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愛媛の景観(平成8年度)

(2)渓谷の生き物たち

 仁淀(によど)川の最上流部にあたる面河(おもご)川は、西日本の最高峰石鎚山の南斜面に源を発し、深渓谷を形成しながら、上浮穴郡面河村、美川村を流れ下る。川沿いの急斜面には、古くから多くの人々が住み、自然とともにくらしてきた。「愛媛県風土記(④)」には、「石鎚(いしづち)の聖流郷(せいりゅうきょう)面河は愛媛県の中部、上浮穴郡の東端に位置している山村である。周囲を1,000~1,900m余りの高峻(こうしゅん)な山地に囲まれていて、北側には村の北端にそびえる西日本の最高峰石鎚山(1,982m)を主峰とする石鎚山脈、南側には四国山地があり、そのなかを仁淀川の支流面河川が鋭いV字谷をうがって流れているので、谷底平野はほとんどみられない。昭和30年(1955年)ころからは人口が激減し、典型的な過疎山村である。
 昔は、焼畑農業が盛んであり、トウモロコシ・キビ・ソバなどの自給作物が栽培され、その後作にミツマタが栽培された。ミツマタは最大の現金収入源であった。焼畑は昭和30年ころより急速に衰退し、その後の基幹作物は、米・繭(まゆ)・茶・タバコなどとなった。」とある。

 ア 山のくらしと生き物

 **さん(上浮穴郡面河村河の子 大正元年生まれ 84歳)
 **さん(上浮穴郡面河村河の子 大正6年生まれ 79歳)

 (ア)椿山(つばきやま)から河(こう)の子へ

 山里の小さな集落である河の子に住み、かつて焼畑農業の経験を持つ**さん夫婦に山のくらしの今昔を聞いた。
 「わたしは、自分ではこの河の子で生まれたと思っていましたが、実は戸籍を見ると高知県吾川(あがわ)郡池川町椿山33番屋敷で出生したことになっています。この河の子から二つの山を越した、距離にして8kmくらいのところにある池川町の椿山です。父母から聞いた話では、先祖は平家の落人(おちうど)だということでした。屋島の合戦(1185年)の後、先祖たちは椿山へ逃げ込みましたが、かなり年数もたって人口が増えたため、このままでは共倒れになるので、若い者たちが新しい土地を求めて出なければいけないということになり、わたしの父らが中心になって世話をやいて(斡旋(あっせん)をして)この河の子へ来たそうです。
 明治39年(1906年)ころ一家あげて入植して来たわけです。わたしは母が椿山の実家に里帰りして出産したため、椿山生まれになっています。ここの土地は約2、300町歩(1町歩は約1ha)ありますが、杣川(そまかわ)村(昭和9年面河村に改称)の中組の組地になっていたのを、明治39年に銭を借りて父たちが買ったそうです。その時に一緒に来た7戸の子孫は、わたしとこの坂の下にいる**さんだけになりました(写真2-2-11参照)。
 入植後、苦労しながら焼畑農業でなんとか生計を立てていましたが、現金収入が全然ないため、せっかく手に入れた土地でしたが、昭和の初めに県に売却してしまいました。そのため現金は手に入りましたが、自分の土地は無くなりました。そして売却後は県有地として植林されていきましたが、生活のため少しの土地は元の持ち主が借地として使用させてもらっていました。
 終戦後の昭和22、3年(1947、8年)にまた食糧の増産が必要になり、焼畑のあとを植林地にしていましたが、河の子で耕地が50町歩以上になったら、開拓団と認められて国や県の補助金もあるということで、70町歩あまりを開墾して『河の子開拓団』ということにしました。その時1戸当たり大体4町歩当てくらいで、新しく21戸が入植しました。その時期を除いては、河の子はずっと7戸か8戸の集落です。それが昭和22年からわずか数年の間に急に21戸入植したので、せっかく開拓団は組織したが、結局食べられなくなり、昭和30年(1955年)ころには過剰入植と分かり、それで松山や東京へ出たり、遠い所では南米へ6戸が移民しました。椿山からわが一家と一緒に来て生まれ育った人が、どうしてもここでは食えないということで、サンパウロ(ブラジル)へ行きました。そして後から入植した人が残りました。つまり河の子では、7戸以上は食べていけないということです。わたしの場合は3代目ですが、河の子のはえぬきの住民です。」

