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愛媛の景観(平成8年度)

(2)庵を訪ねて①

 ア 一畳庵(いちじょうあん)

 (ア)命名は東洋城

 **さん(温泉郡川内町河之内 昭和7年生まれ 64歳)
 川内町河之内(かわのうち)に音田(おんだ)という地域がある。この地は、則之内徳吉(すのうちとくよし)から国道11号と分かれて黒森峠を経て面河(おもご)方面へ通じている国道494号沿いにあり、明治35年(1902年)ころから大正7年(1918年)ころまで、上浮穴郡の笠方(かさがた)や渋草(しぶくさ)(面河村)方面と松山方面とを結ぶ物資輸送の中継地としてたいそうにぎわっていたという。
 この音田に惣河内神社(そうこうちじんじゃ)という延暦年間(782~805年)の創祀(そうし)と伝えられている古い神社がある。参道の右手にある句碑には俳人松根東洋城(1878~1964年)の「山屏風(やまびょうぶ)春能火燵耳(のこたつに)こも流可南(るかな)」という句が刻まれている。左手に社務所が見える。その社務所の一角が東洋城ゆかりの一畳庵である。

   a 一畳庵は一畳半

 一畳庵と名付けたのは松根東洋城本人であり、彼はここに昭和25年(1950年)8月から翌年3月までと、昭和26年8月から翌年2月までの2回、計15か月滞在し、俳誌『渋柿』の選句、弟子たちの指導に当たっていた。
 惣河内神社の宮司は俳人佐伯巨星塔(きょせいとう)(本名惟揚(これあき)、1898~1984年)、その長女が**さんである。
 「父(巨星塔)は若いころ書店で俳誌『渋柿』と出会い、東洋城先生(以下弥生さんの話の中に出てくる先生は松根東洋城を指す。)の指導を受けるようになりました。先生がなぜわたしの家に滞在されるようになったかよく分かりませんが、お弟子さんの中のだれかの紹介ではなかったかと思います。問い合わせてみると『どうぞおいでください。』ということになったのでしょう。社務所は住宅兼用(昭和41年〔1966年〕まで)でしたから、先生とわたしども家族とは一つ屋根の下で住むことになったのです。わたしには妹が4人いますが、下の二人がまだ小さくて、先生に大変かわいがっていただきました。また父をはじめお弟子さんたちも温かくもてなしました。そのようなことが、二度にわたり長期滞在をなさった理由の一つになったのかもしれません。
 一畳庵については、先生の『一畳庵の記』に詳しく書かれていますが、社務所の南西の隅、わずか畳一枚の部屋(座敷の廊下のような部分)のことです。実際は南西の角の半畳も使っておられたので一畳ではなく一畳半です。先生も『そこで一畳庵は正確に尺を入れたら、一畳半庵でなくてはならぬが、』と述べておられますが、さらに筆を続けて『そこはそれ無断越境の気安さ、又蒲団(ふとん)を捲(ま)くって置けば他に場席を塞(ふさ)がなくても机も書座も事足ること故矢張(やはり)一畳庵でいいと思ふ。(⑭)』と理屈をつけておられます。布団は敷きっぱなし、人が来られると二つ折りにして、南の畳敷きの縁側に置いてある机を挟んで対座されるのでした(写真3-2-21参照)。
 先生がわが家に滞在しておられたころ、わたしは松山で学生生活をしていて家には時々帰る程度でしたから、先生がお弟子さんをどのように指導しておられたのかよく知りませんが、両親の話によると、お弟子さんたちは先生の前では緊張していたようです。問答形式を通して追及し、相手に考えさせるような指導(安易に添削などしない。)をされたと聞いています。お弟子さんたちは難儀したということです。先生の指導は厳しかったというのはこういう指導だったからでしょう。しかし、相手の気持ちをつかむのが上手な先生でしたから、お弟子さんも指導が厳しいからやめようと思っても、どこかに心のつながりをつくってくださるので、続けられたのだと思います。
 母も俳句をつくっていました(俳号松花(しょうか))。しかし、先生のお世話と子供たちの養育とで大変でしたので『俳句はつくれません。』と先生に言うと、『忙しいと言うが、その家事の中にも題材があるのではないか。』と言われ多少は詠んでいました。ほめられたこともあったといいます。ある時は『うん、松花、なかなかうまい。君は松花じゃなくて大家だよ。』と先生に言われたそうです。先生には厳しい反面こんなところもあったので、もうやめたと思ってもそんなことを言われるとおかしくなって、また思い直して俳句を詠んだと母は話していました。とにかく先生の一畳庵での生活は充実したものであり、先生はこの庵(いおり)のくらしが大変気に入っておられた御様子でした。
 この一畳庵といわれる社務所は神社の所有です。かやぶきなのですが、神社の予算ではかやぶき屋根の維持ができません。やむを得ず町に届け出て(町の有形文化財に指定されているので)、トタンをかぶせました。昔どおりかやぶきの姿を残してほしいという声もありますし、俳文学関係の貴重な建物でもありますので、将来条件さえ整えば、またもとのかやぶきに戻したいと思っています。」

