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愛媛の景観(平成8年度)

(1)伏流水のめぐみ②

 ウ 扇端の湧泉

 重信川の水は扇頂部で伏流し、扇端地の泉で湧出する。それらの泉のなかで、左岸川内町吉久(よしひさ)のお吉(きち)泉、右岸の柳原(やなぎはら)泉、三ヶ村(さんかそん)泉、龍沢(りゅうたく)泉などが、自然湧水の泉として知られている。扇状地上を流れる重信川は雨季を除けば、河床に深く浸透して水無川(写真1-3-21参照)を形成している。そのため右岸の重信町見奈良地区のかんがい用水は、川を隔てた川内町吉久地域のお吉泉や、表川(重信川の支流)に設けられた見奈良井堰に求めている。この水は、延宝年間(1673~1681年)に築造された埋樋(暗渠)によって重信川の底をくぐって導水されている。築設された当初の埋樋は、単なる溝(みぞ)であったが、その後松板の樋(とい)となり、さらに石樋となり、現在では、松山自動車道の通過によってコンクリート製となっている。

 (ア)お吉泉の水

 **さん(温泉郡川内町南方 昭和3年生まれ 68歳)
 扇央部にある見奈良の主水源地である吉久の地域は、泉の水以外にかんがい用水を表川の井堰から長い井手によって導いている。そのため干ばつの時には、その被害を受け、水争いも度々起きている。いわば乏水地域でもある。その吉久地域の水とくらしとのかかわりについて、お吉泉の近くに住む**さんの話を要約した。

   a 吉久地域の水事情

 「重信川の左岸にある川内町は、三つの扇状地の上に成立しています。最も広いのは、両岸にまたがっている重信川扇状地です。これらの扇状地の扇端付近は、その特徴である低くゆるやかな崖(がけ)(台地)となって表川に接しています。この崖の下側に水量の豊かな湧泉があったのです。明治30年代生まれだった伯父の話では、昭和9年(1934年)時には、川内町の南方地域に13か所の泉があったということでした。家の近くの田んぼにはいつも水の噴き出しているところがありました。大雨で重信川に水が流れると(写真1-3-21参照)、この田んぼにどんどん水が噴くのです。冬も夏も同じことで、いつも水が噴き湿田だったため、この地域は一毛田だったのです。しかし、いまでは水が噴き出すこともなくなり、泉の水自体も少なくなってきています。
 その原因を推察すると、一つには昭和30年代の後半より始められた重信川上流地の開発によって土砂が流人し、その濁水によって、徐々に地下水の流路が目詰まりを起こし、扇頂部から潜流していた伏流水が消えてしまったことが考えられます。その結果、冬季にこの地域の全井戸が干上がったことがあるのです。飲み水にも不自由をする状態になり、ブルドーザによって川底の浚渫(しゅんせつ)をしたのです。その川浚(さら)えによって、水量は以前よりは減ったものの、再び水を得ることができました。
 今一つの原因は各河川の両岸が全て舗装され、堤防は連続して直線的になり、また小川や井手(水路)も三面(底と両側)舗装され、その結果水が地中に浸透しなくなったことがあげられます。以前は、この近くの重信川の堤防は霞堤(かすみてい)(洪水量の調節のため連続させない堤防)でした。大水のときはこの切れ目から川水が塑(そ)上して、遊水池が満水になり、子供の時分には、ここでよく泳いだものです。水の深さは1m余りもあり、泳ぐと、水中に沈んだ丈の高い草の葉先で腹をすった思い出があります。この水は長い間たまっていて、徐々に滞水層に浸透して天然の地下ダムの水となり、地下を伏流して一帯の水路や泉や水田などからこんこんと噴き出ていたのです。地下の滞水層にも谷筋と尾根筋とがあり、古い図面には当時の高低のある原野(川原)が、等高線状に示されていました。しかし、この原野は年月をかけて徐々に開拓されて畑地や新田となったので、現在では見た目には分かりません。今の八幡は『八幡原』、曲里(まがりさと)は『曲里原(写真1-3-22参照)』、竹鼻(たけのはな)は『嶽鼻(たけのはな)』とよばれていたのです。こうした地名は、そこが原野や崖であったことをよく示しています。また、尾根筋に当たる高い所だったところには、かつて古墳があり、そこは2mくらい掘っても土層ですが、そのすぐ隣りは約13mの深さまで砂れき層でできているのです。つまり、古墳の造られたころの約1,200年前には、尾根に対して深さ約13mの谷があったということになります。同じ吉久地区でも谷筋に当たる所は、掘れば水が湧き出ますが、それを外れると全く出ないのです。子供のころ隣の屋敷は、雨季になると土用のころまでどんどん水が噴き出ていましたが、わが家の屋敷からは全く出なかったことを覚えています。」