 (イ)焼畑農業のこと

 「昔の農業は焼畑で、焼畑には夏山と春山の2種類があって、夏山はソバ山にしていました。山の樹木を切り倒して乾かして焼かないかんが、夏山だったらぼうと火が燃えたら焼けるということで、5、6月ころに木を切って、7月には山を焼いてソバをまいていました。ソバをまいて75日の内に霜が降ったら収穫ができません。その後、翌年は土地のよい所にはトウモロコシを植え、それから畝(うね)高い場所(一段高い所)になると大豆とか小豆などを作りました。
 木の大きいのを切り込んで乾燥させて焼く山は春山と呼んで、秋のまだ木に葉がついているころに伐採(ばっさい)しておいて翌年の3、4月ころに焼きます。高い場所へはヒエをまきます。
 ヒエだったら椿山では4、50年も蓄えている人がいました。飢饉(ききん)があっても餓死(がし)することのないようにヒエを作って保存しておくわけです。それで最初にヒエをつくります。ヒエをつくると土地が軟らかくなります。どういうわけか肥沃(ひよく)になり、翌年はトウモロコシ、2、3年目には大豆、小豆を作りました。6、7年目になると土地がやせてきますが、当時は肥料がありません。もう1年作るときはアワをまきました。切り替えようかというやせた土地へはアワをまきました。アワを作ったら、6、7年木を生やして雑木林にしておいて焼いていきます。そして雑木林にしたら古い順番に同じような繰り返しをするのです。ソバ山だったら、雑木林にして5、6年の所でも焼いて作りました。
 わたしが幼かったころは河の子は植林はなくて自生した雑木林ばかりでした。山焼きは雑木林は比較的気が楽でした。それに対して、植林した山へ火を入れるのは度胸がいる感じがしました。
 山を焼くには、傾斜地で、頂上がちょっとくぼんだ所を選び、もし下から火がはいってぱっと燃え上がった時でも、ほかの山へは火が移らないように工夫しておくことが大切でした。上は4m以上くらい、横は2mくらいの火道(防火線)をつくり、そして上から火を入れてじわじわ、じわじわ下へ向かって焼いていくのです。時間をかけて焼いた方がよい。下からぱっと火が着くと火の回りが速く、ざっと焼けてしまって、固い木などはほとんど全部焼け残ってしまいます。上から焼くと小さい枝などがころころ下へ落ちて、残りがないように全部が焼けていきます。
 焼畑は、山を焼くときに最も気をつけないといけません。必ず上から焼くことと、途中に畝があったり、左右から風が吹いたりすることもあるので、火を付ける者はよほど注意深くやらねばなりません。木を切るときには斜めに倒していくと、火を入れた時によく焼けて都合がよいわけです。ゆっくり焼くことで土の中に雑木の養分が全部残るわけです。先祖代々が生活の中で工夫して生まれた知恵です。
 焼畑は親の代からずっと続けてやっていましたが、植林が終戦後奨励されたので、焼畑はなくなりました(写真2-2-12参照)。現在の耕地は戦後新しく開墾したものです。」

