データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛の景観(平成8年度)

(1)白壁の町並みとくらし

 「内子の町は古い。本当に古い。安芸(高知県)とはまったく趣が違うが、四国の二大レトロ地区と言える。薄黄色や白い壁でできた建物は、それぞれ凝った造りをしていて豪華である。床屋までが時代ものの家で入り口にのれんがさがり、敷地には石灯篭まである。大正時代の芝居小屋、内子座もノスタルジックだ。2階建てで大正ロマンに溢れていた。」
                       『ちょっといい旅(①)』P138より

 ア 町並みは内子の誇り

 (ア)そぞろ歩きの楽しい町並み

 **さん(喜多郡内子町内子 大正5年生まれ 80歳)
 「内子地方は肱川の上流、小田川と中山川との合流地点に位置して、古代より水運に恵まれ、加えて気候風土にも恵まれ、早くから住民の集落地として開けたものと考えられます。内の子(現内子町)の3つの市のうち、最も古いのは廿日市(はつかいち)で、中世のころ願成寺(がんじょうじ)の壇徒(だんと)集落として発達したものと思われます。その後、高昌寺(こうしょうじ)の門前に七日市(のちに八日市と改称)が開かれました。また、文禄年間から慶長年間(1592~1615年)には、新たに六日市を設け順調に発展し、現在本町商業中心地となっています。
 八日市護国(昭和57年〔1982年〕、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。)の町並みを歩いて、注意深く見て欲しいところは、
  〇一軒一軒微妙な違いがあって、どの家も趣を異にしていること(写真3-1-1参照)。一軒一軒が家主と設計者と施工者の
  話し合いによって、独自な工法とデザインを取り入れ、隣の家と違った造りにしようとした。例えば家ごとの窓の縁取りが
  違うのです。
  〇妻籠(つまご)(長野県)の町家と違って、隣家と壁を付き合わせることはしていないこと。家と家の間は、道路や水路と
  し、空間を1mくらい残しており、内子でなければ見られない路地空間が出現しています(写真3-1-2参照)。
  〇外壁にナマコ壁を使用した建物が多いこと(写真3-1-3参照)。ナマコ壁とは、漆喰(しっくい)壁(石灰にふのりを溶か
  した液を加え、すさ〔わらなどの細片〕を入れて練ったもので塗った壁)が雨で落ちるのを防ぐために、腰に瓦(かわら)
  を取り付け、目地(つぎ目)を漆喰で塗り固めた壁のことです。
  〇八日市の入り口『坂町』は、坂道に沿って形づくられた町並みで、そのため、ほんのちょっとした屋根の高低によって、
  歩いていくごとに一戸一戸の存在がはっきりし、格子の表構え、漆喰の大壁など家の眺めが変化していること(写真3-1-4
  参照)。
  〇また、八日市の町並みの一画には『桝形(ますがた)』があること(写真3-1-5参照)。このような街路がある桝形は、城
  下町では防備のためによく造られますが、内子のような宿場町、産業の町にあるのは珍しいと思います。
  〇そして、この町並みが学校への通学路になっていること(写真3-1-6参照)。朝夕通学する子供たちが無意識のうちに、
  この町並みを誇りに思い、古い町並みがなぜ大切なのか、日常生活の中で感じさせるまたとない場であると思います。」

 (イ)町並みを育んだものは

 「商家軒を並べること八百余戸、町民みな商いにして活気縦横、つとに『胆(きも)の内子商人』を以って鳴る。(略)」「郡内第一の資産の町で、何んとなく鷹揚(おうよう)でゆったりとしたところが見える。(略)」「三拍子(蠟(ろう)・紙・生糸)の内子が本腰を入れて、油断のない発展策を講じたら、随分強い、今に数倍数十倍する『伊予の内子』が出来上がる。(略)」
                             『喜多郡の華(②)』より

