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愛媛の景観(平成8年度)

(2)里を見守る城

 河後森(かごもり)城跡のある北宇和郡松野町は、愛媛県の南部に位置し、北は同郡の日吉村・広見町、西は宇和島市、南と東は高知県幡多(はた)郡西土佐村・十和(とおわ)村に接する予土国境の町である。西部には標高1,200m級の鬼ガ城(おにがじょう)山系、北東部には戸祇御前(とぎごぜん)山の支脈が連なり、その間を広見川、目黒川(いずれも四万十(しまんと)川水系)が流れている。中世には、河原渕(かわらぶち)渡辺氏の所領となり、さらに藩政時代には宇和島藩領と吉田藩領に分かれるなど、幾度か変遷し、昭和30年(1955年)に吉野生(よしのぶ)村と松丸(まつまる)町の合併により、双方の名をとって松野町が誕生した。
 河後森城は、町役場のすぐ南側にあり、標高は最も高い本郭(ほんかく)で172m、市街地との比高約80mである。城跡は、広見川・堀切川・鰯(いわし)川に囲まれた低い独立の丘陵に普請(ふしん)されており、その山容は実に急しゅんである。
 山形は3方向に突出して分岐し、それぞれ古城・本城・新城と呼称されて山の尾根及び山腹部に郭(くるわ)と呼ばれる平坦地が形成されているほか、山塊(さんかい)に馬てい形に囲まれた山の中心部の南側谷部は風呂ケ谷(フロガ谷、フロン谷)と呼称されている。
 そのほか、城跡の周辺には、平城・大屋敷・垣内(かきうち)・大門・大門屋敷・古市場・外ケ市等往時を想定させる呼び名が残されている。
 城の北側には、近世に発達した在郷町松丸の古い町並みがあり、現在の町の中心になっている。城の東側の県道(西土佐松野線)は、かつての土佐街道であった。この県道を徒歩10分くらい南進すると右手に渡辺教忠一族の菩提寺である照源(しょうげん)寺がある。なお、河後森城周辺には、松野町内に16、広見町及び日吉村に20を越える支城(しじょう)がある。

