データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛の景観(平成8年度)

(1)山あいの春

 **さん(伊予郡砥部町七折 昭和6年生まれ 65歳)
 **さん(伊予郡砥部町七折 昭和16年生まれ 55歳)
 **さん(伊予郡砥部町七折 昭和22年生まれ 49歳)

 ア 梅に魅せられて

 最近、松山近郊の初春の風物詩の一つになりつつある七折の梅栽培も、その歴史をたどるといろいろな時代の要求に応じて変化してきたことが分かる。砥部町七折の梅作りについて、そのルーツから現在の梅祭りの盛り上がりに至るまでの経緯をたどりながら梅とかかわって生きてきた人々のくらしを通して、里村の移り変わりをかいま見ることにする。

 (ア)七折の梅栽培のはじまり-小笠原紅梅(おがさわらこうばい)-

 昔は、梅は多くの家の庭に栽培され、梅漬けや梅干しにして塩分の補給や疲労回復さらに、殺菌力のある食べ物として用いられていた。七折の梅も最初は栽培果樹というのではなく家で消費する程度のものであったようだ。それが現在は、砥部焼きと並んで砥部町の特産物になっており、毎年2月に行われる七折梅祭りは年を追うごとに盛んになってきている。そこでまず、七折を有名にした梅栽培のルーツや戦前の梅の出荷の様子などを、七折で長年梅栽培をしている**さんに聞いた。
 「昭和10年(1935年)ころまで、わたしの父が苗木屋をやっておりまして、双海(ふたみ)町(伊予郡)の下灘(しもなだ)に杉苗を買いに行っていたときに、『育ちのええ梅の苗があるが、買うていかんか。』というので買って帰ったのが、七折で梅が栽培されるようになった始まりです。種類は、実の大きさでいうと中梅(ちゅううめ)で、花は紅梅(こうばい)で、梅干し用の実ができます。持って帰って植えると、よく育ちましたので、出荷することになったんですが、銘柄がついていなかったので、『小笠原紅梅』という銘柄で出回るようになりました。この原木は今も残っています。
 昭和15年(1940年)ころの梅の値段は、実何kgいくらというのでなく、実のなっている梅畑と同じ広さの麦畑から取れる麦の価格に換算して決めていましたので、大変値が良くて、七折で梅の栽培が盛んになりました。松山青果市場の人が、オート三輪で、直接各農家に取りに来ていました。戦時中は、森松あたりに梅干し業者もあり、軍隊の梅干し用に大量に納入しており盛んでしたが、昭和20年(1945年)ころは、食料不足で梅どころではなくなりました。」
 現在、日本には実梅(みうめ)100種、花梅300種以上があると言われており、県内でも、実梅は白加賀(しろかが)・豊後(ぶんご)・小梅(こうめ)・鴬宿(おうしゅく)・林州紅梅(りんしゅうこうばい)・甲州最小(こうしゅうさいしょう)など20種以上が、栽培されている(①)。

 (イ)七折小梅のルーツ

 戦後は、全県あげてミカンの生産に力を注ぐようになるが、それは砥部町や七折でも例外ではなかった。
 しかし、昭和43年(1968年)に入ってミカンの暴落があり、ミカン農家は、ハウスミカンやキウイフルーツに切り替えるなど大きな転換期であった。その時期に、ミカンに替わる農作物を模索していた様子を、**さんは次のように語った。
 「昭和30年代に入って、梅干しや砂糖の普及による梅酒のブームで、梅の生産を本格的に行うようになってきました。そこで、わたしは梅の生産技術を身につけるために、昭和37年(1962年)から昭和40年にかけて、四国では梅生産のメッカであった、徳島の農事試験場に研修に行きました。嫁と二人で、自家用車で試験場近くまで乗り付けて、車の中で、試験場が開くのを待っていたこともありました。また、徳島の梅生産農家の方々にもいろいろと教えてもらいました。
 同じ時期に七折の**さんも、いろいろな種類の梅を持ち帰り、たくさん栽培していましたが、その中に少し変わった小梅がなりました。その実を選び出して、栽培すると品質の良い梅が、収穫できました。その時の銘柄が『七折小梅』として、今だに続いています。従来七折で主として栽培されていた鴬宿(おうしゅく)は、熟すると脂(やに)が出るなどの欠点がありましたが、その点、七折小梅は、優れていました。」
 梅栽培の際の受粉作業は、養蜂(ようほう)家に入ってもらい、ミツバチの働きによって行うために、一つの梅園にたくさんの種類の梅があると、他の品種との交配種も出てくる可能性が高くなってくる。