 ひきつづいて**さんに語ってもらう。
 「明治時代、内子の商人は、『胆の内子商人』と言われ、商業活動において町内だけでなく県外に出ても活発に活躍し大胆で思い切りがよく、先見の明かあったと言われていました。このような人たちを育てたのは、わたしは明治11年(1878年)に設立された洋風校舎を持つ化育(かいく)学校(*1)(現児童館)だと思います。
 先輩から聞いた話ですが、明治から大正初期ころの学校の卒業生は、内子に残った者と県外(神戸・大阪など)に出た者が、お互いに連絡を取り合って、困ったときは助け合うという絆(きずな)が非常に強かったと言います。出て行く者、残る者が一体となったこの相互扶助の精神が、現在まで内子の町並みを維持してきたのではないかと思います。
 また、内子教育の歴史の中で注目されるのは、明治・大正・昭和にわたり活動した『内子尚武(しょうぶ)会』です。これは明治28年(1895年)松山中学校に在学していた内子出身者を中心に松山で自発的に創立されたものです。この会の目的は、郷土の後輩を育成し、会員相互の切磋琢磨(せっさたくま)による心身の向上で、内子の町の将来を教育による人物育成に託すということです。この会には、大人も青年も子供も一体となって、先輩たちが後輩の指導にあたっていました。わたしが旧制中学校に入学したころ(昭和10年〔1935年〕)は、年に1回河原でいもたきがあって、大人に混じっていろいろと話を聞かせてもらっていました。こういう集まりでよい人間関係ができたのだと思います。内子の町の発展のためには、内子を出ていった人たちに、故郷のことを思ってもらうし、町に残った者も、出ていった人たちと連絡と協力をしていくという人間関係が必要です。このような陰の力が内子の町並みをつくったのだと思います。
 かつて、わたしは大阪で開かれた『内子会』に出席したことがあるのですが、そのとき、出席している方に、子供さんたちを夏休みにぜひ内子に帰してくださいとお願いしました。大阪の子供たちは、大阪で生まれ、大阪の学校へ行き、全然内子とは関係がなくなってしまう。これは内子の町にとって大変寂しいことだと考えたのです。
 昭和49年(1974年)に皆さんの賛同をえて、第1回の集い(2泊3日)をやりました。内子の小学生も参加して、児童会や親の故郷を知ってもらうため観光バスで町並みを紹介したり、川で魚釣りなどを行いました。最終日には茶話会を行いました。宿泊は親せきの家で、また旅費は個人負担で行ったのです。集いは大成功で、この集いで新しい友ができて、文通が始まったと聞いております。その後『尚武会』は『尚和会』と改められましたが、時代とともに子供たちの出身学校が多様化し、町全体でまとまることが難しくなり、現在『尚和会』はなくなりました。」

 (ウ)ぬくもりを守り育てるために

 昭和52年(1977年)に内子の町並みを調査した広島大学工学部鈴木充教授は、『内子町八日市周辺町並調査報告書(④)』のなかで、「古い町がまとまって残っている点では、内子は奈良県の今井町(橿原市)についで全国2番目」と、また「200年以上に及ぶ時の流れを刻んだわが国では珍しい建築の歴史をとどめるすぐれた町並みだ。」と絶賛している。
 また、内子高校校長が「この町の人たちには、ぬくもりがあるのです。心の豊かさでしょうか。そのぬくもりが今日に受け継がれ、歴史の遺産を残すことができたのです。着任早々の始業式で、生徒たちに、そのぬくもりを大事にして、守り育てていこうと話しました。」と語っている(朝日新聞昭和56年4月29日付けより)。
 **さんは「内子座が修理復元され、八日市護国の町並み保存地区と、この内子座をつなぐ六日市の商店街の通りに、観光客が歩き始めることができるようになりましたが、今のままの状態で古い家並みがありますよというだけでは、ある時期が来たら飽きられてきます。それを長く続けさせるためには、今、町並みの中に何を取り入れていくか、町並みを持続させる活力を与えるものはなんなのか真剣に考えなくてはいけません。今のままでは一過性に終わってしまいますから。また、『訪れる人』と『迎える人』のコミュニケーションが求められるべき観光でなければなりません。活性化ということを一人一人が真剣に考えなくては活性化にはなりません。これが今残された課題だと思います。」と語った。