 ア 城(じょう)の山の思い出

 **さん(北宇和郡松野町松丸 大正6年生まれ 79歳)
 城山のふもと、松丸の町で生まれ育った**さんに城山にかかわる少年時代の思い出を語ってもらう。

 (ア)城の山で遊んだころ

 「わたしが小さいころは、子供が6、7人いる家が普通で、わたしの隣家は12人の子だくさんでした。狭い家の中では親に『やかましい』とおこられるので、子供らも、近くの『城へ行こう、城へ行こう。』と言っては、城山(河後森城)に遊びにあがっていました。
 城山はいい遊び場でしたが、昔、首塚があったとか戦の跡だったとか聞かされていたので、子供心に、なにか寂しさ、恐ろしさというものがありました。
 小学生のころ(大正末期から昭和初期)、毎年12月14日の赤穂義士の討ち入りの日に、城の山を中心に学校恒例の肝試(きもだめ)し会がありました。『あなたなる夜雨の葛(くず)のあなたかな』で知られる芝不器男(しばふきお)(*12)(1903~30年)の歌碑の建つふもとの小学校をスタートにして、夜暗くなって一人ずつ城の山へ上がって、幾つかのチェックポイントを通って戻ってくるというものです。むろん、低学年の子供は2、3人連れだって行くなどの配慮はされていましたが、この肝試し会で城山がますます怖くなりました。無事学校に戻ってくると義士の討ち入りの日にはソバが付き物とかで、ソバを食べさせてもらいました。
 城の山を舞台としたわれわれの遊びに、陣屋作(じんやづく)りがありました。がき大将が、グループの中心になってそれぞれの根拠地を作るわけです。城の山やその近辺に拠点を作って、防御(ぼうぎょ)の工夫とか、擬装(ぎそう)工作とか、落とし穴を作って騙(だま)すとかの戦争ごっこをやるわけです。
 遊びの道具作りの一つに、刀作りの面白い方法がありました。春先の樹液がたくさん出るころ、マツやサクラやヤナギの木の、ちょっと大きめのまっすぐに伸びている枝を切って、柄にするところに切り目をつけます。刀身になる部分の表皮を、乾いた木で丹念にこすった後、柄になるところをしっかりと握り、そっと引っ張ると中身が抜けて、つやつやした刀身が顔を出し、柔らかい樹皮は鞘(さや)になります。できると得意げにそれを使ったものでした。この木を切る時に、幹になるところではなく枝になるところを切るのだ、ということを先輩のがき大将から教えれ、そういうことが、知らず知らずのうちに自然愛護につながっていたのだと思います。
 お城の北側の永昌(えいしょう)寺の鐘楼門は、河後森城の山門を移築したといわれていましたが、そこもわたしたちの遊び場でした。2階になっていて、そこに上がって鐘をついたりしたものです。だんだん老朽化が進み、昭和48年(1973年)の台風でついに倒壊してしまいました。惜しいことをしたものです。
 こんな、遊びをしていて、腹をすかした時のおやつは、山でとれるイタドリ、ノイチゴ、アケビなどでした。
 冬季になると、特に降雪の時などは、城の山一帯にわなをしかけて、小鳥をとるのも楽しみの一つでした。例えば、その一つに『小鳥ハンゴ』(図表3-3-6参照)があります。これは、親指よりちょっと大きい太さの立ち木を見つけ、その木を曲げてバネにした仕掛けです。このようなわなを、グループで10か所ほど城の山に作って、学校が終わったらそれを見回りに行くのです。ハトやヒヨなど2、3羽はかかっていました。それが楽しみで、あちこちの谷や山へ行ったものです。ふもとの田んぼでは、『ワラスボワナ』(図表3-3-6参照)を作りました。籾(もみ)が残っているワラスボ(イネの穂の部分)を束ねたものに、馬のしっぽの毛などで丸い輪を作ってそれを結びつけておき、籾粒(もみつぶ)を食べにきた小鳥がその糸の輪に首を突っ込んだり、足を絡(から)めてばたばたしているのを捕らえるのです。
 当時の農家では、馬が多く飼われていましたが、輪を作る糸は、この馬のしっぽの毛が一番よかったのです。高学年生は馬のしっぽの毛で上手に作っていましたが、小さい子供はそれを馬から抜くことができないので、テグスなどで作っていました。」