   b 一つの水争い-「おたたさん」の雨乞(あまごい)-

 昭和9年(1934年)の大干ばつとそのとき起きた水争いについて、**さんは生前の祖父の話を詳細に記録し整理されている。その記録を要約した。
 「昭和9年は話にもならない大干ばつだったが、地下水の豊富なこの吉久地域は日照り続きで大豊作だった。他の地域は全くの不作で、親(しん)せきの人が飯米(はんまい)を借りに来るという有り様だった。この年の大干ばつは、春から雨らしい雨はなく梅雨に入っても日照り続きで。遅ればせながら、どうにか田植えは出来たものの、その水田は翌日は下駄(げた)で歩いても跡もつかないほど乾いていた。何とか苗を枯らさぬようにと懸命の努力をするとともに、皿ヶ峰(さらがみね)、大野ヶ原(おおのがはら)、雨滝(あまだき)(表川上流にある滝)などで雨乞の祈とうも行われた。
 松前(伊予郡松前町)の『おたたさん(*12)』も御用櫃(びつ)に海水をくんで雨乞に参加した。おたたさんにとってもこの大干ばつは、生活にかかわる大問題で、このままお米ができないと、お得意さんが魚を買ってくれなくなり、盆暮になっても売掛金がもらえないかもしれないので、慈雨を祈って真剣に雨乞をしたけれども、焼け付くような日照り続きでどうにもならなかった。そこで表川から取水している二の堰と、上流にある三島堰の区間を井手掛(か)かりの(井手にかかわりのある)農家が総出で瀬掘りをした。上流の三島堰が完全に水を堰切って、どうも協定違反をしているらしいことから、口論と争いの結果堰を切り崩してみて違反の事実を知り、炊き出しをして昼夜に及ぶ水けんかになった。このけんかの調停役が当時の三内(みうち)村長(兼県会議員)近藤金四郎であった。南方地域の困窮の度合いを洞察した近藤村長は、切り崩した堰から一昼夜にわたって、水を流し続けるという時間かせぎによって南方の人々の気持ちを柔らげて、円満な調停の成立を図ったのである。」

   c お吉泉(戌亥(いぬい)泉)とオキチモズク(*13)

 **さんの話を続ける。
 「お吉泉は珍種オキチモズクが最初に発見された自生地(写真1-3-23参照)でありながら、それが見えなくなって長年になります。人々は生活排水などの影響によるといいます。しかし、泉のすぐ近くに住み、毎日泉に接し、泉を眺めながらくらしてきたわたしにいわすと、それは全くの思い違いです。
 この泉に通じている一本の水路がありますが、それは、夏場のかんがい用水路で、秋口になると水を止めてしまうのです。夏場は『余り水』が泉に落ちますが、昭和40年ころからは余るほどの水がありません。オキチモズクの発生時期は、厳寒期の11月末から2月末ですが、水路にはその時期には水がなく、したがって廃水が流れ込んでいるとは言えないわけです。ですから、生活排水の影響とばかりとは考えられません。
 昭和46年(1971年)でしたが、オキチモズクが見られなくなった原因調査のため、発見者である植物学者八木繁一先生が来られていました。そのときも発生地のどこにも水はありませんでした。自生地の指定はこの泉のみですが、実際は外の泉の水路にも以前は自生していたのです。しかし伏流水が減り、その上、冬場に渇水の年が続いたためだろうと思いますが、見られなくなってしまいました。お吉泉は昭和20年(1945年)の洪水で泉の本体が2m余り砂で埋まったのです。泉の管理は見奈良の土地改良区ですが、埋まってしまって取水できないため現状変更許可申請書(国指定天然記念物になっているため)を提出し、浚渫(しゅんせつ)工事にかかったのですが、湧水がないため排水ポンプを駆動することもなく、容易に工事を進めることができ、従来の泉底(壷)を2m近く掘り下げて、やっと湧水を得ることが出来て今日に至っているのです。
 7、8年前のことですが、川内中学校で町内の全部の井戸について、水質検査をしたのですが、お吉泉の水が最もきれいな水だったということです。
 重信川は大きな川ですが、昔は山之内(扇頂部の地名)から流れ出た水は、ほとんど伏流水となり、大雨の時以外川に水はありませんでした。そのため平時に川には流れ水はなく、荒涼としてまるで賽(さい)の河原(冥途(めいど)の三途(さんず)の河原)のようでした。いまでは伏流水も減り、川原はヘドロがたい積し草木が生い茂る原野です。その上、河川改修工事によって霞堤はなくなり、一直線のコンクリートブロックの堤防になり、川底は梯子(はしご)のように砂防ダムが設けられています。洪水の心配は全くなくなりましたが、くらしの水は徐々に少なくなってきています。自然とくらしとの調和ということはたいへんむずかしいものだとつくづく思います。」