 イ くらしに根づいた町並み保存

 内子の町の歴史は古く、交易の場として栄え、江戸後期から明治時代にかけて和紙と木蠟で栄えた町である。木蠟の生産が日本の総生産の約30%近くも占めたほどの繁栄の歴史をもっている。その当時の面影を残す八日市護国地区の町並みは、今も美しいたたずまいを見せ、昭和57年(1982年)4月、四国で初めて国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。さらに昭和58年、愛媛県から「文化の里」(木蠟と白壁の町並み)として指定を受けた。町では現在町並み保存運動に続く村並み保存運動を展開し、21世紀に向けての新しいエコロジータウン(環境に配慮して、環境を守るだけでなく、それをさらに生かしていこうとする町おこし)を目指している。
 この内子の優れた伝統的建造物群を保存し、後世に伝えていくのにはどうしたらよいだろうか。それには、まず古くなった建物に手を加えて、現代の生活に適応するように建物を生き返らせる必要がある。しかし、現実に内子町の伝統的な建造物群の特質を生かしながら、その中で近代的な生活を充足させるためには、矛盾が数多く起こってくる。そのうち大きな問題をあげると(⑤)
  ・古い建物の内部は暗いが、近代的な生活には明るい室内が要求される。
  ・表側の蔀(しとみ)戸(昔風の建物で日光をよけ風雨を防ぐための戸)は重くて暗く、現代の生活にはガラス戸が要求され
  る。ガラス戸を表側に使うと反射があって古い建築の特質が失われる。
  ・台所が狭く、暗く、便所・風呂などが離れていて不便。
  ・個室が取りにくい。
  ・自家用車を駐車させる場所がない。
 このような問題点を解決しながら、町並みの景観を損なわないように、積極的に内部の改装に踏み切った民家・商家をここに紹介する。

 (ア)床几(しょうぎ)が見られる江戸末期の民家

  **さん(喜多郡内子町内子 大正8年生まれ 77歳)
 町並み保存会会長の**さんに話をうかがった。
 「わたしは、中町(なかんちょう)(内子町)に住んでいましたが、昭和14年(1939年)に父が大洲へ転勤したため、大洲へ引っ越しました。
 昭和15年の春に現役兵として中国東北地方(旧満州)へ渡ったのですが、昭和18年に満期除隊で帰ったときには、家族は現在の家に住んでおりました。この家は江戸末期に建てられたもので、床几(折たたみ式の腰掛け)があります。これは菊池さんという財閥の家屋でしたが、買ってくれということで、昭和22年(1947年)に家と土地を買ったのです。
 家はだだっぴろいだけで、間口が4間半(約8m)、奥行が12間(約21m)、2階には部屋が六つあります。何分古い建物ですので維持するのが大変でした。でも、今まで何とか売らずに保存することができて、よかったと思っています。
 この家で一番困ったことは、炊事場、風呂、トイレが別棟にあったことです。そのため料理をいちいち食卓に運ぶのは大変で家内は難儀しました。その家内が昭和51年(1976年)に脳梗塞で倒れました。幸いなことに50日間くらいの入院で退院してくれましたが、今後無理させてはいけないと思って、昭和52年に改造しました。持ち運びが大変な上に、炊事場の土間がコンクリートのため冬は寒く健康面にも無理がいきますので、家屋の中央にありました通路をつぶして、炊事場を表の間に、食堂も次の間に接続させ、燃料もガスを引くようにしました。そのため非常に便利になり助かっております。
 昭和59年(1984年)に、国、町の指導によって正面および南側面の漆喰壁や建具などの復元工事をしました。その際に洗面所、トイレ、風呂場が相当老朽化しておりましたので内部を改造しました。外周り、屋根はそのままとして、トイレは町の指導で無臭便所に、風呂は五右衛門風呂(鉄製の湯槽をかまどの上にすえてたく方式)から灯油で沸かす近代的な風呂にしました。
 古い建物を保存するためには、住んでいる人たちの気持ちを大切にしなくてはいけません。守るということは大事ですが、住んでいる人の生活の近代化も図らなければなりません。そのバランスが大切です。現在町並み保存会は88人で構成していますが、みなさん協力的で家を直してよかったと言っていただいております。」

