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愛媛の景観(平成8年度)

(1)野猿とともに①

 ア 滑床渓谷

 **さん(宇和島市野川 大正15年生まれ 70歳)
 **さん(北宇和郡松野町豊岡 昭和13年生まれ 58歳)
 滑床渓谷は、山と渓谷の風景が傑出(けっしゅつ)した地域で、足摺宇和海国立公園という海の景観を対象とした自然公園の指定区域に含まれている。
 滑床渓谷は、豊後水道に面した四国西南の中心都市である宇和島市街の南東に聳(そび)える鬼が城山を源流として東へ流れ、左岸は高月(たかつき)山と郭公岳(かっこうだけ)、右岸は八面(やつづら)山と三本杭(ぐい)など1,000m級の山々に囲まれた一帯である。
 滑床渓谷の自然の特徴は、本流約12kmと左右両岸の各支流の河床が、花崗(かこう)岩の美しい滑(なめり)状をしており、様々な渓流と岩床の美観が展開していることである。
 滑床渓谷周辺の山々には、温帯針葉樹の自然原生林が分布しており、これが渓流の本流と支流をおおい、渓流を奥深いものにしている。また、南国にありながら冬は雪が多く、関連してクマ、シカ、イノシシ、サルなどの野生動物や、多くの種類の野鳥が生息しており、農林業の開発とともに俗化した四国西南地域の中で、豊かな自然がオアシス的に保護されている。
 滑床は最近30年余りの間に県立自然公園、国定公園、国立公園と発展し、また、森林技術公苑(こうえん)、自然休養林、青少年旅行村、鳥獣保護区、特定周遊地などに指定されて観光地として有名になったが、この滑床には営利だけを目的とした観光施設が全くない。
 以上は、長年にわたる探索で滑床渓谷を知り尽くし、景勝地の自然保護に強い情熱をそそいでいる**さんの著書(②)から引用したものである。あらためて**さんに、滑床の魅力について聞いた。

 (ア)思い出に生きる

 「わたしが初めて滑床渓谷へ登山したのは、昭和17年(1942年)で16歳の時でした。登山口はいつも宇和島市の野川からで、昭和40年(1965年)くらいまでは何十回となく登りました。JR宇和島駅から万年橋までの定期バスが開設されたことや、昭和32年(1957年)に滑床渓谷の入り口の万年(まんねん)橋にユースホステル(万年荘)ができて、滑床への登山は松野町側からが主流になりましたが、わたしはその後もずっとバスを利用したことはなく、登山コースは宇和島市側から歩いていっておりました。
 滑床の区域に限って言えば、天然林と人工林の分布が戦前と比較して現在も同じであり、わたしが登山を始めたころから、滑床の自然はまったく変わっていません。
 人工林の部分は、明治30年代から昭和初期にかけて、原生林を伐採して植林したもののようです。人工林は戦後の復興期からの木材需要に応じて徐々に伐採され、特に昭和40年代からの高度経済成長期には伐採が進み、その伐採跡には植林が行われています。天然林の部分は純然たる原生林は少なく、大半は薪炭(しんたん)林として一度伐採した後に回復した二次林です。
 滑床渓谷付近の国有林の林業開発をみると、滑床渓谷源流から万年橋の付近までは左岸の毛山(けやま)から高月山側が、万年橋付近から下流では右岸の御祝(おいわい)山側が、明治30年代から大正、昭和の戦前にかけて、天然林が皆伐された跡に植林が行われたようです。現在、松野町側から入っていくコースの周辺は、原生林がなくなって人工林の地帯に変わっています。滑床の谷は、伐採する前は木がうっそうと茂る原生林だったように思います。
 わたしが滑床渓谷へ登り始めたころは、本当に山の好きな連中だけが登山する場所でした。それと宇和島市の青年は、個人であれ、グループであれ、中学校を卒業する年齢になるまでに一度は滑床へ登るという風習がありました。だから、卒業後に東京や大阪へ出ていってからも、滑床というのは、青春時代の思い出の場所として、記憶に残っております。宇中(旧制宇和島中学校)の卒業生で都会へ出て行っている者は、少年時代に滑床へ行って泊まったときの話をよくします。滑床渓谷上流の現在の滑床小屋(宇和島南高等学校登山部とそのOB関係者が建てて管理)の敷地一帯には、以前は宇和島営林署の旧滑床事業所の建物が数棟あり、昭和40年(1965年)まで職員が住んでおりました。この建物は明治30年(1897年)ころからあったようで、万年荘ができるまで、滑床で唯一の宿泊所として一般にも利用されていました。わたしもこの建物にはよく泊まりました。万年荘から約4、5km上流になります。宇和島市の野川登山口から登った者が万年荘まで降りてくることはなかったと思います。雪輪(ゆきわ)ノ滝まで来て引き返すか、あるいは霧ガ滝を見に行って帰るか、旧滑床事業所の建物で泊まって帰るか、他の山へ登るかでした。」