 (イ)地下水源のさきがけ柳原泉

 **さん(温泉郡重信町田窪 昭和4年生まれ 67歳)
 **さん(温泉郡重信町田窪 昭和6年生まれ 65歳)
 見奈良の南より重信川の堤防の近くにクヌギの林が見えている。その林の中に柳原泉(写真1-3-24参照)があり、南側が公園化され、遊歩道が泉面まで設けられている。泉の由来記を、柳原泉美化推進会の掲示板に見てみる。

   この泉は、明和7年(1770年)今から約208年前、田窪・牛渕両村のかんがい水源として代官普請(だいかんぶしん)で
  試掘したが、予想に反し湧水少量のため中止のやむなきに至った。しかし、旱害(かんがい)に苦しむ両村は難関にも屈せ
  ず、水源の探索につとめ、寛政6年(1794年)現在地を再掘したところ、待望の湧水を得、村民歓びのうちに同9年完成
  した。時の代官桝柳忠次。その後、文久2年(1862年)の重信川大洪水の際、この泉も埋没の惨事にあい、村民相協力し
  てその復旧につとめ現在に至る。なお、この泉は付近一帯に群在する地下水源のさきがけとなるものである。
                             昭和53年9月 重信町大字田窪柳原泉美化推進会


   a 泉を囲む緑の景観

 この泉の近く田窪に住む**さんは、泉の管理とともに美化推進に当たっている。**さんは田窪に住み、泉からの水をかんがい用水として農業を営んでいる。
 **さんは泉の環境整備について次のように話している。
 「わたしは泉とのかかわりについて、特に意識して過ごしてきたわけではないのです。泉のそばで、泉の水を飲んで大きくなったのです。いつも絶えることなく、きれいな泉の水が流れていることは、実にありがたいことですが、泉とはこんなものだという意識もあります。これが泉への愛着心とでもいうものでしょうか。ところで、泉と周囲のクヌギ林は、田窪の土地改良区の管理になっています。以前は約10年ごとに、薪(まき)やシイタケ栽培の原木として、公募入札のうえ払い下げをしていたのです。貴重な燃料や原木として一石二鳥の考えで先人は植えたのでしょうが、今では利用する人がいないのです。泉の近くに住むわたしは、毎日クヌギの林の風景を見て育ったものですから、大木に育て緑陰樹にしてみようという考えから無償の払い下げを交渉し了承されたのです。泉の周りにドングリのなるクヌギの大木を育てようとする発想は良かったのですが、実際に現場へ行ってみると、そこが古い家電製品や建築廃材の格好の捨て場になっているのです。結局、この粗大ごみは、ボランティアによって、大きな穴を掘り埋没処理にしました。みんな気持ち良く美化活動に参加して汗を流してくれました。これが柳原泉環境整備活動の発足で、昭和44年(1969年)でした。予算措置は全くないけれども『緑ときれいな水』があれば、人々の美化意識によって、親水公園化していくものと、ええことばかり考えていたのです。
 この活動がきっかけとなって昭和53年に『重信町大字田窪柳原泉美化推進会』が発足して、泉の周辺が整備され親水公園化されてきています。以前のごみ捨て場の面影はありませんが、いつも整備していないと、残念ながらごみを捨てに来る人がいるようです。
 泉を管理して24、5年になります。クヌギの木は薪やシイタケの原木として利用されることもなく、大木になり、緑陰を作っていますが、泉の中は日照不足をきたし、水生植物の藻類の繁殖が阻害され、魚類が減ってきたのです。自然の中で緑陰樹と魚類のどちらを優先するか、自然を管理することは実に難しいものだと言うことを痛感しているのです。」