 (イ)川魚とりの思い出

 「わたしらの川遊びの場所といえば、城の山の外堀の役目をしていた大川と小川が主な遊び場でした。小川とは、城の山をはさんで東と西をそれぞれ南から北に流れている堀切(ほりきり)川と鰯(いわし)川をいい、大川とはこの二つの小川を合わせて西から東に流れる広見川のことで、かつて日本のあちこちの河川にすんでいたいろんな魚類がまだそろって生きていて、『最後の清流』などと近ごろいわれている四万十川に至るのです。
 大川での魚とりは、いろいろの方法があり、それぞれに思い出があります。
 『日ありがついたぞ。』と、だれかが大声で言うと、みんな、川に向かって一斉に走って行ったものです。真夏に何日も晴天が続いて川の水量も減り川原の小石が焼けている。そこへ、ザーッと夕立がくると、小石の熱で川の水がお湯になるのです。するとアユが弱って水面に浮かんでくる。あるいは川の所々に、清水の湧く水温の低い所があって、そこヘアユが殺到するのです。アユは、手でつかめるほどに弱りきっています。それを拾いに行くと言うわけです。清水の湧くアユの集まる所は、あらかじめみんな知っているので、『日ありがついたぞ。』と聞くと、それぞれが思い思いの所を目指して走って行ったものです。
 広見川の川魚のうち特にウナギは、『小石くぐり』といって、小柄であるが脂がのって臭味がなく、その美味が評価され有名です(⑫)。『じごく』(竹籠漁法(たけかごぎょほう))でのウナギとりも懐かしい思い出です。自分たちの子供の時には、『じごく』を開けるとウナギが一杯入っていました。かごからしっぽがはみ出るほどいました。『じごく』作りは、長さ50から60cmで直径7cmほどの円筒形の竹寵を編み、入り口にタケで編んだじょうご状の「コジタ(ウナギは入れるが出られない構造となっている)」を付けます。川上側は栓をして、えさにミミズなどを入れて、さらに、えさが入り口近くに流れないように草を入れておくのです。これを、入り口を川下に向けて置くと、川を上ってきたウナギがえさのにおいにつられて入るのです。竹籠のよさは、軽くて引き上げた時さっと水が流れ出る点ですが、作成に手間がかかるのが欠点です。今は、竹筒から木箱になり、「コジタ」も簡便な方法が工夫されているようです。これを、夕方しかけ、翌日の早朝に引き上げに行ったものです。
 わたしが子供の時分には、子供たちもみんな、この『じごく』でウナギをとっていました。俳人芝不器男の生家のある松丸の土佐街道に添った溝には、いつも水が流れていました。そこに、それぞれの家の名前を書いた、ウナギの生けすが夏中つけてありました。街道沿いの両側の溝は、今は、ほとんど暗きょになっています。このウナギの生けすを作るのは、小学校5、6年生か、高等科の生徒の仕事でした。生けすには、ウナギがやせたらいけないと言うので、生の大豆を入れていました。それをウナギが食べるとも思えなかったのですが、やせるのを防ぐということでした。」

 イ 一遍も来たか、正善寺へ

 城主渡辺教忠のよった河後森城山を背後に黒土(こくど)盆地をふかんする高台にある正善寺(しょうぜんじ)は、一遍(いっぺん)(*13)(1239~89年)ゆかりの寺としてあげられる。松野町豊岡にあるこの寺は、一遍が康元元年(1256年)に草庵を結んだ浄念寺(じょうねんじ)(松野町次郎丸)が前身であると伝えられている(正善寺旧記)。
 康元年間のころ一遍は18、9歳で、大宰府(だざいふ)にいたから矛盾するのだが、その後のこととすれば、この地方が河野氏(一遍は河野氏の出自。)と関係の深い西園寺(さいおんじ)氏(*14)の勢力圏であり、理解することができる(⑬)。
 その後、禅宗寺院正善寺として中興したのは南北朝時代(14世紀)のことであり、さらに下って慶安2年(1649年)、城川町の龍沢寺(りゅうたくじ)の南秀(なんしゅう)が再興して曹洞宗に改宗したという。
 鎌倉時代、世の中が激しく移り変わる中で人々の悩みにこたえる新しい宗派(*15)が生まれ、広く民衆や武士に信仰された。その一つに、郷土にゆかりの深い一遍の時宗(じしゅう)があり、彼の生涯と思想は『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)(一遍上人絵伝)』と『一遍上人語録』によって知ることができる。それによると、一遍智真は、伊予武士の名門河野通広(松山道後にあった湯月城主)の次男として道後の宝厳寺(ほうごんじ)(松山市道後湯月町)の地に延応元年(1239年)に生まれた。
 そして、信心がうすくても、汚れていて成仏できないと一般に言われている人でも、人はだれでも、『一遍の念仏』によって成仏できる(全身全霊をこめ、一度の念仏によってこの身のままで仏になることができるという意味)から、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と書いた札をくばって念仏をすすめなさいという熊野権現のお告げにより、悟りを得ることができたといわれる。以後、正応2年(1289年)51歳で没するまでの15年間の生活は遊行(修業しながら教化する)にひたすら精進する日々であった。
 「南無阿弥陀仏」と刷った紙を配りながら、南は鹿児島から北は江刺(えさし)(岩手県)に至るまで、全国を歩き人々に念仏をすすめ、信濃国(長野県)で始めた踊り念仏によって爆発的な帰信者を得た。真実の人一遍の人格が庶民の心をとらえ、下層の人々や女性を中心に救済がすすんだ。
 遊行は祖霊(祖先の霊)をはじめ、人類万霊を慰める鎮魂の旅でもあったが、なによりも人々に念仏をすすめ、現世においてこれを救済するためであった。その思想の根本は、刻々に過ぎ去るただ今の一念において、名号(みょうごう)(南無阿弥陀仏)を唱えると正しい心になって成仏することができるというのであった。しかも、衆生(しゅうじょう)(人間に限らずすべての生きもの)の成仏と同時に、一遍も成仏できるという考えであるから、一時もゆるがせにすることなく、できるだけ多くの衆生を救うために全国を遊行したのであった。
 鎌倉後期から室町初期にかけて、わが国最大の信者を得た一遍の宗教は、まさに、庶民の仏教だった。寺を持たず、宗派を立てず、寺と宗派を継承する弟子を持とうとしなかった一遍は、しかしながら、法を継承する弟子を育て、念仏の心を数知れぬ人々に残した。一遍の偉大さは庶民の仏教の完成者というところにあり、日本仏教史上この人の右に出る者はいないと言われる(⑭)。