 (イ)薬屋であった江戸末期ころの建物

 **さん(喜多郡内子町内子 大正13年生まれ 72歳)
 「わたしの家は、昔はここ(坂町)で薬屋を営んでいました。建築年代は、江戸末期ころと言われていますが明らかではありません。ただ家の木材の古さからいっても約200年はたっていることは間違いないと思います。
 明治40年(1907年)に県道が開通して、交通の要衝としての機能もなくなって、ここでは商売ができないので、これまで商売をしていた多くの家は、六日市(現本町)に移っていきました。わたしの店も六日市に借家して大正10年(1921年)以降は薬局を営んでいました。このようなことから坂町では、サラリーマンとか田畑を持って生計を維持しておられる人が多くなり、それで家を大々的に改築する必要がなく、そのためここの古い町並みが残ったとも言えます。
 大正時代ころから、家の道路側をガラス戸にして商売していましたが、昭和59年(1984年)に文化庁と町の指導で工事をしたとき、ガラス戸はそのまま残してよろしいということで屋根のみを修復しました。
 ここに住んで感じていることは、夏は玄関を開けて中へ入りますとひんやりとしますし、冬は割合暖かいです。内部の戸はサッシにしています。
 古い建物の内部は暗くて不便だと言われますが、わたしは、敷地の奥行きが長いのだから暗いのは当たり前と考えて、それほど不便とは思っていません。
 ただ建物が古くなっていくことをずっと心配しています。建物のあちこちが老朽化して、傷みがひどいので、昭和40年(1965年)に廊下を、昭和45年に洗面場、化粧部屋、トイレ、浴場を一括して改造しました。どこの家も同じかと思いますが、家が少々傾いていて戸を閉めても透き間ができています。
 わが家に出入りしている大工さんや左官さんは、お宅のような修理が一番大変ですとよく言います。土台からきちんと造るのであればよいのですが。
 いろいろ心配もありますが、でもやはり、長く住んできた自分の家には愛着があります。」

 (ウ)箱階段がある「おみやげ店」

 **さん(喜多郡内子町内子 昭和21年生まれ 50歳)
 **さんは、土木技術員として勤務していたが、みやげ店を守っていた奥さんの体調が悪くなり、平成7年会社を退職し、現在は奥さんと一緒に店を経営している。
 「この建物が建てられたのは、江戸末期だと聞いておりますので、今から約160年前になります。昔は、家紋の染め物屋、それから合羽(かっぱ)屋、旅館などもやっていたようです。現在はこの古い建物を利用して喫茶とみやげ店を営んでおります。
 この家は真ん中に通路があって両側はすべて部屋でしたが、平成元年に内部を一部改装して展示場を作り、店内の奥の一角に『八日市資料館』として、昔からこの家に伝わる藍染(あいぞめ)の型紙や古文書、引き札(商品の披露の広告に配る札)、版画などを展示しています。中でも三越百貨店の杉浦非水作の引き札は、明治時代のもので全国に3枚しかないという貴重なものです。
 お陰様で年々観光客が増えてきましたので、平成5年に玄関を入って左側に喫茶ができるようにカウンター(8席)を設け、また、右側にみやげ物コーナーを設けて、みやげ物(当店オリジナル紙製品、しそ漬け、町並せんべい等)を展示するようにしました。」
 店内に入るとみやげ物の展示の中には、箱階段などがそのまま残されていて、情趣たっぷりである(写真3-1-13参照)。さらに今年(平成8年)1月に喫茶の席数不足を解消するため、店内の奥の元炊事場を改装して、冷暖房を完備した28席の喫茶室が新しく造られ一層くつろぎやすくなっている。
 現在の建築基準法では増築はできないということで、家の道路側前半分をみやげ店として残し、後の半分は壊して、**さん一家の住居として新築している。**さんは、「古い建物ですから管理するのは大変です。外側の壁などは国、町の指導で補助金(500万円)を受けて修理しました。まだ屋根など修理したいところが多くありますが、思うようにはいきません。」と語った。