   b 泉の水にかかわるくらし

 泉の水にかかわってくらしてきた**さんは、次のように話している。
 「泉の環境美化が推進され感謝しています。もともと泉からの流水は、田窪・牛渕の地域では、日常の生活用水としても利用され、特に田窪の集落では飲み水として使われたので、川辺の家には掘り井戸がなかったのです。先人の村づくりが、先ず水の道を見て成立したことは、小川(水路)と泉の位置を見てみると明らかです。家を建てる場合、先ず飲み水の水脈をみて一番戸が建ち、水脈の筋に次々と家が建ってきますが、田窪の集落も、水脈の筋や水路沿いに開けていったのです。雨季に小川が濁るようなことがあっても、良質の水の出る屋敷では澄み切った水が、いつも出ていたのです。
 豊富に湧きでていた泉の水も、昭和38年(1963年)菖蒲堰の改修後は湧出量が少なくなってきています。堰の完成によって地下の伏流水の流れが大きく変わったということです。
 藩制の時代には重信川の特性上、扇頂の堰においては表流水は全て取水しても良いとされていました。しかし、現在の河川法によると、昔からの水利権があっても8分取水、2分流下となっています。一昨年、農林省の補助によって、三ケ村泉の水門の改修を計画したとき、2分の水を流下させていたのを、全量を取水するように計画したのですが、これが河川法に触れることとなり、今より水が減るようだったらじっとして(改修しないで)おこうやと言うことになり、川底をいらうこともなく水門改修の計画を中止したのです。重信川のように流水が吸いこまれる水無川も、常時表流水のある川も、水利権は同じなのです。
 泉の水は川底に設けた掘貫水門(集水暗渠)から取水し、泉に湧出させて流れ水となっているのです。この水で田窪の集落は、すべての用水を賄っていたのです。必要に応じてふんだんに水を使い、いらん(必要のない)時には川へ戻していたのです。この排水路から川魚が上がってきていたのですが、いまでは川へ戻すほどの水もなく、魚もいなくなってしまいました。」

   c 鷺(さぎ)の川狩り

 **さんの話を続ける。
 「田窪集落の戸数は現在約900戸になっていますが、全てが農家ではありません。もともと、柳原泉からの自然湧水を導く井手は、牛渕の一部へもいっていますが、田窪の管理下に置かれ、年中水が枯れることもなく、自然のままの石積みの水路だったので川魚の住みかとなっていたのです。この水路では、田んぼの水を落とす(排水する)秋口に、水掛(が)かりの農家が総出で水を重信川へ放流して『井手干し』をしたものです。このならわしは、井手の補修とお祭りのための魚とりを兼ねて行われていたのです。この水路がコンクリートとなり、小魚や貝類の住みかがなくなるとともに、井手干しのならわしも廃れ、農家は水路の補修や掃除をする必要もなくなったのです。近年は自然保護の立場から、生物の住める環境づくりが見直され、石積みの水路が復活されようとしています。」
 泉の管理をしている**さんは、自然保護について次のように話している。
 「泉の管理を引き受けて24、5年になるが、あのゴイサギ(*14)が魚を捕ってしまうのには悩まされるんよ。悪さをするのは人間ぎりと思うておったんだが。ように考えてみたら、あのサギも生きるために魚をとっとるんじゃから、今では自然の中の生き物と思っとるんよ。子供のころ、この辺で見かけた大きい鳥はカラスと夕力だったが、いつころからかサギ類がものすごく増えて、川魚をとるものだから魚が減ってしもうている。昼間見かけるシラサギやカワセミなどは小さい魚をねらうが、灰色のやや大型のゴイサギは、夜中に浅瀬に突っ立ち気長く待っていて、大きい魚ばかりをねらってとってしまうもんだから、泉の魚はほとんど根絶やしにされてしもうたんよ。一時期はヒメマスやアマゴを放流して養殖しとったこともあったんだが。
 一時、減ってしまっていたホタルが今年(平成8年)は増えてきて、夏の夜空を飛び交い楽しませてくれるとともに、トンボも屋敷周りで多く見かけるようになっている。少しずつではあるが自然が戻ってきているとつくづく感じています。
 他県から来た小学生は重信川を『水のない川を初めて見た』とよく言うそうです。確かに平常は水がない。けれども、その川底には豊かな伏流水の道が、伊予灘に向かって開け、平野を潤しているのです。」