 (ウ)食べ物や仲間のこと

 **さんは、「河の子の食べ物は、主食はトウモロコシとサツマイモで、学校へ行く時はサツマイモを煮てもらって袋へ入れて持っていきました。サツマイモを持っていったら友達に笑われたり、いじめられると思って、途中の山の木の枝へぶらさげておいて行ったこともありました。」と小学生時代を振り返って苦笑いした。
 **さんは、台所を預かってきた立場で、食物のことなどを語ってくれた。
 「トウモロコシは石臼(うす)ですって(挽(ひ)いて)、けんど(ふるい)でえり分け、最も粒が粗いのはもう1度すり(挽き)ました。少し目の細かいけんどで取ったのは主食として食べました。そして細かい粉(華粉(はなご))は菜っ葉などを加えて煮てねりつり(おじや)にしました。それがおいしかった。終戦まではトウモロコシとムギが主食で、当時、主人はトウモロコシへちょっと米の入った御飯が食べられるようになったら、文句はないと言っていました。ムギは裏作などで作りましたが、トウモロコシを食べて育ったから、主人は麦飯は嫌いでした。トウキビ(トウモロコシ)飯は食うが、麦飯は食わんとごねた(むちゃをいう)こともありました。トウキビ飯は温かい間はよいのですが、冷えるとパサパサしてにおいが強くなります。今もわたしたちは米に麦を混ぜた御飯を食べています。」
 **さんは動物のことや、仲間たちとの付き合いについて言葉を続けた。
 「この辺の獣類の思い出としては、昔、わたしのおじが山に炭焼きに行っていて、イノシシに襲われて大けがをして、耳が聞こえなくなったということもありました。
 今はイノシシやタヌキが多くて、トウモロコシやサツマイモを荒らしてなかなかわたしらにくれません(写真2-2-13参照)。ハクビシンも増えてカキなどを食います。モモも食うて果実は一切この辺では収穫できません。追っ払う手段もありません。息子がプラムをやってみろというので、90本ほど植えて、だいぶん大きくなって年収が14、5万円くらいになっていました。これをハクビシンが味を覚えて食うてしまいます。実に袋掛けすると空からカラスが来てつついてしまうので、結局10年ほどでやめました。
 食べ物も粗末で、仕事も厳しかったが、昔の方がはるかに生活は楽しかったです。隣近所は助け合って人情がこまやかでした。嫁でももらったものなら、招かれなくても押しかけていって、飲んで食べて祝いよりました。赤ん坊が生まれたら、みんなが集まって祝いよりました。何事かあるとすぐ行事(集まり)をやりよりました。
 河の子の氏神さんは、天神さんをお祭りしとるんですが(写真2-2-14参照)、先祖が椿山からこちらへ移したということです。山ですから山の神さんも祭っていました。焼畑の火入れもせにゃいかんし、あやまちのないようにということで祭っているわけです。1月9日、5月9日、9月9日と年に3回、昔から現在までお祭りを続けています。年に3回の氏神さんの祭りは多いようですが、それは集落のきずなを強くするためのものです。それが、現在は少しずつ寄り合い(集会)がなくなってきているように思います。以前は寄り合いがあると、何よりも優先して集まりよりました。現在は生活は便利になりましたが、心のつながりは昔の方がはるかに強かったです。親せき以上の付き合いをしていました。現在のいじめなど考えられない仲間たちでした。
 現在の7戸の集落は後継ぎがありません。14名の老人が居るだけです。悲しいですね。村がさびれたのは焼畑に植林したためです。現金収入は無くても、食べるものだけを作るその日ぐらしだったら、畑があればできたけれども、木はある程度大きくなると、手間がいらなくなるかわりに、食べるものも、現金収入も得られない。また、子供の進学や就職の問題なども生じて村を出て行ったから、過疎化が進んだのです。わたしたちにも息子が4人、娘が4人の8人の子供がいますが、村内外、県内外にちらばっています。」

 イ 川と山の姿

 **さん(上浮穴郡美川村東川 明治44年生まれ 85歳)
 面河川は昭和20年(1945年)ころまでは水量が多く、瀬やふちの変化に富んだ美しい清流であった。しかし、幾度かの大雨による洪水によって河川の様相が大きく変容した。土砂の流出により川底が高くなって浅瀬が増え、ダムの建設によって水量が半減し、生息する魚類も激減した。一方、山の自然も人工林の増加と天然林の減少によって大きく変化した。川魚漁や狩猟に豊富な経験を持つ**さんに、川や山の変遷について聞いた。

