両家ともに明治時代以来鉱山業・紡績業・貿易業など多角的な経営を行った実業
  家。旧川之石町の殖産興業や教育発展に貢献した。
*11:明治11年(1878年)、第29国立銀行(伊予銀行の前身)が設立された際、営業開始に使われる。
*12:鉱石から銅を抽出した後、主に鉄分だけになった鉱さいを鋳型に流し込んで作製したもの。

写真4-1-12 現在の景観

写真4-1-12 現在の景観

旧母屋(現二宮医院)前。鉄柵がなくなり、生け垣になっている。平成8年5月撮影

図表4-1-7 保内町略図

図表4-1-7 保内町略図

実踏調査および聞き取りにより作成。

写真4-1-13 旧白石和太郎邸洋館

写真4-1-13 旧白石和太郎邸洋館

平成8年5月撮影

写真4-1-15 鍰レンガの活用

写真4-1-15 鍰レンガの活用

保内町宮内。平成8年8月撮影