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愛媛の景観(平成8年度)

(1)チョウの舞う島

 岡村島は、今治市から海上約20kmを隔てた越智郡の西北にあり、広島県境に位置している。ミカン栽培と漁業が村の経済を支えている関前村の中心の島である。花崗(かこう)岩の風化でほとんど砂質土壌であり腐食は少ないが、果樹栽培には適している。急斜面の山頂まで果樹園地化されている。東予地方では柑橘(かんきつ)産地として先進性を誇っている。これには広島県大崎下島大長(しもじまおおちょう)からの渡り作に刺激され、明治中期にミカン栽培が始まったと言う歴史的背景がある。温州ミカンと、甘夏柑が主力である。漁業はサワラのさし網・タイの一本釣りが主体である(④)。
 日本でも有数の高齢化の島(全人口に占める65歳以上の割合が、1995年10月現在で44.2%)であり、後継者が少なく過疎化が年々進むという大きな悩みを抱えているが、最近は、クロツバメシジミという小型のチョウによる村おこしで注目されるようになった。

 ア ミカンと漁業の島、岡村島のくらし

 **さん(越智郡関前村岡村 昭和2年生まれ 69歳)
 「わたしの子供のころは、戦争のさなかから直後の時期で、豊かな育ちはしていません。家は農業と漁業の兼業でしたが、年中家の仕事に追われるほどのものはなかったので、父親は御用船という軍の物資を運ぶ船に乗っていました。軍属というのでしょうか。そして昭和18年(1943年)に、ニューギニアで戦死しました。母親は子育てをしながら、家の仕事に懸命でした。わたしを含めて兄弟は8人でしたが、成長したのは6人でした。勉強よりも親の手伝いや近所の農家へ働きに行くことの方を親から奨励されていました。当時の子供たちは、ミカン畑では肥料を背負って運ぶ作業や、当時はまだエンジンでなかったため、ミカンの害虫駆除をするための手押しのポンプを押す作業などが主なものでした。左官の手伝いで、壁土をこて板へ、大きなへらで運ぶような仕事もよくしたものです。
 昭和17年(1942年)に高等小学校を卒業して、昭和18年の4月に神戸の軍需工場へ働きに出ました。そこで旋盤(せんばん)の仕事に従事して終戦を迎え、昭和20年(1945年)9月に島へ帰ってきました。
 わたしの同級生の大半は島に残りましたが、残った者も大戦中は柑橘類は作らせてもらえませんでした。岡村島での農業は明治の中期から始まったミカン栽培で、子供のころ、関ミカンとか、隣島(広島県の大崎下島)の大長ミカンとかいうのは有名でした。大戦中はミカンの木は全部切らされ、サツマイモとムギを作らされて、供出させられました。耕作面積によって供出量が決められていました。
 岡村島のミカンは大戦後復活し、ミカンの形をしていれば、虫が付いていようが、皮に傷があろうが、とにかくよく売れた時代がありました。ミカンの形さえしていれば金になりました。しかし、やがて苦難の時が来ました。虫どころか、きれいなミカンを作っても値よく売れません。皮の薄い、うまいミカンでないと売れません。露地ものはだめで、ハウスとかマルチ(地面に反射板を敷き詰めて、糖度を高めたもの)でないと売れないのです。そのため、それまでこの島は露地ものだけでしたが、ハウスやマルチをやり始めました。ハウスは早く出荷し、マルチは糖度を高めたものですが、酸は抜けにくく、土地によって品質に差が大きくつきます。しかし、露地ものでは、肥料代や消毒代が出ないから工夫してハウスかマルチを続けなければなりません。
 昭和21年(1946年)にわたしが植えた苗木も今年ですでに50年になるのですから、株が大きくなっています。岡村島の主産業は現在もミカンと漁業ですが、ミカンも8年くらい前から減反政策が行われるようになりました。わたしの家も4、5反(1反は約10a)減反しました。今年でその期限が切れますが、補償金をもらっていましたから、減反対象地ではこの8年間は絶対にミカンは作ってはいけなかったのです。来年から再び作ってもよいことになりますが、わたしの家では後継者もいないので思いつきません。
 漁業は昔からサワラとタイが中心です。4月にはいると流し網で転流時(潮の流れが逆になる時)に網をいれ、サワラが頭を突っ込むような方法で漁をします。6月一杯までが時期ですが、ここ数年は漁獲量は減っています。サワラはわたしの家も、以前は春と秋2回やっておりました。サワラの収入が漁業収入の6、7割を占めているので、不漁は痛いし、原因が分からないので困っています。この海域では一匹5~7kgのものが多いです。タイ漁は主に一本釣りです。
 関前村では、以前は漁協でハマチやタイの養殖をやっていましたが、今はやっていません。養殖をやっているのは1人だけで、クルマエビを10年くらい前から始めた方がいます。高齢化が進み、後継者がいないので、漁師も50代から60代が多いです。漁法は昔から変わりませんが、漁具は材質が非常によくなりました。網も以前は船に2人が乗り込み、小さなローラーを使いながら繰り上げていましたが、10数年前からは大きなローラーで巻き上げています。
 島はやがて橋で大崎下島へつながりますが(平成10年完成予定)、若者が魅力を持つ仕事がこの島にはありません。関前村は高齢化が進んでいます。農業では数人くらい後継者がいるかもしれませんが、漁業はいなくなるでしょう。昭和の初めころには小学生も600名くらいおりましたが、今は小・中学校あわせて60名ほどです。年寄りばかりの村になっていきます。寂しいことです。村おこしのグループが、村に三つくらいあるようですが、よいことだと思います。長く将来にまで続くものであってほしいと願っています。」

