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愛媛の景観(平成8年度)

(3)桜舞う街道

 ア 中山越(なかやまごえ)を通って

 (ア)旧桜三里(さくらさんり)街道をたどって-米田(よねだ)屋前から源太桜(げんたざくら)まで-

 温泉郡川内町川上は、伊予から讃岐(さぬき)にいたる金毘羅(こんぴら)街道の重要な宿場町として栄えていた。川上から周桑郡丹原(しゅうそうぐんたんばら)町湯谷口(ゆやぐち)間の中山越三里の街道沿いに、貞享4年(1687年)に松山藩の代官矢野五郎右衛門源太が8,240本の桜を植え旅人に旅情を呈して以来、「桜三里」の愛称で呼ばれている。明治35年(1902年)に開通した国道31号は、大正9年(1920年)に国道24号となり、昭和27年(1952年)に国道11号と改称された。昭和39年(1964年)までには、一部新しい路線が造られ、また既存道路も改修工事が完了し、全線舗装された(⑤)。その結果桧皮(ひわだ)峠などは、新しい国道からはずれ、昔からの「桜三里」は人通りも少なくなり忘れられることとなってきた。そこで、金毘羅街道であったころの桜三里の道順を、川内町老人クラブ連合会が昭和59年(1984年)に編集した『ふる里の記録 くらしの思い出(⑥)』をもとに、昔の様子も交えながらたどってみた。
 嘉永3年(1850年)の道標が、川上の中之町分署坂(なかのまちぶんしょざか)の米田屋(旅籠(はたご)屋であったが現在は自転車屋)の前にあり、正面に「讃州(香川県)金毘羅道」右側には「嘉永三庚戌極月吉辰」左側には「大門(金毘羅大門)廿七里(1里は約4km)、願主米田屋仙助」と記されている。ここから、上之町(うえのちょう)の大宮神社(川上神社)の前を通り、さらに、昔は数人の番頭を使用するほどの大店であった旧佐伯屋の前を通り、横灘(よこなだ)に至る。吹上(ふきあげ)池の北側を小鳥越(ことりごえ)へ向かい、ガリラヤ荘(特別養護老人ホーム)を後にして、ドンコ池に出て、鳥之子(とりのこ)地区をさらに大鳥越(おおとりごえ)へと進む。この地のことを小桧皮峠とも言っていたようである。この辺りは、現在はゴルフ場によって所々分断されているが、ゴルフ場の下に2か所の堀割と一つのトンネルを通って、三軒屋(さんげんや)に通じている。下り坂の所には、三軒屋開発の先人鈍斉(どんさい)先生の碑が新しい道路の下にある(写真2-1-11参照)。その横を三軒屋地区に向かって行き、辻(つじ)の坂(さか)を上れば二基の道標がある。一基には、「金毘羅道、施主世話人」もう一基には、「大門廿六里、弘化四年(1847年)」と記されている。下り坂を降りて、三軒屋焼(窯跡が残る)の前から永寿(えいじゅ)橋を渡り、中坪(なかなる)より、桧皮へ着き、公民館(旧松瀬川(ませがわ)小学校跡)を右に見ながら進む。
 さらに、添谷口(そえだにぐち)より右に折れると上り口に、御茶床(おちゃどこ)という地名の残る休息所の跡がある。七曲(ななまが)りを上れば、桧皮峠に出る。桜三里の中でも最も難所である。峠には、茶屋が建っていたそうだが、現在(平成8年)では重信町と川内町の斎場となっている。また、七曲りは山畑の中を通っていたが、松山自動車道によって分断され分かりにくくなっている。
 峠より、伊予のサカサマ川といって、東に流れる川(中山(なかやま)川の支流)に沿って100mほど下ると、道の右に、五輪の塔がある。さらに、進んで土谷(つちや)に出る。土谷の中ほどにある立石には、「金毘羅大門廿五里」とあり、側面には、「土州(高知県)、久万山道」と記されており、ここは土佐や久万山(久万高原)方面からの交通の要衝であった(写真2-1-12参照)。この道標の北側に松屋(まつや)という宿屋があったが、現在(平成8年)は民家になっており、昔ながらのモッコクの大木が残っている。さらに土谷小学校の跡を左に見て「茶七(ちゃしち)」という屋号で呼ばれていた昔の七兵衛の茶屋跡を過ぎ、お地蔵さんに頭を下げ、丸山(まるやま)を登り(写真2-1-13参照)、盗谷(ぬすっとだに)を下ると、そこには矢野五郎右衛門源太の名を取って、『源太桜』と呼ばれるエドヒガンザクラの老木が二本残っている。お地蔵さんから盗谷に至るまでの果樹園横を通っての山道は、街道の趣をいまだに残している。ここを下りたところに、「曙橋(あけぼのばし)」が架かっていたところがある。昔、金毘羅の鞘橋(さやばし)を造った大工が架けたといわれ、橋には杉皮でふいた屋根のある珍しい橋であったそうである。橋詰めにも、お地蔵さんが建立されていた。