 (ウ)三ヶ村泉の水

 **さん(温泉郡重信町南野田 昭和4年生まれ 67歳)
 三ヶ村泉は旧牛渕村と南・北野田村の3か村が、重信川の井堰用水の不足分を補うために掘ったもので、柳原泉に習って天明元年(1781年)から9年を費やして完成している。泉床は田窪区域にあり、重信川の伏流水が主水源である。
 この泉の湧水は3か村にとって大きな恵みの水であったが、用水量はまだまだ不十分であった。特に、上手(上流側)の既得権として、田窪地域の乏水性の新田へ優先的に大量の水を取るため、3か村への流水量が減少し、しばしば水争いが発生したという。
 天保10年(1839年)施工された三ヶ村掘貫(ほりぬき)水門からの水(写真1-3-26参照)も、三ヶ村井堰・泉の用水補助のためである。この水門も柳原泉の取水に習って、川床に石づくりの暗渠を構え、伏流水を取水したものであり(⑭)、完成後から現在までこれが主水源となっている。

   a 三ヶ村掘貫水門

 三ヶ村泉の水は長く豊かな自然を残す井手を流れて、野田地域に達する。南野田でくらしてきた**さんの口述の概要をまとめてみた。
 「伝承によると、北野田の庄屋橘並右衛門が、例年の用水不足から川床の水の調査を長年にわたって調査した結果から、この掘貫水門の計画を思い立ち、工事にとりかかり完成に至ったと言うことです。その経過については、関係資料が全く見当たらず知ることができませんが、現在も両野田の農民は、並右衛門の功をたたえ墓参する人を多く見かけます。この地域は古くから開かれた米作りの集落(写真1-3-27参照)です。しかし、新田の広がりとともにかんがい用水の不足を来し、井堰と泉から水を取り、さらに暗渠から用水を求めたのです。井手からの取水だけでは、水田の増反に追い付けなかったのです。そうしたことから特に干ばつ時の水争いは厳しいものがあったのです。
 三ヶ村泉からの水は、野田井手を流れて牛渕にある分水堰に達します。この堰で牛渕へ分水され、本流は南野田に入り、ここでさらに北野田へ5分5分の割合で分水されています。古老の話ではこの両分水堰で、干ばつ時には激しい水争いが繰り返されたといいます。慶応4年(1868年)生まれのわたしの曽祖父の頭には、水争いによる傷跡が残っていたということで、どの地域にも水争いによって負傷した人を見かけたといいます。それくらい水にかかわる争いは激しかったのです。昭和に入って人口の増加に伴う食糧増産政策により、かんがい用水の動力揚水設備の充実整備が図られ、この地域においても、動力揚水設備と水路が整備されたのです。この動力揚水設備は、昭和9年(1934年)ころより平野全域に及び、重信川流域における泉からの自然湧水による水路用水は軽視され、管理の簡便な動力揚水用井泉が増加し整備されたのです。かんがい用水路の管理も楽になるにつれて、泉や井手普請(改修)もおざなりにされてきたのです。その上、昭和40年(1965年)ころより、だんだんと泉の湧水量も減ってきて、平成6年の大干ばつには、従来の3か村の水田を潤すこともできなかったのです。しかし、冬の渇水期や平時には十分過ぎる湧水があり、長い水路を自然に流れる水は、昔のままの面影を残し、一般的な用水路の役目を果たしているのが、今の三ケ村泉の姿です。
 泉の水に対する価値の減少により、井手の手入れそのものも不十分になります。これが重なってきて、崩れた箇所も補修することなく放置されたのです。しかし、平成4年から2回にわたる県の補助事業によって、下手の井手については改修工事が施され、コンクリートの水路になりました。上手の泉に至る井手については、放置された自然のままの姿で手を着けていません。土地改良組合や地域の農家は、自然を残すことと、改修工事によるかんがい用水の安定的な確保の間で板ばさみの状態です。この両者の調和をいかに図っていくかを、関係当局ともども現在検討中です。井手掛かりの農家の高齢化も進んできています。コンクリートの水路にすれば、維持管理や補修の手間が要りませんが、施工のためには旧水路を取り壊さねばならず、自然保護と景観維持の面で問題があるのです。
 現在、泉の鏡面(水面)は藻類で覆われ、全面は見えなくなっています。掘削した当時の鏡面は広さは約400m²くらいあり、かなり深かったようですが、今は補修をしないため埋まり、膝くらいの深さになっています。その上木や草が茂って川魚も余り見かけませんが、ホタルは多く生息しているようです。わたしの調査によると、どうも昭和15年(1940年)ころから一切人の手が入ってないようで、泉底の木枠も埋もれて全く見えません(口絵参照)。
 重信川には地下に水の流れる川があるといわれてきています。しかし、いくら川沿いでも地下の川に当たらなければ、どんなに深くボーリングしても水は得られません。当たれば測りしれないほどの水量をもつ大ダムのようなものです。現在南野田には、7か所の動力揚水井泉の設備があります。干ばつ時でもいくらくんでも減ることのない井戸もありますが、平時には水があるが、干ばつになると干上ってしまう井戸もあります。しかし、平成6年のような大干ばつの時は、7本の井戸では南野田全域のかんがい用水を賄うことはできないのです。ここ10年から15年の間に地下水位がかなり下がったといいます。そのためか、強力にくみ揚げた後へ水が寄ってこないのです。かんがい用の井戸は必要な時期にのみくみ揚げるが、それ以外は休んでいます。次にくみ揚げる時必ずしも元のように水が寄っているとは限りません。つまり地下の水が動かないのです。下手の大規模な上水道揚水場では常時大量に、しかも強力にくみ揚げています。これは、水脈でつながっている遠くの水まで呼び寄せることになり、そのためにこの地域の井戸の水位が下がったとも考えられるのです。」