   b 俳句は語る

   春秋冬 冬を百日櫻かな  東洋城

 一畳庵の前庭の池の近くに桜の木がある。この桜は植物学上は「四季桜」の一種で、10月ころ咲き始め、冬中咲き続け、2月の中旬に冬の花が終わり、彼岸桜の咲くころに再び開花する。要するに秋、冬、春と咲く桜である。ちょうどこの時期を一畳庵で過ごした松根東洋城は、この桜に心が引かれ、「百日桜」と命名し、上記の句を詠んだ。現在桜の木の近くにこの句の碑も建っているが、残念ながら文字が読めない(写真3-2-22参照)。
 **さんの話を続ける。
 「この桜は祖母が種苗会社から苗木を取り寄せて植えたものです。一度朽ちたので接ぎ木をしました。また横から芽も出てきて、現在では2代目が育っています。先生はこの桜の木の立札に百日桜の句を書かれたのですが、その折、冬中咲くということを強調するために、『冬を』と『かな』とを朱でお書きになりました。ところがその朱の部分がほとんど消えてしまい、今では『春秋冬百日櫻』と書いてあるような立て札になってしまいました(写真3-2-22参照)。しかし、先生自筆の立て札ですので大切に保管しています。」
 東洋城の死後、この句を発句とする彼の独吟の歌仙(36句からなる連句)、自筆の百日櫻歌仙が佐伯巨星塔のもとに届けられ、巨星塔は目頭を熱くしたという。

   一畳庵ひたきくるかと便りかな  巨星塔

 この句にまつわるおもしろい話が残っている。東洋城は一畳庵の前庭にやってくるヒタキ(ジョウビタキと思われる。)を見るのを一つの楽しみにしていた。彼は姿を見られないように障子に穴を開けてのぞくので、ヒタキが来るたびに、巨星塔の妻(松花)はまた障子に穴が開けられるとひやひやしたというのである。この巨星塔の句から帰京後の東洋城が何度も手紙の中でヒタキの消息を尋ねていたということが推測できる。句碑は、一畳庵の前庭、ヒタキがよくやって来たであろうと思われる辺りに建っている(写真3-2-23参照)。

   黛を濃うせよ草は芳しき  東洋城

 「父(巨星塔)は大変先生を慕っており、先生の亡くなられた後、一畳庵の前庭に石を置き、その下に先生が残していかれたつめと髪の毛(昭和35年〔1960年〕にも送られてきたという。)を埋め、その石を『黛(まゆずみ)石』と名付けました(写真3-2-24参照)。また父の編んだ句集も『黛石』です。『黛石』には東洋城を師と仰いでいた父の気持ちが込められています。」
 巨星塔は師東洋城の有名な上記の句にちなんで『黛石』と命名したのであろう。

   c 東洋城と巨星塔の娘たち

 「わたしの長男が生まれたとき、先生はすでに帰京されていましたが、長男のことを自分の孫のように気にかけてくださいました。赤胴鈴之助(昭和29年〔1954年〕から『少年画報』に連載された漫画の主人公)が子供たちに人気があり、長男も鈴之助のお面とか胴などを欲しがっていたころのことですが、わたしの母が上京したとき、母と一緒に浅草の仲見世までそのお面とか胴などを探しに行ってくださいました。
 またわたしの妹たちが修学旅行で上京すると、ちゃんと待ち合わせ場所を指定され、行ってみると、先生は着物に下駄ばき、もんぺ姿でステッキを持って待っておられる。へんてこな格好をしておられるのに、おまけに手を組んでいろいろなところへ連れて行ってくださる。恥ずかしかったが、うれしかったと申しておりました。自分の子でも孫でもない者に普通そこまではしないはずです。先生はわたしたち姉妹をわが子か孫のように思っておられたようです。
 わたしの妹は結婚して、東京に行きましたが、この妹は先生の亡くなられる前日まで先生のお世話をしておりました。
 家庭的な愛情には恵まれていなかった先生は、わたしたちを肉親のように思っておられたのでしょう。一畳庵の生活では家族の温かさを強く感じておられたに違いありません。一畳庵滞在15か月は、先生の一生の中で最も懐かしい思い出深いものだったと思います。」
 **さんは東洋城の弟子ではなかったという。「もし先生の指導を受けていたら、今ごろ女流俳人として活躍しているかもしれません。」と言って笑っておられた**さんではあるが、その**さんも次のような句を詠んでいる。