 (イ)金毘羅参り道中記-川上村前松瀬川(まえませがわ)青年団

 娯楽の少ない時代には、楽しみの一つに金毘羅参りなどの神参りを兼ねての旅行があった。大正7年(1918年)に川上村前松瀬川青年団が、鍛錬旅行と称して金毘羅参拝に出かけた様子を、『ふる里の記録 くらしの思い出(⑥)』からひろってみる。
 「待望の金毘羅参拝に、沿道を見学しながら鍛錬旅行をしては如何と計画したところ、多くの賛成を得て、準備を整える。まず、鉄輪(かなわ)の枠車(わくぐるま)を借りて、米二斗(と)(約30kg)、炊事用具、毛布、草鞋(わらじ)、ちょっと日持ちする野菜、雨具等を積みこんで出発。」とある。服装はというと、「着物にシンボチカラゲ(着物の端を帯にまくりあげ)、ズボンに脚絆(きゃはん)、草鞋、鳥打帽子(とりうちぼうし)」であった。軍歌を歌いながら、桧皮峠を越し、桜三里を中山川沿いに下り、周桑郡石根(いわね)村(周桑郡小松町)で昼食を取っている。途中、西条の加茂川で茶食をし、午後7時に新居郡船木村(新居浜市)に到着し、そこで初めて1泊している。途中、食事は自炊をし、宿泊は小学校や集会所を借りての悠長な旅であり、往復で4泊5日、15人の経費合計1円20銭であった。これを、文久二年(1862年)に吉田藩の町医者岡太仲がほほ同じ行程を旅したときの旅日記と比較してみると、土谷から金比羅までは3泊4日で行っている(⑦)。青年団の記録と比べると少し時間がかかっているが、鍛錬旅行と見聞旅行の違いを考えてみると、半世紀過ぎた時代でもそれほど大きくは変っていない。