 (イ)渓谷の動物たち

 「滑床へ登山して見かけた動物は、クマ、イノシシ、シカ、サル、キツネ、タヌキ、アナグマ、ノウサギ、リスなどです。サルを例外として、出会ったのは単独登山か、同行2、3人の登山の時で、見かけたのも1回か数回程度です。
 山の中でサルを見ることはほとんどなかったのですが、時たま、登山中、木の上でジャーという音がして、サルが2、30匹の集団で通って行くのを見かけることはありました。
 滑床渓谷のサルの餌(え)づけの話については、万年荘ができた当時(昭和32年)は、サルは万年荘の近辺へは来ませんでした。3、4年して、わたしの友人でもあった管理人の菅野光盛さんが各地の先駆者に教えを請い、いろいろサルの餌づけを試みたようです。たまたま厳冬期の餌(えさ)がないとき、庭におるのがかわいそうだと思って、ハゼの実を与えたところ、ハゼの実に味をしめてサルが出てくるようになりました。餌づけの成功は、昭和35年(1960年)であったと思います。当時は菅野さんでなければ近寄って来ませんでした(写真2-2-2参照)。
 そのころは天然林が多く、山に餌が豊富でしたから、サルが今のように野荒らしはやりませんでした。サルの被害がはっきりしてきたのは、植林が進んだ関係だとわたしは思います。
 サルの居場所は滑床周辺では3か所くらいありました。万年荘の北側(郭公岳(かっこうだけ))と赤滝山と成川(なるかわ)谷の三次郎滝の3か所で、そこは西日のよく当たる岩場で、冬温かい場所です。これらの場所に住んでいたサルが、自然林がなくなって住む場所を追われて、人里に出没するようになってきたものでしょう。餌づけをしたから人里に近づいてきたのではなく、天然林が減少して食べるものがなくなったのが大きな要因と考えるべきです。今でも、山にヤマモモとかイチゴがあるころは、人里に出没しません。サルの行動と山の自然の息吹とは深い関連を持っていると思います。万年荘の4代目の支配人に竹内義富さんが昭和61年(1986年)に就任してからは餌づけはしていません。観光客にいたずらをして迷惑をかけるし、万年荘の屋根の上を走りまわり瓦(かわら)が割れるので、トタン屋根に替えている状況です。
 日本に22か所ある野猿公園の中で、滑床渓谷が最も自然に近いと言われるのは、自然林の餌でまかなえない部分を人が餌を与えて補っていた点にあると思います。観光客が多くても、春や秋の山に餌の多い時期は姿を見せないことがあります。
 滑床登山は宇和島市から歩いて往復していましたが、万年荘ができたころから、だんだん車社会になってきて、バスを利用する松野町側からのコースになり、さらに自家用車が普及しだして今は山を越えて歩く人は全くいません。万年荘や森の国ホテル(平成3年、松野町が滑床観光総合開発のために建設)が開業し、自家用車の時代の登山に変わってしまったのが、現在の滑床の状況です。」