 (ア)川の移り変わり

 「わたしは昭和24年(1949年)の暮れに戦地より帰ってきました。出征前の河川の様子と帰ってきた時の風景は変わってしまっていました。しかし、それでもダムができるまでは、この東古味(こみ)のつり橋の下などは恐ろしいようなふちでした。海のような深さがありましたが、砂がたまって徐々に浅くなっていきました。
 当時はアユも30cmくらいの大きさのものがいましたが、今は水量が少なくて水温も下がるし、放流ものばかりで遡上(そじょう)してくるものがいません。ダムができるまでは海から遡上してくるアユがいました。いわゆる天然ものです。平成8年などは放流したアユでさえ、水温が低く下流へ下っています。漁協がいくら放流してもその数は3分の1になっているか2分の1になっているか分かりません。放流する数に対して歩留まりは悪いように思います。水温が8℃以上になると放流した場所にとどまるのですが、8℃以下になるとじわじわ下っていきます。
 昭和30年(1955年)ころまでの漁法は網を入れてとる方法で、このあたりでは、わたしは別にして、2人の人がアユをとって商売をしていました。他の人は食料不足の時代で魚どころではなかったわけです。2人は川魚をとることが専業で、いわばこのあたりでは『道楽者』とよばれていました。漁獲したものは方々へ売りにまわっていました。当時はクーラーや冷蔵庫があるわけではありませんから、その日に売って歩かないといけなかったわけです。
 網は絹の糸に柿のシブをつけて作っていました。すぐボロボロになって破れました。かりさし網といって、川の中へ何枚も張った網の端末に舟をつけて水面をぱんぱんたたき、アユがあわてて逃げると網の目に頭を突っ込んでかかるような仕組みでした。当時の網の目は寸目とか8分目とかいう網で、30cmを越すようなアユでないととれませんでした。
 現在は8月1日からは網を使っていますが、それまでは友づりが主体です(写真2-2-15参照)。
 わたしが川魚漁をやっていた昭和27年(1952年)から30年ころは、とれる時は大漁でどうしようもないくらいとれました。現在は絶対にそんなことはありません。昔はとれすぎても保存法がなく、反対に今は保存法はあってもとれないということです。昭和32、3年(1957、8年)までは、釣りざおを担いで川へ通う人などは数えるくらいしかいませんでした。この近辺でも5人くらいでした。面河川の魚種は、アユ、ウナギ、アマゴ、イダ(ウグイ)、ショウハチ(オイカワ)などです。今はすべてが少ないです。各種の魚を放流はしています。昭和30年ころは、つけ針(たこ糸にウナギ針をつけ、えさのミミズをつけたもの)を夕方入れておいて翌朝とりに行くと、かなりウナギがとれていました。」

 (イ)山と動物たち

 「わたしは鉄砲も40年間くらい扱ってきました。鉄砲を扱ったり、アユをとったりするのは『道楽者』のすることとされていました。鉄砲担いで朝から晩まで歩きまわったころがありました。獲物はキジとウサギが主でした。キジはそれは沢山いました。昭和37、8年(1962、3年)の大雪でキジはごっそり減りました。それまでは家を10時ころに出て、高山から東川をまわって晩に戻ったら、1日に3、40羽のキジに出合い、獲物は1、2羽でした。カヤ場と雑木林とがほとんどで、植林されていなかったから、キジの産卵場所に恵まれていたわけです。
 イノシシは遠くへ行かないといませんでした。昭和44年(1969年)から50年くらいまではイノシシを狩猟する者はいませんでした。ところが、植樹をどんどんやったものだから、イノシシが集落の周辺へ寄ってきました。キジやウサギはおらんようになって、イノシシばかりになってきました。イノシシの増え方は激しいです。子を10匹くらい連れています。
 ハクビシンは外国から入れたものであり、捕獲禁止だから増え方も激しいわけです。
 わたしは80歳まで狩猟をやりましたが、足が悪くなってやめました。鉄砲の使用許可をもらうのは非常に難しくて、今は郡内でももらっている人は何人もいないと思います。河川の漁の許可は金さえ出せばだれでももらえます。専業漁業者と遊漁者との区別はあります。」