 (ウ)お上りさんとお下りさんのお山市

 **さん(温泉郡川内町南方 昭和3年生まれ 68歳)
 石鎚山のお山市(お山開き)は、新暦の7月1日から10日までの10日間あり、全国からの信徒が沢山集まっており、現在でもにぎわっている。昭和2年(1927年)に国鉄(現JR)予讃線が高松から松山まで開通し鉄道の便が良くなるまでの川上は、石鎚参詣(さんけい)道の宿場として南予方面や中国、九州からの客の一泊地にあたり、米田屋・大頭屋(おおとや)などの旅籠(はたご)は宵着(よいつ)き、朝発(あさだ)ちでにぎわっていた(⑤)。「石鎚宿と言われた米田屋の前の川に幕を張って、白装束のお山行きさんが水に漬かってお経を唱えているのを子供のころによく見ました。」と川内町の歴史に詳しい**さんは語った。
 当時の、石鎚参詣の様子を『ふる里の記録 年中行事篇(⑧)』からひろってみよう。
 「このお山を極めるにはそれなりの掟(おきて)があって、ただ漫然とは登れない。大抵10人から20人ぐらいの連中をつくり、そろいの白衣を身にまとい、手甲(てこう)、脚絆(きゃはん)をつけ、赤い丸の枠内に『石』の朱印が押された真新しい日本手拭(てぬぐい)の鉢巻き姿だった。初参りの者は、必ず白の杖(つえ)を持っていた。足元は、草鞋ばきであった。一連の中には、必ず先達(せんだつ)がいて何かと指図をしてくれた。新参者を新客(しんきゃく)と言い、大先達まで6段の階級があった。その人の登山回数や修業方法で格付けが決まり、それぞれに厳しい戒律があった。山伏(やまぶし)や大先達は、頭に兜巾(ときん)をかぶり、上体には鈴懸(すずか)けという特殊な服装に、下は野袴をはき、首からは大きな念珠を下げる。腰には、虎の皮で作った『尻すけ』をかける。手には突先に金輪のついた六根清浄(ろっこんしょうじょう)の金剛杖を持っていた。また、背中から肩に掛けて『法螺貝(ほうらがい)』も離さない。それを出発時、祈念の最中や連中の疲れが目立つときに朗々と吹くと勇気が倍加した。」とある。
 また、道順についてたどってみると、まず川上から桜三里を越え鞍瀬(くらせ)渓谷を落合(おちあい)(丹原町)から楠窪(くすくぼ)(丹原町)に入る。四国霊場六十番札所の横峰(よこみね)寺(小松町)に参詣し、加茂川上流河口橋まで降り、そこから表参道(小松、西条方面からの道)の急坂を黒川までよじのぼり、1泊する。翌朝は、薄暗いうちに発って成就社(じょうじゅしゃ)へ参詣し、さらに石鎚山頂上へと一気に駆け登る。帰りは、裏参道(久万、面河方面からの道)を面河の関門(かんもん)まで小走りに行き、若山、七鳥(ななとり)を経て渋草(しぶくさ)地区(面河村)につき、2泊目をする。翌日は、黒森峠を「ナンマイダンボー」の独特の節回しの掛け声を唱えながら、最後の力を振り絞って川上に出て、2泊3日の修練業が終わる。上り下りの道行く人は、「お上りさん」「お下りさん」といたわりと励ましの言葉を掛け合っていた。また、石鎚宿として栄えた米田屋の様子を「お山市の期間だけ、ここで商売して、1年間の小遣いが全部あったというんですから、すごい数でした。」と**さんは語った。
 米田屋は、周桑方面から紙の行商をする人たちの定宿であったが、お山市の間は石鎚参拝の人たちが宿泊した。各部屋の戸障子を全部はずし、大広間にして10畳の部屋に20人以上も押し込めてごろ寝していたそうである。時候が良くて布団がいらないので、押し込めばそれだけもうけになるので、1年中のかけ買いの支払いは、お山市の間の収入で済ましていたほど、大繁盛していたらしい。普段は、2人しかいない女中さんもこの時は20人あまり、お内儀さんや娘さんの応援も得て客さばきにあたった。石鎚参拝の人たちは、精進(しょうじん)料理であったから食事も豆腐汁ととろろ昆布、漬物程度の粗食、上等になるとシイタケの煮ものがついて、宿賃は、昭和の初めごろには3食付きの1泊で25銭から30銭であった。宿の前には、提灯と門灯をつけ、石鎚神社ののぼり旗を数十本も立てて景気をつけていた(⑤)。