 (エ)旧東芳我邸から青果商店に

 **さん(喜多郡内子町内子 昭和13年生まれ 58歳)
 **さんは会社を退職して、現在、奥さんと店を経営している。
 「この建物の建築年代は明らかでありません。ここは旧東芳我家で、昭和32年(1957年)に五十崎(いかざき)町より引っ越してきて買った家です。買い取る前は、この家は広いので下宿屋をしていたようです。
 わたしは、五十崎町で商売(青果商)をしていましたが、ここでも引き続いて、青果や雑貨(日用品)を扱う商売を始めたのです。お客は町内の方が約70%、観光客が30%で、観光客には果物や山菜物がよく売れます(写真3-1-15参照)。
 この家を買った時、実は道路面より建物の土間が低く、梅雨時は雨水が土間に入ってきて大変困りました。そのため昭和45年(1970年)ころ土間の底上げと、部屋を一部改造して店舗を拡張し、玄関を壊してガラス戸に改造しました。
 平成3年に町の指導で玄関を出格子戸にし、2階の道路側は白壁にして買ったときと同じように復元しました。この時炊事場、風呂場、トイレなどは老朽化して傷みがひどい上に不便なため、新しく改造しました。建物の奥行きが長いので、道路側半分を店舗兼わたしたちの住居としまして、元の炊事場は、現在は物置にしています。奥の建物と茶室は、昔のままとしました。道路側の店舗兼住宅と奥の隠居部屋とは、昔のままの赤いタイコ橋(半円形のそり橋)で結ばれております。
 暗くて使い勝手の悪いところは改善しながら、商家として再生をはかって、内子町に来られた人に、景観を見てもらうだけでなく、商売を通して心のもてなしができるようになりたいと思います。」

 (オ)客をもてなす店構え

   a 格子戸のある店構え

 **さん(喜多郡内子町内子 昭和7年生まれ 64歳)
 木製の看板には〝髪匠〟とあるが、れっきとした美容院である。昔は大きな酒屋さんだったという店には、くぐり戸のついた大戸があり、現在店舗になっているスペースの半分以上は広い土間だったという。天井のたる木を出し、障子戸を入れ、格子戸を昔のままにし、座布団はかすりにしている。「改造するとき最初は惜しいという気持ちでしたが、町並み保存の声が高まって、落ち着きを出すべく工夫し、お客さんにも大好評です。」

   b 常夜灯がある床屋

 **さん(喜多郡内子町 昭和25年生まれ 46歳)
 「この建物はもと民家であったものを、わたしたちが昭和61年(1986年)に買いました。その時、町の指導で町並みの景観を損なわないように半解体工法(*2)で保存修理しました。内部の改装は自由にできますので、理容店舗として改装に踏み切りました。落ち着いた雰囲気でとてもお客さんに気に入ってもらっています。」


*1:明治6年(1873年)伊勢社跡(図書館を含む現敷地)に内子で初めて学校が設立された。明治9年生徒数の増加と校区
  が広域となったため、桜ヶ丘小学校を三分していたが、明治11年入学する生徒数の減、その他の事由により、再び伊勢社
  構内に三分校を統合して化育小学校と改称された。明治34年(1901年)内子尋常高等小学校が創立されるまで22年間幾多
  の人材を育て、「教育の町内子」の名を高めた。昭和58年(1983年)化育小学校の面影を残すために、新しく児童館とし
  て改築された(③)。
*2:現状では建築基準法上、半解体工法による修理事業によらなければ作業は不可能となっている。建物を全解体にすると、
  復元しても新築とみなされ基準法の適用を受けることになる(⑤)。

写真3-1-1 2階の窓枠がことなる

写真3-1-1 2階の窓枠がことなる

平成8年11月撮影

写真3-1-2 他には珍しい路地空間

写真3-1-2 他には珍しい路地空間

平成8年11月撮影

写真3-1-3 外壁にナマコ壁を

写真3-1-3 外壁にナマコ壁を

平成8年11月撮影

写真3-1-4 坂道に沿って建てられている町並み

写真3-1-4 坂道に沿って建てられている町並み

平成8年11月撮影

写真3-1-5 町並みの一画に「枡形」が見られる

写真3-1-5 町並みの一画に「枡形」が見られる

平成8年11月撮影

写真3-1-6 町並みの大切さを感じさせる通学路

写真3-1-6 町並みの大切さを感じさせる通学路

平成8年11月撮影

写真3-1-13 店内に箱階段が見られる

写真3-1-13 店内に箱階段が見られる

平成8年7月撮影

写真3-1-15 改造後の店内

写真3-1-15 改造後の店内

平成8年7月撮影