 (ウ)梅は七折の「七折小梅」

 七折の梅生産が盛んになっていった経緯を、**さんに聞いた。
 「ミカン栽培が中心だった七折が梅栽培中心となったのは、昭和43年ころのミカンの大暴落で、ミカンの減反が促進された結果です。また、昭和46年ころには、梅栽培の技術も確立されており、さらにミカンを切ったら補助金(昭和52年からの温州ミカン園転換促進事業の一環)をもらえるので、ミカンの後に梅を植えて、梅栽培と同時に補助金をもらったりして、ますます盛んになってきました。
 最初は、トロ箱(魚を運ぶための木箱)で出荷していましたが、間に合わなくなり、町内のゴムエ場で使っている段ボール箱をもらってきて、半分に切断して使うようになりました。さらに、出荷量が増えてきたので、伊予市の段ボール業者に専用の段ボール箱を作らせたりもしました。出荷の単位は、全国的にはふつう4kg箱ですが、七折のは10kg箱で、特別です。昭和61年(1986年)までは、今治からトラックで七折集会所の前の広場に直接買い付けに来ていましたので、当時梅を作っていた4軒が出荷していましたが、その後今治よりも値がいい松山に出荷するようになっていきました。
 梅の等級は、徳島サイズ(*1)で行っており、丸温松山中央青果では高値で取り引きされていました。その後、共販(組合)扱いになり、現在に至っていますが、『七折小梅』は小梅の中でも大きいので、等級分けは砥部独自のサイズ(*2)で行っています。」
 和歌山県は、梅を「青いダイヤ」と呼び、県の基幹産業と位置づけてその栽培に力を入れており、その生産量と質はともに全国一であるが、その要因として、気候的なものに加えて大消費地を近隣に持っているということが言える。七折において、ここまで梅が有名になった理由を**さんに聞いた。
 「愛媛県下の梅の生産地域は、中山町(伊予郡)・鬼北(きほく)地区(北宇和郡)・小田町(上浮穴郡)などがあるが、平均気温が一番高いのは七折で、どの地域よりも早く出荷することができるので有利なんです。また、実の選別には、各農家とも選別機を使って行っているため(写真2-1-3参照)、品質が一定しているので、他の地域のものよりも高値で引き取られるんです。八幡浜市の真穴(まあな)地区も梅生産をやりかけていましたが、ミカンの方が価格的に良い(*3)のでやめてしまいました。もし続けていれば最大の競争相手になっていたと思います。平成4年は、全国的に梅が不作でしたが、七折は豊作で、梅生産のメッカの和歌山県にまで出荷されました。」
 ミカンの代替え作物としてキウイフルーツも考え、本場のニュージーランドに直接視察に行ったりして検討したが、その栽培規模などから、導入は断念したということである。

 (エ)梅の農事暦

 梅の経済年齢(実の収穫が効率よく行える樹齢のこと)は、約20年ほどである。また、梅栽培の利点は、作業にあまり手間がかからず、しかも、3月から6月に集中するため、他の期間はミカンなど、ほかの作物に従事できることである(図表2-1-1参照)。このため、会社などに勤めながら農作業をすることができ、15分も車で走れば松山市という立地だけに、現在専業農家は3軒だけで残り29軒はすべて兼業農家であり、高齢化・過疎化してきているのが現状である。

 イ 梅のお祭り

 「七折の梅祭り」は、まだ歴史は浅いが、マスコミにも乗り、また、最近の健康食品ブームや手作り指向を反映してか、年々盛んになってきている。梅祭りの始まりを七折梅生産組合長の**さんに聞いた。
 「祭りは、平成2年から、地元主体のイベントとして、梅生産組合(32戸・60人)が中心となり2月の最終の土曜・日曜日に始めました。最初は、町内の人が来るぐらいの感じでいましたが、始めてみると、松山はもちろん、かなり遠いところからもたくさんの人に来ていただき、驚いています。七折地区まで来るのが、狭い一本道ですから、かなり混雑するのです。最近は、祭りの日をずらして来られる方も増えています。
 梅祭りの準備は、2、3日前から準備をします。祭りの会場になる七折集会所の向かいの山の中腹にある広場に、梅加工品や農作物の販売コーナーやタコ焼きなどの出店を作ります。広場に面した梅林の一部を梅園として開放していただき、その中に幕を張ってお茶席を作ったりします。梅祭りは2日間ですが、梅加工品や農作物の販売は、集会所前の共同作業場で3月の始めまでやっていますので、それにも来ていただいています。
 梅干し作りは、6月上旬ころに取った梅の実を、塩漬けしておき、6月の下旬にシソ(紫蘇)の葉とあわせて、梅干しにするんです。シソは、梅祭りを開くようになる前まではここらで取れたものを使っていたんですが、最近は、梅を1tほど漬けますので、大量に購入する必要があり、大洲産のものを使っています。シソの葉は葉柄を取り除いた後、水洗を2回し、塩もみをしたものを使います。すべて、手作業だから大変です。漬け込んだ梅干しは、翌年の2月の梅祭りに販売しますが、11月の砥部町の文化祭にも販売しています。」
 梅祭りに売られるのは、梅干しだけでなく梅を使った加工品もいろいろとあり、それを**さんの奥さんの**さんに聞いた。
 「梅干しは組合で作りますが、その他の物は食品衛生上難しいので、個人で研究して作っています。梅加工品としては、ジャム・梅肉エキス・カンロ漬け・梅シロップ・サワー漬けなどがあって、買っていただいた方には作り方のパンフレットも一緒にさしあげています。婦人会などで集まったときには、何を作ろうかと相談したり、また、新しい加工品の作り方を教えあったりしています。ここの地区は、昔からよくまとまっており、何をするのでもちょうど良い人数なんです。」
 今までの農業は、作物の生産性や品質の向上を最優先にしてきたが、これからはそういう努力とともに、農産物の付加価値を高めて消費者にアピールしていかなくてはいけない時代になってきている。


*1:大梅で、直径30mm未満がSS、直径30mmがS、直径33mmがM、直径36mmがL、直径39mmがLL、直径39mmよ
  りも大きいものがLLL。
*2:直径18mmがS、直径22mmがM、直径25mmがL、直径28mmがLL。
*3:八幡浜地区はミカン生産が盛んで、真穴ミカンや日の丸ミカン(向灘地区)として全国的に高く売られている。

写真2-1-3 梅の選別機

写真2-1-3 梅の選別機

右側のローラー部で梅を送り、左側の穴の開いたドラムで選別する。平成8年7月撮影

図表2-1-1 梅の農事暦、ミカンと梅の生産量の変化

図表2-1-1 梅の農事暦、ミカンと梅の生産量の変化

梅の農事暦:**さんの聞き取りより作成。ミカンと梅の生産量の変化:『愛媛県史 社会経済Ⅰ(②)』より作成。