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愛媛の景観(平成8年度)

(3)古木と生きる里

 ア 言い伝えの古木を巡って

 **さん(上浮穴郡小田町寺村 大正11年生まれ 74歳)
 「小田町は巨木が川沿いにたくさん残っていて誇りに思います。」と寺村(てらむら)に子供の時から住んでいる**さんが語るとおり、小田町には樹齢何百年以上という巨樹が多い。ここでは、そうした巨樹の下での生活の様子をいくつか聞いた。

 (ア)五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って

 「寺村にある清盛寺(せいじょうじ)には、八房(やつふさ)の梅というのがありまして『五輪様がおられるから、いたずらしてはいけない。』と言われていました。今は、2代目のウメが弱って、台芽(だいめ)が横から出ているんです。公民館が中心になって、根の回りに肥料をやったりして保存してます。」
 八房の梅には、次のような伝承が残されている。文治元年(1185年)に源氏に敗れて逃げ延びた平清盛の五女登貴姫(ときひめ)が、西宇和郡の伊方越(いかたごし)から浮穴郡太田山(おおたやま)(小田町寺村)に隠れ住むようになった。時の領主が、この姫を哀れと思い1村を与え、それを寺村とよばせることにした。ところが、まもなく姫は心労や長旅の疲れで、病に倒れ6月16日にこの世を去った。このとき姫の袂(たもと)にあった梅の種子を、姫の墓に植えたものが、八房の梅であると言われている。この梅は、八重咲きの紅梅(こうばい)で、8枚の花びらからできているので「八房の梅」とよばれている。そうして、このウメのかたわらに、登貴姫の墓と言われる苔むした五輪の塔が、ひっそりと立っている(写真2-1-30参照)(⑳)。この梅のほかにも、境内には、樹齢250年のサザンカ、150年のキンモクセイ、400年のスギがある。昔は、清盛寺には大きな市がたっていたと言われており、市の様子や当時の生活の様子を**さんに聞いた。
 「清盛寺には、旧の3月と6月の17日に十七夜(じゅうしちや)という縁日があって、市(いち)がたっていました。市の時には、参道沿いにびっしり出店が出ていました。旧の6月の市の出店には、氷かき・飴(あめ)屋・にっけ水売り・おもちゃ屋・金物屋・くじ引きなどがありました。旧の3月の市には、春先だけにこれから蒔(ま)く作物のショウガの種子などを売る種もの市がありました。青年団で氷を売ったりしていました。餅まきもあって、子牛と書かれた当たりくじが、餅の中に入っていたこともありました。今は、市はやりませんが、十七夜には千手観音さんが拝めるので、皆さん参拝には来られますよ。
 この辺りでは、祭りごとがあればそれを『式輪(しきわ)』と言っていましたね。囲炉裏(いろり)を囲んで輪になって、ごちそう食べたり、酒飲んだりして談笑するからそう言うんでしょう。お荒神(こうじん)さんみたいにその晩だけの祭りごとは、一晩式輪(ひとばんしきわ)と言っていました。昔のごちそうの一つに、『はなごねり』というのがありました。それは、トウキビ(トウモロコシ)の実を石臼でごろごろ挽(ひ)き割る時に出る粉をふるいに通して、これに煮しめの汁をたくさん入れてぐつぐつ煮た、コーンスープのようなものでした。あまりおいしいものではなかったんですが、普段は、トウキビを割って米を少し入れて煮込んだトウキビ飯に塩かけて食べたり、丸麦の御飯を食べていましたので、ごちそうでした。山仕事なんかには薄い木の板を曲げて作ったわっぱ(弁当箱)にトウキビ飯を一杯詰めて持っていったもんです。
 子供のころ、普段の日は、境内で背中に赤んぼを背負って子守をしながら、パッチン(めんこ)をよくやっていました。雨の日は、お堂のなかでやっていましたが、背中の子はかわいそうなもんです。夏の夜には、肝試しをよくやっていましたが、お葬式の道具が置いてあったり、『大きな岩とか木には、神様が住んどる。』と言われていたので、怖かったですね。」