 ウ 城の復元に夢を託す人々

 (ア)先人の生きざまを掘る

 **さん(北宇和郡松野町延野々 大正4年生まれ 81歳)
 **さん(北宇和郡松野町豊岡  昭和25年生まれ 46歳)

   a 高齢者パワーが城跡を掘る

 **さんは、太平洋戦争中、全員の玉砕が伝えられた硫黄島の守備に工兵隊員として当たり、郷里の松野に復員した時には葬儀も終わっていた。まさに生き返った第二の人生を、戦友の遺骨の収集と古城の発掘に生きがいを見いだしている。
 「昭和61年(1986年)から始まった町内の遺跡の発掘に携わるようになったのも、何かの縁だと思います。そして、平成3年にこの河後森城跡の本格的発掘が始まった当初から従事しています。
 わたしも、中世の城跡だと前々から聞いていましたが、発掘に従事するまで、こんな片田舎にこれほど壮大な城跡があるとは思わなかったです。県下でも類をみない大規模で貴重な城郭であることが分かり驚きました。この城は郷土防衛の拠点で、城の防衛が人々の死活を左右したことを思えば、城の造営にあらんかぎりの知恵と財力と労力がつぎ込まれたことでしょう。この城は、御先祖の力の結集により造られたもので、郷土の誇れる貴重な財産だと思います。
 これまでの発掘調査は、山の尾根と南側の風呂ケ谷を中心に行いました。古城から、本城、新城へと拡大していったと考えられますが、その山の尾根と山腹部には平たく削って郭が造られています。この郭には、おびただしい柱穴群があります。掘建柱建物(ほったてばしらたてもの)(地面に穴を堀って、それに直接柱を立てた建物)や防御のための柵列(さくれつ)や、馬などをつなぐための柱の穴と想像され、無数の柱穴は長期間に何回も立て替えられたことを想像させます。ほとんどの遺物はこの平坦部の郭からでてきます。最初は、スコップや手くわなどの既製品でやっていましたが、現場で使い易いもの、掘り易い道具を自分たちで工夫して、お互いにそれを自慢しながら掘るようになりました。知らない人が見たら、一体何に使うのかと思うような物でも、自分たちで工夫したものは本当に役立つわけです。
 先祖の遺(のこ)したものが、次第に形をなしてくるので、時間を忘れて夢中になって掘ります。冬、急に雪が降り出し、まだまだ大丈夫だろうと思って、作業を続けていたら、いつの間にか雪が積り、城山を降りるのに難儀をしたこともありました。
 武家屋敷跡があったとみられる風呂ヶ谷からは、井戸や馬洗い場などの遺構が掘り出されています。
 『ここに水神様を祭った井戸の印があるから、掘ってみてください』と森光晴さんから言われた時には、土で谷が埋まって、こんな太いスギの木の下に井戸があるとは思えませんでしたが、掘り進めていくと石垣まで築いた立派な井戸が姿を現したのには驚きました。これを掘り出すのに実に3か月もかかりました。馬洗い場は広い範囲だったので作業は大変でした(写真3-3-12参照)。
 森さんに聞きましたが、この城山には、西2の郭には11軒の馬小屋があり、11頭の馬がそこに上がっていたようです。城山全体では22頭上がっていたようです。人間が生活する家より立派な大きい馬小屋で、馬のうぶや(産屋)もあったようです。このころの馬は、日本列島に生息した小形の馬で、ひづめに鉄沓(かなぐつ)を付けず、爪の保護に藁沓(わらぐつ)をはかせていました。このような小馬だったので急しゅんな坂道を登り降りできたものと思われます。
 出土遺物では、本城と呼ばれるところでは、特に大量の瓦片(かわらへん)の出土が多く、日本の中世城郭としては極めて少ない総瓦ぶきの建物が築かれていたことを示しており、軍事的な意味だけでなく見せる城への移り変わりがみられます。
 これまで発掘した谷部からは、鉛弾、小刀などの武具類の出土とともに、生活用具として使われていた土師器(はじき)(素焼きの土器)の皿、備前焼のつぼ、かめ、摺(す)り鉢、さらに中国や朝鮮半島からの輸入陶磁器(*16)も見つかりました。その他に、女性のかんざし、土製の魚網用おもり、銅銭、砥石(といし)などの出土があり、戦争が激しくなり平地の館から城山の中に生活の場が移っていたことがうかがえます。
 『戦いに備える日々ではあったろうが、城山の生活にも茶の湯を楽しむ一時もあったのでは。』と想像しながら、掘り起こした井戸の水でお湯を沸かし、みんなでお茶を味わってみました。自然に湧き出る井戸水の味は格別でした。やがて、ここを訪ねる人たちにも見晴らしの良い静かな城山でそんな体験をしてもらえたらと思っています。」