 イ チョウの発見

 **さん(越智郡関前村岡村 昭和23年生まれ 48歳)
 **さん(越智郡関前村岡村 昭和25年生まれ 46歳)
 **さん(越智郡関前村岡村 昭和42年生まれ 29歳)
 **さんは、岡村島でツメレンゲやクロツバメシジミを発見し、「蝶を育てる島の会」を主宰している。また、**さんと**さんは「蝶を育てる島の会」の会員として活躍している。さらに、**さんは、関前中学校で理科を担当しながら、生徒会の自然環境委員会の指導もしている。
 「わたしはもともと自然や生物にものすごく興味をもっていて、過去に母と子の自然科学教室を主宰したり、野鳥の会の事務局を担当したりしていました。そして、今度は関前村の自然の全てを手がけようと思い、平成元年に松山のチョウの同好会へ出かけ、そこで耳よりな話を聞きました。それは、今治市の吹揚(ふきあげ)城の南側の石垣は石灰岩でできており、そこにツメレンゲが生えていて、そのツメレンゲを食草としているクロツバメシジミが、昭和35年(1960年)に発見されているということでした。その発見者の太田喬三先生が、石灰岩・ツメレンゲ・クロツバメシジミと一連するのなら、元の石灰岩がどこから来たかをたどればいいのではないかと考え、石灰岩を採掘していた関前村の小大下(こおげ)島をたずねたことがあったということでした。太田喬三先生からは『関前村が**さんの地元なら、もっとていねいに調べてみてはどうか。』と言われました。
 村に住んでいても、これまで吹揚城の石垣の石灰岩を、小大下島から持って行ったなどということは、だれからも一切聞いたことがありませんでした。島に帰ってきて、小大下島ヘツメレンゲを探しに行きました。民家の屋根の上に4か所生えているのを見つけましたが、チョウは発見できませんでした。それからツメレンゲは岡村島にもあるのではないかと探したところ、作られてほぼ50年以上経過した瓦(かわら)屋根上で26か所発見しましたが、ここでもチョウは発見できませんでした。ツメレンゲは花茎がのびて花をつけるので、そういう状態になると自生地が発見しやすくなります。それ以後、クロツバメシジミのことが頭から離れませんでしたが、まもなく岡村港の右手のがけ下の道路にさしかかった時に、偶然がけで2頭の小さな黒いチョウがヒラヒラしているのを見つけました。がけの下の道路で待っていて、特徴である裏面のオレンジのはん点が見えたのでネットで捕らえました。それが岡村島でのクロツバメシジミの最初の発見で、平成元年11月8日のことでした。吹揚城での発見から29年たっていました。
 クロツバメシジミを発見してから1か月くらいの間に、『チョウ』を島の新しい顔にしたいと考えるようになりました。そして平成2年の2月に『蝶を育てる島の会』を結成しました。主人公は、言うまでもなくクロツバメシジミです。とにかくこれを絶えさせないようにしよう。そこでまず、餌の確保に懸命に努力しました。ツメレンゲの種子をまいて、成長させる方法を知るために、NHKの園芸教室に尋ねたり、書物を見たりして大変な苦労をしました。園芸用の苗床を使ったりもしました。今は実生(みしょう)でも3年くらいで食草として供せられるようになりました。結局、自生している場所の環境に近づけることが最も大切でした。要は水はけがよくて、日当たりのよい所へ置くということです。ナメクジにやられたりいろいろありましたが、種子から育てるというのは軌道に乗っています。えさの確保はもう大丈夫です。平成3年の台風19号の時は心配しました。それまで、ほとんどの餌(ツメレンゲ)を生息地に補充していましたが、台風19号以後、万一の時のことを考えて、学校とか、我が家の周囲で育てることにしました。種火を残しておくということです(写真2-2-21参照)。」