 (イ)村の映画館

 上浮穴郡一円では、浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎などが各地で受け継がれてきており、久万町の下直瀬(しもなおせ)地区には川瀬(かわせ)歌舞伎がある。小田町でもその影響を受けたと思われるが、道具・衣装に経費がかかり過ぎるので、これに類似した「村芝居」が、さかんであった。特に、寺村地区では、明治後期から大正初めにかけて活発に行われていた。
 始めのころは、寺村の三原かわら屋の付近で芝居が行われ、その後新田神社(にったじんじゃ)境内(寺村)において上演されるようになった。新田神社境内には清盛(せいじょう)小学校(小田小学校の前身)があったが、新しい学校が明治43年(1910年)に小田川沿いにできたので、その古い校舎を借りて改修し、舞台を作った。
 寺村地区の村芝居は、当時の若い衆が集まり、企画、上演した。主に秋祭りなどに2日間連続して上演したり、その他の式輪に行われた。上演時間は、夕方7時くらいから11時くらいまでであった。練習は農作業の合間を利用し、上演までには1か月以上を費やした。上演にあたっては、娯楽の少ない当時は、芝居は、観る人、演じる人も一生懸命で、上手に演じた人には、大きな拍手と声援が飛び交い人気を博した。境内の中での上演では、むしろをかけて芝居小屋を作り、観客席にもむしろを敷きつめて座り、ランプの明かりの中、酒をくみ交わしながら村芝居を楽しんだ。観客の中には、地元の人はいうに及ばず、近郷の人たちも来て人垣ができるほどの盛況であった(⑳)。昭和初期まで**さんのお父さんなどが中心になって村芝居が行われていた。
 「町村(まちむら)には、今の田中金物店の前辺りに栄座、寺村には今の公民館の所に金壺座というのがあってわたしのおやじらの時代には、新田神社を中心にして、村芝居をしていたようです。お宮の中殿が若い衆宿になり、そこに若者が集まって、村芝居の相談や練習をしていたようです。」と**さんは話している。
 大正12年(1923年)、小田町で初めての芝居小屋、金壺座(300人収容)が、約10名が発起人となり株式形式(1株10円)で建てられ、無声映画などが盛んに上映された。やがて、映画の人気もでて、劇団による演劇も盛んに来るようになると、しだいに村芝居は衰退していった(⑳)。戦争中は青年団活動も一時中断していたが、戦後再び盛んになってきた。
 「戦後の青年団は、文化で小田町をつくらんといかんと言って、頑張ったもんです。わたしらが青年団の時には、幹部会は小田小学校の宿直室を使って、先生を引っ張り込んで、やっていました。わたしも先輩から『おまえ、痩(や)せとるから、女方(おんながた)をせい。』と言われて、公演したことがあります。昭和38年(1963年)に大雪でこわれた金壺座を近所周りみんなが出資して、昭和40年に映画館として再建しました。大河内伝次郎の『丹下左善』や『大菩薩峠』などの映画も上映されたり、地方まわりの劇団が来て、芝居や浪花節(なにわぶし)をやったりしたこともあります。しかし、テレビが普及してくると、映画の人気も廃れまして、山里の映画館はその存在価値がなくなり、昭和63年(1988年)には跡地に小田町公民館寺村分館が建ちました。」