 ウ 清流(聖流)を利用した養殖

 **さん(上浮穴郡面河村渋草 昭和19年生まれ 52歳)

 (ア)ニジマス・アマゴ

 「わたしは昭和41年(1966年)、22歳の時に都会からUターンしてきました。おやじが養蚕(さん)をやっていたのでその手伝いをしていましたが、いくらやっても生活は豊かにならないし、労力の問題で行き詰まってしまい、もっと効果のある、労力の少ない、かつ収入の多いものは何かないかと模索していました。長野県で養殖業を営んでいた先輩の話を聞いたり、現地へ行って見せてもらったりするうちに、これと取り組んでみようということで養殖業にはしったわけです。長野県ではニジマスとヤマメをやっていましたが、わたしはニジマスとアマゴを選びました。長野県ではヤマメが生息しているのに対して、この辺ではアマゴが生息しているからです。アマゴは体側に赤いはん点があり、赤いはん点のないのをヤマメと呼びます。長野県は山が大きく原生林が多いから水もきれいですが、面河はすべてが小さくて条件的には全く違っていました。
 それなのに始めることができたのは、わたしが若く無鉄砲だったからだと思います。昭和44年(1969年)、25歳の時でした。水量は長野県と大きな差がありましたが、水温などの条件には問題はありませんでした。わたしが始めてからでも水量は半分くらいに減りました。やはり落葉樹の自然林が減って保水力がなくなったことと、若齢の植林が多いからだと思います。
 養殖後の販路なども、見通しは全く持っていませんでした。当時の需要と供給のバランスから考えても、観光客がどんどん面河に入ってくるようになり、供給が間に合わないので、わたしが始めてもさばけるだろうと予測していたのです。
 最初の稚魚は、同じ郡内の久万町で養殖を始めていた業者から仕入れて、いよいよ養殖を始めました。その後は、わたしの所で親魚から卵をしぼって採取して受精させ、ふ化槽でふ化させてきました。10℃の水温ならば35日でふ化します(蓄積温度が350℃でふ化する。)。ニジマスは100g、20cmくらい、アマゴは80g、18cmくらいがよく売れます。9月の下旬に採卵して、出荷するのは翌年の7月の中旬くらいです。餌はスケトウダラをミンチにして固形にしたものを与えています(写真2-2-16参照)。」

 (イ)素材の良さ

 「昭和50年(1975年)までは思惑通りにいきました。ところがその後、病気が入って難儀しました。魚数や養殖池の規模が3倍、4倍になってくると、他の業者との交流も回数・業者数ともに多くなります。そのため大変な病気が入ってきました。それが過去2回ありました。肝臓をやられるウイルスと、もう1回は腎臓をやられるウイルスのまん延です。ウイルスは、魚そのものが持っている場合のほかに、水、魚を運ぶ容器、運搬車、仕事にたずさわる人の身体、衣服など、何か持ち込むかわからないのです。細心の注意をして予防し、消毒してきましたがやられました。ウイルスに効果のある薬はありませんので、池を完全に空にして1年休ませる手段を採りました。池を乾燥させたり、原液に近いカルキで洗ったりもしました。克服するのに5年くらいかかりました。
 今年(平成8年)は調子が良くて、久しぶりに出荷できそうです。こんなに調子がよいのは7、8年ぶりです。従業員の若者たちも張り切っています。毎年100万匹くらいの魚が死ぬのが続いてきたのですからね。
 養殖を始めて27年間で、規模は4倍余りになっています。出荷先は病気が出たりした関係で村内だけにしています。卵から成体にして出荷できる割合は普通は90%から92%です。平成8年は97%以上残っています。
 わたしは2、3年前から、卵をここで取るのをやめて買ってきてやっていますが、その方が調子がよいようです。稚魚専門、卵専門と分けたらいいものができると思います。
 飼育する期間で最も苦心を要する季節は、梅雨前の5月中旬ころから6月一杯です。流水だったら8℃から13、4℃の間の水温のときに病気が出てきます。水温が15℃以上になると病気はなくなります。そして秋口の水温が下がってくる時にも病気が出ます。病原菌さえ入らなければいいのですが、養殖池の周辺へ外部の人が近づいたり、水鳥がやってきたりして防御ができない所もあります。
 1匹魚が死ぬと徹底して原因を調べます。雨降りの日に餌をやる時など、雨のしずくを養殖池の中に落とさないように、水を吸収するような服装でやっています。とにかく細心の注意で取り組まねばなりません。
 自分で育てた魚を、自分で料理して提供するというのが最後の夢です。わたしがいろいろな場所で見る料理は、育てた魚(素材)の良さを本当に引き出していないような気がしてなりません。苦労はこれからも続きますが、後継者に語れるように頑張っていきたいと思っています。」