   b 水が人を動かし、人が水を治める

 「今の若い人たちは、ものごとをストレートに考えがちです。水路一つにしても普請に手間のかからないコンクリートの方が合理的で良いといいます。しかし、主水路から分岐した小さい一本の溝をみても、先人が高度なかんがいの技術を持っていたことが分かるのです。水田の区分けにしても、地形や水利にかなった形状の区画整理がなされ、実に合理的な土地所有形態がとられていたのです。いま一度、ふるさとの歴史を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。それを若い人に知らせるのが、われわれの役目であり責任であるように思います。
 わたしがこの地域の土地改良区で、土地や水利にかかわる世話をするようになって10年になろうとしています。もともと古老の話を聞くのが好きだったものですが、この地域の川とくらしとのかかわりや古い伝承を聞き、つくづくと感じたのは、『水が人を動かす』ということです。昔から『水が人を動かし、人が水を治める』ということによってくらしてきた事例です。この水と人とのかかわりの歴史を、今後も忘れてはならないということです。これからの社会は、作物を作る農家の領域にまで、人々が自然とのふれあいを求めてくる時代ですから、いかに自然との調和を図っていくかということが、大切になってくると思います。」


*12 : 伊予郡松前町の女性魚行商人。「御用櫃(木製桶)」に魚を入れ頭上に乗せ、松山近郊を売り歩いた。
*13 : ベニモズク科に属する淡水産の世界的珍種の紅藻。お吉泉が自生の最初の発見地。昭和19年国の天然記念物に指定され
  た。
*14:サギ類ではやゝ大型、昼間は休息し夜間、池や川の水辺で魚を待ち伏せして、鋭い口ばしで突き刺したり、くわえてと
  る。学名は夜のカラスの意味をもつ。

写真1-3-21 水無川の眺望

写真1-3-21 水無川の眺望

大雨の直後は泥水が流れるが平常は水がない。平成8年8月撮影

写真1-3-22 昔の街道筋、曲里(原)の道標

写真1-3-22 昔の街道筋、曲里(原)の道標

旧位置より移転されている。平成8年7月撮影

写真1-3-23 オキチモズクの見られたお吉泉

写真1-3-23 オキチモズクの見られたお吉泉

川内町吉久にて。平成8年7月撮影

写真1-3-24 柳原泉

写真1-3-24 柳原泉

平成8年9月撮影

写真1-3-26 堀貫水門が主水源三ヶ村泉

写真1-3-26 堀貫水門が主水源三ヶ村泉

自然湧水の泉の中では最も豊な自然が残されている。平成8年9月撮影

写真1-3-27 南野田の道標

写真1-3-27 南野田の道標

平成8年8月撮影