   夫の目を恥らふ紅や初鏡

 (イ)一畳庵から日浦の里へ

   a 子規・漱石も訪れた

 惣河内神社の社務所(いわゆる一畳庵)の座敷の床の間に「子規漱石東洋城や瀑双(たきふた)つ」という佐伯巨星塔の句の掛軸が掛かっている(写真3-2-25参照)。「瀑双つ」とは、川内町河之内の白猪(しらい)の滝と唐岬(からかい)の滝のことであろう。この二つの滝を発見し、世に紹介したのは近藤林内(りんない)(*13)(1818~1888年)であった。彼の没後、明治24年(1891年)に正岡子規が、明治28年には夏目漱石が探勝に訪れている。現在、白猪の滝には、「追ひつめ多鶺鴒(たせきれき)見えず渓(たに)の景 子規」と「雲来り雲去る瀑(たき)の紅葉可奈(もみじかな) 漱石」の二句一基の句碑があり、唐岬の滝には、松山中学校で漱石に英語を学び、終生漱石を師と仰いだ松根東洋城の筆による「瀑五段一段ごと能(の)もみち(じ)可奈
 漱石」の句碑が建っている。
 探勝の折、子規も漱石も近藤林内邸に宿泊している。近藤家は造り酒屋で、高い石垣のある城郭構えの豪壮な屋敷であったという。漱石は明治28年11月2日、近藤家に1泊し、翌日雨の中を探勝に出かけている。彼が同家に送った礼状の中に「……三日徒歩にて二時頃(ごろ)平井河原へ着、夫(それ)より汽車にて無事帰松仕(つかまり)候……(⑮)」とあるが、行きも平井(松山市平井町)まで汽車を利用したであろう(伊予鉄道が松山・平井間の営業を開始したのは明治26年〔1893年〕、横河原まで延長したのは明治32年のことである。)。彼のこのときの旅は、いわゆる坊っちゃん列車を利用した1泊2日の旅であったようだ。