   b 古城の復元で町おこし

 松野町が河後森城の復元整備を目指して「文化財保存対策室」を設置していることにもこの城の復元に賭(か)ける町の意気込みが感じられる。対策室長として遺跡発掘の指揮にあたっている**さんに語ってもらう。
 「城の復元整備を目的にして発掘が進められていることがなによりの特色です。この整備が行われると、他にまねのできないオリジナルなものとして、ユニークな町おこしになると思います。24haにおよぶ広大な面積なので、継続して息長く取り組んでいかなければならないのです。
 城の存続期間も鎌倉期から江戸初期まで約400年にわたり、中世の城としては、初期の段階から最終的な段階までいろいろな造り方が残されているのも魅力の一つです。
 また、この町にはこの土地のくらしの跡が印された古い地名が案外たくさん残っています。それを手掛かりに、館(やかた)などの所在地なども調べてみることができます。お城の前面には、必ず市が立ち、商品の交換や情報の収集が行われたと言われます。バス停の一つに『古市場(ふるいちば)』というのがありますが(写真3-3-13参照)、この地名はその名残りでしょう。城山の形態は南に開けた馬てい形をしており、また城山への唯一の入り口が南側であったことも、そこに『大門』という地名が残っていることから分かります。従って、城の南側の富岡地区が城下町であったと考えられます。城山の北側の松丸の町は、藩政時代の土佐街道に沿って形成され繁栄しました。
 史跡公園としての整備は、手のつけられるところから復元して、郷土の歴史を勉強してもらおうと考えています。近世の城のように見た目に美しくはないが、防御の施設としての中世の城本来の姿を復元することにより、それに手で触れ、体験し、肌で感じられるものにできればと思います。また、城跡は自然の宝庫なので、自然に親しみ、山を楽しむことのできる場所にもしたいものです。
 今後の観光を考えると、人々の移動も機動的で、一つのエリアの中に関連した多くのものがあることが必要です。この城の縄張りはこの本城だけでなく、支城まで入れると、ゆうに100haになるのです。のろしを上げれば本城と支城とのかかわりが実感できると思います。さらに、この城の存在意義としては、今の県境を越えて四国西南文化圏というとらえ方ができることです。すなわち松野町の市街地の周辺は、どちらの方向も山で閉ざされているように見えますが、海抜は90mに足りなく往来はあんがい容易です。四万十川を利用した交易ルートの存在や文化の伝播性などを考えると、ここは土佐方面とのつながりが強く、例えば酒屋さんなどは、土佐との取引が藩政時代から今でも多いのです。
 今年(平成8年)10月、歴史文化遺産の保存活用に住民レベルで取り組む『森の国山城の会』が結成されました。町民のシンボルとしての河後森城と町内に点在する支城を含めて保存活用するのが目的です。活動の輪の広がりが期待されます。」