 (ウ)人と動物の共存

 渓谷にすむ動物たちは、時に里にも出没する。山里にくらす人々と動物たちとのきびしい現実について、勤めのかたわら農業を営み、猟銃の使用許可も持っている**さんに聞いた。
 「わたしの住んでいる集落は豊岡(とよおか)といって、山あいまで3kmほども続く長い地域です。野生動物(イノシシ、シカ、サル)は随分昔からいたらしく、江戸末期に作られたシシ垣(イノシシなどを防ぐために築いた石垣)が残っています。
 サルが増えたのは、昭和47年(1972年)ころからで、わたしが猟銃の使用許可を取得した時と重なるので覚えています。被害に遭(あ)う作物は、木になる物ではクリ、カキ、ミカン、ユズ、モモなどで、ユズはやられないといわれていましたが、最近は結構やられています。田や畑の作物はほとんど何でもやられます。例えば、タマネギであれば親指くらいに成長すると引き抜き、食用になる部分だけをかじって葉は捨てます。ニンジンやダイコンも同様で、少し成長すると根の部分をかじって捨てるわけです。サツマイモも上手に掘りますし、ジャガイモも同じように引き抜いてイモを食ってしまいます(写真2-2-3参照)。
 シカは田植えが終わってしばらくすると、イネの苗の水面から出た部分を食います。この被害では成長が10曰くらい遅れるだけで実らぬことはありませんが、実が固くなる前の、イネの穂をつぶすと白い汁が出る状態のころに、今度はイノシシがそれを食います。イノシシは右から左、左から右というようにイネを踏み倒してしまうので、イネの茎が絡(から)まった状態になってしまいます。シカは、植林した樹木(スギ、ヒノキ)の幼木の樹皮を剥ぎ、樹液を舐(な)めるため、枯死させます。クリは、木になっている実はサルが食い、下に落ちた実はイノシシが食います。イノシシは身体のダニを落とすのに、木の幹に身体をこすりつけるので、木を揺(ゆ)すってクリの実を落とすような状態になります。
 このように昭和47、8年(1972、3年)から獣(じゅう)害が大きくなりだしたのは、植林したスギやヒノキが大きくなって、自然林のように山で食う木の芽や実がなくなってきたからだと思われます。昔は、わたしの家もクリを栽培していましたが、今はやめました。クリの値段が下がったこともありますが、サルにやられだしてからはスギやヒノキを植林しました。その幼木が今度はシカに食われて、植え直さなければいけないというところまできています。被害は町の産業にまでかかわってきますし、人々のくらしそのものが根本的に変わってきます。
 毎年毎年、イノシシ、シカ、サルが出没する所は決まっています。被害がずっと続いている所は道ができていて、田んぼによっては、山の中にあるものでも全然被害のない所もあります。やっぱり獣(けもの)の通り道があるんじゃろかと話をしているのです。」

 (エ)サルも木から降りる

 「一番困るのはサルで、利口(りこう)ですからわたしたちは弱っています。以前は秋になるとみんなに頼まれて、鉄砲で脅(おど)したりしよったんです。鉄砲なんかを全然持ってない人たちが出ている時には、何ぼ(いくら)でも家の近くまで来とるんですが、わたしの車が走って行くと、それを見つけ次第さっと逃げてしまうんです。サルがわたしの車を見覚えているということです。わたしが鉄砲の使用許可をとったころは、大体サルは木のてっぺんに登りよったので下から撃って脅しよりました。最近はわたしが行って鉄砲を構えると、ぱっと木から地上へ降りて木の間をたった、たったと走るんです。木に登っているサルなら撃てるんですが、木の間を逃げるサルは危なくて撃てません。
 毎年追っ払ってはいますが、ある程度被害は覚悟しています。今、夏の野菜のキュウリやトマト、ナスとかが実るころですが、それらが被害に遭うので、サル専用の網を買いまして、畑にかけるんです(写真2-2-4参照)。サルは、とったキュウリを全部食べるのならよいが、ちょっとかじっては捨てるんです。シイタケも案外やられます。シイタケが小さい時はとったものを全部食べますが、少しシイタケが大きくなると、ちょっとかじっては捨て、かじっては捨てます。食べもしないのに、ほだ木にできているものをかき落としていったりします。そんないたずらをするんです。いよいよいけん(とんでもない悪者です)。サルは、家の前の畑などには屋根の上から来たりするので、網の張りようがありません。上まで完全に囲う以外に方策がありません。まるで檻(おり)の中で人間が作物を作っている状況ですけんね。
 割れたガラスの所から家の中にも入って、食べものを取っていたというのもあります。空き巣ねらいですね。子供が帰ってるのかと思ったら、サルが入っていたという話も2、3戸ありました。」