 エ 天下の景勝

 **さん(上浮穴郡面河村若山 昭和41年生まれ 30歳)
 面河渓は、村内最大の観光資源で昭和8年(1933年)に県内で最初の国指定の名勝となり、石鎚山麓一帯が昭和30年(1955年)に国定公園となった。
 滑らかな花崗(かこう)岩の河床を変幻自在に流れる滝と早瀬の連続する険しいV字谷の景観と、天然林の覆(おお)う植物景観に優れ、多種多様な動物が生息している。平成3年、この面河渓の入り口に村立面河山岳博物館がオープンした。**さんは、その主任学芸員として、渓谷の生物の調査研究に余念がない。

 (ア)村の活性源として

 「山岳博物館の設立の意図は、村おこし対策事業の一環として博物館的な資料館を作ってはという発想から出発しました。
 面河渓は自然公園だから物見遊山(ものみゆさん)的ではなくて、森林浴も兼ねながらゆっくりと時を過ごしていただきたい、自動車でぱっと来てぱっと帰る通過型ではなくて、滞在型になってもらいたいとの願いが込められています。
 面河渓と石鎚山は観光地ですが、今まで滞在型の施設がなく通過型が多かったわけです。自然も豊富だし、動植物もそろえて見てもらいたいという希望もあって博物館の設立案が浮上してきました。
 まず建物ができて、その後展示物の収集にはいっていったということで、資料ゼロから始まった訳です(写真2-2-17参照)。
 建設にあたっては、予算面では県の町づくり特別対策の補助金を活用したり、石鎚の聖流郷面河整備事業という起債の方でやってもらって、当初で4億7,323万円(建物・内容)をかけてつくられました。
 人口が1,000人余りの村としては大投資でした。しかし、先進地の博物館の設備を見学するなどして研修し、平成元年9月に着工、平成2年3月に竣工、開館は平成3年4月1日でした。鉄筋コンクリート3階建(構造的には5階建)で、面積は1,699.58m²です。
 博物館の運営の基本方針は、面河の独自性を生かし面河ならではの自然に重点をおいて、情報の発信を進めていこうということです。そのやり方としては、出版物を作ること、博物館自体がニュースソース的な役割で、マスコミなど関係諸機関に情報を提供すること、自然観察会、昆虫教室、森の学校などいろいろなイベントを行うこと、面河と石鎚の自然史の資料をできるだけ収集して、その資料を整理、保存して生かしていくことなどを考えています。村民が足元を見直すきっかけを作り、地域を知るという啓発もしたいのです。
 自然教室に参加する人たちは、村内の方に限っていません。年間何回か行いますが、今は村外の人が多いです。新聞、ラジオを通じて情報を得て参加する方もおられます。1回の参加者は約20名で、観察会などは大体15名(指導者1人に対しての観察者数)くらいが望ましいのです。人気があって定着しつつあり、希望者が多くて断るケースもあります。観察会では240名から250名というのが一番多数でした。数が多いのは必ずしも良いことではありません。人数の多さはバロメーターにはならないので、質の濃さやレベルの高さで勝負したいと考えています。学芸員は2名でやっています。
 地元の小中学生を対象に水辺の教室などを夏休みに何回か実施していますし、学校へ出向いて講座を持ち、昆虫の話などもして啓発しています。年間の行事も多い中で資料や出版物を作っていくのは正直いって大変です。しかし、博物館の役割として展示も一つの事業ですが、出版物も大きな柱なので、大作は出せませんが、小粒でもできるものをやっています。館報や研究紀要もまだ出ていませんが、いずれ早く出せるようにしたいと考えています。
 博物館は環境教育的な一面も持っているので、時間のやりくりをして努力しています。県内外の博物館に資料を貸し出したり、民間の企業へ展示資料の貸し出しをしたりすることもあります。収集している資料点数が現在約6万5千点あります。学芸員自ら収集する場合もあるし、提供を受けることもあります。それを分野ごとに分類しながら受け入れて整理、保存しています。学芸員の仕事は年を追うごとに増えるし、館外の仕事も増えて多忙です。10万点というのが当初の目標で、この数がそろえれば一通り自前でいろいろ活動ができるので、わき目も振らないで頑張っているところです。
 収集する地域は面河、石鎚一帯が中心ですが、比較のために、例えば剣山(つるぎさん)(徳島県)あるいは南西諸島のものを収集したりもします。こうした収集は、ここのものの位置付けのために大切だし、必要であると考えます。
 県内外から依頼される行事や仕事も多く、県外へ出かけることもしばしばで、とにかく今は時間が欲しいです。」