 (イ)城山にみる知恵と工夫

 愛媛考古学協会会長で河後森城発掘保存復元研究所長でもある森さんに河後森城の魅力などについてうかがう。

   a 城山は自分たちの生命維持体

 「近世の城よりも、中世の山城にこそ地域の顔があるのです。中世は日本列島で老若男女を問わず人々が一番活気に満ちた時代で、その時代にあって、人々と運命共同体であった城をもっと研究する必要があります。つまり、城山全体や川そのものを自分たちの生命維持体としてとらえ、籠城(ろうじょう)の際に自分たちの生活が維持できるように、自然と共存した世界をつくりあげていた、それが中世の城なのです。
 そうしたことは、城のどういうところにうかがうことができるかと言いますと、武家屋敷跡とみられる風呂ヶ谷と呼ばれる山麓に水の確保として3か所の井戸が確認されています。その井戸は年中常に一定の水量が今も湧き出ています(写真3-3-14参照)。
 また、籠城して一番怖いのは病気やけがです。今でも、間伐(すかしぎり)をして日光が差し込むようにすると、それまで何もないように見えていたところからまず生えてくるのは、薬草です。血どめ薬のオオバコ、風邪引きに使うイシャコロシ、オモト、タケブシニンジンなどがでてきます。驚いたのは、毒草まで出てきたことです。それを矢の先に塗った毒矢で射られたら致命傷になります。こういうものが、城山の中に植え付けられていたのです。また、桐の木も植えられており、その炭は火縄銃の黒色火薬の原料となります。
 食糧の確保の一つに、城山のシイの木の実が対象にされていたと考えられます。またカキやウメの古木もあり、戦時食になるツワブキもあります。城山の風呂ヶ谷の湿地あたりには、ドジョウなどの川魚も流れ込んできますし、そのころの人は、川魚などを栄養源にすることで健脚を競うだけの体力を維持できたのではないかと考えられます。
 城山の近くに、淡水魚の学習施設(*17)を作る運びになっています。山や川の幸でくらしていた時代をもう一度取り上げ、自分たちの故郷を見直してみようということです。
 昔の人は、籠城するとき、ちゃんとそこで生活できるような備えをしていたのです。実際に、城山をもう一度復元し、再現することによって、忘れていた地域の知恵を思い浮かべてみることができるのです。」