   b かやぶきの民家を訪ねて

 **さん(温泉郡川内町河之内 昭和10年生まれ 61歳)
 子規、漱石が泊まった近藤家の屋敷は河之内の日浦(ひうら)の里柳層谷(やなぎそだに)にあったが、その屋敷はすでにない。その上、昭和40年(1965年)柳層谷で大規模な地滑りが起き、今では屋敷跡を確認することさえ難しく(写真3-2-27参照)、地元の人に教えられ、やっと屋敷跡とおぼしき場所に立つことができた。下方に農地が広がっているが、その一角にかやぶきの民家が2軒残っている。その1軒が**さん宅である。軒下から見上げるかやぶきの屋根は重厚で趣きがある(写真3-2-29参照)。100年以上経(た)つ家だということだから、ひょっとすると子規や漱石の目にも留まったかもしれない。
 「わたしは昭和36年に嫁に来たのですが、当時、家は多少修繕した程度で、昔の造りのままだったように思います。本格的に屋根を直したのは12、3年前のことで、傷んだところを新しいカヤと取り替えました。やり方は、新しいカヤを屋根の横に渡した竹にわら縄又はしゆろ縄で結(ゆ)わえるのです。屋根の上にいる者が縄を通した竹の針を突き刺し、屋根裏にいる者がそれを抜いて再び上へ突き返します。かやぶきの職人さんにお願いし、親類や近所の人にも手伝ってもらい、何日もかかりました。現在また修繕の時期を迎えています。この近くにはかや場のようなところはなく、減反による休耕田に生えているカヤなどをもらって集めています。屋根にふくカヤは冬に刈ります。冬に刈ったカヤでないと長持ちしないからです。カヤの上にトタンをかぶせないかと職人の方によく勧められますが、わたしはあまり好きではありません。主人もこのまま(かやぶき)の方がよいと言っています。先般、壬生川(にゅうがわ)(東予市)の方が来られて、『今時こんなしっかりしたかやぶきの家はめずらしい。見学させてください。』と言われ、恥ずかしいのですが見せてあげました。役場の方からも『壊(こわ)さんで(壊さないで)おいてください。』と言われています。
 家の中は、くらしに都合がよいように改造しました。わたしが嫁に来たころは土間もあり、その奥の方が炊事場でくどもあり、しばらくくどのお世話になっていました。板敷の間には囲炉裏もありました。子供が生まれてからは危険なので、『囲炉裏をのけたらいかまいか(いけないだろうか)。』と義父に話したところ、『ねえ(嫁のこと)がそう言うんじゃったら。』と言って取り除いてくれました。子供が学校に行くようになってからは土間に勉強部屋をこしらえました。わたしが嫁に来る前は土間でいろいろ作業もしていたようですが、わたしが来たころからは、外で干したもみを夜入れていたぐらいで、普段、土間は広い通路のような存在でしたから土間をつぶしても特に不便を感じることはありません。土間の代わりに納屋や倉庫を使っています。浴室とトイレは別棟で不便でした。雨が降ると風呂の焚(たき)口に水が入り、沸かすのに苦労したこともありましたが、今は母屋に隣接した倉庫に浴室とトイレがあります。
 『かやぶきの家は夏は涼しく、冬はぬくいでしょう。』と皆さんおっしゃいますが、住んでいるとそれほどとは思いません。しかし、外出から帰ってくるとほっとします。現在かやぶき屋根を直す人はこの辺りにはいません。面河村の方にはいると聞いていますので、今度はその人にお願いしようかと思っています。」
 **さんの家は最近少なくなってきた米作り中心の専業農家として頑張っているが、昭和40年(1965年)の柳層谷の地滑りのときは大きな被害を受けた。
 「地滑りのときは家も危険区域の中に入り、避難勧告に従って子供を連れて二晩ほど親類の家に避難しました。お陰様で家は助かったのですが、田畑のほとんどが崩れてしまいました。田畑の被害面積はわたしのところが一番大きかったようです。復旧は何年もかかるし、また費用(自己負担)もかかり、苦労しました。
 地滑りでこの辺りの地形も景色も変わってしまいました。細いくねくね曲がっていた道もほとんどなくなりました(現在は自動車が通行できる舗装された道ができている)。この細い道はわたしの家の前を通っていたのですが、今ほんの一部が残っていて、そこには道標も建っています(写真3-2-30参照)。かつてこの日浦の道は音田に出る重要な道(*14)で、狭い道でもいわば大街道だったのです。
 近藤林内邸跡も、地滑りのためほとんど跡形がなくなってしまいました。わずかに古井戸が残っているくらいです。去年の暮、その井戸にイノシシが落ちました。この辺は、イノシシが出てきてよく畑があらされるところです。
 わたしたち夫婦はこれからも専業農家としてやっていきたいと考えていますが、わたしたちの代で終わりになるかもしれません。若い者には若い者の考えがありますので、後のことは長男の考えに任せることにしています。」


*13:村政の功労者、特に慈善家として広く知られている。
*14:河之内の音田がにぎわっていたころ、黒森峠を経て面河方面へ通じるこの日浦の坂道は重要な物資輸送路であり、人馬
  が盛んに往来していた。

写真3-2-21 東洋城が起居した一畳庵

写真3-2-21 東洋城が起居した一畳庵

机上の写真は松根東洋城。平成8年7月撮影

写真3-2-22 右:「百日桜」の立札 左:「百日桜」の句碑

写真3-2-22 右:「百日桜」の立札 左:「百日桜」の句碑

「立札」は撮影のため桜の木の近くに臨時に建てた。平成8年7月撮影

写真3-2-23 「ひたき」の句碑

写真3-2-23 「ひたき」の句碑

平成8年5月撮影

写真3-2-24 東洋城をしのぶ「黛石」

写真3-2-24 東洋城をしのぶ「黛石」

平成8年7月撮影

写真3-2-25 巨星塔の掛軸

写真3-2-25 巨星塔の掛軸

平成8年7月撮影

写真3-2-27 近藤林内邸があった辺り

写真3-2-27 近藤林内邸があった辺り

平成8年5月撮影

写真3-2-29 軒下から見上げたかやぶき屋根

写真3-2-29 軒下から見上げたかやぶき屋根

平成8年7月撮影

写真3-2-30 道標

写真3-2-30 道標

道標には「金毘羅大門より廿六里」とある。平成8年7月撮影