 (エ)桜三里に自動車が走る

 明治35年(1902年)、国道31号が松山から香川まで大改修されたが、それをたどってみると、米田屋の前を右に折れ渋谷川に向かい渋谷橋を渡り、吹上池の南側を通り滝之下橋を経て、一部現在の国道11号を走り滝の下バス停あたりから松瀬川沿いに松山自動車道の下を走り、船野山の山際を桧皮峠に通じており、途中で旧街道と合流し土谷にいたり、土谷から丹原町湯谷口までは現在の国道11号と同じである。国道31号は、車時代の先駆けとして道幅を広げ曲がりくねりを少なくした道であったはずだが、現在は地元の者しか通らない道となり、その道沿いで生活していた人たちは大きく生活が変化することとなった。
 「国道31号がつく前は、土谷にも西から入り口屋・松屋・新屋・瀬戸屋・茶七屋など7軒の宿屋がありました。また、国道31号が抜けたころのことを、お年寄りに聞いて見ると、『わたしらの子供の時にのう、自動車が通りよったが、乗っとるのはみんな外国人じゃった。学校の授業やめて先生と見に行ったんぞ。』といってました。自動車が通るようになって、土谷の宿屋は一斉に廃業してしまいました。」と**さんは語る。
 新しい道の開通は、物資の流通や生活の利便性を高めることになり、今までの生活文化を捨て、新しい生活習慣への転換を余儀なくさせた。大正12年(1923年)には、川内町市場の越智誉六が「川上自動車」をつくり、定期自動車の運行を始めている(⑥)。
 「誉六さんは、愛媛県で運転免許を早く取得し、知事さんの車の運転手をしており、給料は、後ろに乗っていた知事さんよりも上であったということです。その後、退職してその退職金を握って、東京へ行って東京博覧会(大正11年)でバスを買って、その帰りに大阪によって、そこでもバスを一台買って帰って、バス2台で始めたんです。川上自動車は、6人乗りの小型バスを川上から河之内、川上から横河原(よこがわら)駅・松山へと定期的に走らせていました。大正14年(1925年)に周桑自動車と合併して事業は大きく発展していき、周桑郡小松町へ定期バスを走らせるようになり、道後平野と道前平野をつなぐ大きな役割をになうこととなりました。」明治・大正時代の川上村は、人や物資の集散地であり、資産家も多く、大正9年(1920年)には川上水力電気株式会社も設立されている。また、庶民の足としての自転車も見られるようになっていた。
 「うちのおやじらの時代(大正時代後半)には、自転車が普及し始めましてね。桧皮峠を降りてくる時などは、下り坂だけですので、ブレーキが焼けるので、マツの枝を縄で自転車の後ろに縛り付けて、それをひこずって降りたそうです。舗装していないので、自転車が通ると土煙がもうもうとしていたということを聞きました。」と、**さんは語った。

 (オ)桜の名所づくり

 桜三里と言えば、「桜三里は源太の仕置き、花は咲くとも実はなるな」と歌われた、旧桜三里(金毘羅街道)が引合いに出されるが、ヒガンザクラやヤマザクラを除いて一般にサクラの寿命は短く江戸時代に植えた桜は百年後にはほとんど枯れてしまった。残っていたものも大正初期の千原(ちはら)鉱山(昭和38年〔1963年〕閉山)の鉱毒によってほとんど全滅してしまったが、源太桜(エドヒガンサクラ)は気流の関係で今に残っている。今日古老が語る「桜三里」は、国道31号に植えられたサクラであるが、これもほとんど枯れている。国道11号には、川内町が緑化推進運動の一環として、新桜三里の景観づくりを目指し、昭和38年(1963年)にボタンザクラ100本・ソメイヨシノ100本、昭和39年にソメイヨシノ193本を徳吉(とくよし)・田桑(たぐわ)間に植えており、これが現在、桜の名所となっている(⑤)。

 イ 桜三里を行く

 **さん(周桑郡丹原町千原 大正4年生まれ 81歳)
 **さん(周桑郡丹原町千原 昭和21年生まれ 50歳)

 (ア)桜街道の食堂

 昭和36年から土地の買収が始まり、昭和39年には国道11号が完全舗装され、待望の車時代に対応する自動車道ができた。車時代に伴って、道路沿いには宿場にある食堂とは違った新しいタイプの大衆食堂が次々と誕生してきた。その第一号とも言える食堂を経営する**さん、**さん親子に話を聞いた。