   b 駆使(くし)される騙(だま)しのテクニック

 「城という字は『土で成る』と書きます。近世の城が石垣で造られているとしたら、まさに、中世の城は土でできているのです。敵が放った火矢がぼんぼん当たっても燃えないように、木など一切切り払って岩肌をだし、さらに敵兵が登れないように岩肌を削って切岸に改造しているのです。河後森城では52度の急傾斜の要害もあります。ここの切岸の石と言うのは、適度な固さともろさを持っていて、くま手をかけて登ろうとしても、ある程度は持ちこたえますが、体重が掛かるとダーッと崩れてしまう。土をよく見て、実にいい場所を選んでいます。近世の城のように、見るからに堂々とした城造りではないが、少数精鋭の者たちで造るから、わずかな労力でもって最大の効果を上げられるようさまざまな知恵と工夫が凝らされており、その点が実におもしろいのです。
 城への入り口(虎口(こぐち))は一つにしてあります。そこには、四方を桝形(ますがた)に囲ったところを通らないと進めない桝形門があります。そこに入れば、ぐるりから集中攻撃を受けるわけで、皆殺しにされます。蟻地獄(ありじごく)が待っているわけです。
 門は、入ってきた者の心臓のある側がこちらに向くように造っています。相手の心臓がさらけだされて、それを弓矢で射抜けるようなそういう曲がり方をとっているのです。にくいぐらい、いろいろな策略を工夫しています。
 例えば、落城間近で敵が城門になだれこんできているような時、坂道でしかも通路が急に折れ曲がると、突入してきている者の目から死角になりますね。だからいくらでも後から後から押し込んできます。河後森城の郭の入り口は、ひょうたんのくびれたところのように狭くなっています。そこへ上がるとぱっと目の前が断崖絶壁になっています。そこへ来た先頭の者は、落ちないように、一生懸命に踏ん張ります。しかし後からは、しゃにむに押し込んでくる。押された者は前へ落ちます。押した者も、その場所へ来たら同じような運命が待っているのです。
 城門は、木の棒などで突き破られないような工夫がしてあります。たとえば、門の前の道を横にくの字に折ったり、門の角度を、わざと25度に振っています。そのため門を叩かないで切岸を突いたり、また、突いても滑って威力が半減するのです。そういうことを繰り返しているうちに、わざと、さっと門を開けるのです。それを見て、脱兎(だっと)のごとく突っ込んでくると、その前は絶壁になっているので、勢いあまってそこに落ちるのです。その後またさっと門を閉めます。これは、黒門造り(「黒」は闇、不意打ち)の効果だと思います。
 飛礫(ひれき)(石つぶてのこと。写真3-3-15参照)が、高いところにある郭にたくさん用意されています。それなど、下を向いて投げれば効果があるが、敵兵がそれを拾って上をむいて投げ返しても威力がない、という重さのものを選んで用意しています。
 また、わざと、門の間に1本柱を建てておき、その周りの地面は坂でなめら(つるつる)にしてあるのです。門をくぐって上がろうとする敵兵が、足を滑らしてその柱にしがみつき、戦力がなくなったところを上から田楽刺(でんがくざ)しにしてしまおうという魂胆です。」

   c 河後森城の復元に期待するもの

 「中世城郭の特色をもっともよく遺している河後森城の復元整備によって、次のような展示効果が期待できます。
 まず、博物館屋外展示遺産として、空間的な広がりを実感させることによって、知らず知らずのうちに時代を超えた追体験ができます。城の変遷だけでなく戦略効果を見せるとか、いろんな見せ場があり、その活動と働きが分かるような展示にしなければと思います。城は、敵対する相手の武器によってそれに対応する改築が行われています。ですから、その城の存続した期間と、最終段階までにどれだけの日時と改良の手が加えられたかが分かれば、城の改築の変遷や工夫のあとが分かり最高だと思います。また、城は敵を本丸に上げたら終わりなので、上がらせないためにどんな工夫が凝らされているかを来館者に分からせるようにしなくてはならないのです。今までは、見学でも単一の城で終わる場合が非常に多かったのですが、河後森城の場合は鬼北(*18)一円さらに土佐まで視野に入れて、点ではなく総合的に面でとらえていくことが可能です。
 わたしは、中世城郭研究所を城山の近くに設立する夢があります。そこでは、中学生、高校生などが、宿泊しながら発掘もでき、当時の古建築にも触れ、しかも、それを自分たちの手で組み立ててみることもできる。そんな体験学習のできる組織を作ってはと思うのです。
 河後森城跡には、1つの郭から柱穴が800から2,000も出てきます。何回建て直しているか分からないくらいです。郭も30ほどあります。いつころの建物か研究しながら、郭ごとに、いろいろ建て比べていくこともできるのです。地域の大工の技術を持っている人たちで今後十分に継承していけるのではないかと思います。そういう古建築あたりを、お年寄りの大工さんや宮大工さんの技術も教えてもらいながらみんなで研究修得し、それを町の伝承技術として残していくのです。屋根の草葺(くさぶき)きや、柿葺(こけらぶき)(木などの薄いそぎ板で屋根をふく)の部分は間伐材を利用し実際に木の目を見て、自分で木を割ってみるのです。そいう技術も今後必要ではないかと思います。時代ごとに尺貫法が違います。それにのっとって作業をしてみることも科学する基礎になるのです。
 その地域で自分たちの祖先が考案してきたものを、その地域で再現し継承できないか。考古学というのは、古いことだけをやるのではなく、遺跡・遺物を祖先の宝として将来に継承していくということにならないと意味がないと思います。」