 (オ)防御の対策

 「町の行政側でも獣害に対しての対策は立てています。町の猟友会に対して、狩猟期間外に駆除してもらうように頼んでもらっていますし、サル、シカ、イノシシ1頭当たり約1万円の褒賞(ほうしょう)金を出したりしています。行政側でも勉強はしてくれていますが、妙案は無く、これという対策を立てるのは難しいようです。
 作物の被害を防ぐ方法としては、平常はガスでズドンと鳴らして驚かせたり、田や畑の周囲に網を張りめぐらしたりする方法しかありません。昔、庄屋がイノシシよけの石垣を築いたと聞いていますが、飛び越してしまうので役には立たなかったようです。
 平素は禁猟になっていて、狩猟許可の期間は11月15日から2月15日までと決められています。時間帯は、日の出から日没までです。獣害の多い時(出没の多い時)は、臨時に年5、6回、狩猟が許可されることはあります。農家から被害の申し出がされたのを町役場が確認して県の林業課と相談して許可になります。駆除のための狩猟期間は約20日間くらいです。シカの雌は禁猟になっています。
 イノシシの肉は美味で捕獲が喜ばれます。シカの肉は固いので余り食べませんが、背中の一部にはささ身のような部分もあります。サルの肉は食べません。神経痛や脳の病気に効力があるとは聞いていますが、狩猟したサルはほとんど土の中へ埋めてしまっています。イノシシにはトタン板と網を張るのがよいということで、この近辺の漁業協同組合から古くなった漁網をもらい受けて張っています。イノシシの対策はトタン板や網が丈夫であったらある程度は防げます(写真2-2-5参照)。
 脅かしのために犬を飼ってつないでおくと、つないでいる犬のロープの長さの範囲外のぎりぎりの所まで、サルはやってきます。クリの木などにも犬をつなぎます。しかし、それでもサルは木の上に登って、犬を上からからかいます。シカ、イノシシでも犬の行動範囲のちょっと外まで来ています。相当の知恵がついています。観光の目玉として滑床渓谷でサルの餌づけをしましたが、その当時は自然林で十分に生活できていました。わたしたち人間が広葉樹の天然林を伐採して針葉樹を植林したため、餌がなくなってきたんですね。それで1回里へ出てみたら、たやすく餌が得られたもんですから、それを覚えて里に出没するようになったのだと思います。
 サルは雨の前日には長く活動しています。餌を食いこんでおくようです。サルが遅くまで出ていたら、翌日は雨になります。雨の日は余り活動しません。
 昔、サルの群は滑床渓谷からわたしたちの集落まで毎日往復していたようですが(片道約4、5 km)、今は途中の山に住みついています。夜、鳴き声が近くの野山から聞こえてきますし、朝早く里に出て来ます。群のときはぎゃあぎゃあ鳴いたり、けんかしたりするので居場所が分かり、こちらが用心します。ここは竹の子も産物の一つでしたが、今のように被害を受けると、産地として成り立ちません。昔は大きいタケも立っていましたが、今は竹の子の時にやられるので、サルやイノシシが食い残した形の変なタケしか育たなくなっています。マダケという、かごなどの細工物に使いやすいタケが昔はたくさんありました。ある年、60年に1度の開花で枯れたことがあります。その翌春にマダケの竹の子をやられたのでマダケは非常に少なくなり困っているのです。軟らかくて、しなやかな細工物にはよい夕ケでしたが少なくなって残念です。農家にとっては、自然保護、動物愛護のきれいごとではすまされなくなっているのが現況です。」

写真2-2-2 滑床渓谷、万年荘付近のサル

写真2-2-2 滑床渓谷、万年荘付近のサル

観光客と仲良く?観光客の多い日にはたくさん出没する。平成8年11月撮影

写真2-2-3 畑を囲む防獣網

写真2-2-3 畑を囲む防獣網

豊岡の集落。平成8年9月撮影

写真2-2-4 防獣網

写真2-2-4 防獣網

キュウリ畑の周囲をかこむ。平成8年9月撮影

写真2-2-5 イノシシの防御

写真2-2-5 イノシシの防御

トタン板とネットを併用。平成8年9月撮影