 ウ クロツバメシジミに託す夢

 **さん(越智郡関前村岡村 昭和42年生まれ 29歳)
 「関前中学校で、クロツバメシジミに取り組むようになったのは、この中学校に村上裕次さん(理科担当、現大西町立大西中学校在職)がおられた平成4年4月からのことです。『蝶を育てる島の会』の趣旨と日ごろの活動に賛同されて、生徒たちに郷土の自然環境を大切に守ることと、生命の神秘に触れさせることを重点目標として、中学校に自然環境委員会を設置し、『クロツバメシジミの保護増殖の研究』を活動の大きな目標とされました。
 村上さんが指導された当時の研究の成果は次のようなものです。
 『クロツバメシジミ(Tongeia fischeri)はシジミチョウ科であり、開張2.5cm、オス・メスとも同色で、表は黒褐色、後翅外縁(こうしがいえん)に小さい青色斑を持ちます。裏面は淡褐色、後翅(こうし)に尾状突起があり、オレンジ斑があります。生息地は局地的で、産地変異種(*2)です。食草は、ツメレンゲ(写真2-2-21参照)・オノマンネングサなどの多肉種です。表面の黒色と鳥のツバメの尾羽の形、小さいという意味のシジミから名前がついています。オス・メスの区別がしにくく、ややメスの方が大きく、腹部も大きいので区別できます。
 岡村島クロツバメシジミの生態については、城(じょう)の谷岩場に棲(せい)息し(写真2-2-22参照)、他には民家屋根上26か所に自生するツメレンゲのうち6か所で、クロツバメシジミを確認しています。いずれも日当たりの良い南向きに面しています。生息地の周辺をあまり離れず、ツメレンゲの花・カタバミ・マルバマンネングサなどの小さな花で吸蜜します。
 羽化(うか)後2、3日でオスがメスに求愛ダンスで近づき交尾します。時間は3、40分です。卵は約1mmの大きさで、普通メス一頭で30個の卵を産みつけます。
 幼虫は、孵化(ふか)後約3週間で体長約12mmの大きさになり、体色は黄緑色、背中の線と縁どりが赤褐色で、ツメレンゲの葉肉内に侵入し食肉します。
 天敵に、アリ・クモ・カマキリ・鳥などがいて、自然界で成虫になるのは2、3%ですが、人工飼育では70%にもなります。
 蛹(さなぎ)は、緑色を呈していて、体表に細かい毛が生えています。卵から羽化までに約40日かかり、孵化(ふか)が近くなると体色が黒く変化し、最後には真っ黒になり、翌日には羽化します。
 岡村島クロツバメシジミと他産地との比較をしますと、他の産地では年3、4回発生しますが、岡村島では生息地が南向きで早朝より日没まで日照時間が長いため、4月下旬から11月初旬にかけて、年5、6回発生します。
 岡村島クロツバメシジミは翅(はね)型が横長であり前翅(ぜんし)も含めて点列が太く、さらに六つの点列のうち、最後の二つが大きく内側に入り込んでいます。さらに後屈の斑点二つに特徴があります。また、裏面の淡褐色が黄色がかっています。
 岡村島クロツバメシジミの増殖活動については、平成5年3月17日、『蝶を育てる島の会』の皆さんの協力を得て、新規に学校内に第2飼育場を設置し、食草のツメレンゲの種子栽培2万株のうちから一部を移植し、クロツバメシジミの飼育・生態観察を続け、成虫を飼育場に放蝶しました。これを繰り返し行い、保護・増殖をして、生息地の拡大を目指しています。
 食草のツメレンゲの増殖は不可欠で、1頭が成虫になるまでに約3株のツメレンゲが必要です。12月に採集したツメレンゲをそのまま新聞紙の上に日陰干しし、翌年の3月初旬に、プランターの中に水はけの良い土壌をつくり、その上にツメレンゲの花をそいで、一面に種子をまきます。約1か月で発芽し、7月ころより株分けすると2年で立派な食草のツメレンゲになります。(⑥)』
 平成8年は、全校生徒が27名に減少しまして、自然環境委員会は5名しかいません。そのために、十分な活動はできませんが、食草であるツメレンゲを育てることに主眼をおいて努力しています。
 小・中学校で育てたツメレンゲを自然の生息場所に移すことが活動の中心です。種子をまいてツメレンゲを育てるということでは貢献しているわけです。」