*12:俳人。北宇和郡明治村松丸(現松野町)芝家に生まれる。昭和3年同郡二名村(現三間町)大内の太宰家に入る。本
  名、太宰不器男。東京帝大農学部に入学。後東北帝大工学部に転じ中退。俳句は、「ホトトギス」に投句した「あなたなる
  夜雨の葛のあなたかな」が虚子の名鑑賞を受け一躍有名になる。病のため26歳の短命であった。いま松丸の生家は「芝不
  器男記念館」になっている。
*13:鎌倉期の僧で時宗の開祖。幼名松寿丸、のち隨縁、智真、そして一遍と号する。死にいたるまで全国各地に念仏遊行し
  て「踊り念仏」を勧め、農・漁民など各層に広く支持をうけた。松山市道後の宝厳寺には「一遍上人御誕生舊跡」の碑があ
  る。
*14:鎌倉時代幕府と朝廷とを結ぶ要職を世襲。伊予西園寺氏はその流れをくむ。鎌倉時代初期嘉禎2年(1236年)宇和郡が
  与えられ、室町初期に都から下向して松葉城(東宇和郡宇和町)を居城と定め、戦国時代には、南予地域15人の在地領主
  を軍事同盟に組み入れ豊後大友氏、土佐一条氏、長宗我部氏に対抗した。天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国制圧の際に
  降伏した。
*15:浄土宗、浄土真宗、時宗は、「南無阿弥陀仏」と念仏を、また日蓮宗は、「南無妙法蓮華経」と題目をとなえることを
  説き、臨済宗・曹洞宗は、座禅で自ら悟りを開くことを重んじた。
*16:陶器は、素地に吸水性があり光沢のあるうわぐすりを施したものである。磁器は、陶器より高温で焼成。素地は、ガラ
  ス化し透明または半透明の白色で、硬く吸水性がない。中国宋代末から発達し、日本では江戸初期に有田(佐賀県)で始
  められた。
*17:広見川を挟んで、松野町役場の対岸に建設が進んでいる。平成9年4月の開館が予定されている。四万十川河口でとれ
  た「アカメ」(成長すると2m近くにもなるという)が既に飼育されている。
*18:北宇和郡内の三間町、広見町、松野町、日吉村などをいう。宇和島市の背後、鬼が城山系の北にあたるため、鬼北と呼
  ばれている。

図表3-3-6 小鳥ハンゴとワラスボワナ

図表3-3-6 小鳥ハンゴとワラスボワナ

**さんの聞き取りによる。

写真3-3-12 馬洗い場遺構

写真3-3-12 馬洗い場遺構

風呂ヶ谷で発掘。平成8年9月撮影

写真3-3-13 古市場バス停

写真3-3-13 古市場バス停

城山の南にある往時の名残をとどめる地名。平成8年9月撮影

写真3-3-14 岩井戸遺構

写真3-3-14 岩井戸遺構

風呂ヶ谷で発掘。平成9年1月撮影

写真3-3-15 飛礫

写真3-3-15 飛礫

平成8年9月撮影