   a 食堂開店

 **さんに食堂を始めるまでの経緯を聞いた。
 「太平洋戦争中はわたしの実家の高知に子供と一緒に世話になっていたんですが、終戦後、主人が戦争から帰ってきて、主人の里である中千原(なかちはら)(周桑郡丹原町)に住み、昭和29年(1954年)に鉱山の社宅の近くに家を建てましたが、昭和38年に鉱山が閉山となったので、国道沿いに住居兼雑貨店を開きました。」
 千原鉱山は、周桑郡丹原町千原の国道11号沿いにあり、銅鉱石を採掘していた。始まりは藩政時代からといわれているが、途中度々休んでおり、終戦後は昭和23年(1948年)に再開し、昭和38年に閉山している。
 「始めは、パンやジュースを売っていました。ある日、大阪に行っていた、高知帰りのトラックの運転手さんが来て『パンよりメシの方がよう売れるぜよ、メシをしいや(しなさいや)。』と勧めてくれました。その一言が食堂の始まりです。昭和40年のことでした。娘たちも仕事をやめて帰って来てくれ、手伝ってくれるようになり、だんだん忙しくなるにつれ、店が狭くなりました。それで、3年後に大工だった主人が、現在(平成8年)の店に建て替えたのです。
 始めた当初は、休みも寝る間もないくらい、働き続けました。食べに来てもらうのは、ほとんどがトラックやダンプの職業運転手さんだったですね。トラックやダンプの運転手さんは、始めはなんとなく恐ろしい感じでしたけど、付き合うてみたら、いよいよ優しかったんです。朝は、午前4時半に起きて、午前5時半には店を開けていました。大阪からの陸送の車が来ていたんです。駐車場に止めて洗車したり、朝ごはん食べて一服して、高知へ行き、夕方5時ごろまたうちに帰ってくるんです。そして、ごはん食べたら、仮眠して、晩に大阪に帰っていくというふうでした。わたしの娘とあまり変わらんぐらいの年の子だったから、わが息子が帰ってきたような感じでした。昭和45年(1970年)くらいまでは、年中無休でやっていました。その後、このあたりの店は月の1日と15日の2日は休みにしたんですが、わたしどもの店では、昭和48年に主人が倒れてけがをしてから、1週間に1度日曜日に休みを取るようになったんです。昭和48年のオイルショックぐらいから、運送業界にも陰りが見え始め、今までツーマン(2人制)だったのが、ワンマン(1人制)になりました。また、コンテナ輸送が始まり、船を使うようになり、トラックの台数も少なくなりつつありましたが、その分乗用車が増え、お店の方は変わりなく忙しかったです。特に、盆、正月の帰省客や、お椿さん(伊予豆比古命(いよずひこのみこと)神社の祭りで旧暦1月7~9日に行われる。)の3日間は、にぎわったものです。」と当時の繁盛ぶりを語った。トラックの運転手にとって**さんは、桜三里のおふくろさんのような存在であったようだ。
 昭和39年完全舗装化当初は、現在のように通る車の台数も少なく、大きな車も多くはなかった。乗用車は、ほとんどなくて、昭和50年ぐらいから多くなってきた。
 「毎年大みそかから元旦にかけては、金毘羅さんに初参りに行く人らで、そして、明けて正月の3日の日には、初荷いうて日の丸の旗を立てて何台も車連ねていきよったね。」とマイカー時代の先駆けの様子を**さんは語った。その後運転手の気質は、どう変わってきたのだろうか、**さんの娘で当時店の手伝いをしていた**さんに聞いた。
 「昔の運転手さんは律儀じゃったね。ここいうて気に入った店を決めたら、必ず遠くでも車止めて、歩いてでも食べに来てくれよったね。最近の人は、あっち行ったり、こっち行ったりするけど。わたしも20歳ぐらいで若く、ろくな料理もできんし、ばたばたせわしいきん、卵焼き焦がしたりしたら『ありや、今日も虎焼きかや。』いうて、何でも食べてくれよったわね。」映画「トラック野郎」の一場面を見るようである。
 トラックがたくさん止まっている店はおいしい店と言われるが、運転手さんを引き付ける料理のメニューや気を付けていることなどを聞いた。「定食いうてはなくて、ごはんとみそ汁で、おかずはあらかじめ作っておいたものを適当に好きなものを取ってもらっていました。昔は、焼き魚・煮魚・煮染(にし)め・卵焼きなんかで、家庭料理が喜ばれてたね。新しいものも考えて作るんだけど、結局は昔からの料理の方が良く売れるわね。」と、毎日の食事だから家庭の味を基本にした心のこもった料理であることが大切であることを強調していた。
 また、当時のエピソードについても**さんに聞いた。「昭和43年(1968年)に大雪が降った時には、この辺りが初めて通行止めになって、トラックが動けなくなり運転手さんらが車を道路に止めたまま店に来て、お酒も飲むわ、何にもなくなるぐらいまで食べてしまったわね。その時は、おにぎりもこさえてお重(じゅう)に詰めて、車まで持っていきました。また、忘れ物も多かったね。名古屋からスイカを買いに来ていたトラックの運転手さんが、朝ここにごはんを食べに寄ったときに、財布を落として行ったんです。『たいがい、仕入れした後、また、来るんじゃないか。』いよったら、夕方、その運転手さんがごはん食べに来たので、財布を渡してあげたら、喜んでくれてね、1年後に大勢のお客さんをつれて『お金落として、拾うてくれたいう店はここや。』というて寄ってくれたこともありました。そんなときは、うれしかったですね。」
 はやる食堂には立地条件や味や値段も大切だが、最も大切なのは真心である。
 「高速ができるまでは、九州からフェリーに乗ってきた団体の車が八幡浜で降りたら、ここらで朝ごはんを食べていってくれていました。夫婦づれで四国遍路に回っているというお客も多かったですね。また、昭和63年(1988年)に瀬戸大橋が開通して平成6年に松山自動車道の川内インターができるまでは、週末ごとに湯谷口ぐらいから川内町まで車が渋滞して、ここから川内に出るのに1時間くらいかかっていました。」
 松山自動車道が開通し、一時的に渋滞が緩和されたが、現在(平成8年)では貨物トラックや、さらにそれ以上に乗用車の交通量は増加し、交通事故も増えてきている。桜三里は、新たな高速交通時代へと着実に変化し始めている。