 エ 「蝶を育てる島の会」の活動あれこれ

 3人の会員たちは、さらに次のように話してくれた。
 「わたしたちは、港の待ち合い所の壁面に看板を付けたりもしました。しかし、活動資金がないので募金運動をしました。
 チョウにかかわるグッズを工夫して手作りし、お盆に帰省した人々に販売もしました。グッズもクロツバメシジミの宣伝になるような物を工夫して作りました。ちょうちんやTシャツは、チョウの図柄の入ったものにして、多くの人の目にふれることを期待しました。
 最も人気があるのはクロツバメシジミそのものの標本です。産地変異が見られます。岡村島のものはオカムラクロツバメシジミと呼んでもいいわけです。しかし、保護するべきクロツバメシジミを販売することはできません。
 県内では、岡村島以外に今治の吹揚城、石鎚山麓の黒川や西之川、美川村(上浮穴郡)の成川(なるかわ)橋で観察されたといわれています。下津(しもつ)池(西条市)にもいました。
 環境的には危険な場所に生息しています。屋根でも古い屋根にいます。島での個体数は自然まかせのため、変動があります。
 11月中旬に卵が産みつけられて幼虫で越冬し、5月の初めに成虫として出て来るわけです。この間が一番長いのです。6か月を幼虫で過ごし、春の成虫の個体数がどれだけ出るか、これが問題です。越冬中の事故が一番多いのです。
 『蝶を育てる島の会』の会員の平常の活動内容は野外作業が主です。日時などは決めてなくて、時間のあるときに会員が集まって作業をしたり、グッズ(現在11種類)を作ったりしています。各地のチョウにまつわる施設の見学旅行もしたりします。
 『蝶を育てる島の会』の活動を村おこし運動とは思っていません。わたしたちのことは他の人が評価するものであって、わたしたちはあくまでもクロツバメシジミを育てることを続けていくだけです。
 村内からは、創造的なアイデアを出すことを期待されているので、努力しなければならないと思います。また、期待し続けられるグループでもありたいです。最初はすることがこまごまとたくさんありました。これが7年間続いてきて、今度は何か大きなものができるのではないかと期待されるようになってきています。金のかかったものができるのではないかと。一つの夢として、チョウの標本類を中心とした博物館と生態観察が同時にできる館を作りたいと思っています。虫の好きな仲間が集まって、日本のあるいは世界の会合を開催できるようにでもなればよいとも思います。」


*2:岡村島のクロツバメシジミは、翅の裏面の黒斑があざやかで大きく、地色が黄色がかってやゝ灰色であり、オレンジ斑が
  鮮明などの特徴がある。

写真2-2-21 食草のツメレンゲ

写真2-2-21 食草のツメレンゲ

平成8年9月撮影

写真2-2-22 ツメレンゲの自生地

写真2-2-22 ツメレンゲの自生地

ツメレンゲの自生地にたてられた案内板。平成8年9月撮影