 イ 古木の町の市

 **さん(上浮穴郡小田町町村 大正11年生まれ 74歳)
 小田町は、周辺の山からの木材などを内子町、長浜町方面に運搬するための集積地として、昔から、人の行き来の盛んなところであった。そのため、日用雑貨の購入などに市がよく立っていた。特に年を越すための年末の買物には、小田市(おだいち)という歳末市が立ってにぎわっていた。市で買ったものをほごろ(わらなどで編んだ背負い袋)に入れ背負って帰るので、別名「ほごろ市」と言われていた。昔の小田市の様子を造り酒屋の**さんに聞いた。
 「小田市は、旧の12月24、25日の2日間に、正月の買物やその年の決済というようなことで、市が立っていました。市には、小田町内は言うに及ばず、喜多郡河辺村の北平(きたひら)、内子町の大瀬(おおせ)、上浮穴郡久万町の父二峰(ふじみね)、柳谷(やなだに)村の菅行(すぎょう)や古味(こみ)、伊予郡広田村など近隣の町村から出て来ていました。小田がここら全部のいろんな取り引きの中心地だったんです。だから、人出は出ていましたよ。銀行もできるのは早くて、内子銀行の小田支店が明治29年(1896年)におかれ、金融の中心となっていました。それ以外に、ミツマタ、コウゾの集積場として倉庫業もさかんでした。その後、農協ができたので、倉庫業はしなくなりました。当時(昭和初期まで)、銀行に行くと言ったら、襟(えり)を正して紋付袴(もんつきはかま)で行っていたものです。市の時には、町村の商店街は店がびっしり並んでいました。店屋ではないところは、昔の家は軒が長かったですから、軒先を借りて店を出していました。主な出店としては、魚屋・乾物屋・呉服屋・衣料品屋・おもちゃ屋・食料品屋・金物屋・唐津(からつ)(陶磁器)屋でした。魚屋では、塩サバから生のものまで売っていました。金物屋は、赤い敷物を敷いて土佐の刃物を売っていました。唐津屋は、砥部焼ではなく瀬戸(愛知県瀬戸市)から日用品の瀬戸物を毎年売りにきていました。わたしの所は、造り酒屋だったので、年に一度の支払い日のこの市には、酒代を支払いに来る人たちがついでに酒を飲むのを楽しみに来ていました。朝から、店の広い土間に囲炉裏を囲んで飲んでいたものでした。市には、ほとんどの人が草鞋を履き、負い子やほごろを背負って歩いて来ていました。荷物を積むのに馬をひいてきている人もおりました。歩いて遠くから出てくるので、冨士(ふじ)屋とか木造三階建ての泉屋などの宿屋もあり、女の人もたくさんいて、にぎやかだったですね。宿屋の前には、馬を泊めておく所もありました。交通機関としては馬車が多かったんですが、昭和4年(1929年)から三共自動車(伊予鉄道の前身)が1日に1回、広田経由松山行きの6人乗りのほろを掛けたフォード社の自動車を運行していたですね。また、市は近郷の若者の出会いの場でもあったので、ここいらと久万町の父二峰や河辺村の北平には縁組がありました。
 小田市は子供たちにとっても待ち遠しいものでしたが、旧正月の1週間前で学校は休みではなかったので、学校がひけてから行きよったですね。半天(はんてん)(綿の入った防寒着)にゴム靴をはいて、10銭か20銭の小遣いをもらって、食べ物やらおもちゃを買うのが楽しみだったですね。なめたらくじの出てくるあめなどもありました。1銭であめ玉10個買えよったですね。小田市が済んだ後は、広い道路の雪が大勢の人に踏み固められつるつる滑るので、竹で作ったスキーをしてよう遊びよりました。普段は、放課後に、竹を割って削って作ったスキー板で、学校の所から道路に出るまでの斜面を滑っていました。今治からきていた先生が、本当のスキー板を持っていて、スキーの滑り方を教えてもらったこともあります。
 わたしが小さいころ(昭和初期)には、駄賃(だちん)さんいうて馬で荷物を運ぶ人が小田町にはたくさん来よりました。その中に、河辺村の北平から笹峠(ささがとうげ)を越えて来て、荷物を積んで帰るときに、毎日うちによって一杯飲んでは、馬にひかれて帰りよった人がおり、『カラスが鳴かん日があっても、なかののきゅうさん(中野久)の来ん日はない。』と言われよりました。また、柳谷村の『がんごかじろう』という当時でもまだかぶさ(髷(まげ))を結った人は、たくさんの買い物をして一荷荷(いっかに)をかるて(背負って)酒樽なんかも持って、小田深山(おだみやま)を越えて柳谷村に帰っては品物を売って回っていました。また、上川(かみがわ)(小田町)から『でこ松さん』という人が、でこ(三番叟(さんばそう))を箱に入れてかるて来ては、家々に入ってきて、でこ舞(まわ)しをやっていました。『この人を怒らして、でこを逆さまに舞されたら怖いんぞ。』というて、みんな機嫌を取っていました。不思議なことに、この人は飲んだり食べたり何物にも(何をするにも)ただだったですね。」
 交通の不便な時代には、行商の人達が物資の販売に活躍していた。現在でも、移動商店として自動車を改造したもので回っているところもある。また、1月中には三番叟舞しが家々を回っていたものである。現在は小田町には、国道379号(砥部町から広田、小田町経由内子町まで)、同380号(小田町から久万町まで)が通り、交通量も増大しており、行商の人たちが行き交うこともなくなった。道路の整備は、交通量の増大だけでなく、生活様式の変化も早めている。

写真2-1-30 登貴姫の墓と八房の梅

写真2-1-30 登貴姫の墓と八房の梅

平成8年12月撮影