 ウ 桜街道に学んで

 昭和34年(1959年)ころの国道11号が舗装される前の桜三里の様子を、当時中学校に通っていた**さんに聞いた。
 「中千原に住んでいたから小学校は、近くの千原小学校でよかったけど、中学校は鞍瀬(くらせ)中学校だったので、1里(約4km)ぐらいを1時間ぐらいかけて歩いて通っていました。その時の桜三里は道の両側に古い大きな桜の木がアーチのように生えていて、花の時期にはすごくきれかったね。通る車は、鉱山の車か材木屋の車ばっかりだった。朝は鉱山の車の鉱石の上にみんなが乗って学校へ行ったりしたこともあります。今では、考えられないことやけど、帰りは材木屋の知らんおいさんが『乗したろわい。』いうて、乗せてもらって帰ったこともあります。行きしの道は、それほどほこってなかったけど、帰りの道は、あまり車が通らんけど地道(舗装されていない土砂道)だったからすごいほこるんよ。夏なんかに通ると、家に帰ったら鼻の穴が真っ黒だったね。男の子は自転車で通っていたが、女の子は歩いて通学してました。小学校の近くにあるお宮さんの広場には、エノミ(エノキの実)やムクの実が落ちていて拾って食べたりしていました。野山には、野イチゴやイタドリなど、また、たいていの家の庭や畑には、ミカン、スモモ、カキ、ビワ、イチジクの木などが植えてありました。」昭和40年代に入り食糧事情が改善されてきたが、昭和30年代の子供たちは、年長者に教えられて野生の果実(アケビ、ムベ、グミ、ノイチゴなどの果実)をお菓子代わりによく食べていた。
 「中学校ごろには、小遣いが欲しいんで、お茶摘みを手伝ったり、千原鉱山の屑鉄を拾って、時々国道沿いに買いにくる人に、売りに行ったりしていたね。夏には、上半身裸のおいさんが、自転車で鈴をチリンチリンと鳴らして、ケーキを売りによう来よったので、買いよったね。ケーキいうても、試験管みたいな細長い管に、1本1本棒入れて固まらしたアイスケーキ(アイスキャンデー)やった。それに、夏休みの楽しみは、日ごろ、忙しい父でしたが、一度は梅津寺へ海水浴に連れて行ってくれることでした。当時は、『バタンコ』というオート三輪がはやっていて、わたしの父も、バタンコの後ろに『のかくず(おがくず)』を積む箱にわたしら子供を乗せて、連れていってくれたのを覚えています。」

写真2-1-11 三軒屋の鈍斉先生碑

写真2-1-11 三軒屋の鈍斉先生碑

新しい道が通り、その下に建てられている。平成8年11月撮影

写真2-1-12 土谷の金比羅街道と久万街道の合流点

写真2-1-12 土谷の金比羅街道と久万街道の合流点

正面に道標があり、右が川上宿場からの金毘羅街道で、左が久万山道である。平成8年11月撮影

写真2-1-13 丸山付近の峠茶屋跡

写真2-1-13 丸山付近の峠茶屋跡

左の山道は、源太桜に通ずる。中央の盛り上がっている所に峠茶屋があった。平成8年11月撮影