 (イ)注目されるサンショウウオ

 「わたしは大学卒業後、横浜の私立高校で教師をしていてUターンしました。教職についていましたが、都会では人間らしい生活もできず、時間ばかりに追われるめまぐるしい生活が嫌でした。研究を生涯の仕事としたい強い願望を持っていました。サンショウウオの研究がとにかくやりたかったのです。サンショウウオについての研究で空白地帯といわれる四国で研究をやってみたいという願いを持ち続けていました。そのような状況の中でこの博物館の開設を知って応募したわけです。
 祖父が面河村出身だから、全然無縁の土地ではなく、学生時代から面河へよく来ていました。最も強い動機は、サンショウウオの宝庫である石鎚にひかれたということです。面河に生息するサンショウウオは3種類で、ハコネサンショウウオ、ブチサンショウウオ、オオダイガハラサンショウウオです。その個体数とか地理的変異とか、棲(す)み分けの現象など未解明のことが非常に多くて、分布すらまだ分かっていないので、基礎の基礎である分布調査を今やっているところです。
 初めてのことというのは、文献もなく難しいことが多いわけですが、研究を続けていけば自分が第一人者にもなれるし、課題が多いのは逆に言えばいいことではないかと思っています。この土地のサンショウウオについて研究している人も皆無ではありませんが、条件的にわたしが最も恵まれているかもしれません。
 今は学芸員としての公の仕事が多く、自分のための時間がとれないのが残念です。一生ではおそらく解明は無理で、三生くらいかかるかもしれませんが、ライフワークとしてやっていきたいと思っています。自分の夢も兼ねて仕事を選んだわけですが、金と時間が必要だし、時間不足を痛感していますが、とにかくこだわってやっていきたいのです。
 この博物館は、山村にある博物館だから、山村の産業に結び付くような役割もあると思います。そのためにこの施設を気軽に使ってもらいたいと思うし、情報も発信して、村づくりのために役立ちたい。また、一つのアイデンティティづくりにも寄与することができればと考えています。
 入館者の割合は、正確ではありませんが、村外、県外が90%以上だと思います。村内の人の利用が少ないのは残念ですし、今後の課題です。
 主任学芸員という公の立場からは、無関心の人にいかに関心を持たすかが大きな課題だと思います。収集、展示、普及活動は継続しますが、今後は普及に特に力を入れていきたいと思っています。山岳博物館の魅力づくりをいかにしていくか、懸命に頑張ってみたいと思います。」

写真2-2-11 河の子の集落

写真2-2-11 河の子の集落

山あいに、わずかに耕地がある。平成8年12月撮影

写真2-2-12 焼畑のあとの植林

写真2-2-12 焼畑のあとの植林

焼畑の名残の石垣がみられるスギ林。平成8年12月撮影

写真2-2-13 イノシシの防御をした耕地

写真2-2-13 イノシシの防御をした耕地

わずかな耕地をトタン板で囲んだ野菜畑。平成8年12月撮影

写真2-2-14 河の子集落・天満天神宮

写真2-2-14 河の子集落・天満天神宮

椿山より分社した。年に3回の祭礼を行う。平成8年12月撮影

写真2-2-15 面河川のアユの友づり

写真2-2-15 面河川のアユの友づり

平成8年7月撮影

写真2-2-16 淡水魚の養殖池

写真2-2-16 淡水魚の養殖池

豊富な湧水を利用したアマゴ・ニジマスの養殖池。平成8年12月撮影

写真2-2-17 面河山岳博物館

写真2-2-17 面河山岳博物館

平成8年6月撮影